大安寺

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藤原京から平城京に遷都がなされ最初に七堂伽藍saāma 梵 サンガーラーマ 注8)を整備された、奈良の都に於ける筆頭的な存在を誇ったのが大安寺である、大安寺は道慈律師により長安の西明寺の伽藍配置を踏襲したとされる、東西両塔を回廊外に配置した最初の寺で東大寺もこれを踏襲したとも言われる、日本屈指の古刹で舒明天皇の創建が伝えられる、南都七大寺の中でも南大寺とも称され・東大寺興福寺西大寺に伍す大寺であり平城宮の南に位置し南大寺とも呼ばれていた、因みに南都七大寺(注8)とは平安時代に入り京都すなわち北都側からの呼称であり奈良時代には四大寺の一寺であった、四大寺とは・大安寺・元興寺薬師寺・興福寺を言い、後に東大寺を加えて五大寺と言われた、奈良時代の「続日本記」に依れば寺格を示す順序は大安寺が筆頭であり国から経済的にも最高の寺格待遇を享受していた、但し平安時代の「続日本後記」では筆頭は東大寺となり東大寺・新薬師寺・興福寺・元興寺・大安寺と変化している、しかし平安時代中期863年頃)には藤原一門をバックに興福寺が台頭してくる。 
大安寺は639年飛鳥で百済大寺、677
(天武6年)高市大寺から大官大寺に改名されたと言う、大官大寺(注10は帝を象徴した最高峰の寺格を持ち、「大」は規模の大小ではなく中央集権体制を構築した天武朝の仏教政策の拠点を意味する大との説がある、因みに寺格には・大寺(国大寺)・有封寺・諸寺(注10)のランクが制定されていたと言う(奈良仏教の地方的展開、御子柴大介、岩田書院)平安時代には朝廷は官寺を制定し養老律令の施行細則である延喜式に於いては官寺を・大寺・国分寺・定額寺とした。

大安寺伽藍のモデルとした唐の西明寺とは、日本からの留学僧の集う場所で、空海も恵果に会う以前に西明寺を拠点に行動している、近くに滞在していたインドの老僧・般若三蔵に梵語や法を学ぶ等交流していた可能性の高い寺である。 
唐で学んだ道慈の指揮下で建立されたであろう大安寺は創建時に於いては概略25万平方メートルの広大な境内には南大門・中門・金堂・講堂を直線状に配置し南大門の両サイドに七重の東西両塔を置くなど90余棟の堂宇が立ち並び、偉容を謳歌していた。
 

威容を誇示した大安寺も1017年には大半の堂宇を失い、宗派の覇権争いに於いて三論が法相に敗れた事もあり、南都仏教の復興期にも創建時の威容を戻す事は叶わなかった、この寺を訪れてかつて威容を誇った大官大寺跡かと思い栄枯盛衰の虚しさを感じた、因みに大官とは帝を意味し、大官大寺は帝が願主の大寺を言う。 

大安寺伽藍縁起並流記資財帳」や鎌倉時代に法隆寺の僧、顕真の著した「聖徳太子伝私記」等に依れば617年に聖徳太子が平群に創建したとされる「熊凝精舎(くまごりしょうじゃ)」を源流として、日本最初の官大寺として639年-百済大寺・673年-高市(たけち)大寺・677年-大官大寺(注10と移転のたびに名称が変わり716年-大安寺と改称された、ちなみに大安寺の寺名は「天下太平・万民安楽」から採用されたと言うが定かではない。 


奈良時代には当時最先端で日本初の教派である三論教学(注11一大拠点であり、その教義は大安寺流とも言われると共に887名の学僧が居住し、華厳・法相など六宗を兼学した、その影響は天台真言の平安仏教にまで及ぼしている、因みに三論宗は日本で最初に起った衆派である。
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年入唐求法僧・玄昉密教関連の経典を招来している、虚空蔵菩薩信仰も真言密教の請来以前に取り入れられている、大安寺の僧で後に京都で造営中の東寺・西寺の別当を務めた勤操大徳空海に「虚空蔵菩薩求聞持法」を伝授したとされる、後に法友となる勤操との出会いが空海の針路決定の触媒であったと言う説もある、求聞持法とは正式には「
虚空蔵菩薩能満諸願最勝心陀羅尼求聞持法(こくうぞうぼさつのうまんしょがんさいしょうしんだらにぐもんじほう)」と言い記憶方法、福徳・智慧の増進等を修める中期密教以前の修法である、因みに空海に虚空蔵菩薩求聞持法を伝授したのは一説には大安寺の僧で讃岐出身の「戒明(かいみょう)とも言われる、因みに戒明とは8世紀後半に勅命で唐に学び十一面観音図や首楞厳経(しゅりょうごんぎょう)釈摩訶衍論(しゃくまかえんろん)を将来した僧である。 
大安寺は来日したエリート僧達の研究所であり、さながら多言語を駆使するバイリンガルbilingualやマルチリンガルmultilingual達の社交場であったと想像される、聖武天皇や行基に招かれ東大寺に於いて毘盧遮那仏の開眼法要の導師で開眼筆を使用し開眼作法を務めたインド、バラモン僧ボーデーセーbodhisena菩提遷那(ぼだいせんな)咒願師(じゅがんし)(呪願師)を務めた唐僧で、洛陽の大福寺に居た道璿(どうせん)(注4、扶南(現在のカンボジヤ)の仏哲等の渡来僧が大安寺・西唐院に居住し教義や文化を広めた、なかでも菩提遷那は考謙天皇に「宝字称徳考謙皇帝」の称号を奉じるなど存在感は大きく、且つ大安寺に梵文字文化を広めており求聞持法の他にもインドや漢文化など留学以前の空海に影響を与えた可能性が高い様である、大安寺は華厳宗を最初に招来し広めた寺である、すなわち日本華厳宗は唐僧道璿が嚆矢であり大安寺の僧で新羅に於いて華厳を学んだとされる審祥は東大寺がまだ金鐘寺と呼ばれて頃から出向いて頻繁に講説を行っており東大寺の華厳宗は審祥の法脈を継承したと言える。   
東大寺の開山と言われる良弁(ろうべん)は北宗禅を伝える目的で大安寺に居た道璿や審祥に華厳経の教えを受けた、梵語・漢語が交錯する環境を形成する中で大安寺は天平文化の発信地として国際的視野を維持する、また
829(天長6年)には空海が別当に就任する事により密教化が進んだ、因みに翌年830年)に「秘密曼荼羅十住心論」が完成している、またこれに先立つ778年に天台の碩学である道璿の弟子で大安寺の僧・行表(ぎょうひょう)722797年)に従って最澄が出家している、因みに道璿は大安寺に禅院を創設した
平安時代中期には宇佐八幡を勧請した行教が活躍し神仏習合思想が広がりをみせた。 

旧金堂周辺から出土した唐三彩の陶枕・壺や南大門の基壇・塔跡などはかつての栄華を忍ばせるものがあり、空海以前から存在した初期の密教美術の素晴らしさを示す九尊の天平彫刻を代表する仏像群があり、南都仏教に雑密(注16すなわち初期密教が信仰されていた事を窺い知ることが出来る。
「菊の香や 奈良には古き 仏たち」松尾芭蕉。  
大安寺伽藍縁起並流記資財帳
(国立民族歴史博物館所蔵・重文)であるが、746年南都の諸大寺に義務化されたもので大安寺流記資財帳は原本であるが、残る資料では法隆寺資財帳と元興寺資財帳は写本である。
現在は光仁会
123日)・竹供養623日)が催され癌封じの供養が行われている。

奈良時代この近辺には塔が林立していた様子が覗える、即ち現在の興福寺の二塔に興福寺四恩院の塔や春日大社の東西両塔が並び立っていた、更に大安寺・元興寺・東大寺には両塔が存在していた、現代人が奈良時代末にタイムスリップすれば西新宿の超高層ビル群を遥かに凌ぐ景観であったと想像できる、その他にも飛鳥及び奈良には七重塔以上を有した寺は吉備池廃寺(九重)、天武朝大官大寺(九重)、文武朝大官大寺(九重)等が存在した様だ。
旧境内に八幡宮があるのは、九世紀後半のころ神仏習合思想の広がりにより宇佐八幡宮の別当と姻戚関係にあった(ぎょう)(きょう)が勧請したものである、因みに行教は真言宗廣澤流の祖・仁和寺益信とは従兄弟であり、行教の師は行表である為に、最澄とは兄弟弟子と言う事に為る。    
 

高野山真言宗 別格本山 山階派        所在地  奈良市大安寺町二丁目一八-一     ℡  0742-61-6312               


重文指定の仏像 

楊柳観音立像 木造彩色 168,2cm  天平時代                   楊柳観音中の秀作 但し造像時の尊名は不祥  

十一面観音立像 木造彩色 190,5 cm  天平時代                    秘仏(101日~1130日特別公開) 

馬頭観音立像 (文化財登録名:千手観音木造彩色 173,5 cm   天平時代     秘仏(31日~31日特別公開) 

聖観音立像 木造彩色 176,0 cm  天平時代  

四天王立像 木造素地  持国天149,5cm 増長天140,0cm 広目天137,5cm 多門天138,8cm  天平時代 
不空羂索観音 木造彩色 189,9cm  平安時代


1 上記四観音・四天王は伝来に不明な点がある為に重文指定であるが秀作が揃っている、ことに廃仏毀釈の嵐の時にこれを守った付近の住民の功績は大である。

2 大安寺縁起并流記資財帳  朝廷からの求めで由来・財産目録を提出した747年の書類  非公開

3菩提遷那(ぼだいせんな) (bodhisena 704760年)インドのバラモン僧正、文殊菩薩に心酔し唐・五台山大華厳寺に入る、華厳経に精通し密呪を得意とした、736年来日75249日、東大寺・毘盧遮那仏の開眼導師を勤める、光明皇太后に「天平応真仁正皇太后」称徳女帝に「宝字称徳考謙皇帝」の称号を奉じたり藤原仲麻呂との接点が多い。    仏哲 菩提遷那の弟子で大仏開眼供養の雅楽や舞を指導した。  


4道璿(どうせん) (720~760年頃)律に精通した僧であるが、洛陽の大福先寺の北宗禅僧(北宗禅、宗祖神秀(しんじゅう)の孫弟子)で菩提遷那と共に来日、日本に華厳経を請来し梵網経疏を著す、当寺に西禅院を興し居住する、菩提遷那と東大寺・毘盧遮那仏の開眼導師を勤める。
生誕、没年とも概ね菩提遷那と同時期、日本華厳宗の諸祖、良弁(689~773年)に華厳を伝えたと言う説がある、唯識を学んだとされる道昭と共に日本に禅を伝えた僧侶の一人との記述も観られる、大安寺資材帳に依れば道璿の居た頃境内に禅院が存在して様だ。    

5行教(ぎょうきょう) 生没年不詳 伝灯大法師 岩清水八幡宮の開祖、真言宗小野流の祖で空海の弟・真雅の推挙で清和天皇の即位祈願に宇佐八幡宮に派遣される、平安末期に於ける当寺の僧で密教・法相・三論に精通していたと言う。

6、大安寺の馬頭観音は千手観音として文化財登録されているが六臂像で頭部は菩薩形(十一面ではない)であり、少なくとも信仰上は馬頭観音の呼称が相応しく考えられる。
馬頭観音像は文化財指定尊像を見るかぎり68臂が多く当寺の観音像は6臂であり千手観音の68臂は他(手の破損像は除く)には見られない、10臂像は京都・雨宝院 2115cm 11面 平安時代がある、また千手観音の文化財指定は1100件を超える尊像の内11面でない像は、京都、広隆寺・縁城寺・単面の滋賀県・日吉神社 ・三面の善勝寺(滋賀県栗東町御園475)を含めて56尊程度である。

注7、
「虚空蔵菩薩求聞持法」とは記憶力を会得する呪術で自然智(じねんち)とも言い百日間に百万回の陀羅尼を唱える苦行で、当寺の道慈が唐で善無畏に学んだ行法で勤操大徳を経て空海に伝授されたとされる。

8、南都七大寺 天皇の発願により造営された寺で全てが官給の為国の監督を受けた官寺で七堂伽藍(西大寺など例外も在る)を備えた大寺を言う、・大安寺(大官大寺)・薬師寺元興寺(法興寺)・興福寺法隆寺東大寺西大寺・の事を言いほとんどが六宗兼学の道場であった。八世紀後半に四天王寺・唐招提寺・東寺・西寺(現在は無い)・不退寺・弘福寺(川原寺)などを加えて十五大寺と言う呼び方もされた、但し十五大寺の呼称には複数の説が呼称されている。
七堂伽藍 sa
āma(梵語サンガーラーマ)とは金堂・塔・講堂・回廊・経蔵・鐘楼・僧房・食堂とされているがは悉くに通ずる。 

9、バラモン教(薔薇門) インドに移り住んだアーリア人がドラピタ人等を制圧し興したインドに於ける古代宗教で仏教やジャナ教の興隆で衰えを見せたが西暦23世紀ころ土着信仰を取りいれヒンズー教となる。 
バラモンとはインドの於ける階級制度(カースト)の最高位にあり梵語の
vara の音訳で中国では婆羅門と記述された。
カーストとは
ラテン語の castusが語源でありBC10世紀以前からインドに存在する身分制度で「家柄・血統」と訳され、一族のすべては生涯変更される事はない、インドに於いてはカーストと輪廻転生は車の両輪でありインド思想社会を構成していたと言える、どのカーストに生を受けるかは前世・前々世からの業により決められておりキリスト教の様な予定説は存在しない。
釈迦はカーストについては梵我一如(永遠の至福・万物の絶対永遠性)と共に否定したが、仏教の影響力の衰えと、ヒンヅー教の興隆により復活し現在にも生きている。
基本的には四階級と言われるが、事実上は五階級に分類され、さらに夫々が細かく分類される。
1 ブラーフマナ・バラモン(婆羅門)司祭と訳され聖職に付き式典の祭主を勤める。 
2 クシャトリアと呼ばれ王族・貴族・武士などを指す。 
3 ビアイシャと言い平民を指す。 
4 シュードラと言い賎民を言い卑しいとされる職業に就く。 
5 アチュートと言いカーストの枠内に入れない不可蝕賎民を言う、梵語でCaṇḍ āla,と言い漢字で旃陀羅(せんだら)と書く、日蓮は出自を旃陀羅と言った 
この司祭階層の主宰する祭式をバラモン教と呼ばれたが、仏教やジャナ教が台頭すると衰えを見せるがカースト制度は維持された、西暦2~3世紀頃非アーリア的な神々や信仰形態を受けいれる事により大衆の支持を得ることに成功し宗教的融合を果たしてヒンドゥー教として成再生した。当初バラモンは第4バルナのシュードラを差別・除外していたが、農民大衆をシュードラとみる傾向が一般化した為にシュードラ差別を改善して彼らのために祭式を履行するようになった。
バラモンと仏教の関係に付いて釈迦如来は梵我一如の宇宙哲学を否定し無常、人間的論理を駆使して仏教を成立させるが後に興った大乗思想はバラモン思想を華厳等の教派として一体化する。

10
大官大寺の大官は帝を意味しており天皇が願主となり仏教を統率する寺と言う意味を持つ、従って東大寺建立以前は日本最大の規模を誇る寺であった。
大官大寺は百済寺(奈良県北葛城郡広陵町百済)・熊凝精舎は額安寺(奈良県大和郡山市額田部寺町36-1)にそれぞれ後身伝承がある。
国は延喜式に於いて大寺、国分寺、定額寺、有封寺(有食封(ゆうじきふう))、諸寺とランク付した、中世には皇族・貴族が住職・別当を務める門跡寺院が作られた、これも宮門跡、摂家門跡、准門跡、脇門跡とランクされた。


11、三論宗とは日本に於いて最初に取り入れられた宗派で別名を「空宗」とも言い大乗仏教の基本ソフト的な哲学である、2-3世紀竜樹とその弟子が書いたとされる三論玄義 1、中論  2、十二門論 3、百論の三論を中核として成立した宗派で「空観の究極理論」を体系化したもので在家の衆生は我・執着を捨てず、出家は無に拘る為に中論(中頌)を提唱したものである、高句麗僧・慧灌より伝えられた、飛鳥でも元興寺や大安寺を拠点として研究された、ただし三論学派が宗派と認定されたのは天平勝宝年間に東大寺に於いてとされる、但し中国に於いては三論宗と言う宗派の存在記録はない、三論宗の基礎的研究宗派に南都六宗の範疇に入る成実宗がある、成実論を研究し「論宗」とも言われた。
三論宗は倶舎宗と共に上座部仏教の理論を発展大乗化した宗派で法相宗に影響を与えたが後に吸収される。 

12、死者に対する法要に関する信仰に「十三仏信仰」があり当寺も大和十三仏霊場に参加している、奈良の主な参加寺院は*西大寺 *文殊院 *長岳寺  *当麻寺 *新薬師寺 *円成寺 *大安寺 等が参加している。

13奈良県には著名な十一面観音を安置する・海龍王寺 ・西大寺 ・法華寺 ・聖林寺 ・大安寺 ・法輪寺  ・長谷寺 ・室生寺の八寺が参加した大和路 秀麗 八十八面観音巡礼と題したホームページが作られている。

14、西安の西明寺 一説には祇園精舎の配置を踏襲した寺で善無畏が止住して大日経を翻訳した処である、日本人留学生が集まる処で空海に虚空蔵菩薩
求聞持法を伝えた大安寺の戒明も止住していた

15、 平城京の寺院建立を年代順に見れば・大安寺・本薬師寺・東大寺・法華寺・唐招提寺・西大寺・秋篠寺の順になる。

16、 雑密とは「雑部(ぞうぶ)密教」を言う、占星法や陀羅尼すなわち現世利益を目指す、対して純密とは「正純密教」と言い空海以後の密教を指し即身成仏を目指す、但し純密及び雑密の用語は空海を起点にしており日本のみで使用されている。 

 

注17、戒明 奈良大安寺の慶俊に華厳をまなぶ。(ほう)()年間(770780)勅命で入唐する。

帰国の際に十一面観音図像や「首楞(しゅりょう)(ごん)(きょう)」「釈摩訶衍論(しゃくまかえんろん)」などを将来するが、当時の学僧達から首楞厳経を偽経ちされて隠遁、空海と同じ讃岐出身で空海謎の7年間と期間と一致する。



           
           本   堂                          聖観音菩薩
 
2007113日 2008424日 2009611日一部 201145日注15 201232日塔の林立 729日バイリンガル 2017年4月4日 11月17日 2021年2月12日 9月5日加筆  


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