平安時代末には東大寺の傘下にあったが衰えを見せる、12世紀には仁和寺の僧で東大寺の別当をも務めた寛遍(注4)が御室派の真言を持ち込み繁栄させた事により密教との関連が更に深まった。
応仁の乱に於いて多くの寺院が移転する中で円成寺は遠隔地の忍辱山(注5)に移転したとされる、この地で荒廃していたが、後に徳川幕府の庇護を受けて復興し多くの堂宇を保持していたが明治の廃仏毀釈により寺領を失い衰える。
円成寺を訪れる仏像愛好者の最大の目的は国宝の大日如来で、活力が漲る表情と躍動感が溢れる体躯を持ち、1999年大日如来として唯一の国宝指定を受けている、この像の台座の天板には「大佛師康慶実弟子運慶」の墨書に花印があり、運慶が父康慶の指導のもとに約11ヶ月で製作した事が判明している。
智拳印を結ぶ金剛界像で、檜材の寄木造、玉眼
後の運慶の作品には如来・菩薩には彫眼をほどこし明王・天には玉眼を採用している、父康慶との共作説もあるが運慶の青年時代の作品と考えられている、ただ近年大日如来像はガラススクリーンに囲まれている、ガラスの材質、照明等に問題が有り、乱反射して拝観するには気になるところである、本堂の四天王像の作者は運慶の四子で六波羅蜜寺の空也上人を造像した康勝の作とも言われる。
本堂は1466年(室町時代)に再建され寝殿造で内陣の柱には琵琶・筝・笛等を手にした聖衆来迎二十五菩薩が極彩色で描かれている。
本堂の左側に建つ三棟の社、国宝・春日堂と白山堂と重文・宇賀神神殿は春日造では最古の建造物であり貴重である、因みに三棟は春日大社から造替え時に譲り受けた社とも言われている。
奈良・京都には死者に対する法要に関する十三仏霊場がある、*西大寺 *文殊院 *長岳寺 *当麻寺 *新薬師寺 *円成寺 *大安寺等の著名寺院が参加している。
真言宗御室派 所在地 奈良県奈良市忍辱山町1273 ℡ 0742-93-0353
円成寺の文化財 表内は国宝 ●印重要文化財
名 称 |
適 用 |
時 代 |
大日如来坐像(智拳印) |
木造 漆箔 玉眼 98,8cm台座墨書銘 運慶作 |
藤原時代 |
春日堂 |
個々一間 春日造り 桧皮葺 円成寺の鎮守の各本殿で春日造り最古の建築 |
鎌倉時代 |
白山堂 |
●阿弥陀如来坐像 木造漆箔 141,0cm 藤原時代
●四天王立像 木造彩色 持国天116,6cm 持物欠 増長天108,8cm持物欠 広目天114,4cm 多門天116,7cm 鎌倉時代
●楼 門 三間1戸 入母屋造 桧皮葺 扇垂木 花肘木 応仁2年の墨書銘 室町時代 和様、大仏様の折衷
●本 堂 桁行・梁間五間 入母屋造 背面切妻造 銅板葺 室町時代
●宇賀神本殿 桁行・梁間1間 春間1間 春日造 桧皮葺 鎌倉時代
注1、浄土式庭園 平安時代以降に広がりを見せた末法思想の興隆と共に貴族達が寺や邸宅に極楽浄土を観想するために造園された、デザインは浄土変相図(曼荼羅)が源のようで、伽藍が水面に投影するように池を中心として配置している,
代表的な浄土式庭園に当寺・平等院・浄瑠璃寺・法金剛院・毛越寺などがある。
苑池とは池を中心にした庭園を言う。
注2、益信 (827‐906年) 真言宗広沢流・中院流の祖で本覚大師(1308年)の称号を受ける、因みに広沢流とは真言宗に於いて聖宝を祖とする小野流(師から弟子への口伝を重視する一派)に対した二大流派で経典・義軌を重要視するグループを言う、備前の出身で姓は紀と言い大安寺に於いて得度、元興寺に於いて法相宗を修め887年仁和寺で密教の灌頂を受ける、891年教王護国寺の長者・894年東大寺別当に就任。
更に899年には宇多上皇に受戒し900年には伝法灌頂を教王護国寺に於いて授ける。その後東山・円成寺(忍辱山の前身)を与えられる。
注3、 定額寺 天皇の勅願により寺名を記す額を与えられ官寺に準ずる待遇が受けられる寺を言う。
注4、 寛遍 (1100~1166年) 円教寺寛蓮の弟子で、尊勝院大僧正・忍辱山大僧正とも言われ、円成寺に御室の真言宗を伝えた再興の祖、広隆寺・東大寺・仁和寺の別当を歴任、金剛峯寺の大塔落慶供養導師、教王護国寺長者、 鳥羽上皇との親交も伝えられる。
注5、忍辱 佛教の蘊奥とされる六波羅蜜の中で三番目に忍辱波羅蜜があり、不動心・耐え忍ぶ心を言う。
2005年10月20日運慶部分加筆 2006年7月2日 8月18日益信 9月3日寛遍 2020年㋅㏬加筆