般若寺

                            仏像案内     寺院案内
 

山号を法性山と称し寺伝に拠れば白鳳時代初期(654年)に孝徳天皇の病平癒を祈願して創建されたと言われるが、聖武天皇が般若経を埋蔵しその上に十三重塔を建立したとさる伝承もある、塔の建立は鎌倉時代であり真偽に付いては疑しい、また高句麗僧・慧灌や行基の関連も伝えられ創建に関しては異説の多い寺である、但し742東大寺が仁王般若経を般若寺等から借用して書き写したとも言われる。
九世紀後半空海の弟・真雅(しんが)から得度を受け聖宝に学び、空海の大師号取得に尽力した真言僧・観賢(かんげん)の時代に最盛期を迎えた様だ。
般若寺は出土品から推定すれば都の鬼門を守護する目的の寺もであった様で、レベルの高い七堂伽藍が存在していたと思われる。
般若寺は幾度も戦乱に巻き込まれて伽藍が一方の陣営となり焼失を繰り返した。
創建当時は法相宗・興福寺の傘下で学問寺としての性格を持っていたとされたが衰退する、鎌倉時代中期には荒廃の極致にあった寺の復興は叡尊によるもので1269
(鎌倉時代)西大寺の末寺となる。
1253
年頃叡尊と親密な交流を持つ僧で東大寺の良恵により十三重の塔が建立される、この塔の修理中
1964年)に金銅五輪塔・水晶五輪塔・如来像などが発見された、建立した石工は鎌倉時代に東大寺の復興に参画した宋の伊行末や東大寺三月堂の石灯籠を建立した陳和卿と言われる。
ただし般若寺の規模・寺勢が窺い知れるのは鎌倉時代からのことである、西大寺の叡尊・忍性によって再興されたが奈良と京を結ぶ交通の要衝に存在する為に戦場になり易く室町時代
(1567年)に再び焼失、江戸時代(1667年)には入り現在の本堂(文殊堂)の完成を見た、また廃仏毀釈で一時は無住寺となるが復興をはたす。
十三重の塔であるが、1964年に大規模な修繕が行われた際に如来立像
(銅像)・五輪塔(水晶や金銅製)等が発見された。
般若寺復興の祖・叡尊は文殊菩薩の功徳を願い、1269年に六千人とも言われる底辺の衆生を集めて、諸人は平等と言う無遮大会
(むしやだいえ)を挙行し、この精神は長く受け継がれた。

国宝の楼門は重源が請来した大仏様
(天竺様)に和様を折衷し長い庇を広げた華麗な楼門である。
西国薬師
を巡礼する霊場に薬師如来を本尊とする49寺が参加しており、般若寺は三番札所となっており、すいせん・こすもす、等花の名所でもある。

真言律宗
        
所在地     奈良市般若寺町221     ℡ 074222-6287            

1、 般若 梵語の
pra ñā (プラジューニャ)であるがバーリ語の音訳でバンニャーから来ている、漢訳を慧と言い、和訳では見識・真実の智慧とされる。

             
般若寺の文化財   表内は国宝   ●印重要文化財  
       

4
29日~510日 1026日~1110日秘仏開示・事前に確認してください。

名    称 

仕                 様

 時   代 

 楼    門

 1間1戸 入母屋造・本瓦葺 和様・天竺様(大仏様)併用 

 鎌倉時代

薬師如来立像 銅像鍍金 像高30,5cm 平安時代(秘仏)(奈良博寄託) 

文殊菩薩騎獅像 木造彫眼 像高45,5cm 鎌倉時代  本尊   康俊・康成作

●十三重塔(51日―31日拝観可) 石造 塔高13m 鎌倉時代 笠塔婆(2基)塔高4,7m 相輪は昭和の後補  鎌倉時代 

●扁額「般若寺」木造・嵯峨天皇の宸筆とされる。

●経蔵 桁行3間 梁間2間 切妻造 本瓦葺 江戸時代 

●笠塔婆 二基  


最終加筆日2004114日  20091214日 加筆          


inserted by FC2 system