長谷寺

             説明: C:\Users\Owner\katada202\nara\button1.gif                  仏像案内    寺院案内    長谷寺公式サイト 

正式名称は豊山神楽院と呼ばれ長谷山寺・泊瀬寺・初瀬寺との記録もある、「はつせ」とは日本書記や万葉集に「隠国(こもりく)泊瀬(はつせ)の山は‐‐‐」と詠まれた地である、創建は道明が天武天皇の為に建立(もと)長谷寺)した観音堂が嚆矢と言われる、が続日本記には768年、称徳天皇の行幸が記述されている、当初の本尊である十一面観音は727年良弁の弟子徳道による開眼とも伝えられるが行基が落慶供養の導師を務めたとも伝えられる、創建当初東大寺の末寺であったが藤原時代中期には興福寺の傘下に組み込まれる、また本尊の十一面観音像は本堂と共に焼失を繰り返し現在は八代目で1538年の造像で仏師、運宗(うんそう)・運海・運青(うんせい)達の記述がある。
平安時代末頃から禁裏や貴族たちの庇護を離れ寺勢は衰えを見せるが観進聖達の努力で命脈を保つ、戦国時代には伽藍を焼失させられるが、後に豊臣秀長が専誉
(1)を庇護する。
桃山時代になり真言教学を再構築した興教大師・
(注2の弟子、妙音院・専誉が秀吉の根来攻めを逃れて入山し新義真言宗の根本道場とする、同じく難を逃れた智積院・玄宥と共に新義真言宗壊滅の危機を救う、但し現在は長谷寺も智積院も真言宗であり新義真言宗は根来寺系のみが呼称している、しかし専誉は根来寺に於いて生え抜き達いわゆる常住方の頭であり、玄宥を頭とする外様である客方とは対立関係にあった、専誉は豊臣秀長の援助で長谷寺に入るが玄宥は智積院に入るのは徳川家康の時代までの時間を要した。
1900
年に長谷寺と共に真言教学の拠であった智積院は豊山派から分離独立し智山派を興している、主に新義真言宗系すなわち長谷寺や智積院等では管主すなわち住職等を化主(けしゅ)と尊称している

新義真言宗が成立する事により従来の系統を古義真言宗と呼ばれる、但し現在では智山派や豊山派では新義真言宗を呼称しないが太鼓などの囃子を利用した法会は盛大である、因みに古義真言宗系での囃子は禁じられている。


西国巡礼は長谷寺の僧・徳道が嚆矢と言う伝承もあるが初瀬の地は斎宮街道
(奈良と伊勢を結ぶ)と呼ばれる交通の要衝にあり観音信仰の広がりと共に時の権力者や宮廷歌人達も多く参詣に訪れている。
伝承はともかく長谷寺は、日本に於ける巡礼の発祥地である事に相違はない、現在は真言宗・豊山派の総本山で西国三十三箇所観音霊場の八番札所である、古来から王朝文化に多大な影響を与えた名刹であり、万葉集・源氏物語や枕草子にも登場し古くからの長谷詣は春日詣でと共に馴染みの深いところである、ちなみに諸説があり定かではないが西国巡礼の嚆矢は長谷寺の徳道説や花山法皇、性空などの伝承がある、但し観音霊場の起点は長谷寺である事は疑いはなく華厳寺の「三十三所観音曼荼羅」や高山寺の「観音三十三所日記」に示されており平安時代頃は長谷寺が一番札所で、二番が岡寺
(龍蓋寺)三番が壺阪寺(南法華寺)と続き現在10番の御室戸寺で結願とされていた。  
長谷寺の本尊である十一面観音の霊験は広く信仰されている、この観音像は平安時代の「三宝絵詞(さんぼうえことば)」に依れば岩盤の上に台座が固定され造像後に本堂が建立された、これは東大寺二月堂の十一面観音も同様と考えられる、また長谷寺縁起文の伝承によれば十一面観音を造像された楠木は近江の山から琵琶湖に流れ出た後に山岳修行者により長谷に運ばれたとされる、寺院は何度か罹災するが略全国に散らばった聖達の勧進活動で当寺の復興と共に鎌倉の慈照院長谷寺(長谷観音)を三重県多気町・近長谷寺はじめ各地の長谷寺に同木を使用したとされる大型の十一面観音が存在し、近長谷寺の様な佳作がある、また渡岸寺の国宝・十一面観音も台座に錫杖跡らしい窪みがあり長谷寺型とも考えられる。
本堂の舞台造り
懸造(かけずく)り)清水寺石山寺・鳥取県、三佛寺の投入堂・笠森寺(千葉県)等と共に有名である。
また当寺の十一面観音は創建以来火災に遭い現在八代目の尊像である、10mを超える日本最大の木造像で長谷式観音と呼ばれ右手に錫杖を持ち地蔵菩薩と混血的な菩薩である。
十一面観音に従う脇侍は八大龍王の筆頭の地位にあ(しょう)()に優れた難陀(なんだ)竜王(木造 167,7cm  鎌倉時代、左側)、右側は大日如来の化身とも言われる雨宝(うほう)童子(木造 116,0cm  室町時代)である。 
長谷寺の文化財で奈良国立博物館に寄託されているが国宝の「法華説相図(千佛多宝塔銅板)」が著名で法華経・宝塔品に書かれ、釈迦如来の説法中に塔と共に湧出した多宝如来や菩薩達千仏が出現し、如来が並座し下段に仏・塔・帝の賛辞を記述した状態が画がたれている。
総門・登廊・五重塔は明治の再建である、長谷寺は花の寺であり仁王門から本堂までの道中 399段の間に・櫻・あじさい・もみじ等咲くが、牡丹寺の別称が在る様に最大のセールスポイントである登廊の牡丹は1508000株におよび、最盛期には満員電車内の如くである、比較的近くに女人高野と言われる室生寺がある事から女性に特別人気が高い、ただし静かに拝観、散策を楽しむには牡丹など花の季節は避けるのが賢明であろう。
長谷寺の圧巻は東大寺の修二会
(お水取り)と共に大和に於ける二大火祭りにある、28日〜14日の修二会の最終日に行われる「追儺会(ついなえ)」すなわち「だだおし」であり法螺貝・太鼓・鐘の音と松明に圧倒される。 

「大和七福八宝めぐり」と言うグループがある、三輪明神、長谷寺、信貴山朝護孫子寺、當麻寺中之坊安倍文殊院、おふさ観音、談山(たんざん)神社、久米寺が加盟している。

隠国(こもりく)の泊瀬の山は (いで)で立ちの 宜しき山 り出(わしりで)の 宜しき山の 隠国の泊瀬の山は あやにうら麗し  あやにうら(うるわ)し」日本書紀より  

                    


真言宗
豊山派総本山        所在地  奈良県桜井市大字初瀬7311     
п@0744477001  

1、 妙音院・専誉 15301604
興教大師・覚鑁の弟子で豊山派の祖師、智積院玄宥と共に秀吉の根来攻めで壊滅的打撃を受けた新義真言宗中興の祖とされる、1530年現在の堺市で生まれる、1542年得度、天台、真言の各寺院に於いて学習し1584年根来寺学頭となるが、1585年秀吉の根来攻めで、高野山、さらに醍醐寺に逃れるが後に豊臣秀長の招きで荒廃した長谷寺に入り、法相宗の寺から真言宗豊山派を興す。  

2覚鑁(かくばん)   10951143 
正覚坊覚鑁と言い諡号は興教大師と言う、13歳のころ上洛して仁和寺の成就院寛助に師事する、興福寺・東大寺にも勉学したと言はれる。 真言宗中興の祖であり新義真言宗の開祖で佐賀県の出身。浄土教の台頭に対してこれに対抗する為の再構築が必要とされ覚鑁が浄土教を取り込む教義をもって鳥羽上皇の後ろ盾もあり活躍する、天台宗などに比べて教義研究の遅れを指摘し、真言教学の再興を目指して全密教法流の統一を目指す事により、真言宗は勢いを盛り返すが改革が急進過ぎた為に守旧派(東寺・金剛峯寺の既得権者)からの反発に遭う。
1114年高野山に於いて往生院青蓮や最禅院明寂に学び1121年に寛助僧正より伝法灌頂を受ける。
公家貴族等と広く交流し伝法会の再興に尽力する、1132年鳥羽上皇の御幸を受けて高野山に院御願寺大伝法院を完成し、同院と金剛峯寺の座主に就任するが、守旧派の抵抗から大伝法院と密厳院を根来に移し移住する、1143年大円明寺を完成後に没する。新義真言宗が成立する事により従来の系統を古義真言宗と呼ばれる。 弟子に妙音院専誉(15301604)、智積院玄宥(げんゆう)(15291605)がある。
著書に密厳諸秘釈・五輪九字明秘密釈がある。

3、長谷寺の牡丹は伝承では唐の馬頭(めず)皇妃が祈願成就のお礼に贈られたと言う伝承があるが元来は薬草園が嚆矢と考えられる。


4奈良県には著名な十一面観音を安置する・海龍王寺 ・西大寺  ・法華寺 ・聖林寺 ・大安寺 ・法輪寺  ・長谷寺 ・室生寺の八寺が参加した大和路 秀麗 八十八面観音巡礼と題したホームページが作られている。 

長谷寺の文化財      表内は国宝  印重要文化財  古文書・書籍・典籍を除く

名   称

適                 用

時   代

法華説相図 
(千仏多宝塔板)

銅製 H83,3W75,0cmD2.0cm 法華経・見宝塔品・従地湧出品15章の教義を曼荼羅化したもので塔・仏像・銘文を刻む(奈良博寄託)

白鳳時代

 本堂  

桁行9間 梁間4間 入母屋造 本瓦葺 江戸時代 東大寺大仏殿に次ぐ規模で清水寺と共に懸(舞台)造の代表作  

 江戸時代


3、本堂 20041015日 文化審議会より国宝指定の答申を受け2005 1 1日付けで国宝となる。  

十一面観音立像 木造 檜寄木造 漆箔 1018.0cm 地蔵菩薩との混血像で錫丈・念珠を持ち文化財指定の内、日本最大の観音像 桃山時代 

十一面観音立像 銅像鍍金 70,9cm 藤原時代(拝観否)  宗宝蔵

不動明王坐像 木造 75,2cm 藤原時代(事前予約)  宗宝蔵

地蔵菩薩立像 木造彩色 181,0cm 藤原時代   

阿弥陀如来来迎図 絹本著色  

難陀(なんだ)竜王 木造 167,7cm  鎌倉時代  本堂  八大龍王の一尊

雨宝(うほう)童子 木造 116,0cm  室町時代  本堂   初瀬を守護する八大童子の一尊

浄土曼荼羅図 絹本著色  

鐘 楼 1間1戸 入母屋造 本瓦葺 江戸時代 

登廊・繋廊 本堂から仁王門を繋ぐ廊下 

仁王門 3間1戸 楼門 入母屋造 本瓦葺 明治時代  

三百餘社 1間 春日造 銅板葺 江戸時代 

阿弥陀来迎図 絹本著色 掛幅装 129,088,0cm平安時代 

当麻曼荼羅図 絹本著色 掛幅装 152,4149,1cm鎌倉時代 

高雄曼荼羅図像 六巻 紙本白描 巻子装 胎蔵界第1・3・4・5金剛界 第1・2 平安時代 

*宗宝館公開日45・10.11月   法華説相図は複製展示
最終加筆日
20041016  2004年12月24日 2005111  223日 20081213日 2011721日だだおし 2019年12月15日加筆 

                

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