法隆寺 

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法隆寺の正式名称は法隆学門寺と言う、また地名から斑鳩寺とも呼ばれる。聖徳太子ゆかりの地、斑鳩の里に仏教興隆の礎となり現存する日本最古の寺であると同時に世界最古の木造建築物を持つ寺でもある、因みに法隆寺の寺名は「仏法興隆」を願い銘々されたと言う、その他に法隆寺は・聖国寺・七徳寺・宝蔵寺等の呼び方もされた様である、因みに学門寺と呼称される所以は多くの衆派(宗派)が寺内に存在した、即ち「法隆寺伽藍縁起並流記(ならびにるき)資財帳」略して「法隆寺資材帳」に依れば・(しゅ)多羅(たら)(注14・唯識衆・三論衆・別三論衆・摂論(じょうろん)衆・律宗と言う現在の南都佛教が記述されている。 

「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」正岡子規(まさおかしき)の俳句も著名で知名度は東大寺とならび最高位にある、近隣はかっての閑静な田園風景はかなり失われたが、まだ大和棟と呼ぶ卯建を持った民家が点在しており法起寺法輪寺を含む三塔が一望する事が出来て往時の雰囲気を忍ばせるが、朽ち行く古都の抒情詩の世界に浸る場所は年毎に少なくなる。
聖徳太子が創建した七ヶ寺の一寺とされ南都七大寺
(注7参照)の一寺でもある、法隆寺は正式名称の如く仏教教学の道場であり、主に法相・律・三論などの学派の研究が行われていた。
また宗派も現在は聖徳宗と言うが、1950
(昭和25年)の分離独立までは福寺薬師寺清水寺(北法相宗)と共に法相宗の寺であった、さらに明治五年の太政官布告で南都の古刹の多くは真言宗の傘下に組み入れられた、法隆寺も例外ではなく苦難を経験した、因み聖徳の称号は道慈によりジャータカ(本生譚 注1)を集めた「六度集経(ろくどじっきょう)(康僧会訳 ?~280年)」から命名された様である。
聖徳宗として独立以後「宗法則」に三経義疏すなわち維摩経義疏・勝鬘経義疏・法華経義疏を基軸教典とし法相宗・真言宗の影響を残す宗派に変貌する、法隆寺は末寺として中宮寺  ・法輪寺  ・法起寺等二十九ヶ寺がある。 
明治五年の太政官布告で法隆寺は真言宗に組み込まれたが、1950年聖徳宗として独立以後「宗法則」に於いて三教義疏を基軸教典として活動している、しかし法相哲学すなわち唯識との共通性は如何かと思惟される。 
法隆寺は西院と東院とで構成されており、「法隆寺四寺院説」など創建時は別の寺との説もある、西院の場合は金堂・五重塔・大講堂を南大門・回廊で囲み、上御堂・西円堂・地蔵堂などで構成し、東院は夢殿
(八角堂)鐘楼・伝法堂・太子殿などで構成される。
創建年代は諸説が交錯しており確定は困難であるが、現在の西院伽藍が整ったのは天平時代初期の711年頃と推定すべきかと考えられる、閑話休題、東西の伽藍であるが西院は若草伽藍の跡と、東院
(上宮王院)は斑鳩宮の跡と交錯している。
法隆寺で残念な事は昭和24126日解体作業中の金堂が火災にあったことである、既に解体し終えていた上層部や裳階を除く一階の躯体部分
(エンタシスの柱など)と壁画(十二面)がほぼ焼失したことである、不幸中の幸いと言うか復旧作業に於いて既に解体しあった裳階などで囲うことが出来て新材料で補完した補修部分を目立たなく出来た事であろう。
その金堂は壮観である、中、東、西の三の空間で構成されている、即ち十三尊の仏像が安置されている、・釈迦三尊
(中)をはじめとして・薬師如来(東)四天王地蔵菩薩毘沙門天立像・吉祥天10尊が国宝指定像で占められている、金堂建立当初の配置は釈迦三尊を中心に・救世観音・玉虫厨子が配置されていたと言われる、すなわち現在置かれている阿弥陀如来(西)(鎌倉時代の作で重文)の台座のサイズは飛鳥時代の作であり、西円堂の救世観音と同一サイズである事が2008年末の金堂の修繕で判明した2009315日NHKスペシャル)。 
ミステリアス(mysterious)な要素を多く含む寺である、金堂の釈迦三尊の光背に推古三十一年
623年)造像の記述があるが、法隆寺は天智九年690年)堂宇は総て焼失している、と言う事は金堂が再建される四十七年以前に造像されている事実に、その間に於ける仏像の安置場所などの説明は困難であろう、法隆寺の消失、再建に関して法隆寺長老の高田良信師は消失の記述はあるが再建に関する記述は見られないと言う。(法隆寺学のススメ・高田良信著・雄山閣) 
東院は八世紀中盤いわゆる天平時代に法隆寺の先住、大僧都・行信の手で造営され国宝の夢殿・伝法堂・鐘楼等で構成されている、行信像は夢殿に救世観音や平安時代に東院の荒廃から救った富貴寺・(どう)(せん)と共に安置され国宝に指定されている。
法隆寺も盛衰を繰り返すが、平安時代に太子信仰が興隆し呼称も厩戸皇子などから聖徳太子に概ね統一され、東院も吸収する等栄えその後衰退するが徳川五代将軍の時代に復興し明治時代に入るが太政官布告・廃仏毀釈の試練を経て今日の姿がある。
秘仏ではあるが夢殿の救世観音のモデルは聖徳太子との伝承がある、761
(天平宝字5年)の東院資財材帳に記述される「上宮(じょうぐう)(おう)等身(とうしん)観世音菩薩木造一躯」との記述の尊像は救世観音菩薩であろう。(石山寺の信仰と歴史・思文閣・頼富本宏他著参照)因みに観音の研究者、後藤大用氏(観世音菩薩の研究、山喜房仏書林)に依れば法隆寺夢殿の救世観音や室生寺如意輪観音の持つ球はピンダpilfaと言い、神霊pitr・ピトリ)に捧げる米粉製の団子を表していると言う。   

法隆寺は文化財の宝庫であり超一級国宝(下部に記述の法隆寺文化財参照)が多く存在する、仏像に例を挙げれば檀像(注11の国宝・九面観音菩薩像は、我が国に請来された檀像彫刻として金剛峯寺の諸尊仏龕と共に代表的傑作と言える、仏師で僧侶である西村公朝師をして瓔珞(ようらく)を例にとり「二重になった鎖状の輪が複雑に絡み合い、金属で作るにも難しい瓔珞を木彫りで彫っている、日本でこれに匹敵する精巧な木彫り像は見当たらないだろう」と絶賛しておられる、また姿形から近年まで虚空蔵菩薩とも呼称されていたが、明治に入り化仏の施された宝冠が発見されて観音菩薩像と確定した著名像で、古寺巡礼に於いて和辻哲郎が「人体の美に慣れた心の所産ではなく、初めて人体に底知れぬ美しさを見いだした驚きの心の所産である」と絶賛した百済観音があるが、1698年の「諸堂仏体数量記」まで記述が無く他所からの移設説があり出自不詳である、百済観音の材質についても蓮華座や光背等は、この時代特有の楠であるが水瓶等は桧である。因みに1997年フランスのシラク大統領の要請でルーブル美術館で特別展示された時に「東洋のヴィーナスVenus」と絶賛されたと言う、また僧祇支が右肩から左腰に流れており通常と逆の流れと言える、閑話休題、百済観音の材質は飛鳥、白鳳時代の主流であった楠木であるが左手と水瓶は檜である。(仏像のかたちと心・金子啓明・岩波書店)
法隆寺の観音菩薩を初めとする仏像の造像に関する技術・様式等々、我が国日本への伝播多大な影響を与えた品に、かって法隆寺が所蔵していた御物(ぎょぶつ)金銅仏(こんどうぶつ)(東京国立博物館 保管)すなわち旧称四十八体仏のうち二十体は観音菩薩である。 
法隆寺は650尊もの仏像彫刻を持ち現在所有する国宝38件・重要文化財指定を受けた物件が190件・2300点に及び奈良県内に於いても約50%近くを占める、建造物に於いても白鳳時代から江戸時代の亘り55棟に及ぶ国宝・重文指定建造物がある、絵画に於いても鎌倉時代以降の作でも*法相宗曼荼羅、 *法相八祖図、 *唯識曼荼羅、等々の作品が管理されている。
また伽藍配置に於いて法隆寺は日本独自の新しい美意識を創造した嚆矢と言えるのではないか、法隆寺より古い様式の伽藍配置として飛鳥寺跡・四天王寺があるが、飛鳥寺の場合中門から見て塔を中心として三金堂が囲む配置であり四天王寺は塔と金堂が縦の軸上にありシンメトリー
(左右対称 
symmetry)の配置である、また上記二寺の場合には百済、高句麗に同じ配置の寺院跡がある為日本の創意では無い、しかし日本では法隆寺に於いて初めて塔と金堂は横軸上に配置され左右非対称に置かれてから長期間定着している、これはシンメトリーの持つ圧迫感を開放しており日本人の好みにマッチしている、因みに若草伽藍は四天王寺式の伽藍配置であった事が判明している。
法隆寺と同じ配置の寺は桜井市・吉備池廃寺跡[百済大寺]等が挙げられるが現在は存在しない、この配置は日本人の創始ではないにしても再建伽藍は現在の配置で長い年月を経過しており法隆寺式伽藍配置として定着している、これは幾何学的構成や、対称性を避け日本人の美意識に適う景観を演出している。
これは左右対称美が破られて、新しい非対称の美意識として日本人の文化的遺伝子の中に組み込まれ熟成を加えながら今日まで永続していると言える。
非対称の代表例をあげると庭園では竜安寺の石庭である、建造物ではエスキース
csqtlisse 平面計画)段階からのコンセプトである、桂離宮があり、慈照寺・東求堂などの数奇屋造り等に於いて同仁斎・床の間・付書院、更に桃山時代になると茶室等、非対称の美意識を完成させ、さらに聚楽第から移築されたと言う本願寺(西)の飛雲閣
(最後尾に写真掲載)にまで誇張される。
平等院
の鳳凰堂はシンメトリーの代表に思惟されるが、境内の中に於ける景観の一堂である、全体的にはインド中国や浄土変相図に見られる四角形から脱却した独自の形状を形成した、東面の阿字池
(創建時から少し変更している)などに変化を持たせ非対称とのバランスの妙味を形成している、これは四角い池を配するタ‐ジ・マハルやヒンズー教的とも言える浄土曼荼羅(當麻曼荼羅)に描かれる極楽浄土を日本人の美意識に適う浄土変相景観に作り変えている。

法隆寺は再建論が確定的である、太子一族が滅びてから60年以上過ぎて何故・如何なる理由で絶滅した一族の寺を再建しなければならなかったのか、天武・持統天皇が熱烈な仏教興隆の推進者であったとしてもアニミズム
(animism)すなわち霊魂の存在を度外視しては考えられない、法隆寺には四寺院説がある、・斑鳩寺・若草寺・西院・東院の四寺で斑鳩寺は入鹿の手で焼失した寺で隠蔽されている、若草寺は孝徳天皇、皇極上皇が再建した、西院は天武天皇、不比等の創建であり、東院は光明子によるとの記述がある。
更に法隆寺と聖徳太子を切り離して考える説が有り、現法隆寺では前法隆寺
(若草伽藍を含めて)が蘇我一族の氏寺であった事実を意図的に隠蔽し様としている説もある。(法隆寺の中のギリシャ・シルクロード文和・現代書館・久慈力)
古代から中世にかけて人々の信仰に対する依存度合いは強烈であり宗教施設は政治・経済・文化面の中心であった、日本には仏教伝来と前後して道教が形体を変じた「格義仏教」の流れの中で陰陽道(おんみょうどう)の基礎となる陰陽、五行説が請来されており怨霊呪術に対する恐怖感は培養されていたと思惟される、陰陽道は後年には阿倍・賀茂の陰陽道家が確立されて宮中の内典とされていた、「日本の道教遺跡を歩く」(朝日新聞社)に依れば用明天皇の双槻宮(なみつきのみや)は「観」すなわち道教寺院との記述がある、但し道教は日本に於いて修験道、陰陽道、等は官に属し医療、調薬を担当する典薬寮、
陰陽道の教官と言える天文博士に限定して取り入れられている、因みに陰陽道と言うタームは中国にも朝鮮にも無い。
法隆寺は
謎の多い寺であると言われている、法隆寺に付いて近年・斑鳩寺・若草伽藍・西院・東院などは其々別の寺院説を言い、ルーツも九州の豪族が絡んだ可能性がある新羅、百済経由及び中国経由かの相違や本尊に於いて西院は釈迦如来であり、東院が救世観音菩薩とかの説や、大山誠一を筆頭とする太子の実在否虚構説等々で賑やかである、天才としての聖徳太子を容認する人々の業績は概ね太子賛美する事で成果を挙げてきており、否定すれば独自の業績が無になる人が容認派とも言える、法隆寺の謎については過剰に付加された神話的装飾を読み取らねばならない。
梅原猛氏は洛陽の紙価を高めたとまで言はれた著作「隠された十字架・法隆寺」に於いて法隆寺は太子一族の鎮魂の寺と言われる、また井沢元彦氏は「逆説の日本史」古代言霊編・倭の謎編等に於いて日本歴史学の三大欠陥(注12をベースにして同様の指摘をされている、日本史を俯瞰して考察する見識に於いて両氏の言われている事にはスピード違反・一旦停止違反が随所に見られるが、日本文化論の根幹を提起したものであり、その主張には目から鱗が落ちる様な指摘が多く納得させられるところが多い。
特に梅原氏は欧米の哲学をなぞるだけでなく、本来の哲学を持って日本歴史界に怨霊概念を取り入れた功績はと言える。
法隆寺に伝わる般若心経の梵語原典は小品の二枚の貝多羅葉(ばいたらよう)pattra・パットラ・ターラ)略して貝葉に書かれ609(推古17年)請来とされ世界最古である、悉曇文字で書かれ玄奘般若心経の翻訳より約半世紀古い、因みに貝葉( ばいよう)とは椰子科やシュロ科の一種の植物の横長の葉を5cm×50cmぐらいに切り表面に鉄筆で文字を書いたもので「貝葉写本」と呼ばれている。 
法隆寺は三教義疏を基軸教典として聖徳宗を呼称するが、法隆寺は20世紀までは法相宗の寺である、明治5年の太政官布告で真言宗に組み込まれたが、1950年聖徳宗として独立以後「宗法則」に於いて三教義疏を基軸教典として活動しているが法相すなわち唯識との共通性は如何かと思惟される、また三経の共通点は大乗菩薩行を強調した点にあり唯識との共通性は感じられない、三経院に於ける三経とは三論、唯識、律とも言われている、聖徳太子論には左右両極端な論議があるが国粋主義に固執する太子礼賛は避けるべきであろう。   

私見を述べれば 「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」に記述された俀王多利思北孤(わおうたりしひこ)による「日出處天子致書日沒處天子無恙云云(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々)の文言で知られる国書には天子とあるが、聖徳太子は天子、大王、帝ではない、また飛鳥時代に於ける人間の寿命から観れば太子が摂政になった20歳は壮年すなわち人生の最盛期であり帝の地位に就ける年齢と言えよう、また14歳で戦闘に参加したとされるが戦闘に於ける地位や戦績に関する記述は観られない、資質、人望は如何であったのだろうか、外国の例を挙げればローマ皇帝のネロ371215日~ 6869日)は十六歳、秦王・政(秦始皇帝)(Bc 259年 ~ Bc 210年)は十三歳で皇位に就いている、因みに聖徳太子と言う呼称は奈良時代の漢詩集である「懐風藻(かいふうそう)」が嚆矢と言う記述も観られる、要するに実像と信仰上の解釈と峻別しなければならない。   
中村元氏はチベット
(吐蕃)開国時の王ソンツェンガムポ(在位593年 ~ 638年頃)に聖徳太子の伝承が酷似していると指摘されている。
法隆寺は199312月、ユネスコに於ける「法隆寺地域の佛教建造物」として法起寺・法輪寺を含めて、日本に於ける第一号の世界文化遺産認定を受けている。



聖徳宗本山    所在地  奈良県生駒郡斑鳩町大字法隆寺山内   0745752555  (聖徳宗は法相宗に分類しております)       



1、 本生譚(ほんしょうたん)(ジャータカātaka ) 釈迦族の皇子が覚者となった原因は前世すなわち宿世(しゅくせ)からの行動すなわち宿業(しゅくごう)に有るとして、その行動即ち六波羅蜜行をインド説話とした仏伝でフィクションであるが釈尊の哲学即ち仏教の神髄が述べられている、梵語のジャータカ(jātaka)と言う、パーリ語聖典(pāḷi)の前世物語として二十二篇五百四十七話が纏められている、己を犠牲にして生物を助けた内容に統一されている、仏伝とは釈尊の生涯を著した事例などを言う、因みに瑞応経等に依れば釈尊の前世は儒童梵士(じゅどうぼんし)と呼ばれたという、ジャータカは下術のabに他に象本生や猿本生等がある、本生譚の物語には共通点がある、①仏陀は概ね祇園精舎に滞在して仏陀は事件の当事者と会話している、④仏陀は過去に於ける事件との類似性を示している、等々である、()(詩歌)とその解説、等に限定される。
(こう) 僧会(そうえ)? 280年)の漢訳と言われる「六度集経」「金光明経」「修行本起賞経」「菩薩本行経」等に記述されている様で、主に釈迦の宿世(前世)に於ける行動を物語化したもので、「過去現在因果経」を典拠として玉虫厨子の両面に描かれている。  

 a捨身飼(しゃしんし)()図・飢えた虎の親子を救う為に前世の釈迦(摩訶薩た王子)が崖から飛び込んで虎の餌になる。 b、施身聞偈図(せしんぶんげず)・釈迦の修行中羅刹に変身した帝釈天が「諸行無常」と囁く、釈迦は羅刹に続偈の教授を願い出たところ「汝を食わせれば教える」と言う、承知した釈迦は聞いた偈(仏の言葉)を岩に刻んで身を投げたところ羅刹は帝釈天に戻って釈迦を空中で受け止めた。玉虫厨子には他に天王図・菩薩図・須弥山図・草木図等が描かれている、因みに諸行無常とは仏教の基本理念である三法印(諸行無常、諸法無我、涅槃寂静)の一つで世間に存在する一切は変化したり、生滅を繰り返し不変はあり得ない事を言う。
また玉虫厨子は飛鳥時代の建築様式を正確に再現されており、太子一族の怨霊を鎮める願いを込めて制作された飛鳥芸術を代表する文化財である。 
日本語訳として「南伝大蔵経」がある、ちなみに玉虫厨子は推古天皇の念持仏として作られた厨子と言う伝承を持つ。
前述の「過去現在因果経」とは劉宋時代(5世紀初中頃)・求那跋陀(ぐなばつだ)()、漢訳・四巻がある、この経典に絵を付けた「絵過去現在因果経」があり ・根津美術館に国宝 紙本著色 27.6×1139.4  ・上品蓮台寺(京都市北区紫野十二坊町33-1)、さらに重要文化財に・奈良国立博物館に紙本著色 巻子 断簡 H26.41 W15.9cm 奈良時代 ・MOA美術館 紙本著色 1巻 26.7cm×154.5cm 等に存在する。 
    


2、 錣葺(しころぶき)  玉虫厨子の屋根葺きの様式を言い屋根瓦が一面では無く途中に於いて段差が付く、従って入母屋のところで横にラインが入って見える、上屋を切妻,下屋を寄棟で葺きこれを一体化した屋根型で寄棟の上に切妻屋根が乗った形、現存する重文指定建築に東大寺・念仏堂(鎌倉時代)と俊乗堂(無指定)・鈴鹿市の終南山悟真寺(鈴鹿市白子本町2-27)等がある。(近世の寺社建築・町家造に一部見られる) 語源としては武者兜の後ろの下がりから来ている。入母屋造の前時代様式と言える錣葺の屋根は玉虫厨子の他に中宮寺の天寿国曼荼羅繍帳残闕(鐘楼図)に描かれており、飛鳥時代に於ける建築様式の特徴とする上原和氏の説は慧眼である。(大和古寺幻想・講談社)


3、 金堂の釈迦三尊の製作者は623年・鞍作止利(止利仏師)造るの銘、四天王は山口(やまぐち)大口費(おおぐちのあたい)造る、の銘がある、また釈迦三尊像の脇侍は後部は制作されず板が埋め込まれ、他に類例の見当たらない構造である

法隆寺の堂宇は五重塔など、特に西院の建築物は高麗尺で採寸施工された、比率としては曲尺1:高麗尺117の関係にある、因みに曲尺1=303.030 mmであるが713年(銅6)以降の堂宇は曲尺を採用している。


4、 1949年の金堂壁画焼失を契機として1950年に文化財保護法が制定された。  


5、 陰陽道  呪術作法を行う宗教で太陽月星の運行や方位を調べて占いを行う。 陰陽道の発生はインドにおいてバラモンが習得した五明、即ち声明・工巧明・医方明・因明・内明の内、工巧明から宇宙空間に於ける神秘を信仰に取り入れられた、これが星宿・宿曜と呼ばれ陰陽道に入り込む。国家・社会や個人の吉凶禍福を占うもので、中国古代、夏・殷()王朝のころに発達し周王朝の時代に工巧明と調和し完成したとされる。
通称は易と呼ばれその代表的な典籍を周易と言う、その思想・理論の中心となるのは陰陽五行説で太陽月と木火土金水等を主な要素としてこれに十干十二支の説を結びつける、我々が気に留める「六曜」即ち大安・赤口・先勝・友引・先負・仏滅は陰陽道を嚆矢とする。
中国では道教の範疇に在るようだが、日本には602年頃百済から輸入されたとされ天武朝の頃には陰陽師は国家の官僚制度に組み込まれる、道教は佛教と同時期に受容されたが、間口が広すぎて表層に於いて受容されていない、しかし浸透力に於いて儒教等に劣るものではない。  


6、 伽藍配置に付いて四天王寺・法隆寺を百済様・飛鳥寺を高句麗様との分類方法もあるが、ごく限られた遺構を資料としての説明で説得力に欠ける、これは信仰の対象が仏舎利を納める塔から仏像崇拝に変化するに及んで伽藍の中心は塔と金堂の並立時代(四天王寺・法隆寺・他)を経て金堂中心になり後には講堂に移るという信仰対象の変化と見るべきではないか。


7、 南都七大寺 天皇の発願により造営された寺で全てが官給の為国の監督を受けた官寺で七堂伽藍(西大寺など例外も在る)を備えた大寺を言う、大安寺(大官大寺)・薬師寺元興寺(法興寺)・興福寺・法隆寺・東大寺西大寺・の事を言い興福寺を除いてほとんどが六宗兼学の道場であった。

南都七大寺の呼称は平安時代に京都すなわち北都からの呼称で奈良時代には大寺院は四大寺とされていた、四大寺とは大安寺・元興寺・興福寺・薬師寺を言い、後に東大寺を加え五大寺と言われた。 
八世紀後半に四天王寺・唐招提寺・東寺・西寺(現在は無い)嵩福寺・新薬師寺などを加えて十五大寺と言う呼び方もされた、七堂伽藍とは金堂・塔・講堂・経蔵・鐘楼・僧房・食堂を言うが七は悉くに通ずる、また禅宗・曹洞宗に於いては仏殿・法堂・山門・僧堂・庫院・浴室・東司を言う。 

 

8、 薬上菩薩・薬王菩薩  法隆寺のシンボルとも言える金堂の釈迦三尊の脇持を務めているが、薬師如来の眷属であり日光菩薩・月光菩薩と共に薬師八大菩薩として薬師本願経に存在する、また疆良耶舎(きょうらやしゃ)の訳した「薬王薬上菩薩経」の施薬の菩薩と記述されて敦煌壁画にも存在している様である。(仏像・NHKbooks)
兄弟の長者で良薬を用いて衆生を救済するという、徑軌には法隆寺の様な持物の記述は無い、ただし薬壺や薬草を持つ事もあり来迎25菩薩に名を連ねる事もある、法華経第二十三節「薬王菩薩本事品」に宿王華菩薩が釈尊に薬王菩薩に質問する形式で記述がある、一部を言えば、日月浄明徳如来に従う菩薩の数はガンジス河72本分の砂の数が存在し、如来と菩薩の寿命は四万二千劫年に及ぶと言う。
法華経第二十三に「薬王菩薩本事品」がある、薬王菩薩の過去劫の一切衆生喜見菩薩時代に法華経と日月浄明徳如来の為に焼身自殺したり己の肘を焼いたりの生贄的な供養をしている。 

この釈迦三尊像の源流と言える像は雲崗第十六窟の如来立像や龍門石窟賓陽中洞の本尊等著名な石窟寺院に見ることが出来る石窟寺院とは山は精霊の住む場所であり、そこに彫られた石窟はガルバ(子宮)と呼ばれ戒律を遵守し石窟瞑想の世界に於いて悟りを目指す格好の場所である、石窟寺院は人里から隔離されているが交通の要路近くに彫られており、水・寒暖に優しいところが選ばれている、代表的な石窟寺院にインドではアジャンター・エローラ・アフガンのバーミヤン・中国の敦煌・雲崗・龍門・韓国の石窟庵等を挙げる事ができる、他に薬上菩薩・薬王菩薩(1717年)を脇侍とする寺は興福寺中金堂(仮金堂)に在るが元来は西金堂の尊像であり中尊は江戸時代の作である。  


9、  聖徳太子創建七ヶ寺 法隆寺 ・法起寺(池後寺) ・中宮寺  ・橘寺  ・葛城寺 ・四天王寺  ・広隆寺(峰丘寺)を言う。
因みに日本仏教を先駆けた僧侶は法興寺(飛鳥寺)の道昭(627~700年)、妙楽寺(談山(たんざん)神社)の定慧(643~666年)と言われている、道昭は玄奘の弟子で行基の師である、また定慧は中臣鎌足の長子で藤原不比等の兄であり、粉飾が著しい聖徳太子の伝承と交錯しているとされる人物である。 


10、涅槃  五重塔の塔本四面具のうち北面に涅槃像がある、涅槃とは梵語でニルバーナ( nirvāa)と言い、通常生命の炎消す、即ち死を意味するが、仏教に於いては「煩悩の炎が消滅した状態」を言い修行者の究極目標、即ち覚りの完成を言う、配置として東方に維摩居士、文殊菩薩、南方に弥勒仏、北方に釈迦涅槃像、西方には八国王分舎利、即ち棺と舎利容器が中心に配置されているが、これは敦煌第参百弐十弐窟の踏襲と思惟される、釈迦の涅槃姿には十大弟子の内*舎利弗 *目連は釈尊より早く亡くなり*大迦葉は涅槃に遅れた為入っていない。


11、檀像 阿含経を基に最初に彫られた釈迦如来像が檀像(牛頭栴檀)と言う、法隆寺の九面観音・金剛峯寺の諸尊仏龕・仁和寺の薬師如来等がある。檀像 白檀(栴檀せんだん)紫檀・等の木材で彫られた像を檀像と呼ばれる、優填王が造像させた最初の釈迦如来像が檀像であるとされる、木目が微密で薫香を発し珍重された、インドや東南アジアに於いて産出される白檀で造像された檀像は5世紀後半中国に請来されるが中国に於いては白檀など香木は産出されず、清涼寺に請来された釈迦如来像の様に中国桜で代用された、さらに日本に於いてはカヤや檜材が使用され小像が多かった檀像は比較的大きく造像出来る様になる。
白檀はH10m、幹は60㎝程度に成長しその中心部の赤味部分のみが仏像などに使用される、 硬質で光沢に優れ薬効成分も含む、最高質の栴檀を牛頭(ごす)栴檀と言い牛頭山(インドのマラヤ山)産出の栴檀の下部(根に近い)が薫香が強く特に珍重される。

華厳経第四十二巻依れば牛頭栴檀は離垢山から生えると言い、その香を塗ると火の中でも身を焼く事は無いと言う(牛頭梅檀香 従離垢山生 若以塗身 火不能燒)。


122008年末の調査に於いて金堂の天井板材は668年伐採と判明した、若草伽藍と思しい堂宇の焼失は670年とされる為に両伽藍併存の可能性が指摘されているが伐採から製材までの乾燥期間は当時に於いては自然乾燥以外は無く、数年以上の年月を必要とされると考えられる。(2009315日NHKスペシャル)


13、井沢元彦氏の言う日本歴史学の三大欠陥とは史料至上主義・呪を含む宗教的側面の無視・権威主義を言う。


14、修多羅衆とは「宮坂宥勝著、日本仏教のあゆみ、大法輪閣」に依れば梵語sūtra、ストーラ(経)の音訳で経論を集合して宗派を形成する集団であるが、経量部を言い成実論や大般若経の研鑽集団説が有る、修多羅衆に関連する寺院には・大安寺・薬師寺・元興寺・興福寺・東大寺・法隆寺・四天王寺があり、其々「修多羅供」と言う法会が行われていた。(日本国語大辞典)。

注15、 百万塔 764年(天平宝字八年)恵美押勝の乱後に国家安寧を祈願して創められた、内部に陀羅尼が納められた木造の小塔で孝謙(称徳)女帝の発願である、陀羅尼は百万塔陀羅尼と言い・根本・自心印・相輪・六度の陀羅尼で摺本が大半で各寺院に配られた世であるが、現在は法隆寺にのみ残留している.。

注16、法隆寺にある世界最古の般若心経の梵語原典を書かれた材料は、貝多羅葉(pattra・パットラ・ターラ)パルミラヤシと言うアフリカ産、椰子科の広葉樹でアンコールワット等に自生している、因みにハワイの椰子はココヤシと言われる。

注17、日本書紀巻十七天智記には「夏四月癸卯(みずのとう)壬申 夜半之後 (さい) 法隆寺 一屋無餘 大雨雷震」 旧暦4月30日夜半に法隆寺に落雷があり一屋も残さず消失。 


18、いちじ一万円札に表された聖徳太子の肖像画は厩戸の皇子ではなく、則天武后に殺されたとされる懿徳太子(いとくたいし)()重潤)のものであり、聖徳太子とは無関係の様である、李重潤とは則天武后の孫にあたる人物で、70119歳の時に武后の怒りを受け刑死したが、706年に太子名を贈られた、話題をそらすが歴代天皇と言われる内で第四代懿徳天皇もコピーであろう、(*神武天皇 *綏靖(すいぜい)天皇 *安寧(あんねい)天皇 *懿徳天皇*孝昭(こうしょう)天皇)

        
   金堂釈迦三尊                                  西院伽藍全景   2020年4月 NHK ブラタモリより転写

法隆寺の国宝建築物   

  名       称 

  場    所 

適                       用 

  金   堂 

 西  院  

西院伽藍の中心で白鳳時代の作品 エンタシスの柱(金堂は裳階で隠されている)皿斗・雲形肘木(長い軒先を支える為)人字形割束等に特徴を持つ白鳳前期の特徴、金堂、入母屋造、二重裳階付き,塔初層裳階付き総高32,5              白鳳時代 

  五 重 塔 

 西  院 

  中   門 

 西  院 

  西 回 廊 

 西  院 

  鐘   楼 

 西  院 

桁行三間梁間二間、楼造、切妻造、本瓦葺、講堂や回廊とは独立、鐘楼は講堂とともに火災にあい藤原時代の作  

  経   蔵 

 西  院  

  大 講 堂 

 西  院  

創建時は回廊の外、990年京都普明寺より移転      平安時代 

  食   堂 

 西  院  

政所に属し細殿を含む、                               天平時代 

  南 大 門 

 西  院  

1028年創建1439年再建3間1戸 八脚門 

  西 円 堂 

 西  院  

八角堂、鎌倉時代台風で倒壊後に再建 入妻造     鎌倉時代 

  東   室 

 西  院  

僧坊物入れ等に使用 桁行十二間梁間四間 楼造 切妻造本瓦葺 

  網 封 蔵 

 西  院  

政所の一隅桁、行九間梁間三間高床、寄棟造本瓦葺   天平時代 

  聖 霊 院 

 西  院  

密教の寺院形式         鎌倉時代 

  三経院・西室 

 西  院  

太子の法華・勝鬘・維摩の三経を講義する所 桁行7間梁間4間 入母屋造・桁行12間梁間4間切妻造 本瓦葺 鎌倉時代 

  夢   殿 

 東  院  

八角堂、鎌倉時代に大改造、屋根の宝珠、風鐸に特徴 

  伝 法 堂 

 東  院  

東院の講堂、東院では創建当時の姿を残す               天平時代 

  鐘   楼 

 東  院  

桁行3間梁間2間 袴腰付き、入母屋造本瓦葺          鎌倉時代 

  東 回 廊 

  

桁行42間梁1間間          本瓦葺             飛鳥時代             

  東 大 門 

 東西院境  

八脚門 3間1戸 切妻3棟造 本瓦葺             天平時代 

法隆寺の文化財  (建築を除く) 表内は国宝 ●印重要文化財 古文書・書籍・典籍を除く      仏像  

名      称 

適                用 

時   代

 釈迦三尊像  (金堂)   

銅像鍍金 中尊86.4左尊90.7右尊92.4cm  止利仏師作 一光三尊像

  飛鳥時代

 薬師如来像  (金堂)   

銅像鍍金  63.0cm 中国南北朝時代の影響  止利仏師作

  飛鳥時代

 四天王立像  (金堂)    

木造彩色 133.3134.8cm         山口大口費作 

  飛鳥時代

 地蔵菩薩立像 (金堂)  

木造彩色 173.0cm  神仏分離で大神神社から移設 

  平安時代

 毘沙門天立像 (金堂)  

木造彩色 123.2cm 

  藤原時代

 吉祥天立像  (金堂)    

木造彩色 116.7cm 

  藤原時代

 薬師三尊像  (講堂)   

木造漆箔 中尊247.2 脇持172.1cm 

  藤原時代

 救世観音像  (夢殿) 

木造箔押 178.8cm  天衣の反りが強い 尺寸王身の太子の肖像とも (拝観日411-55日・1022-113日) 

  飛鳥時代

 行信僧都像  (夢殿)    

脱活乾漆造彩色 89.7cm   東院伽藍建立の立役者 

  天平時代

 道詮律師像   (夢殿)  

塑像彩色    89.7cm   東院伽藍復興の立役者 

  天平時代

 夢違観音像   

銅像鍍金 87.0cm 三面宝冠 

  白鳳時代

 百済観音像   

木造彩色 209.4cm  中国南北朝時代の影響を受けている  楠檜混合 

  飛鳥時代

 聖徳太子他 (聖霊院)  他四尊

聖徳太子、山背王、殖栗王、卒未呂王、恵慈法師 52,083,2cm太子の勝鬘経講義を表わした像 木造彩色3月22‐24日 

  藤原時代

  阿弥陀三尊像   

銅像鍍金 中尊33,.3cm脇侍27.,0cm  橘夫人念持仏 

  天平時代

  釈迦三尊   (上御堂) 

木造漆箔 中尊227.9cm 左尊155.7cm 右尊153.9cm (拝観日11月1‐3日)

  藤原時代

  薬師如来   (西円堂)  

脱活乾漆造 漆箔 246.3cm  峰の薬師

  天平時代

  九面観音像   

木造素地 37.6cm 白檀像  招来された檀像彫刻として金剛峯寺の諸尊仏 龕と共に代表作。 

  唐 時代

  玉虫厨子   

木造黒漆 玉虫翅装(しそう) 233.0cm 本生譚が画かれる 錣葺(注2、参照) 

  白鳳時代

  橘夫人厨子   

木造黒漆彩色 h233.3cm 宮殿h95.7 47.735.2cm 

  天平時代

  黒漆螺鈿卓   

木造h95,5 133.954.5cm 面5角形 魚子地相華門の金具 

  天平時代

 塔本四面具 (五重塔)  

 塑像 彩色 漆箔 17.198.0cm (東)維摩詰像 (南)弥勒浄土 (西)分舎利 (北)涅槃像  

 天平時代 

*飛鳥時代木造の仏像は樟で造像されているが、百済観音は本体が樟の一木造であり、両腕の肘から天衣、髷、水瓶等は檜材で構成されている。

*其の他の国宝  四騎獅子錦250,0134,5聖樹を中心に天馬に乗る四人 唐時代)・龍首水瓶・海磯鏡(かいききょう) (東博寄託)・灌頂幡(東博)等がある。 

重要文化財の抜粋  

金 堂  

阿弥陀如来坐像 銅像鍍金  三尊  64,6cm  鎌倉時代   康勝

●吉祥天立像 塑像 168,3cm 天平時代   

●天蓋 中央275,cm 東240,cm 西242,5cm  中央の天蓋には7世紀初頭頃伐採の木材混入  西天蓋も古材混入  東天蓋 鎌倉時代

大講堂     

●四天王立像 木造彩色 194,8204,0cm 藤原時代   (拝観困難)  

中門      

金剛力士立像 塑像(吽形一部木造)阿形378,0cm 吽形375,0cm 天平時代(但し頭部) 

上御堂     

●四天王立像 木造彩色玉眼 167,2173,5cm 南北朝時代   

西円堂    

十二神将立像 木造彩色玉眼 75,796,0cm 藤原時代他   

千手観音立像 木造彩色 173,6cm 藤原時代    

聖霊院       

如意輪観音坐像 木造漆箔 126,3cm 藤原時代  

j地蔵菩薩立像   木造素地  76,7cm  藤原時代

大宝蔵殿 

弥勒菩薩坐像 木心乾漆 漆箔 62,4cm 天平時代

●観音・勢至菩薩立像 木造漆箔 85,7cm 86,0cm 白鳳時代

如意輪観音坐像 木造 17,9cm 唐時代   他多数

観音菩薩立像 銅像鍍金 56,7cm 白鳳時代   

弥勒菩薩坐像 木心乾漆 漆箔 62,4cm 天平時代   

阿閦如来座像  木造漆箔 87,0cm 藤原時代    胎内の梵字では阿弥陀如来の可能性が大きい。

天鼓雷音(てんくらいおん)如来坐像 木造彩色 80,0cm 藤原時代     

食堂    

●薬師如来坐像  塑像 漆箔 60,6cm  天平時代

三経院   

●阿弥陀如来坐像 木造漆箔 79,9cm 藤原時代 

伝法堂

●阿弥陀三尊像 木心乾漆像 漆箔 中尊87.8㎝ 脇侍127.3㎝ 118.8㎝  天平時代 東 

●阿弥陀三尊像 脱乾漆像 漆箔  中尊120.2㎝ 脇侍157.3㎝ 160.0㎝  天平時代 中 

三尊像 脱乾漆像 漆箔  中尊119.0㎝ 脇侍159.0
 157.1㎝ 天平時代 西 

●阿弥陀如来坐像 木造漆箔 88.4cm  藤原時代 

●弥勒如来坐像  木造 彩色 71.5㎝ 藤原時代  

●釈迦如来坐像  木造 彩色 71.8㎝ 藤原時代  

●四天王立像   木造 彩色 91.9㎝~106.4㎝ 藤原時代   

地蔵院   

●地蔵菩薩半跏像 木造彩色玉眼 51,5cm 鎌倉時代   

護摩堂(毎月28日) 

不動明王・二童子立像 木造彩色 不動93,0cm 二童子44,0cm 藤原時代-南北朝時代    

●上御堂 桁行7間  梁間4間 入母屋造 本瓦葺 鎌倉時代   

●地蔵堂 桁行3間 梁間3間 入母屋造 本瓦葺 室町時代   

●大湯屋 梁間4間 桁行6間 切妻造 室町時代   

●律学院・本堂 桁行5間 梁間7間 入母屋造 本瓦葺 江戸時代  

●東院・舎利殿 梁間7間 桁行3間 切妻造 本瓦葺 鎌倉時代   

●孔雀明王像 絹本著色 掛幅装 118,582,0cm 鎌倉時代   

●五重塔旧壁画 土壁著色 菩薩像6面 天平時代   

●五尊像 絹本著色 掛幅装105,086,5cm 鎌倉時代   

●金堂外陣壁画(浄土図)土壁著色 天平時代       

●十六羅漢像 絹本著色 八曲屏風 各56,438,8cm 鎌倉時代   

●聖皇曼荼羅図 1幅 絹本著色 掛幅装 163,5117,0cm 鎌倉時代 

●聖徳太子像 絹本著色 額装 149,059,0cm   

●扇面法華経冊子断簡(観普賢経)1幅 紙本著色 掛幅装 23,3:48.820,9cm 平安時代    

●毘沙門天像 絹本著色 額装 262,7128,3cm 鎌倉時代 等多数の重要文化財がある。 
 
 

11日―3日開扉(上御堂) 釈迦三尊・四天王 3月22日―24日開扉 聖霊院   拝観否・西円堂・三経堂・地蔵院他 
夢殿救世観音開示 411日~518日  1022日~1122日 

 本願寺(西) 飛雲閣 

最終加筆日200498日 12月7日  2005513日  2006410日注8、一部加筆  200718日西村談話  2009316日 20101111日伝法印重文 2011312日 413日修多羅衆 2014年3月13日格義佛教2016年8月22日薬王菩薩 11月28日 2017年8月16日 11月9日 2018年2月24日 2019年1月23日 5月28日 2023年9月6日加筆

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