藤原不比等の邸宅の隅に建立された寺で12世紀頃から平城京東北の隅にある事から、角寺、隅院、隅寺等とも呼ばれ法華寺に隣接している、また続日本紀にも記述されている寺院で名刹の名残を持つ。
定かとは言えないが12世紀序盤に二度にわたり奈良を訪れた「七大寺日記」「七大寺巡礼私記」の著者で、平安時代後期の学者・大江
当初は玄ムの関連もあり藤原一門の支配する興福寺の末寺であったが次第に衰えた、鎌倉時代に貞慶や泉涌寺の定瞬が復興に尽力した、後に遁世僧としての妨害工作を避けて西大寺に移動した叡尊が復興を果たしたが、南都に於ける戒律の復興運動の基点となった古刹である。
海龍王寺は平城遷都以前から十一面観音・毘沙門天を本尊として、三金堂・講堂を完備した大伽藍を持つ寺が存在したらしく瓦などの出土品があり、7世紀前半の品や天平時代の品が混在している。
当寺には当時の技法を知る手掛かりとなる国宝・五重小塔や、後補があるが金泥の美しい十一面観音像など優れた文化財は多い、また奈良時代に経巻にされた般若心経は隅寺心経として著名である、因みに創建時に中金堂は光明皇后自彫の十一面観音像であっと言う伝承があるが定かではない。
海龍王寺の五重塔は元興寺極楽坊の塔(5.5m)と同様に屋内に置かれた五重塔として国宝指定の塔内でも最小(4.5m)の塔である、これは屋外に塔を建立する為の設計図を描かない時代の設計計画である、1859年焼失した元興寺の塔は72.7mであり、その計算を基準とすれば海龍王寺の塔は60m近い塔高であったと推察できる。
奈良県には著名な十一面観音を安置する・海龍王寺 ・西大寺 ・法華寺 ・聖林寺 ・大安寺 ・法輪寺 ・長谷寺 ・室生寺の八寺が参加した大和路 秀麗 八十八面観音巡礼と題したホームページが作られている。
真言律宗 所在地 奈良市法華寺北町897 (真言律宗は真言宗に分類しております) 0742−33−5765
主な文化財
○五重小塔 3間 2手先 4・5m 本瓦葺 天平時代 二重虹梁蟇股 (内部造作は省略)
●金堂 桁行3間・梁間2間 切妻造 鎌倉時代
●経蔵 桁行3間・梁間2間 寄棟造 本瓦葺 鎌倉時代
●南門 四脚門 切妻造 本瓦葺 鎌倉時代
●十一面観音立像木造彩色 金泥 玉眼 92,7cm 室町時代
●文殊菩薩立像 木造彩色 116,6cm 鎌倉時代 伝運慶作
●毘沙門天像 絹本著色 掛幅装 199,1:79,4cm 鎌倉時代
●隅寺心経
●仏涅槃図
●舎利塔
●寺門勅願 聖武天皇直筆との伝承を持ち明治初年まで揚げられていた
開館休日 8月12日―16日・12月26日―1月6日
注1、 叡尊(1201〜1290)謚名を興正菩薩と言い西大寺復興の立役者で真言律宗を起こす。
興福寺の学侶の子で17歳に出家し唐招提寺で律宗を高野山・醍醐寺で密教を学ぶ、西大寺入りした後東大寺に於いて自誓受戒を受ける、西大寺を拠点として律の教学を広める、後嵯峨上皇・亀山上皇・北条時頼・実時の帰依を受ける、弘安の役には朝廷の以来を受け岩清水八幡宮に於いて敵国降伏の祈願を行い神風が吹いたと言う、その他活動としては弟子にあたる忍性(奈良に悲田院を起こし貧者、病人を救済、鎌倉・極楽寺を創建)を伴い土木工事・社会事業・貧者救済にあたる。
注2、玄ム(691〜746)日本に於ける法相六祖の一人で法相宗の学問僧、717年入唐し成唯識論の碩学・智周に法相教学を学ぶ、735年帰国し請来した一切経等の経典を光明皇后に提出し、光明子の写経発願に尽力する、皇后に海龍王寺を賜り737年僧正となる、宮中に於いて聖武天皇の母(藤原宮子)病平癒の祈願をする等、橘諸兄政権の下で同時に留学した吉備真備と共に権勢を振るうが藤原広嗣の反乱や聖武天皇の後継問題などに関連し、また光明皇后の四兄弟(藤原武智麻呂・房前・宇摩合・麻呂)の天然痘による死亡時に祈願に成功せず、権力をつけた藤原仲麻呂に玄肪は観世音寺建立を名目に九州に事実上左遷され、観世音寺に於いて746年6月没する。(成唯識論の概説は興福寺の注8・南都六宗の法相宗参照)
唐に於いて玄宗皇帝から信認され紫の袈裟着用を許されたと言う。