金峯山寺(きんぷせんじ) 蔵王堂

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密教系の寺であるが修験道のメッカであり、神仏習合の聖地でもある、修験道金峯派の本山として繁栄した所で「金の御嶽(かねのみたけ)(注9)と呼ばれた時代がある、当初は吉野近在の各寺の総称をさして言われたが現在では蔵王堂の関連を言われる、修験道とは日本古来から伝わる山岳信仰に土着神道・仏教道教(陰陽道も道教の範疇)を合成して成立した民俗信仰である、この伝統信仰を守護する中核が蔵王権現の本地仏を祀る金峯山寺や三仏寺である、因みに修験道は道教の日本版とか密教と道教の和様化とか言われているが、佛教将来以前からの、こん跡を持っている、宮家準(修験道・法蔵館)氏に依れば御嶽とは岩石が累々とした高山を言い、嶽に美称の御を付けた事を言う、金の御嶽を初めとして武州御嶽・木曽御嶽などに蔵王権現と共に勧請された。
役小角
の開基説、即ち蔵王権現を感得しその姿を桜木に彫ったと言う、桜御神木の感得説は伝承としてあるが定かではない。
一時期東大寺興福寺一乗院等の支配を受けていた、修験道中興の祖で真言宗小野流の重鎮で醍醐寺の開祖でもある聖宝が蔵王堂・観音堂の建立し隆盛を見る、因みに感得とは「祈りのパワー及び霊力で仏を表す」事であろう。 
この地を弥勒浄土に見立てられたのか平安時代になると白川上皇(しらかわじょうこう)宇多天皇(うだてんのう)・「この世をばわが世とぞ思ふ望月のかけたることもなしと思へば」と詠んだ藤原道長などが参詣に訪れ末法時代の訪れを危惧して血書した法華経の埋経が行われた。
吉野に於ける僧兵の勢力は強く、信憑性は低いが北条時輔も二月騒動で吉野に逃れた伝承がある、南北朝時代には後醍醐天皇
(南朝)側の陣営に入り、足利勢から蔵王堂の焼失など多大な被害を受けるが後に豊臣秀吉の援助を受けて今日の姿がある。
徳川時代になると秀吉恩顧の寺として圧迫されたが、日光・金輪王寺支配下
(現在の輪王寺)の寺として命脈を保つ事が出来た、しかし廃仏毀釈に加え修験道禁止令により廃寺の憂き目に遭う、吉野山明神即ち金峯・勝手・水分(みくまり)と吉水神社などが分離する、1886天台宗の末寺として復興さらに1948年修験本宗の寺となるが、山は天台・真言などの修験道寺院で構成されている。

廃仏毀釈は金峯山寺に於ける最大の危機であった、1872(明治5年)の修験道廃止令により廃寺となる、1888年天台宗の末寺として復旧し1948(昭和23年)になり金峯山修験道に戻り現在の姿になる、因みに廃仏毀釈は国家神道派の宗教クーデターとも言える事態であり、佛教は無論の事、修験道や旧来の神道にダメージを与えた。
当寺は修験道の本丸とも言える金峯山修験宗の本山であり釈迦如来等と蔵王権現と同尊とする「三体一仏(三密一仏)(注8思想がある為に、本尊は蔵王権現、三尊であり、過去、現在、未来の三世救済が信じられている、信者は「三世一体金剛蔵王大権現」と読誦する、その本地仏の中尊は釈迦如来・左尊は千手観音・右尊は弥勒菩薩の権現として小角の感得、または垂迹尊として影向(ようごう)(神仏として現れる)、言葉を変えれば表象(ひょうしょう)Representationされている、これらの尊像は豊臣家お抱えの仏師集団で、主に方広寺大仏制作を担当した下御門(しもみかど)仏師と呼ばれた一人で南都大仏師宗印の作であり秀長の関与が覗える、他に「宗印」の作品は文殊院の最勝老人がある、脱線するが権現は仮に現れた姿を言い、「権」は仮を意味する、要するに思想・心が三尊に分離して表現されている、権の一例をあげれば徳一最澄の何れが「真論」vs仮論すなわち「権」を競う「三一権実(ごんじつ)論争」が著名である、因みに「ごん」は呉音である、平安初期には末法時代が畏怖されて弥勒如来の再来までの保存目的で埋経が創められ、藤原道長を初めとする貴族たちが訪れている、垂迹尊に弥勒菩薩が置かれている理由は埋経に関係が有ると言える、影向とは神仏が仮の姿で来臨した状態を言う。
三密一仏であるが空海聖宝などの影響から影響を受けた修験道に於いては過去仏は毘婆尸(ぶばし)仏から迦葉(かしょう)仏までの過去六仏ではなく本来は現在仏である釈迦如来が当てられる、本来は総てが一仏で釈迦如来であるが、現在仏として現世利益すなわち衆生の要望により変化して現れる観音菩薩が担当して、未来仏は弥勒菩薩となる。
新しく建立された本地堂には新しい三尊
(本地仏)が安置されている。
秀吉の建てた本堂
(蔵王堂)長谷寺本堂と共に東大寺大仏殿に次ぐ規模の木造建造物であるが,桃山時代になると畿内には巨木が不足し普段建築にあまり使用しない木材が素朴な加工状態で使用されている。
蔵王堂では毎日護摩供の修法が行われており、特に28日には法燈会と言い管領による護摩供養が行われている、また毎年の節分には各家庭から追い出された鬼が役行者を慕って修験道の聖地・金峯山寺に集まるという伝承がある。
修験道(
7と言えば密教の行者グループと混淆していた、その中には忍びを生業とする人々が居り精神統一、などに結んだ印形が智拳印と類似している。
蔵王堂権現の
本地仏は *中尊釈迦如来、*右尊弥勒菩薩、*左尊千手観音菩薩である。  

「よしの山八重立つみねの白雲にかさねてみゆる花さくらかな」藤原清家
脱線するが桜の語源に付いて、動詞の「咲く」に接尾語の「ら」が付き名詞となる説と「サ」+「クラ」からなり、サと言う稲の精霊が宿る蔵との説などがある。

20047月に熊野古道が世界に於いて二番目即ち、サンチャゴ巡礼コースに次いで世界文化遺産の指定を受け熊野三山青岸渡寺高野山・吉野山とを結ぶ、「霊場トライアングル・熊野古道」とも言える古寺散策があらためて広く知られるようになった。
吉野山は桜の名所である、因みに吉野山の桜は花が散った後で葉がでる「ソメイヨシノ」ではなく、葉が出た後に花が咲く山桜であると田中利典氏
(金峯山寺執事長)は言う、ソメイヨシノ(染井吉野)は江戸時代後期の品種改良された桜で吉野の山桜とは品種が異なる。
当寺の本尊・蔵王権現の作者は宗印と言い安倍文殊院文殊菩薩に従う最勝老人の作者は同一人物である。


宗派 金峯山修験宗本山        所在地   奈良県吉野郡吉野町大字吉野山2498    п@0746-32-8371          


金峯山寺の文化財     表内は国宝    ●印重要文化財  

名          称

適                 用

時   代

  本堂(蔵王堂) 

 桁行5間梁間6間 裳階 入母屋造桧皮葺 27,5  

 室町時代    

  二王門 

 3間 二重門 入母屋造 本瓦葺き 

 室町時代 

  大和国金峯山経塚出土品

 金銀鍍双鳥宝相華文経箱一合 

 平安時代 

  金銅藤原道長経筒 

 経筒二合・紺紙法華経・観普賢経残闕 

 平安時代 

●蔵王権現立像(蔵王堂)三尊 木造彩色 中尊 728,0cm 左脇侍 615,0cm右脇侍 592.5cm桃山時代) (拝観否) 宗貞、宗印等作秘仏では日本最大 
●蔵王権現立像(安禅寺旧本尊)木造玉眼 437,0cm 鎌倉時代 
●伝・普成童子・普建童子立像 木造彩色玉眼 普成108,cm普建111,5cm 鎌倉時代 

1熊野三山 
紀伊山地の霊場と参詣道の名称で世界遺産に指定された本丸であり熊野三所権現と呼ばれることもあり古くから熊野へ行くことによって死者の霊に対面できると言う信仰が出来ていた、日本書紀・神代編に拠れば有馬村は「いざなみ尊」が葬られた場所とされたと言う。
八世紀後半には山岳修験者が集まり「熊野坐神社」「熊野速玉神社」が出来る、十一世紀には「熊野那智大社」が加わり修験者のみでなく白河・後白河・後鳥羽上皇などは幾度も参詣され貴族から熊野比丘尼等に依る伝播もあり庶民に至るまで幅広い信仰の聖地となった。 
また近郊には補陀洛山寺が置かれ僧侶が船で観音浄土を目指す補陀洛渡海が行われた。
三山の垂迹佛として佛教との関連を説明している。 

(1) 熊野本宮大社(熊野坐神社・いますじんしゃ)阿弥陀如来  (2)熊野速玉神社(新宮)薬師如来  (3)熊野那智大社 千手観音

2、 二月騒動  北条時輔(ときすけ)
1272
2月に発生した北条一門の内紛で北条時宗の異母兄である時輔は六波羅探題の南方職に居たが、北条時宗が得宗家を継ぎ、執権となって幕府の権力の中核を占めた事に対して謀反を計画する。これを知った時宗は六波羅探題北方の北条義宗に命令し時輔を討った。この折時輔が吉野に逃れた伝承はあるが信憑性は乏しい。

3聖宝  832909)理源大師・修験道に於ける中興の祖、天智天皇の血を引き恒蔭王と呼ばれた、空海の実弟の真雅を師として16歳で東大寺に入る、唯識・三論・華厳・真言を学び山岳修験の道に入り笠取山に如意輪観音・准胝観音を奉り真言道場を作り醍醐寺の基礎を確立する。
東寺や東大寺の要職も勤め皇室の信頼も厚く1707年理源大師の称号を東山帝より授かる。
聖宝を派祖とする当山派・修験道の教団が存在し
金峰山・大峰山・葛城山を拠点として活動したが変遷を経て明治の廃仏毀釈のときに姿を消す。
醍醐派系の
奈良県吉野郡黒滝村にある真言宗鳳閣寺派の鳳閣寺には聖宝が刻んだとされる如意輪観音がある。

4 、この他吉野には吉野水分神社(みくまり)に玉依姫命坐像 木造彩色 89,5cm 平安時代  

大日寺   五智如来坐像 木造漆箔 52,497,7cm 藤原時代 

如意林寺 ●蔵王権現立像 木造彩色 桃山時代(後醍醐天皇の念持佛) 

桜本坊   釈迦如来坐像 銅像鍍金 26,4cm 白鳳時代 

南朝妙法殿 ●釈迦如来坐像 木造 83,2cm 平安時代 元 実城寺の本尊  

地蔵菩薩坐像 木造 83,7cm 藤原時代 

●廻船入港図額 板絵著色 絵馬 288,0455,0cm江戸時代 

●燈籠 銅鋳造 H370,2cm室町時代 1471年の銘                等多くの文化財がる。

5、虚空蔵菩薩  毘沙門天 他 非公開    

6、 蔵王権現   金剛蔵王・蔵王菩薩とも言はれ、役の小角が金峰山に於いて衆生救済の為感得したと伝える魔障降伏の菩醍とされる。
姿形は1顔3目2臂・青黒色で忿怒形をとり左手は剣印を示し右手に三鈷杵を持つ。
伝承では役行者が吉野山に、こもった時に現れたとされるが、山岳信仰の中に於いて自然発生的な権現で垂迹尊の代表的な存在を示し、修験道に於ける象徴的存在で弥勒菩薩の化身ともされているが、金峯山寺・三尊の本地佛は釈迦如来・千手観音・弥勒菩薩とされご利益としては願事成就・怨敵排除などとされる,ちなみに権現の「権」は仮の姿即ち垂迹尊を意味する。

7、修験道とは日本の土着神道に仏教と陰陽道・道教などが混在した宗派である、修験の意味は験(験力)≒霊力を取得する超自然的な力を言う。

8、 三密一仏(三体一仏) 修験道に於いては三尊は釈尊の現れである、釈尊を過去仏・観音菩薩を現在仏・弥勒菩薩を未来仏としている、三尊が溶け合い一尊となり蔵王権現として著わされるが総てが釈迦如来であるとされる。

注9、御嶽とは岩石が累々とした山を言い、各地に「国御嶽」が設置された、木曽・武州などが著名であるが吉野山は金御嶽と呼ばれた。

注10、蔵王権現には変化身がり”脳天大神”と言い、金峯山寺の塔頭である龍王院に於かれ”吉野の脳天さん”と親しまれている。


日本の主な蔵王権現
総持寺   鋳銅彫像(銅鏡) 毛彫鏡像 (東京都・西新井大師)
●金峯山寺 三尊(本尊) 木造彩色 728,0cm615,5cm592,5cm 桃山時代  
●金峯山寺        銅像 40,5cm56,6cmなど山頂出土品    
●奈良国立博物館    銅像 30,3cm 
●広隆寺   立像  彩色 96,4cm藤原時代
●三佛寺 七尊   木造彩色 84,0p〜140,7cm藤原時代


最終加筆日2004719日 1119日  2005115日  2007623日 2010311日埋経関連 201173日影向他 2014828日注9 201755日 11月22日 2020年10月5日加筆   


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