興福寺      

         説明: C:\Users\Owner\katada202\kyoto\button1.gif               仏像案内     寺院案内    世界文化遺産     興福寺公式サイト     奈良ネット     

 
興福寺は奈良時代には四大寺、後には南都七大寺の一寺であった、四大寺とは大安寺・元興寺・薬師寺・興福寺を言い、南都七大寺は薬師寺・西大寺・法隆寺が加わる。
藤原一族の菩提寺である、伝承では「こうくじ」と呼ばれたと言う、鎌足を祖としその子不比等を頂点として長く歴代天皇の外戚として朝廷をも支配した日本最右翼の権門寺院
(注13として比類ない権勢を謳歌した一族の象徴であるが、政敵を抹殺した事に因って発生したと信じられた怨霊に対する懺悔鎮魂の寺とも言える。(経典の項・金光明経参照)
創建は鎌足の妻・鏡女王による山階寺(京都市山科)を嚆矢として遷都と共に明日香へ移り厩坂寺となり、さらに平城遷都で現在地に於いて興福寺となる、但し興福寺を名乗る様になっても山階寺を呼称された様で、摂関家(注8の力を背景にした強引な意見を「山階道理」等との語彙が言われていた様である。
寺領2万石を遥かに超え広大な荘園を持ち数百年に亘っての隆盛の極致を極め最盛期には中金堂を東西金堂が囲み壮大な伽藍を有し、合計175棟に及ぶ堂塔を備え169(現在でも仏像の17%は興福寺)の像が安置されていたと言う、法隆寺薬師寺西大寺大安寺など奈良の大寺をことごとく支配下に於いていた、寺領2万石以上とは東大寺の寺領が千五百石であった事と比較すれば理解できよう、全盛を誇った時代には春日大社、興福寺は神仏習合しており同一組織にあり近辺には塔が林立していた、即ち現在の二塔に興福寺・四恩院の塔十三重塔、明和4年(1767)焼失)や春日大社の東西両塔が並び立ち、更に大安寺・元興寺・東大寺には両塔が建立されていた、塔の近くには七堂伽藍の(いらか)が並立していた、塔や甍の林立は付近を席捲していた事であろう、現代人が奈良時代末にタイムスリップすれば西新宿の超高層ビル群を遥かに凌ぐ景観であったと想像できる、因みに春日大社では西塔は1116年、東塔は1140年の建立であるが平重衡(しげひら)による焼き討ちに遭い、15世紀に落雷で消滅した処もあり大安寺・元興寺・東大寺を含めて以後再建されていない。 
興福寺の興りは鎌足の私邸である宇治の山城に起こした山階寺を起源としているが天武天皇の飛鳥遷都に伴い武市の厩坂に移転した事から厩坂寺と呼ばれていた、710年平城京遷都の折り不比等により現在地に移転され興福寺と改名された。
平安京への遷都で衰退する寺の多い中で興福寺は隆盛を極めた、一族の象徴でもある伽藍群は1017年落雷により五重塔・東金堂を失い、1180年源平争乱に於いて平家の敵は武家に留まらず南都の興福寺、東大寺、の他延暦寺や三井寺等々の寺院をも敵とした、
清盛の嫡子平重衡の南都焼き討ちにあい東大寺などと共に壊塵に帰したが一族の権勢は衰えを見せず素早く強引な復興を遂げる、東金堂に安置する為に当時飛鳥の浄土寺と呼ばれた山田寺からの強奪がある、この薬師如来像も室町時代に焼失し頭部のみ残している、この像が国宝館の佛頭である、しかしさすがの興福寺も寺の象徴ともいえる中金堂の復旧は凡そ300年を要して2018年まで叶わなかった。                   
鎌倉幕府も大和の国に守護職を送る事が出来ず興福寺に委ねざるを得なかった、あるいは源頼朝は父義朝の時代から平家討伐に於いて興福寺と共闘しており、鎌倉幕府と大和に社寺王国を構築していた藤原一門との間に於いて朝廷工作等に関する協定でも成立していたのかも知れない。
大和の覇権を持つ興福寺には一族の子弟が多数入り住坊は院家とまで言われた、その中でも一乗院(近衛家)大乗院(九条家)は門跡と称し興福寺の実権は二つの門跡が握っていた、しかしその中より玄奘三蔵に学び法相宗の根幹教義である唯識論を請来した道昭や、神叡・玄昉(注11・善珠・行賀・玄賓・常騰・義淵・賢憬・修円・徳一等の逸材も多く輩出した。
私寺すなわち藤原家の菩提寺である興福寺の摂関体制は強固であり「山階道理」(注14と言われた、南都三会と言われる・大極殿の御斎会 ・薬師寺の最勝会 ・興福寺の維摩会が挙げられている(東大寺の修正会、修二会などは加えられていない)。  
今この寺に残る文化財は天平時代の作品として十大弟子像・八部衆平安時代薬師如来像・四天王像・十二神将像など傑作を残すが多くは鎌倉時代の作品であり豪快にして絢爛なる鎌倉文化興隆に多大な貢献をした事になる。
隆盛を極めた興福寺も1717年の大火で東金堂・五重塔・北円堂・三重塔等を残して消滅する、さらに戦国時代に入り多くの寺領・荘園多くを失い更に五摂家、特に一乗院と大乗院の覇権争いは南北朝の争乱に於いて一乗院が後醍醐天皇を支配下にある吉野に保護し、大乗院は武家側を支持する、この争いは壬申の乱まで続く事により互いに傷つけあい衰退に向かう。
中金堂は江戸時代以来からの仮堂であったが2018年再建が適い、重文の釈迦三尊 (1202年 脇侍 薬王。薬上菩薩)、南円堂から移された国宝の四天王(持国天 多聞天増長天 広目天)、大黒天(重文)、旧中金堂から罹災を免れた重文の吉祥天が安置されている。
仮堂から復旧された中金堂の法相柱には歴代祖師の肖像が復旧した、法相柱とは中金堂の柱に描かれた「礼拝の対象」である、祖師を描くことにより伝統と教義の系譜を、絵画とされた。 

時代は明治に入り上地令で寺地を奪われ、廃仏毀釈が興り瓦解の危機に直面する、興福寺の僧は春日大社の神官に変身して無住の寺となり唐招提寺・西大寺が無住寺を守護したが1881年再興される、巷間知られている事例に三重塔、五重塔が五両とか25円で売りに出され、買い取り主は金属のみの回収を目指して焼却、解体寸前まで衰退した、食堂を奈良県庁に境内が奈良公園等に売却し、更に僧侶が仏像を風呂の撒きした等の実話かアネクドート(逸話、秘話・anecdoteが知られている。(廃仏毀釈、佐伯恵達、鉱脈社など)
興福寺八角堂すなわち北円堂に安置される諸像は慶派仏師達のショーウインドウとも言え、統括する運慶が総指揮を果たした弥勒佛・無著・世親菩薩立像は日本於ける仏像中最高峰の傑作である、運慶に従った仏師は弥勒仏には高弟の源慶・静慶が担当し、法苑林菩薩には運覚が四天王には息子の湛慶、府康、康弁、康勝が担当し無著は運助(六男)、世親は運賀(五男)が担当したと言う。
また国宝館には日本人に一番親しまれている阿修羅像があり、他の八部衆像・十大弟子像と共に表情が素晴らしく、釈迦の説法を聞いた瞬間の感動が見事に表現された傑作が揃う。
現在の興福寺は光明子の発願で「東院仏殿院」と呼ばれた
東金堂と五重塔が象徴的と言える、天平初期から十大弟子(注3・法相六祖像を始め鎌倉時代に懸けての国宝の宝庫であり凡そ百尊にも及ぶ。 
西国薬師
を巡礼する霊場に薬師如来を本尊とする49寺が参加しており、興福寺・東金堂は4番札所となっている。                   
興福寺は創建1300年を迎える2010年の完成を目指して最盛期の伽藍復旧の整備が行なわれている、ここでも滅び行く古都・廃都の道の哀歌が消えてゆく。

法相宗の宗名は()(じん)(みつ)(きょう)Sadhi-nirmocanasūtraの「一切法相品」から採用された。



法相宗 唯識)大本山       所在地  奈良市登大路町48      TEL742-22-7755  

伽藍配置
  

南円堂 
境内の南西に建立された八角形の堂宇で正面(東面)の庇(向拝形)が特徴的である、南円堂は空海が藤原北家(注8と親密で有り、空海の勧めにより建立されたとされる堂宇で、藤原一門の寺であり冬嗣(ふゆつぐ)の北家が一門の覇権を握る足掛かりと為った堂宇でもある、また空海も北家との親交を足場に南都仏教界に影響力を行使した。
一門の寺であるが唯一庶民にも信仰された堂宇であり不空羂索観音を本尊としている、観音信仰の興隆から西国三十三所第九番札所として現在に於いても賑わいを見せている。
813
年後に覇権を独占する北家の棟梁・藤原冬嗣が父である 内麻呂(うちまろ)のために建造したとされ、特に九条兼実の南円堂への思いは篤かった。
国宝・不空羂索観音を本尊とし、同じく鎌倉時代に造像された法相六祖像(国宝)四天王(国宝)が安置されていた。
興福寺は藤原摂関家の中でも北家の力が強く、祖である内麻呂・冬嗣の関連した南円堂は興福寺の中でも摂関家にとっては特別な存在であったとされる。
本尊不空羂索観音が着ている鹿皮は一門の氏神である春日神社との関連もあり栄えた。
創建は813年であるが幾度も再建が為された、現在の南円堂は1797年の作である。
建築手法は古様で様式は北円堂を素にされたとされる。
   10月17日 開扉  
*興福寺に地蔵菩薩の秘仏がある、南円堂北横の庵すなわち龍華樹院地蔵堂であるが、十一面観音と不空羂索観音が厨子に安置されている為に一言観音堂と呼ばれている。


興福寺の文化財(建築・工芸品)表内は国宝  ●印重要文化財 古文書・書籍・典籍を除く

名       称

 区 分 

仕                                                       様

       

 建築

 塔高50,10m 東寺に継ぐ塔高 純和様       室町時代

       

 建築

  塔高19m                         鎌倉時代

     

 建築

四注造の屋根 創建時の手法を残す 桁行7間 梁間四間  寄棟造 本瓦葺き   室町時代  

     

 建築

  八角円堂  三重塔と共に最古の建築                      鎌倉時代  不比等の供養堂

  華原磬(かげんけい)

 工芸

  西金堂で懺悔の法を鳴した楽器H93,3㎝金鼓径24,2cm 唐・鎌倉時代 

     

 工芸

  銅鋳造鍍金 橘逸勢筆の銘文 H236,0cm                   天平時代

  梵    鐘

 工芸

  銅鋳造  149,190.3cm                            天平時代        

  鎮壇具

  工芸

   脚杯 文碗 銀碗                      天平時代

  五重塔内には釈迦・薬師・阿弥陀・弥勒如来が三尊形式で安置されている。

興福寺の文化財(仏像・彫刻) 表内は国宝  古文書・書籍・典籍を除く 日付は拝観可能日

     名        称

  場  所

               仕                     様

  時  代

  弥勒佛坐像

  北円堂

  運慶 木造漆箔 141,5cm  428日~510日 

  鎌倉時代

  無著・世親菩薩立像(注12

  北円堂

 木造彩色(桂材)玉眼 無著193・世親190,9cm 1027日~114

  鎌倉時代

  十大弟子立像 六躯

 国宝舘

  脱活乾漆彩色 146,0-154,8cm

  天平時代

  八部衆立像  七躯

 国宝舘

  脱活乾漆 149,1-160,3cm   

  天平時代

  阿修羅  八部衆の一躯

   国宝舘

  脱活乾漆  1902年二臂の肘より先復元    

 天平時代

  金剛力士立像 二躯

 国宝舘

  木造彩色 玉眼 阿形154 吽形153,7cm

  鎌倉時代

  法相六祖坐像 六躯

 国宝舘

  康慶作 木造彩色 玉眼 73,3?84,8cm 5参照 1017日開扉

  鎌倉時代

  千手観音立像

 国宝舘

  木造漆箔 玉眼 520,5 cm

  鎌倉時代

  佛頭(旧山田寺)

 国宝舘

  銅像鍍金 98,3 cm

  白鳳時代

  天燈鬼・龍燈鬼立像

 国宝舘

  木造彩色 玉眼 天燈鬼77,9龍燈鬼77,3cm

  鎌倉時代

  板彫十二神将立像

 国宝舘

  木造彩色87,9?100,3 cm3 cmの桧板に浮き彫り

  藤原時代

  十二神将立像 十二躯 

 東金堂

  木造彩色 113--126,4cm

  鎌倉時代

  維摩居士坐像

 東金堂

  定慶作 木造彩色 玉眼 88,6cm

  鎌倉時代

  文殊菩薩坐像

 東金堂

  木造彩色 玉眼 93,9cm

  鎌倉時代

  四天王立像  四躯

 東金堂

  木造彩色 持国天162,5・増長天161,0・広目天164,0・多門天153,0

  平安時代

  四天王立像  四躯

  北円堂

  木心乾漆 彩色 134,5139,1cm

  平安時代

  四天王立像  四躯

   南円堂

  康慶作 木造彩色 197,2206,6cm    1017日開扉

  鎌倉時代

  不空羂索観音坐像

  南円堂

  康慶作木造漆箔 玉眼341,5cm               1017日開扉

  鎌倉時代


諸堂の本尊 ○印国宝  ●印重文  

 堂    宇       

  本 尊 名      

         脇  侍  他                                                         

中金堂(仮) 

釈迦如来

薬上菩薩 、薬王菩薩

東金堂

薬師三尊

文殊菩薩  維摩居士十二神将  四天王 

北円堂

弥勒仏

無著、 世親、 法苑林菩薩、 大妙相菩薩 

南円堂 

不空羂索観音

    


1、法相宗  唯識宗・慈恩宗などとも言い、四世紀の前半インド哲学が生み出した教義で、玄奘三蔵がインドのナ-ランダ寺で戒賢に学び漢訳して開いた宗派で成唯識論に唯識三十頌・解深密経・解深密経を論拠としており、玄奘三蔵が開き窺基が完成させた宗派ともいえる、中国の十三宗の一宗で中観派(龍樹の全ては空の思想)に影響を受けながら、「識」即ち「心」以外は何物も存在しないと説く非常に難解な哲学である。  vijjaptimātravāda 
世親は言う「唯識の理趣は無辺にして結択の品類差別は度り難く甚深なり。仏に非ずんば、誰が能く具に広く結択せん。」(唯識の道理は無限であって、決定すべき種類は測り難く非常に深遠である。ブッダでなければ誰が細かく広く決定する事ができようか。)
(唯識ということ・兵頭一夫・春秋社)
識には表層識と深層識がある、表層識には「意識」に「眼識」「耳識」「鼻識」「舌識」「身識(触覚)」の六識があり深層識には「末那識(まなしき)」「阿頼耶識 (あらやしき)」がある、因みに末那識とは自我・煩悩の源を言い、阿頼耶識 は行動を生む種子がある。
「手を打てば 鯉は餌ときき 鳥はにげ 女中は茶と聞く 猿沢の池」
 興福寺の貫主・多川俊映師の著作に紹介された詠み人不詳の道歌で難解な成唯識論の解釈が如何に理解され難いかを詠んだと考えられる、多川師に依ればこれは個々の立場で受領の違う「一水四見(いっすいしけん)」の喩えと言う。(唯識十章・春秋社)因みに一水四見とは唯識論にある熟語で、認識の主体が変化すると認識の対象も変化するとされる。
宗派は異なるが空海も「顕密は人にある」と言い、学識や解釈の相違から結論は全く相違するとされる。
玄奘三蔵達の手で組織化され、広められた
中国に於いては皇帝・高宗の信仰と援助があり大いに栄えたが、インド直輸入の教義が難解で中国の行動様式の相違からギャップが生じて衰退し、8世紀初期には華厳宗に主流的な地位を譲る。
唯心論、即ち五性(姓)各別(ごしょうかくべつ)を論ずるインド哲学を駆使教義でもある、大乗と小乗の中間的思想で権大乗と言はれている。日本に於いては658年頃道昭が玄奘から教えを受け帰国後、飛鳥元興寺でこれを広めたと言はれる、その後興福寺において義淵・玄肪・賢憬・修円・徳一・等逸材が輩出する、特に玄肪は興福寺でこれを広め法相宗は黄金時代を迎える、藤原一門の菩提寺が興福寺であることから、創建以来五摂家の強力な後ろ盾があり今日でも南都六宗で一番の隆盛を極めているのは当宗である。 

2,八部衆像  釈迦に帰依して佛法を守護する神で天竜八部衆と言も言う、支配者によって違いはあるが興福寺の場合は・五部浄4,8㎝・摩?153,6㎝・迦楼羅149,7㎝・鳩槃茶151,2㎝(くばんだ)・阿修羅153,0㎝・乾闥婆160,3㎝・緊那羅149,1㎝・畢婆迦(ひばか)()156,0㎝の八尊であるが当寺の場合は二十八部衆の一部ではないかとの説もあるが興福寺曼荼羅図(重文・京都国立博物館所蔵)よれば西金堂内の状況を八部衆に画かれており西金堂内に置かれていたと考えるのが妥当で二十八部衆は相応しくない。(五部浄は下半身欠落)   

3, 十大弟子 
1舎利(しゃり)(ほつ)(般若心経・法華経で釈迦の相手として多く登場、意訳で舎利子)智慧第一  ・śāriputra ・シャリープトラ
2摩訶(まか)
目犍連(もっけんれん) (通称目連・盂蘭盆会の起源 神通第一  ・Mahā maudgalyāyanaマハ-マウドガリヤ-ヤナ
(3) 摩訶迦葉(一番弟子・釈迦の死後教団を統率、)頭陀第一 ・mahā maudgalyāyana マハ-カーシャパ
(4) ()菩提(ぼだい)(空の理論の第一人者)解空第一 ・Subhūti ・スーブーテー 
(5) 富楼那(ふるな)()多羅(たら)尼子(にし) 説法第一 ・ra  amaitrayanī  putra ・プールナマイトラーヤニープトラ 
(6) 摩訶迦旃(かせん)(ねん)、  論義第一 ・Mahā yana ・マハ-カッチャ-ナ 
(7) 阿那(あな)(りつ)(心眼の第一人者釈迦の従兄弟)天眼第一 ・Aniruddha  ・アニルダ 
(8) 優波離(うばり)(元理髪師)律第一  ・Upāli  ・ウパーリ 
(9)
羅睺羅(らごら) (釈迦の息子)戒行第一 ・hula ・ラーフラ    
10)阿難陀(釈迦の従兄弟・経典結集は彼の記憶から始まる)多聞第一 ・ānanda  ・アーナンダを言う。
現在興福寺には六躯が残り国宝指定を受けている、一躯は民間所有で、一躯は心木が東京芸大に存在する。
  

4,    興福寺に残る十大弟子六尊の像高を記述すると 舎利弗154,8cm ・目149,cm ・須菩提147,6cm ・富楼那148,8cm ・迦旃延146,cm ・羅?羅148,8の六尊である。

5, 法相六祖像 ・神叡(しんえい)81,2㎝ ・玄肪84,8㎝ ・善珠(ぜんじゅ)83,0㎝ ・行賀(ぎょうが)74,8㎝ ・玄賓(げんぴん)76,5㎝ ・常騰(じょうとう)73,3㎝を言う。 

6, 興福寺創建当初の彫刻で現存する像は十大弟子六尊と八部衆像である。
 興福寺・北円堂に安置されている、国宝像の無著、世親は唯識宗の開祖とされている、因みに北円堂の円堂とは死者を弔う目的の堂宇で八角形に建てられる。

7, 国宝・華原磬は金光明最勝王経に金鼓と記述される鼓と推定される。
懺悔の心を起こさせるとあり、一門が天武天皇直系の孫で天智天皇の皇女を母に持つエリートである長屋王、吉備皇女夫妻や安積(あさか)親王達ライバル達を抹殺した懺悔の心を示す呪術効果を願って打ち鳴らされたと考えられる、これが懺悔の心の具現空間として作られた西金堂にあった,華原磬を安宿媛(あすかべひめ)即ち光明皇后が打ち鳴らさせたと思惟される。(天平時代に唐からの招来品であるが鎌倉時代に修理されている) 経典・ 金光明経の項に記述。

 
8, 藤原摂関家(五摂家) 鎌足を祖とし不比等に引き継がれ長く朝廷を支配した一族で歴代天皇の外戚を続け日本史の中でも藤原時代の名称まで残し天皇家に次ぐ名門。
不比等の子供達の系列から凄惨な確執を繰り返した後10世紀(藤原時代)には藤原武智(むち)麻呂(まろ)の南家に対して藤原房前(ふささき)の北家が覇権を持つ、当初は近衛家と九条家が覇権を競っていたが鎌倉時代に幕府の力で五摂家に別れる、近衛基実から・近衛家・鷹司(たかつかさ)家、 九条兼実(かねざね)から・九条家・二条家・一条家となり摂政関白を独占する、中でも近衛家が覇権を所持していたが頼朝追討宣旨で失脚し九条家と覇権を分け合う。
また藤原姓は橿原市高殿町付近の地名からともされる。
傍系に久我・醍醐・今出川・姉小路・山科・花山院・広幡・三条・西園寺・徳大寺・難波・飛鳥井・冷泉・坊城・日野・烏丸・大炊御門・中炊御門・観修寺等があり本来は全て藤原姓である。
五摂家による禁裏支配制度は後醍醐天皇の御世を除き明治維新まで継続した、1884年に華族令により廃止になり五摂家は華族筆頭として公爵位を授けられた。
藤原不比等とは鎌足を父に宮廷歌人額田王と同一人とも言われる鏡王を母に持ち大宝律令・貨幣経済・成文法等を導入して藤原一門の千三百年にわたる栄華の礎を築く。

 

9国宝舘に安置される仏頭は1937年東金堂の解体修理が行われた折に発見されたもので石川麻呂の供養のため685年山田寺に置かれていたが鎌倉時代に興福寺の僧兵に強奪され東金堂の本尊とされたが、1411年の兵火で焼失したと考えられていた。

10、徳一 平安時代初頭の法相宗のエリート学問僧で藤原仲麻呂の子とされている。最澄が会津滞在中の徳一を訪れ、三一権(さんいちごん)(じつ)論争を行う、徳一の言う、五性各別とは要約すれば人間が成仏出来るか否かはその人の素質による、これと逆の解釈が一切(いっさい)偕成(かいじょう)で全ての人が成仏できるとする天台宗(最澄)等と後に論争することになる。
三一権実論争は唐の天台宗と法相宗の間において繰り返し行はれた論議で日本に持ち込まれる。 一乗とは(一つの乗り物)対三乗(声門乗・縁覚乗・菩薩乗)で、徳一が仏性抄(ぶつしょうしょう)を唱えて最澄を批判、最澄は照権(しょうごん)(じつ)(ぎょう)をもって反論、この大論争は最澄が延暦寺へ帰山後も長期間続いた。


11玄昉(げんほう)(691746)日本に於ける法相六祖の一人で法相宗の学問僧、717年入唐し成唯識論の碩学智周に法相教学を学ぶ、735年帰国し請来した一切経等の経典を光明皇后に提出し、光明子の写経発願に尽力する、皇后に海龍王寺を賜り737年僧正となる、宮中に於いて聖武天皇の母(藤原宮子)病平癒の祈願をする等、橘諸兄政権の下で同時に留学した吉備真備と共に権勢を振るうが藤原広嗣の反乱や聖武天皇の後継問題などに関連し、また光明皇后の四兄弟(藤原武智麻呂・房前・宇摩合・麻呂)の天然痘による死亡時に祈願に成功せず、権力をつけた藤原仲麻呂に玄肪は観世音寺建立を名目に九州に事実上左遷され、観世音寺に於いて7466月没する、日本最初に初期密教(雑部)を齎した一人。(成唯識論の概説は注8南都六宗の法相宗参照)

12無著(むじゃく) 世親(せしん)  四-五世紀頃のガンダーラ出身の兄弟僧で兄の無著は梵語名をAsaga(あさんが)と言い、大乗仏教の根幹とも言える唯識の碩学、部派仏教の空を感得したが、弥勒から瑜伽師地論・唯識を学び、弥勒菩薩に次いで法相の第二祖となる。  

弟の世親は梵語名をVasubandhu(ばすばんどう)と言い、無著と同様に部派仏教を修めるが、無著の誘いで大乗の転ずる、倶舎論に通じており他の大乗経典の華厳・法華・般若維摩経・勝鬘経などの解説書がある。

13権門(けんもん)国家的な特権を有し権勢を謳歌した門閥・家柄の集団を言う。

注14、山階(やましな)道理 藤原摂関体制下の強引な理屈を言う、南都北嶺と言われ興福寺と延暦寺の山法師(天下不如意)と共に圧力集団を組んだ衆徒による噭訴(ごうそ)を行う事で本来の道理を圧迫した、山階とは興福寺を呼称する以前の寺名である。

注15、 
瑜伽行派とは(ちゅう)(がん)学派と並びインド大乗仏教二大学派を形成せていた、梵語名yogācāra(ヨーガーチャーラ)と言い、詳しくは瑜伽行唯識学派と言い略して唯識学派と言う、中国に請来したのは主に玄奘であり法相宗と呼称される。

 

北円堂 拝観日429-5月初旬・1031日―11月初旬   南円堂10月17日             

重文指定の抜粋  

聖観音立像 木造彩色 870cm 鎌倉時代 

阿弥陀如来坐像木造漆箔 225,7cm 藤原時代 

釈迦如来立像 木造彩色 66,1cm 鎌倉時代 

薬師三尊像  銅像鍍金 薬師255,cm  日光300,cm 月光298,cm 室町時代 東金堂 


薬師如来坐像 木造漆箔 桜  漆塗 107,3cm 藤原時代 

帝釈天立像 木造彩色 181,8cm 藤原時代 

梵天 帝釈天立像 木造彩色 漆箔 玉眼 梵天171.5㎝ 帝釈天166.0㎝ 鎌倉時代 

●広目天立像 木造彩色 157,4cm 鎌倉時代 

●厨子入り吉祥天倚像 木造彩色 64,3cm 南北朝時代 寛慶作  

大黒天立像 木造彩色 93,8cm 鎌倉時代 

日光・月光菩薩立像 木造漆箔 362,0cm 360,0cm 鎌倉時代 


●薬王・薬上菩薩立像 木造 漆塗 薬王362,0cm 薬上360,cm 鎌倉時代  中金堂

●増長天 木造 202,cm 鎌倉時代 中金堂
  

不空羂索観音 坐像 木造彩色玉眼  341.5cm   鎌倉時代  康慶or運慶作

●南円堂 八角堂 宝形造 本瓦葺 江戸時代 

                他多数   

   

  

最終加筆日20041111日  12月13日  2005328 51日  812 2006314玄昉 2007115日 八角堂の仏師 20091117日無著、世親 2010427日 814日一水四見 2016年6月19日 2017年9月12日 2018年3月10日加 2020年10月25日加筆  

           寺院案内   仏像案内   興福寺公式サイト

               
                                          
 

inserted by FC2 system