室生寺(女人高野)

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山号を宀一(べんいち)と言い元禄時代以後の事ではあるが山岳信仰の霊場としては女人禁制ではなかった為に金剛寺(大阪河内長野市)や高野山の玄関・慈尊院などと共に通称を「女人高野」と呼ばれている。

呼称の事由は各寺異なるが室生寺の場合は十七世紀後半に堂宇復興のスポンサーである桂昌院(徳川五代将軍の生母・注1と生類憐みの令の発案者である護持院・隆光の影響があった様である。
室生寺の起こりに付いては諸説あり定かではないが、興福寺の学僧・賢璟(けんけい)が浄行僧と共に起こしたのが始まりと言えるが寺院の形態を整えたのは賢璟の弟子の修円(しゅえん)と彼に従う興福寺伝法院の僧達である、従って当時は興福寺の別院である室生山寺であったと言う。 
この地は三輪の檜原神社と伊勢の斎宮との線上にあり古来よりの太陽信仰や、水神の聖地との伝承を持ち、竜穴神社があり祈雨・止雨を祈願する霊地であったらしく、祈願法は「大般若経」・「仁王経」と密教の融合も考えられるが、火山活動で得た豊かな水源を持つ竜穴神社の神宮寺としての発祥説を否定できない、因みに祈雨・止雨の祈願は密教ではなく顕教の修法で行われていたとの説がある。
現在は新緑と紅葉に季節には観光地と化しているが時期を外して室生川を上ると、過日は修験道や仏道修行の聖地としての面影を留めている。 

義真にも学んだ修円は室生を拠点に天台教学を広めた、修円
(最澄門下から空海門下に移った修円とは別人)空海最澄と並ぶ程の秀才であったらしく法相学者であるが天台教学にも優れ,また加持祈祷の心得を持った密教僧でもあった。
発祥以来興福寺の支配下にありながら最澄の高弟から空海の弟子に乗り換えた真泰の影響や最澄の後継者、義真没後に天台の座主争いで避難してきた僧達との交流もあり密教色が浸透したと推察できる。 
天台からの避難僧の代表は比叡山に於いて初代座主・義真の死後二代座主に望まれた円修であるが、最澄の直弟子達に阻まれ己の弟子と共に室生寺に逃れてきた、修円は円修と共に入唐して天台山に学び帰国後も室生寺に於いて天台教学を広めた。
しかし室生寺は真言色も強く流入されて、鎌倉時代には既に奥の院・御影堂に空海が祭られている、室町時代には更に真言色が強化され灌頂堂がメイン堂宇となる等、興福寺との主導権争いは江戸時代まで持ち越される、因みに主導権争いの中で薬壺を持たない古式の薬師如来を釈迦如来に呼称変更された様である。
元禄時代に入り将軍綱吉の「生類憐みの令」をフォローした護持院隆光の豪腕により真言宗豊山派として決着を見る、真言僧・隆光の口添えにより綱吉や桂昌院から加増や寄進を受けて寺の繁栄は拡大した。太平洋戦争後
(1945年)豊山(ぶざん)派から独立し真言宗室生寺派・大本山を名乗る。

室生寺の境内は・金堂・弥勒堂・五重塔・御影堂
(奥の院)・灌頂堂で構成されており、灌頂堂の本尊・如意輪観音は真言宗小野流・三宝院流などに於いては特に重要な菩薩で
阿闍梨に成る為の伝法灌頂を受ける際に修行者が最初に出会う菩薩である、この修行は俗界と離れた厳しい修行を言い「四度(しど)加行(けぎょう)」と呼ばれ四段階があり1、十八道法 2、金剛界法 3、胎蔵界法 4、不動護摩法の修法を言う、四度加行の前行である礼拝行の本尊が如意輪観音である、四度加行は広沢流・中院流に於いては大日如来を本尊とされている。
四度加行の潅頂は両部の大経、双方に説かれており金剛界法と胎蔵法の潅頂儀礼を受ける必要がある。
阿闍梨とは阿舎梨・阿闍梨耶とも書き、梵語アーチャリー
(ācārya)の音訳で、意訳をすれば師・規範となる、教団の高位の指導者を指し空海も唐に於いて師の阿闍梨恵果より伝法阿闍梨位灌頂を受けている。    


室生寺の十一面観音や屋外最小の五重塔等に魅せられて訪れること十数回、石楠花(しゃくなげ)が美しい寺と言われるが見過ごしている、過日は金堂の諸仏の至近距離で拝観する事が出来たが現在では礼堂から双眼鏡で拝観しなければならず、本尊の後ろの国宝・伝帝釈天曼荼羅を見る事は出来ない、古寺巡礼者にとっては実に寂しい思いを禁じえない。
その金堂は文化財指定国宝の釈迦如来立像を中心に十一面観音など五尊が配置され前面に十二神将が守護し壮観であるが、創建当時は根本堂と呼ばれたらしく、根本堂薬師仏の記述や、礼堂の蟇股の薬壷、光背の七仏薬師、薬師如来を守護する十二神将などが整い薬師如来とされている、また創建時には三尊による構成であり薬師如来
(現在の尊名は釈迦如来)を本尊に十一面観音と近くの安産寺の地蔵菩薩(榧一木造177.5㎝)が脇侍であったが興福寺の本地仏思想から五尊安置とされた様である、因みに本尊と十一面観音及び安産寺地蔵は榧の一木造で作風に共通点が多い。
耽美な容姿を持つ国宝五重塔は室生寺最古の建造物とされている、文化財指定の中に於いて、屋外最少
(総高16,7m・床面積6㎡)の塔で相輪の水煙宝珠部は傘蓋(宝鐸)を持つ優雅な塔である、19989月の7号台風で甚大な被害を受けたが20009月に修復を終え再び瀟洒な姿を現した、閑話休題、我が国の塔で最も優雅とされる五重塔は創建時(平安時代)には板葺で庇は現在よりも短いサイズであった、それが室町時代には杮葺になり江戸時代には桧皮葺きで屋根のデザインが一新されて優雅な曲線(反り)を持つ美しい姿となった。
また弥勒堂の本尊・弥勒菩薩快慶の作で
檀像様としては最大級の像である、この尊像は土門拳をして「天下第一の美男」と言わしめた。
西国薬師
を巡礼する霊場に薬師如来を本尊とする49寺が参加しており、室生寺は八番札所となっている。  
当寺の宗派は真言宗豊山派で長谷寺末であったが太平洋戦争以後に独立し室生寺派の大本山となった。

 

注1、 桂昌院 16271705年   徳川五代将軍綱吉の生母で三代将軍家光の側室で名前は宗子。京都堀川の生まれで八百屋仁右衛門の次女。父は信仰心が強くその遺伝子を受け継いでいる、仁右衛門は二条家の使用人と交流があり六条有純の女お梅の方のとりなしで江戸城へ入りやがて家光の寵愛を受け綱吉を出生。1680年綱吉が就任すると三の丸に住み三丸殿と呼ばれる、1702年従一位に昇任する、悪名高い「生類憐みの令」は戦国時代から間もない殺伐とした江戸の世相を配慮したもので施行面に行き過ぎ生じた面もあるが大きな影響を与えた物ではないとされている、また綱吉の時代には経済は活性化していた。
桂昌院は佛教に対して信仰心は篤く、真義真言宗の僧侶・隆光等と各地の寺院に援助の手を差し伸べており、日本の仏教文化財の興隆・復興にはたした功績は大きい。  


2、 室生寺の五重塔は法隆寺に次いで古い塔である、宝輪は最先端が宝珠ではなく宝傘でありこの部分は後世の作とされるが祈雨・止雨の霊地としての関連が考えられる、20009月宝輪は旧来のデザインで新設された。   


3、 金堂の国宝・釈迦如来は天台座主争いに敗れ室生寺に逃れた円修の影響も云われ、後背に七佛薬師が画かれており本来薬師如来である。

4、 日本三如意輪観音とは観心寺(大阪府河内長野市)木造彩色108,8cm 平安時代  ●神咒寺(かんのうじ) 西宮市甲山町)木造彩色 98,7cm 藤原時代  ●室生寺・灌頂堂の如意輪観音像を言う。

5、境内のバン字池は梵字で金剛界・大日如来を表している。

6奈良県には著名な十一面観音を安置する・海龍王寺 ・西大寺  ・法華寺 ・聖林寺 ・大安寺 ・法輪寺  ・長谷寺 ・室生寺の八寺が参加した大和路 秀麗 八十八面観音巡礼と題したホームページが作られている。    

 


 室生寺派・大本山    所在地   奈良県宇陀郡室生村字室生78  ℡ 0745932003 


室生寺の文化財   表内は国宝  ●印重要文化財 古文書・書籍・典籍を除く

名      称  

適               用  

時   代  

 釈迦如来立像(金堂) 

 木造彩色 237.7cm 本来は薬師如来   

 平安時代 

 十一面観音立像(仝) 

木造彩色195.2cm 浅い飜波式衣文(漣波・れんぱ) 

 平安時代

 釈迦如来坐像(弥勒堂)  

 木造彩色(かや一木造) 105.8cm 飜波式衣文 

 平安時代 

 金 堂 

 桁行5間、梁間5間  寄棟造 柿皮葺 

 平安時代 

 灌頂堂(現在は本堂) 

 桁行5間、梁間5間  入母屋造 桧皮葺 

 鎌倉時代 

 五重塔(屋外に建つ日本最小の塔) 

 塔高16,7m 床面積6㎡ 桧皮葺(創建時は板葺)

 平安時代 

 伝帝釈天曼荼羅図 

 板桧著色 本尊後部の壁板面 H348,5W202,1cm 

 平安時代 

 

金堂  

薬師如来立像 木造彩色 164,6cm 藤原時代  

地蔵菩薩立像 木造彩色 160,6cm 藤原時代  

文殊菩薩立像 木造彩色 205,5cm 平安時代  

十二神将立像 木造彩色玉眼 95,4×104,8cm 鎌倉時代  

弥勒堂  

弥勒菩薩立像 木造(榧一木造) 93,7cm 檀像様の代表作 快慶作 鎌倉時代  


灌頂堂(本堂) 

意輪観音坐像 木造漆箔 78,7cm 藤原時代 日本三如意輪観音の一尊   

●御影堂(奥の院)桁行・梁間3間 単層 宝形造 厚板段葺 室町時代 頂上の石造露盤は法隆寺夢殿の宝珠に似る、   

●弥勒堂 桁行梁間3間 入母屋造 柿葺 鎌倉時代 

 

 


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最終加筆日2004108  2005711 1122日円修 2012年2月29日塔の庇等 2013年12月11日加筆 2014年1月2 日 6月8日 10月24日 修正

   

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