山号は法興山、創建当時からの尼寺と推察され中宮尼寺・斑鳩尼寺等とも呼ばれ鎌倉時代の1533年以後皇室系庵主の就任が続く事により、比丘尼御所の寺格を持ち1889年門跡寺院の格式を保つ、円照寺・法華寺と共に大和三門跡寺院に数えられて今日に到っている、諸説はあるが聖徳太子の母である
寺名の由来は太子の母が中宮と呼ばれていたところから中宮寺と称されるようになった説と、葦垣宮・岡本宮・斑鳩宮の中ほどに位置したことからの呼称説とがある。
創建時の位置は0.5kmほど東「幸前小字旧殿」に位置し、法隆寺若草伽藍とほぼ同時期と思惟される、若草伽藍と同じ四天王寺式の伽藍配置であった事が発掘調査で判明し現在は土壇が残る、十六世紀後半現在地に移転したとされるが聖徳太子による創建七ヶ寺の内に数えられている。
寺は一時期衰えを見せるが真言律宗を興した叡尊や天寿国繍帳を発見した信如・比丘尼が復興に努めた、所属する宗派も真言宗・泉涌寺派(天皇家の菩提寺)であったが法隆寺の法相宗からの独立と同時に聖徳宗に加わる。
この寺に訪れる参拝者の第一の目的は和辻哲郎氏の言う、「彼女は神々しいほどに優しい、たましいのほほえみ‐‐‐‐‐‐聖女と呼ぶに相応しい」とまで言う国宝・菩薩半跏思惟像(樟・寄せ木造・像高87、9cm・注8)に尽きよう、また1937年亀井勝一郎氏が発表した大和古寺風物詩は傷心の心を癒すため中宮寺を訪れ菩薩の「古拙の微笑」即ちアルカイックスマイル(Archaic smile)に触れ
名称は菩薩半跏像、や弥勒菩薩像とするのが多数であるが、寺伝に拠れば如意輪観音とされている、しかし像造当時の飛鳥・白鳳時代には密教尊である如意輪観音に対する信仰は成立していないとされる、(如意輪陀羅尼神呪経の漢訳は八世紀初頭)
聖観音菩薩から変化した密教尊、すなわち如意輪観音は空海が台頭し広がりを見せた、密教興隆の影響は唯識を標榜していたと思惟される法隆寺にも及ぶ様に、禁裏との接点で関係が密であった京都の御寺・泉湧寺は如意輪観音信仰に篤い真言宗で、しかも泉湧寺は小野流である、1153年頃伏見宮貞敦親王の王女・伏見宮
弥勒菩薩とされる所以は七百六十六年、野中寺(大阪府羽曳野市)の半跏思惟像に弥勒菩薩と記されている為半跏思惟像を弥勒とされる様になった、しかし半跏思惟像はガンダーラ地方が起こりらしく、本来は釈迦成道以前(
半跏思惟像と言う呼称には疑問符が付く、即ちガンダーラ彫刻にも所謂半跏思惟像群があるが弥勒仏と認定された像は存在しない、インドでは本来はヨーガに於ける行法にあり、気を注入する姿勢(asana)
さらに雲岡石窟十窟には交脚弥勒を中尊とする三尊像があるが、脇侍が両尊とも菩薩半跏像であり半跏像が弥勒とは断定出来ない、朝鮮半島の半跏思惟像も同様で像名の限定は困難である。
観音とはインドでは梵語のAvalokiteśvara(観音)からの名称である、発信されるイメージは男性名詞であり貴族・勇者を意味すると言う、通常菩薩に性別は無いが当寺の菩薩像は室生寺・石道寺の純朴な十一面観音とも異なる「磨かれた深遠なる聖女」である、微かに瑜伽密教の持つチベット的なニューマを連想させ官能的な観心寺の如意輪観音と対照的であるが肢体に艶やかさがあり密教尊である事に異論は感じられない、当寺は真言宗泉涌寺派との関連から観れば如意輪観音は妥当であろう、寶菩提院の伝如意輪観音(国宝)と共に、中宮寺の菩薩からは煩悩処理に撥せられるオーラがある、如意輪観音は「人間のこころ」苦悩を聴く菩薩であり、右第一臂が思惟相と言う共通点もある、また如意輪観音は平安時代を境に女人救済の信仰を持たれる様になる、如意輪観音信仰は当寺が尼寺であることに関係があるのかもしれない、寺伝の通り如意輪観音の呼称がより相応しいのではないか。
次に講堂の薬師如来像の背面に置かれたとされる、国宝・日本最古の刺繍工芸品として太子が死後に住む国とされる天寿国曼荼羅
また
また当寺には文殊菩薩立像があり、
聖徳宗 所在地 奈良県生駒郡斑鳩町大字法隆寺北1‐1‐2 ℡ 0745‐75‐2106 (聖徳宗は南都六宗に分類しております)
中宮寺の文化財 ○印国宝 ●印重要文化財
○菩薩半跏思惟像 寄木造 87,9cm 伝如意輪観音 白鳳時代
○天寿国曼荼羅繍帳残闕 絹刺繍88,8:82,7cm 鎌倉江戸時代補修 白鳳時代
●文殊菩薩立像 彩色 玉眼 53,5cm 紙張貫像 鎌倉時代 。
●虚空蔵菩薩立像 木造彩色 平安時代
注1、 本堂 昭和43年完成 吉田五十八氏設計による、本堂は鉄筋コンクリート構造による寝殿造様式の寺院でラーメン構造による、本格的本堂建築に於ける仕様の嚆矢とされる。
吉田五十八 1894~1974 元東京芸大教授 日本に於ける伝統建築の価値を認識し近代日本建築の分野で新しい数奇屋建築の創始者で作品は、 大和文華館 五島美術館 川合玉堂美術館 成田山新勝寺(本堂) 吉田茂邸 梅原隆三郎邸 伊東深水邸 新喜楽などを手がける。
注2、比丘尼御所とは皇室・宮家から入室された寺。
注3、 紙張貫像 作品としては稀有であるが、芯材に紙製のこよりを使用し経巻・文書を貼り合わせて仕上げられた像で当寺の文殊菩薩は現在漆で型崩れを押さえているが、貴重な像である、像内に1269年(文永六年)の文書があり信如の関連が記述されている。 (本文と一部重複)
注4、門跡寺院 宗派一門の祖師の法脈を継承する寺の事を言い、平安時代後期になると皇族や公家などが出家して代々入寺する寺を言うようになる、塀には5本線を入れる事が許された、江戸時代に宮門跡(天皇家の入室)親王門跡(宮家から入室) ・攝家門跡(五摂家) ・清華門跡(公家)・准門跡(脇門跡・真宗系)・尼門跡(中宮寺・円照寺・法華寺、等)に分類された、但し1871年に公的な門跡寺院制度は廃止されたが門跡を呼称する事は許された、ちなみに門跡寺院とその門主は南都仏教と同じく葬儀の祭主を務める事は無かった。
注5、 叡尊(1201~1290年)謚名を興正菩薩と言い西大寺復興の立役者で真言律宗を起こす、興福寺の学侶の子で17歳に出家し唐招提寺で律宗を高野山・醍醐寺で密教を学ぶ、西大寺入りした後東大寺に於いて自誓受戒を受ける、西大寺を拠点として律の教学を広める、後嵯峨上皇・亀山上皇・北条時頼・実時の帰依を受ける、弘安の役には朝廷の以来を受け岩清水八幡宮に於いて敵国降伏の祈願を行い神風が吹いたと言う、その他活動としては弟子にあたる忍性(奈良に悲田院を起こし貧者、病人を救済、鎌倉・極楽寺を創建)を伴い土木工事・社会事業・貧者救済にあたる。
著書に感身学正記・梵網経古迹記輔行文集・関東往還記があり90歳の長寿を全う、肖像を西大寺と鎌倉・極楽寺に残す。
注6、 寶菩提院 京都市西京区大原野南春日町(075-331-3823)
注7、 聖徳太子創建七ヶ寺 法隆寺 ・法起寺(池後寺) ・中宮寺 ・橘寺 ・葛城寺 ・四天王寺 ・広隆寺を(峰丘寺)言う。
注8、 一木造の飛鳥・白鳳時代に中宮寺の如意輪観音の寄木造は奇異であるが、平安時代後期の定朝様の寄木ではなく積み木式と言う極めて特殊な工法である(仏像のかたちと心・金子啓明・岩波書店より)。
中宮寺の文化財 ○印国宝 ●印重要文化財
○菩薩半跏思惟像 寄木造 87,9cm 伝如意輪観音 白鳳時代
○天寿国曼荼羅繍帳残闕 絹刺繍88,8:82,7cm 鎌倉江戸時代補修 白鳳時代
●文殊菩薩立像 彩色 玉眼 53,5cm 紙張貫像 鎌倉時代 。
●虚空蔵菩薩立像 木造彩色 平安時代
これは当麻寺中之坊所蔵の模刻像(約一搩手半
最終加筆日2004年11月26日 2005年6月1日 2006年3月28日 2017年2月18日