當麻寺          説明: C:\Users\Owner\katada202\nara\button1.gif      仏像案内     寺院案内    曼荼羅      當麻寺公式サイ

        説明: C:\Users\Owner\katada202\nara\0322.JPG  中之坊導き観音   
        
松村實昭住職と渡邊勢山造仏師 

正式名称を二上山(にじょうざん)禅林寺と言い、寺の創建に関して複数の伝承はあるが何れも確証に乏しい、しかし現存する日本最古の梵鐘(681年頃)や燈籠・瓦・破仏等から白鳳時代と思惟される文化財が存在している。
當麻寺は地方豪族であり用明天皇の皇子・麻呂子(まろこ)親王を始祖とされるが當麻氏の私寺説が有力とされる、この時代當麻氏は二上山の東に位置し、難波から飛鳥や奈良を結ぶ(竹内街道)交通の要衝を抑え壬申の乱に於いて天武側に組し経済的に潤ったと言われる。(以後當麻は當麻を使用)
612年大阪府太子町に在った南都六宗の一宗であり奈良仏教の源である三論を奉じた万法蔵院禅林寺と呼称した寺を、世紀初期すなわち弘仁年間に當麻寺と改め、寺格を現在地に移したと言れている、當麻寺は真言宗の中之坊をはじめとして、西南院などの塔頭寺院群と浄土宗大和本山の奥院がある、寺院の中核を占める高野山真言宗の別格本山、中之坊は二棟双塔式)の・三重塔・本堂・書院・写佛道場・霊宝館・仁王門・梵鐘などで構成される。     
當麻寺は空海が寺に留まっていた事もあり、当初の三論宗から真言宗に変わる、但し江戸時代中期から曼荼羅堂は真言宗浄土宗を兼帯する堂宇となる、これは浄土宗総本山の知恩院は奥院
(当時は往生院)を興し二百名以上の僧を置き浄土教を広めた、知恩院は徳川家の菩提寺であり何らかのベクトルが加わったのかも知れない、当地出身の源信もこの寺を拠点にした事もあり、曼荼羅堂の二宗兼帯には確執が在った様である。
要するに當麻寺に於いて行われる法会は金堂・講堂等は真言宗で行われ、曼荼羅堂(本堂)に於いては両宗兼帯で行われている。 

奈良時代には東西両塔・金堂・講堂・鐘楼等を持っていたが、當麻の地は大和と難波を結ぶ交通の要衝にあり古くは壬申の乱でも戦場と化しており、藤原時代には興福寺の支配下が長期に亘り戦乱に巻き込まれて金堂と講堂等を失う、しかし現在国宝指定で唯一双塔式伽藍を維持する東西両塔を保存できているのは当寺のみでありその意義は大きい、この双塔三重塔は規模的には大差は無いが建立年代に相違があり東塔が古く初層・三間、二・三層・二間であり天平時代の作と考えられ西塔は各層・三間となり初層は白壁とし平安時代の様相をもつ。
両塔の特徴として相輪のリング数が国内全ての塔が九個
(九輪に対して当寺は両塔ともに八個である。
平安時代に建てられた曼荼羅堂が現在の本堂となる、現本堂は諸堂が南面を正面とするに対して西を正面として居り異質な配置である、これには東西に塔を見ながら金堂と講堂の中間に位置して日本最初の極楽浄土を観想
(イメージ・注1したもので浄土曼荼羅(観無量寿経大曼荼羅)が織られる中将姫伝説が生まれる根源と言える、中将姫伝承に付いて、阿弥陀経の異訳で「称賛浄土経」正式名称に「称賛浄土佛摂受経(しょうさんじょうどぶつしょうじゅきょう)(玄奘訳650年)があり當麻曼荼羅伝承で知られる「法如」(法名)すなわち當麻寺の中将姫が千部の写経を奉納したとされる、観想・観得したものが浄土曼荼羅(変相図)である、この変相図は善導(注7の「観経四帖䟽(かんぎょうしじゅしょ)(注6)に基ずいて描かれた、重ねて言えばこの曼荼羅(変相図)は七世紀に唐の浄土教を固め,法然に浄土教に進ませ「観無量寿経疏」を著した善導の思想を表現したものである、11代當麻寺別当・実雅が女人禁制を解き中将姫を迎え入れ織られた「観阿弥陀変相図(當麻曼荼羅)」は寺内でも忘れ去られていた、しかし浄土宗西山派の証空・善恵により知られる事になる、従って平安時代中期以後は曼荼羅堂を中心とした浄土信仰の寺として栄えたが創建当時は弥勒信仰が盛んな時代であり根本本尊は弥勒佛である、日本最古の塑像佛として螺髪や手に補修はあるが日本の彫刻史から見ても貴重な像とされている、創建時は三尊像であったらしく脇侍は弥勒三尊の定石である大妙相(だいみょうそう)菩薩と法苑林(ほうおうりん)菩薩であったのだろうか、塑像仏は4世紀ガンダーラのタキシラが嚆矢とされるが、7世紀日本で造像された仏像東大寺・戒壇堂の四天王像や法隆寺・五重塔内など優れた作品が残されている。
当寺は1935年現在の講堂解体修繕が行はれた時に白鳳時代と思はれる磚仏等が掘り出されている。
また創建以来官寺の待遇を受けることの無い地方豪族が創建した寺が、今日まで保存された事は浄土思想の拠点になった事もあるが庶民信仰の篤さは驚異に値する。
また当寺の「奥院」は法然上人二十五霊場の番札所でもある、法然の高弟で浄土宗西山深草派を起した証空は曼荼羅の厨子を作り當麻曼荼羅
((1)浄土曼荼羅参照)の摸織に奔走した、因みに奥院(おくのいん)と言う呼称はその寺院の創建者や秘仏を祀る場所であるが、ここでは法然上人が祀られている、即ち浄土宗の大和本山に充てられている、當麻寺の奥院ではなく知恩院の奥院と言う意味合いかも知れない。
當麻寺の塔頭寺院に中では特に西南院真言宗)には西南院三観音・本尊十一面観音・聖観音・千手観音)を初め優れた仏像が存在している、また當麻寺では最古の塔頭に中之坊がある、高野山真言宗の別格本山の寺格を持つ古刹で書院と茶室が重文指定を受けておる、庭園の香藕(こうぐう)(えん)は片桐石州の作と言われ竹林院・慈光院と共に大和三名園の一園に数えられている、また中将姫を仏門に入る手助けをしたと言う伝承を持つ本尊・十一面観音がある、この尊像は女人救済の信仰を集める「導き観音」
(平安末期)で、20104月に造顕された時代の考証を重ねて大仏師・渡邊勢山氏の手でリニューアルされ一段と精彩を放っている。 
法如尼(ほうにょに)すなわち中将姫が二十五菩薩(聖衆)の来迎を受けて、極楽へ往生を遂げた様子を再現した「聖衆来迎練供養会式(しょうじゅう らいごう ねりくようえしき)」が毎年514日に行われる、源信が始めたとされる会式で、略して「當麻の練供養」が行われ、阿弥陀来迎姿や菩薩に扮した勢至菩薩の先導で二十五尊が浄土と娑婆の間を練り歩く佛教
スペクタクルspectacle が繰り広げられる、因みに五木寛之氏は中将姫を”大和のモナ・リザ”と呼ぶ
「大和七福八宝めぐり」と言うグループがある、三輪明神、長谷寺、信貴山朝護孫子寺、當麻寺中之坊、安倍文殊院、おふさ観音、談山 (tanzan)神社、久米寺が加盟している。


1, 観想とは観無量寿経に説かれる浄土の世界(十三の情景)をイメージする事で経典では釈迦がその方法を韋提希(いだいけ)に教えている、その情景は浄土曼荼羅に画かれている、恵心僧都源信は出身地の二上山に沈む夕陽を見て浄土へ来迎する阿弥陀如来を観想したとされる。
阿弥陀経の異訳に「称賛浄土教」があり當麻曼荼羅伝承で知られる「法如」すなわち當麻寺の中将姫が千部の写経を奉納し、観得したとされる図が浄土曼荼羅(変相図)である。   

2, 當麻曼荼羅図は浄土曼荼羅(浄土変相図)の嚆矢であり多くの寺院に於いて描かれている、証空が広めた浄土変相図の内で文化財は光明寺(神奈川県・国宝)はじめ當麻寺・禅林寺知恩院長谷寺など20点に近い、但し正確な呼称は阿弥陀浄土変相図と言い曼荼羅と呼ばれるものは両部曼荼羅羯磨曼荼羅等である、因みに當麻寺の国宝で通名「當麻曼荼羅図」は作風や一夜で織られた伝承もあり唐からの請来とされている。

注3、二上山の呼称  現在は音読みで「にじょうざん」と呼ばれているが、万葉集に時代に於いては訓読みの「ふたがみやま」と詠まれている。 
うつそみの人にある我や明日よりは二上山(ふたがみやま)弟背(いろせ)とわが見む」 大伯皇女    弟とは大津皇子(おおつのみこ)で後の持統天皇(鵜野讃良)の子・草壁皇子を皇太子にする為に謀反の罪を被せ殺害される、母は持統天皇の姉・太田皇女(父は天智天皇)
大伯皇女(おおくのひめみこ)が弟の死と伊勢神宮の斎宮を解任されて詠んだ歌である、因みに伊勢神宮は皇大神宮(こうたいじんぐう)(内宮)と豊受大神宮(とようけだいじんぐう)(外宮)で構成されている、祭神は天照大神と豊受大明神である 。 

4、當麻寺の綴織曼荼羅に関する伝承を持ち、入寺以前の中将姫に纏わる寺は安養寺・誕生寺・高林寺・徳融寺等があり奈良町周辺にある。 

5、死者に対する法要に関する信仰に「十三仏信仰」があり当寺も大和十三仏霊場に参加している、*西大寺 *文殊院 *長岳寺  *当麻寺 *新薬師寺 *円成寺 *大安寺 等の著名寺院が参加している。

注6、観経四帖䟽 観無量寿経の解説書である「観無量寿経䟽」の別名でテーマ別に四巻に分類されている事から言われる、略して「観経䟽」とも言われる。

注7、
善導(613年~681年)とは中国浄土教の僧である、称名念仏を主張して浄土思想を確立する。姓は朱氏。終南大師光明寺の和尚等とも呼ばれる、法然に大きな影響を与えた僧で日本の浄土宗では浄土五祖の第三祖とされる、親鸞の浄土真宗では七高僧の第五祖とされ善導大師との尊称がある、同世代の僧侶に玄奘がいる。
                   

真言宗浄土の兼帯であるが、南北朝時代から曼荼羅堂は真言宗と浄土宗が交互に管理し、講堂・金堂・塔・山門を含む諸堂は奥院を除きは真言宗が管理している。         

所在地  奈良県葛城市當麻1263     ℡ 0745-48-2001  
 

 

當麻寺の文化財     表内は国宝  ●印重要文化財 古文書・書籍・典籍を除く

名     称 

適                   用 

時   代 

 弥勒佛坐像(金堂)  

 塑像 漆箔 219,7cm 当初は三尊の主尊、如来形では最古の像、施無畏与願(釈迦と同形) 

 白鳳時代 

 本 堂 (曼荼羅堂) 

 桁行7間・梁間6間・寄棟造・本瓦葺 天平様式を残す 

 藤原時代 

 東 塔  (三重塔) 

 約23m 本瓦葺 水煙に特徴 初層3間上層2間 

 天平時代 

 西 塔  (三重塔) 

 約25m 本瓦葺       各層3間 

 天平時代 

 當麻曼荼羅図 

 綴織 3,953,95m 中将姫が織る阿弥陀浄土図  非公開 

 天平時代 

 當麻曼荼羅厨子 

 裏板曼荼羅 軒板に鳳凰・鸚鵡・飛天の装飾 h501cm・w594  

 平安時代 

 倶利迦羅竜蒔絵経箱

 錫丈箱とも呼ばれる経箱 h5.8cm 31,219,1㎝  奥の院

 平安時代 

 梵  鐘 

 無名であるが日本最古の様式・文様、681年頃、h150,6㎝ 径86,7㎝ 

 白鳳時代 

*綴織曼荼羅・西南院拝観否・ 裏板曼荼羅 513-15日公開 

四天王立像(金堂) 脱活乾漆    彩色 217,6221,2cm 白鳳時代  後世の補修が多い   我が国最古の塑像  多門天は木造・鎌倉時代

吉祥天立像(金堂) 木造彩色 100,8 cm 藤原時代(東博寄託) 

●妙幢菩薩(Ruciraketu)地蔵の別名  木造彩色 147,2 cm 藤原時代  ・講堂    

阿弥陀如来坐像 二尊(講堂)木造 220,5 cm86,2 cm 藤原時代 

地蔵菩薩立像 木造彩色 259,0 cm 藤原時代 

●十一面観音立像(本堂) 木造彩色 183,5 cm 織殿観音(おりどの)と呼ばれており飜波式衣文に特徴  藤原時代 

●伝・紅玻璃(ぐはり)阿弥陀如来坐像 木造漆箔 104,0cm 藤原時代(奈良博寄託) 

千手観音立像(西南院)木造漆箔134,8cm 藤原時代(東博寄託) 

十一面観音立像 木造漆箔彩色 173,3 cm 藤原時代(拝観否) 

聖観音立像 木造 177,0 cm 藤原時代(奈良博寄託)  

●金堂 桁行五間・梁間四間 入母屋造 本瓦葺き 鎌倉時代 

●講堂 桁行7間 ・梁間4間 寄棟造 本瓦葺 鎌倉時代  基壇乱石積

●薬師堂 桁行 ・梁間3間 寄棟造 本瓦葺 室町時代 

●鐘楼門 1間1戸 入母屋造 本瓦葺 江戸時代 

●中之坊・書院 桁行6間 梁間7()5,5(西)間 片側入母屋 片側切妻造 柿葺 江戸時代 

●當麻曼荼羅図(文亀曼荼羅) 絹本著色 375,7381,8 cm 室町時代 国宝の浄土曼荼羅(非公開)の転写で極楽浄土と499尊の仏・観無量  寿経の観想を画く。

●諸尊曼荼羅図 2面 板絵著色 186,368,5cm 183,869,3cm 平安時代  

●板光背  木造 彩色
 平安時代   40

●當麻寺縁起 2幅 絹本著色 掛幅装157,982,7cm南北朝時代  等 513-15日  

螺鈿玳瑁唐草合子(らでんたいまいからくさごうす) 木製 12,3cm h4,5cm 高麗時代

西南院(三観音菩薩)
●十一面観音 立像 木造(桜一木造) 彩色 172,5cm 平安時代 

●聖観音菩薩 立像 木造 素地 176,0cm  平安時代  

●千手観音菩薩 立像 木造 133,5cm  平安時代
奥院
●法然坐像 木造 彩色  76,4cm  室町時代  (円光大師)

●三尊像 銅像 鍍金 26,1cm 白鳳時代 
 

     
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2005年12月16日注2、後半 20104月、8月 2014年1月29日html修正 2014年7月3日ルビ 2019年3月7日加筆
 

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