橘 寺

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正式名称は佛頭山(ぶつとうざん)上宮皇院(じょうぐうおういん)菩提寺であり創建時の通称を橘樹寺(たちばなのきてら)と呼ばれたと言う、尼寺であった事から橘尼寺とも呼ばれ現在は橘寺であり「法隆寺伽藍縁起ならびに流記資財帳」等に依れば聖徳太子建立とされる七ヶ寺の内の尼寺である。
因みに747年(天平19年)の法隆寺資材帳に依る厩戸皇子(聖徳太子)建立とされる七ケ寺を挙げると、*法隆学問寺(斑鳩寺) *広隆寺(蜂丘寺) *四天王寺 *中宮寺(尼寺) *橘尼寺(聖徳太子生誕地) *葛木尼寺、となるが異説もある。 
「聖徳太子伝暦」に記述される606勝鬘経を解説した恩賞の寺とされる、また太子の生誕地との説もある、また創建時に於ける本尊は「諸寺縁起集」等に依れば救世観音と言われており、太子に関連する多くの伝承を残す寺である、すなわち推古帝の為に聖徳太子が勝鬘経を講義している時に蓮華が降りこの寺を建立したとの伝承がある、橘寺の前身は太子の祖父欽明天皇或いは用明天皇の別宮とかの伝承がある、しかし境内から出土した古瓦は複弁式蓮華文である、少なくとも600年代後半の瓦である為にこれ等の伝承は疑問視される。
平安時代中頃までは57万平方米に及ぶ境内に、東向きで四天王寺式の七堂伽藍に太子殿・灌頂堂など60棟を超える堂宇を備え隆盛を誇示していたが多武峰の僧兵に寺を焼き討ちや落雷・火災に遭い、講堂だけが残り以後衰退に向かう、現在の堂宇即ち太子殿
(本堂)如意輪堂(観音堂)等は1864年以降に再興されたものであり創建当初(白鳳時代)と思しき素弁蓮華門軒丸瓦が残る、また本堂の南に人間の心即ち善悪を示す二面石が著名である。
当初は興福寺を頂点とした法相宗であったが江戸時代に天台宗に改宗する。
また法隆寺が国に寄進した四十八尊
(東京国立博物館所蔵)は当初は橘寺が所蔵していた様である。
         


天台宗       所在地  奈良県高市郡明日香村大字橘532       п@0744-54-2026                      



本尊 聖徳太子  如意輪観音菩薩   



注1、  日羅 古代百済の僧にして役人、父は大伴金村・母は韓人で聖徳太子の師でもある。

2、  聖徳太子創建七ヶ寺 法隆寺  ・法起寺(池後寺) ・中宮寺 ・橘寺 ・葛城寺 ・四天王寺 ・広隆寺(峰丘寺)を言う。
 



橘 寺の文化財  
聖徳太子絵伝 絹本着色 掛幅装 八幅 室町時代(奈良国立博物館寄託) 

日羅立像(奈良国立博物館寄託) 木造彩色 144,6cm 平安時代(寺伝では日羅とされるが地蔵菩薩説が有力視されている)            

如意輪観音坐像 木造漆箔 173,0cm 藤原時代 
 本尊(観音堂) 

地蔵菩薩立像 木造彩色 152,4cm 藤原時代   

聖徳太子坐像 木造彩色玉眼 55,cm 桃山時代  

太鼓縁(たいこぶち) 木造 鎌倉時代  

燈籠 石造(橘寺形)南北朝時代  

最終加筆日200494日 2009年12月20日 2019年6月20日一部加筆   


                

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