南都六宗の内の一宗として今に残る律宗の総本山である、唐招提寺は通常寺院の場合金堂、若しくは塔が最初に建立されるが、講堂が最初に建立されている、創建当初の寺名は
「唐大和上東征伝」等に拠れば戒師招聘を受けた鑑真は苦難の末、754年東大寺に上り唐禅院を設置するが、5年後には天武帝の王子・新田部親王の屋敷跡、即ち現在の唐招提寺に事実上隠棲に追い込まれる、776年頃に官寺の待遇を受けるようになり現在の唐招提寺となるが、多くの苦難の歴史が感じられる、伽藍が整備されるのは鑑真と共に若くしで来日した弟子の「安如宝」以降である事が孫弟子の豊安が著した「唐招提寺縁起」に記述されている、即ち金堂・鐘楼・経蔵は如宝の手になり、現在の本尊である盧舎那佛の造像は鑑真と共に来日した義静や法載などの唐人僧に依るとされている。
唐の高僧鑑真は12年の歳月と6回目の渡航により日本にたどり着き東大寺に於いて受戒の法を伝える僧網の任に5年間つくが758年隠棲させられる、東大寺唐禅院を出て現在の地に戒律研究所を作り逝去するまで約5年間を唐招提寺で過ごした、寺としての体裁を持つのは鑑真の死後10年以上を要し完成まで50年必要とした。
鑑真が東大寺に設けた戒壇院は、754年聖武上皇,光明子と孝謙天皇に菩薩戒を授けた後に戒壇堂を含む伽藍群が増設された、戒壇院は東大寺の他に栃木県
鑑真和上の尊像を拝観した折、和上の筆舌に尽くし難い表情に疑念を抱いた、鑑真は戒律即ち「具足戒」四分律を伝える為に艱難辛苦の末日本に佛教と言う種子を植えた心算であったが、山本七平(イザヤ ペンダソン)の言う日本教と言う根に佛教を接ぎ木したにすぎないのでのではないだろうか、そして日本に興隆する佛教は薬師寺の元管主・橋本凝胤師の言う宗教と言えない程に変質していった。
遠藤周作氏の小説「沈黙」に拠ればフェレイラ司祭の言葉として「この国は沼地だ、‐‐‐‐‐この国は考えていたよりもっと恐ろしい沼地だった。どんな苗もその沼地に植えられれば、根が腐りはじめる。‐‐‐‐‐我々はこの沼地に基督教という苗を植えてしまった。」と書かれているが根が腐るわけではなく日本と言う沼地(エトス)は、呼称はそのままで植えた種子とは異質な物質(宗教)が収穫される様に出来ている、また芥川龍之介の「神神の微笑」に於いて老人が神父に言う様に「我々の力というのは、破壊する力ではありません、造り変える力なのです」、まさしく日本教と言えよう。
松尾芭蕉は鑑真和上に肖像を拝観して「若葉して御目の雫ぬぐわばや」と詠んだ、唐に於ける四分律に基とした南山律宗の継承者
創建から弥勒堂(1476年)五重塔(1802年・雷火)鐘楼・戒壇堂・回廊の焼失以外は権謀渦巻く国家権力と距離を置いた事もあり兵火に遭わず寺の保存状態は法隆寺に次いで良好な状態である。
金堂・講堂・鐘楼・鼓楼・東室・経蔵・閼伽井等の伽藍は鎌倉時代・江戸時代と修復作業を重ねられている、金堂の屋根のデザインや高さが変更されており、化粧垂木・小屋組の用材の年代から金堂は奈良時代末の可能性があるが、天平時代の様式を持つ状態が比較的よく保存されており、巡り合う多くの寺宝や付近の風景とも往時を偲ぶには南都の中に於いても最適な寺のひとつである、また当寺は亀井勝一郎氏が「大和古風物誌」に於いて、多くの寺が博物館的な仏像展示などを嘆き「観光地としてではなく、聖地として」を望む面影を留めている稀有の寺で日本人の心の故郷と言える。
桁行七間・梁間四間の寄棟造、本瓦葺の瀟洒な雰囲気を醸し出す金堂の場合に於いては、小説の題名で著名な「天平の
講堂は平城宮の朝集殿の移築と考えられており、桁行九間・梁間四間の切妻造で解放感あふれる和様建築である、また鼓楼は興福寺一乗院宸殿を移築した堂宇で仏舎利が置かれていると言う。
平安時代中頃に旧体制僧群の戒律を軽視する流れにあい寺は衰退に向かうが鎌倉時代に派入り南都に念仏信仰の易行に対して戒律重視の動きが活発化し覚盛(注2)や西大寺の叡尊等が活躍し覚盛の弟子証玄(1220~1292年)は伽藍の復元や弥勒仏等の造像を進め、戒壇を設け律宗復興の中核寺院として栄えた、これを永井路子氏は覚盛や叡尊による「宗教ルネッサンス」とまで言う。
また南北朝時代には寺領は収奪されるが、桂昌院、綱吉(江戸幕府五代将軍)親子の援助を受け伽藍の修復がはかられた。
当寺の文化財には特に貴重な作品があり「梵網経」
また重文指定の一部破損した如来形立像をはじめ仏像群にも多くの優れた作品がある,これらの多くは檀像すなわち白檀を意識しており白檀に変わり香りを持つカヤ材が使用されている。
仏像の製法も多様で毘盧舎那佛が脱乾漆造であり、木心乾漆造が千手観音像と薬師如来像で、さらに時代が下がり四天王、帝釈天、梵天、鑑真和上像が木造と制作年代により変化している。
金堂に置かれる盧舎那仏、薬師如来、千手観音は三戒壇の本尊ではと言う説もある、因みに勅命によって設けられた大和の東大寺、
律宗本山 所在地 奈良市五条町13-46 ℡ 0742-33-7900
伽藍配置
唐招提寺の文化財 表内は国宝 ●印重要文化財 古文書・書籍・典籍を除く
名 称 |
区分 |
仕
様 |
時 代 |
毘盧舎那佛 (金堂) |
仏像 |
脱活乾漆 漆箔 339,4cm(光背5015cm) |
天平時代 |
薬師如来 (金堂) |
仏像 |
木心乾漆 漆箔 369,7cm |
平安時代 |
千手観音 (金堂) |
仏像 |
木心乾漆 漆箔 535,7cm |
平安時代 |
仏像 |
立像 木造彩色 186,2cm 188,8cm |
平安時代 |
|
四天王 (金堂) |
仏像 |
一木造 持国天185,0・増長天187,2・広目天186,3・多門天188,5cm |
平安時代 |
|
仏像 | 立像 木造 173,2cm 2019年国宝指定を受ける | 天平時代 |
薬師如来 | 仏像 | 立像木造 160,2cm 2019年国宝指定を受ける | 平安時代 |
伝獅子吼菩薩 | 仏像 | 立像(不空羂索観音・三眼四臂)木造 171,8cm 2019年国宝指定を受ける | |
鑑真和上像(開山堂) |
肖像 |
坐像 脱活乾漆 79,7cm 6月5日-7日開扉 1833年の火災で頭頂部、膝補修 |
天平時代 |
金 堂 |
建築 |
桁行7間 梁間4間 寄棟造 本瓦葺 |
天平時代 |
講 堂 |
建築 |
桁行9間 梁間4間 入母屋造 本瓦葺 平城京から移設 |
天平時代 |
鼓 楼 |
建築 |
桁行3間 梁2間 入母屋造 本瓦葺 興福寺一乗院宸殿、移設 |
鎌倉時代 |
経 蔵 |
建築 |
桁行3間 梁間3間 校倉造 本瓦葺 |
天平時代 |
宝 蔵 |
建築 |
桁行3間 梁間3間 校倉造 本瓦葺 |
天平時代 |
容 器 |
工芸 |
白瑠璃 H9,3cm w11,2cm 後小松天皇封印 |
唐 時代 |
舎 利 塔 |
工芸 |
金亀舎利塔 92,0cm 壷方円彩糸網 銅像 |
鎌倉時代 |
●弥勒如来坐像(講堂) 木造漆箔 283,3cm 鎌倉時代
●持国天・増長天立像(講堂)木造 持国132,5cm 増長128,2cm 平安時代
●厨子入釈迦如来立像(礼堂)木造 166,6cm 鎌倉時代10月21日‐23日拝観可
●如来立像(頭部、臂、足先欠落)木造彩色 154,0cm 平安時代
●大日如来坐像 木造 352,7cm 平安時代
●押出三尊佛 銅像鍍金 天平時代
●宝生如来立像 木造 246,0cm 平安時代
●十一面観音立像 木造彩色 179,6cm 藤原時代
●地蔵菩薩立像 木造彩色 158,2cm 藤原時代
●不動明王 木造彩色 玉眼 61,7cm 江戸時代
●大威徳明王 木造彩色 99,4cm 藤原時代
●吉祥天立像 木造 163,5cm 藤原時代
●大悲菩薩坐像 木造彩色 玉眼 87.6cm 室町時代
●行基坐像 木造彩色 玉眼 83.3cm 鎌倉時代
●礼 堂 桁行19間 梁間3間 入母屋造 本瓦葺 他十六尊以上
●十六羅漢像 16面 絹本著色 額装 94,5:43,0cm鎌倉時代
●大威徳明王像 絹本著色 額装 141,5:82,4cm鎌倉時代
●法華曼荼羅図 絹本著色 額装 122,1:86,0cm鎌倉時代
●舎利塔・舎利容器 銅鋳造 鍍金 93,0cm鎌倉時代
注1、戒律 信仰者の守る絶対条件でインドでは ⇒ ̄la(シーラ)戒 ・ vinaya(ビナヤ)律の合成語で戒は守るべき事項を言い、律は集団の規則をいう、僧侶に課せられた戒律は男僧250条・女尼348条を言われ仏典が成立してからは律蔵として扱われた。
初期佛教に於いて律蔵は遵守義務があったが、中国に渡り環境・風俗の違いから多くの宗派を生みだす、律宗は律蔵研究を主に行う教派の一つで鑑真和上よりもたらされ大乗佛教ではあるが教義の性格上、上座部(小乗)的要素を持つ。
鑑真の戒律は四分律である、250条の戒に対して最澄の大乗円頓戒は「梵網菩薩戒経」の10重48軽戒に軽減されている。
律には四分律、五分律、十誦律、摩訶僧祇律(まかそうぎりつ)、根本説一切有部律があり互いに独立している。
鑑真の四分律とは日本律宗の根本教義で「四分律行事鈔」などを著した道宣により南山律宗が開かれた。四分律とは日本律宗の根本教義で、東晋時代に於いて「十誦律」「四分律」「摩訶僧梢律(まかそうぎりつ)」等々の律部経典が中国に請来された。
その内「四分律宗」が興隆するが三派に分裂する、「四分律行事鈔」などを著した道宣により南山律宗が開かれた。
厳しい戒の順に 以下法楽寺 四分戒律相より抜粋
「波羅夷法 はらい」4戒 1、淫戒(いんかい) 2、盗戒 3、殺人戒(せつにんかい) 4、大妄語戒(だいもうごかい)
「僧残法 ざんぞう」13戒 故出精戒(こしゅつしょうかい) 摩触女人戒 与女人麁語戒(よにょにんそごかい) など
「不定法 ふじょう」2 戒
「尼薩耆波提法 にさぎはいつだい」30戒
「波逸提法 はいつだい」90戒
「波羅提舎尼法 はらだいだいしゃに」40戒
「衆学法 しゅがく」100戒
「滅諍法 めつじょう」7戒 合計250戒がある。
小室直樹氏は仏教とは釈尊の時代に定めた戒を守る事にある、これ即ち仏教の根本と言う、鑑真が艱難辛苦を味わいながらの来日、また戒律を求めてインドへ向かった法顕(337年~422年)や義浄(635年~713年)達で戒律の重要性が証明されよう、その大切な規範を全廃したのが比叡山を中心とした日本である、これに輪をかけた天台本覚論は優れた理論であるが釈迦の仏教からは異端であると言う。
注2、覚盛(かくじょう) 1194~1249 貴族化し華美に流れた佛教の革命者。
律宗中興の祖で鑑真の戒律重視の威徳を高めた、興福寺で出家・東大寺で受戒し唐招提寺に入る、四条天皇や皇族に菩提戒を授ける。命日には中興忌梵網会が唐招提寺で行われている。 弟子に良遍等がいる、因みに真言律宗を興し西大寺を再興した叡尊や、覚盛などの戒律復興を目指す僧達は、師からではなく仏から授戒する自誓受戒を受けたとされる。
注3、 桂昌院 1627~1705 徳川五代将軍綱吉の生母で三代将軍家光の側室で名前は宗子。京都堀川の生まれで八百屋仁右衛門の次女。父は信仰心が強くその遺伝子を受け継いでいる、仁右衛門は二条家の使用人と交流があり六条有純の女お梅の方のとりなしで江戸城へ入りやがて家光の寵愛を受け綱吉を生む。1680年綱吉が就任すると三の丸に住み三丸殿と呼ばれる、1702年従一位に昇任する、悪名高い「生類憐みの令」は戦国時代から間もない殺伐とした江戸の世相を配慮したもので施行面に行き過ぎ生じた面もあるが大きな影響を与えた物ではないとされている、また綱吉の時代には経済は活性化していた。
桂昌院は佛教に対して信仰心は篤く、真義真言宗の僧侶・隆光等と各地の寺院に援助の手を差し伸べており、日本の仏教文化財の興隆・復興にはたした功績は大きい。
注4、 招提・四方 真実の佛教教団を言い、真実の仏教徒は民族・地域の枠を超越して佛法を具現する同志である、これを四方の人と言う、また四方を游行すなわち「一処不住」の修行僧の呼称にも使われる、要するに招提=四方であるがSANGHAすなわち教義運営集団である僧団の場合、全体的なサンガを四方サンガと言い、個別の場合を現前サンガと言う。
注5、唐招提寺の千手観音は創建当初から1000臂を持つ像である、これは葛井寺の1042臂と当寺所蔵の二尊であるが現在は953臂でありその内訳は42の大脇臂(合掌する真手と40の深秘密手)と911の小脇臂で構成されている。
注6、鑑真和上は来日時に失明していたとする記述が多いが、本人のみしか使用しない行書体の署名で東大寺に経典の借用を申し入れた書籍があり失明は唐招提寺に退いてからではないかと西山厚氏(奈良国立博物館)は言う、鑑真は来日時に天台の三大部を含む主要経典八部五十六巻を招来しており最澄が出合っている。
天台三大部とは
1、「法華玄義」は智顗の講義を弟子が筆録した法華経の意義を論じた書で妙法蓮華経玄義とも言い20巻に纏めてある。
2、「法華文句」は同じく智顗の講義を弟子に依る筆録書で妙法蓮華経文句とも言い法華経の注釈書。
3、「摩訶止観」は智顗の講義を弟子の筆録書で天台摩訶止観とも言い天台の観心すなわち修行法を説いた10巻の書。
注7、 梵網経 中国に於いて成立した経典で偽経説が強いが重要経典の範疇にはる、蓮華台蔵世界を著した唐招提寺の毘盧舎那仏は梵網経を典拠としれおり、華厳経の蓮華蔵世界の毘盧舎那仏と対比されるが、梵網経は正式には「梵網経毘盧舎那佛説菩薩心地戒品第十」と言い、大乗菩薩戒を説いている、天台が「菩醍戒義疏」を著しており、最澄が自著の「顕戒論」の参考文献とした経典で、「十発趣心」「十長養心」「十金剛心」「十地」など菩薩の階級の他に「十重禁戒」「四十八軽戒」などで構成され華厳経と密接な関係にある。
注8、 律宗 仏教発祥の地インドに於いては「戒」は土着信仰であり僧侶の必須事項である、エトスである為に宗派を強調する必要は無く存在した歴史は無い、中国に渡り仏教の頽廃を憂いて律の宗派が興った、また気候風土・エトス(行動様式)の相違から律蔵として必要不可欠となり各宗派独自の戒律を説いた。
律宗は中国に於いて随時代に興る、戒律は僧侶の必須事項でありインドに於いては存在した歴史は無い、しかし中国に於いて初唐時代の学僧・道宣(南山大師)が興した南山律宗とその師に当たる
大乗仏教が広がり空理空論の律宗に於いては三蔵(経蔵・律蔵・論蔵)の内、律蔵を最重要視し一切の諸行を律蔵とする。
律とは教団の戒律を意味し仏典とは別に律蔵として成立させたもので、その後中国にお於いて大乗経典全てを律蔵に加えての研究機関として成立した、これを鑑真和上により日本にもたらされて出家受戒が成立する。
道宣が創立し鑑真が請来した律宗は戒律の中でも四分律で法華経と摂大乗論をベースにしたもので多くの著作を残している、その他の律には「十誦律」「摩訶僧祇律」「五分律」「根本説一切有部律」「pāli律」等が著名である。
戒律即ち「具足戒」の基本は四分律で420年羅什が漢訳したもので比丘250戒、比丘尼348戒を必要とする、これは小乗色的な内容も存在するが、大乗の範疇に入り「分通大乗」とも呼称される、鑑真は律宗のみではなく天台の碩学でもあり、日本で最初の天台教学の請来者とされている、天台智顗の一乗思想の共鳴者であった様で、入唐以前に鑑真請来の天台教学を学んだであろう最澄が具足戒を放棄したのはアイロニーを感じる。
妙法如律「戒の堤によって禅定の池ができ、はじめて覚りの智慧の水がたたえられる、戒の堤なしには定水静かなことなく覚りの智慧が発することはない」。(日本仏教宗派のすべて、大法輪閣)「
仏像案内 寺院案内
最終加筆日2004年11月4日 2005年12月29日仏像製法年代 2006年9月1日注2、 2007年11月17日鑑真和上の苦悩 2008年4月8日金堂庇の用材 2011年7月5日注8他 8月9日注4 2016年11月3日一部 2017年5月20日 2018年1月17日 2019年11月11日
2021年10月14日 2021年12月25日加筆