東大寺公式サイト
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「大仏の大きさ知れず秋の風」正岡子規に依る俳句である、東大寺と言う寺名よりも「奈良の大仏さん」と呼ぶ方が日本人には馴染が深いかも知れない。
552年仏教伝来から200年を経過し仏教受容国として最盛期を迎えていた、国家国銅を尽くした東大寺と大仏(注22)の建立は日本の持てる力を全て結集した大プロジェクトである、権門寺院(注24)の最右翼に位置する官大寺として建立された寺で東大寺の正式名称は「金光明四天王護国之寺」であるが大華厳寺・総国分寺等とも呼ばれ華厳宗の総本山であり南都七大寺(注19)の筆頭寺院である、因みに日本の国分寺制度は、弥勒菩薩を自称する武則天(則天武后)が制圧した武周朝の官寺制度を参考にしたとされている、国分寺には国分僧寺(金光明四天王護国之寺)と国分尼寺(法華滅罪之寺)が採用された、また仏舎利を納める七重塔の建立が目的の一で、唐の様に既成の寺でなく新しく建立された。 (国分寺の誕生・須田勉・吉川弘文館)
また前述の権門とは強大な特権とプレステージ(Prestage)を兼ね備えた集団を言う,因みに国分寺制度とは聖武天皇が741年()の詔による唐の官寺制度で武則天の興した大雲寺を倣った制度である、国分寺造営は当初は遅滞していたが、地方官である郡司に子々孫々地位を安泰化の優遇策を取り進捗した。
東大寺は華厳宗の寺であり本尊は華厳経の説くとされる教主即ち毘盧舎那仏であるが、金岡秀友・仏典の読み方・大宝輪閣に依れば依経には諸説がある、即ち*梵網経説(小野玄妙等)、*華厳経説(橋川正等)、*両経併用説(家永三郎他)がある。
華厳経の華厳一乗を象徴する中心を為す如来は廬舎那仏である、廬舎那仏は宇宙に対して輝く象徴であり姿形は無い筈であるが東大寺には存在する、現実には奈良の大仏さんとして衆生に対して親しまれている、一神教のカトリックにイエスの像が置かれているのと同根かも知れない。
華厳思想の象徴として詠まれた歌碑が大仏殿の前にある、”おほらかに もろて の ゆびを ひらかせて おほき ほとけ は あまたらしたり”(会津八一)。
東大寺の扁額の記述は「金光明四天王護国之寺」の寺名である、因みに東大寺では「きんこうみょう----」と発音されている、743年(天平時代)玄昉等の進講で懺悔の経典とも言える、金光明最勝王経(きんこうみょう)と華厳経を信仰していた則天武后を模倣した光明皇后の願いを聞き入れた(注13)、また異常な状態の母宮子の問題、嫡子基親王の早世等に鑑みて知識寺(注23)の盧舎那仏に魅かれた聖武天皇から詔が743年10月15日(天平15年)に出された,資材調達の利便性や貴族間の抗争を避け近江の国信楽(紫香楽)甲賀寺に於いて毘盧舎那仏の建立が開始されたが建立地に地震・火災等の災害、五年間に四回の遷都等の混乱もあり変更され新たな場所として現在地が選ばれた、一説には紫香楽の造営には僧網所のトップにいた僧正玄昉に依る進言の可能性が高い、左大臣橘諸兄と共に失脚を試みた藤原一門の術策説もある、四大寺(大安寺・薬師寺・元興寺・興福寺)などが平城京に固持して玄昉との対立説も言われている、但し聖武天皇にすれば建立地は己の住む王城(都)は絶対条件であり、
当初は
35.7haと言う広大な境内に像高五丈三尺五寸、総重量380屯に及び、500近い螺髪数と千仏光背を背負う毘盧舎那仏や、総重量26屯の梵鐘の大鋳造が可能なスロープを有する現在の位置、すなわち羂索院(現在の三月堂)を持つ所に寺格を移された、その頃金鐘山寺(注17)から741年に大和国・金光明寺に寺名を変更されていた、寺地が変更された頃に光明皇后すなわち
東大寺の寺格は現在「華厳宗の総本山」であるが、この時代は南都の寺院は諸宗派兼学であり751年(天平勝宝3)三論宗を初め所謂南都六宗が揃う。
三月堂(法華堂・羂索院)は国宝の仏像群が安置されている、東大寺の建築物では最も古く金鐘寺時代からの堂宇と言われ不空羂索観音が本尊である。
前述の様に東大寺は平城京の東に位置するため東寺とも呼ばれたが後に東大寺と改められた、ちなみに金鐘寺は聖武天皇の皇太子の基親王の早世を悼んで創建された寺である。
但し聖武天皇の詔としては「万代の福業を脩めて動植ことごとく栄えむとす」である。
創建に関る四聖達(注8)の労苦により完成した東大寺に於いて大方広仏華厳経すなわち華厳経を典拠とした毘盧遮那佛(大仏)は749年に2年の歳月と8回の鋳継ぎよって完成した、大仏殿の工事も平行して施工され752年4月9日には大安寺に寄宿するインドのバラモン僧、
東大寺建立に携わった工人達は「大仏殿碑文」に六名が記述され、・大仏師
大仏殿納物に付いて「東大寺要録」に依れば金銅盧舎那佛像一躰 金色菩薩像二躰 彩色四天王四躰 繍曼荼羅二鋪の記述がある、当初の像高は16,2m以上(現在の大仏は14,87m)あり、使用された銅と錫は蓮華座を含めて380屯にも及ぶ巨像で如意輪観音菩薩・虚空蔵菩薩を従える三尊形式をとり脇侍の像高10mにも及び、更に四天王の像高は14mを遥かに凌駕していた、経典を収納した6基の絵厨子すなわち六宗厨子なども納められていたと言う、因みに1596年慶長の大地震で崩壊した東山大仏(方広寺、京都市東山区茶屋町)の像高は約18m以上であったとされる、大仏の像高であるがメートル法が施行され普及したのは20世紀中盤であり、従来の尺貫法で丈六仏の十倍の像高すなわち五丈三尺五寸とされた様である。
建立に先立ち資金調達には勅命を受けた行基が弟子たちと勧進行脚を行い、これが後の河内の智識寺と共に寺院建立の資金調達の先駆けとなる、行基は大仏開眼を見ることなく他界するが弟子で
完成した金堂は総高は現在と同じ47.5m程であるが、延べ床面積1791坪(5910㎡)、間口約88m(現在は約68m)の大伽藍であった、金堂内部の柱・梁・壁には華厳経を典拠とした蓮華蔵世界が描かれていた、しかし構造上の欠陥があり柱40本の補強や、盧舎那仏の不等沈下や尻部の亀裂が発見され後山を置き倒壊を防ぐなど修繕メンテナンスを繰り返し維持された、855年の地震で大仏の頭部が落ちるが861年には修復完了する、因みに創建時の金堂は内陣には96本の柱が使用されていたと言う、917年講堂などを焼失、934年西塔・回廊焼失、935年講堂再建等の変遷を繰り返しながら驚異的な速度で復旧し栄える、但し平安時代に入り皇系が天智系に変わり東大寺のプレステージは創建時の勢いを失う。
1180年平家に破壊され、後白河法皇と源頼朝の援助を受け、後に”大仏の聖”と呼ばれた重源の尽力により再建された伽藍・毘盧遮那佛も1567年三好松永軍など2度にわたる戦火に巻き込まれた、その後大仏殿を持たぬまま蔵輪寺(注15)の山田道安の手により頭部を含む約40㌫を木造に銅板化粧を施した状態の毘盧遮那佛が125年間経過する、江戸時代に「竜松院公慶」が現れ徳川幕府五代将軍綱吉及び桂昌院の援助や勧進活動を行い開眼供養(1692年・元禄5年)大仏殿完成(1709年・宝永年)に貢献するが過日の隆盛からは遠い。
東大寺は創建以来に落雷や戦禍などにもあい喪失した文化財は多い、そのたびに修復が繰り返されて鎌倉時代・江戸時代などの優れた文化財が残されている、特に金堂(大仏殿)は江戸時代の作であるが、元来寺院建築再建の場合は創建当初の作風を踏襲する努力がなされた作品が多く、規模的に縮小されているが鎌倉時代の作風を再現していると考えられる、しかし毘盧遮那佛の前面及び頭部や手の部分は江戸時代の修復であり、何度拝観しても天平の情感を感じ取ることは叶わない、南大門の金剛力士を例に取れば・運慶・快慶により鎌倉時代の文化の中での思想、文化を具現された尊像であり、その時代の文化の中で呼吸した者のみ造像可能と考えられる、因みに現在の床面積は1255坪(4142㎡)程である。
金剛力士であるが南大門と法華堂(三月堂)の像の配置は通常の寺院と左右が逆(向かって左側が阿形)である、特異であるが東大寺だけでなく後年の作になるが皇居前広場の楠正成像や上野恩賜公園の西郷隆盛像を制作した高村光雲(1852年3月8日~1934年10月10日)
金剛力士に付いて「東大寺別当次第」には運慶と快慶達の関与の記述があるが、吽形等の解体修理に於いて得られた資料には、重源等の関りと共に吽形には湛慶・定覚が書かれ、阿形が運慶・快慶の関与が考えられる。
失われようとしていた帝王へのカリスマ性回復の為に「大山を削り・国銅を尽くし」とも言われた、橘奈良麻呂(諸兄の子)達の「東大寺を作るに人民苦辛」である、創建当時から国の財政を傾けてまで行われた大事業に庶民の生活は困窮を倍加させた事であろう,五木寛之氏は「文化とはじつに罪深いものだといわざるをえない」と言う(百寺巡礼・講談社・金閣寺)。
しかし世界的に見ても偉大な文化遺産は庶民の犠牲のうえに成り立っており、世界に存在する文化遺産は宗教によって偉大な芸術を多数生み出した事も事実である。
創建当時に於ける東大寺の持つ敷地は64万平方メートル余りあり、 間口11間(約86m現在は間口7間約57m)・奥行き7間(約50m)の金堂を中心に置き、南方に南大門・中門・東西に塔高約100mの七重塔(東塔764年頃・西塔752年頃)を配置し、北方には講堂・経蔵・鐘楼・食堂などを置き回廊で囲まれ回廊の外の東には千手堂・法華堂(三月堂)・如法堂・吉祥堂や天地院等で構成されていた、また明治時代の廃仏毀釈となる以前の春日大社は無論のこと、応神天皇・仲哀天皇や神功皇后が祀られる手向山八幡宮等も同一の組織集団であった。
現在に於いても大仏殿・南大門・転害門・鐘楼・三月堂(法華堂)の国宝建築に四月堂(法華三昧堂)北門・閼加井屋(若狭井屋)・二月堂・良弁堂・大湯屋等多くの重文指定の堂宇を持っている。
東大寺の文化財で注目される南大門と金堂の中間に位置する金銅制の「八角燈籠」であるが、 東大寺創建とほぼ時を同じくして完成した燈籠である、宋の工人・陳和卿の手になる銅鋳造鍍金を施した最大の銅製燈籠で H462、1cm 火袋四面に音声菩薩・獅子などが彫刻、竿に罪人を地獄に運搬する火の車に付いて書かれた「菩薩本行経」、仏に対して献灯の功徳を言う「施燈功徳経」、献灯の功徳の「業報差別経」、喜捨の功徳を書いた「阿闍世王受決経」が記述されており拓本も存在していると言う、現在も大法要、満燈会、大晦日から元旦にかけて燈火されている。
日本から太平洋戦争終結の賠償金を請求するなら、東大寺の八角燈籠一基で充分との連合軍ダグラス・マッカーサー元帥の副官のジョークが伝わる逸品である、外国人が驚き、アメイジング(amazeing)と言うであろう逸品と言える。
最大と言えるイベントは2月20日~28日までの期間行われる、十一面神呪経を依経とした会で、別火すなわち前行、本行(達陀や走り)3月1日~3月14日まで約1ケ月近くの及ぶ、東大寺を開山し金鐘行者と呼ばれた良弁大徳の弟子である実忠が752年に始めた修二月会すなわち、お水取りが行われる二月堂は本尊とされる大観音及び小観音との二尊の十一面観音に懺悔する「十一面悔過法会の為の堂宇で戦火や修二会中に焼失し1669年に再建され桁行き(間口)十間・梁間(奥行き)七間で寄棟造の本瓦葺きである、因みに悔過とは犯した過ちを懺悔する事で招福や除災を祈願する祭事である、修二月会は大仏開眼以来大仏殿や本尊が崩壊しても欠かす事無く行われている不退の行法である、因みにお水取は松明が消えた後が本番で練行衆により深夜まで秘仏である十一面観音に対して悔過の懺法(注20)が行われる。
1667年(寛文7年)二月堂は消滅するが三月堂で行われた、途絶える事の無い「不退の行法」である、十一面観音が2尊すなわち大観音と小観音が安置されており修二会の期間中に本尊は交替する、寛文の罹災で小観音は避難出来たが大観音は大きな被害を受けた様である、但し絶対秘仏の為に状態を知る者は居ないとされている、一説には銅製の後背が90片に拡散したと言う(仏教発見・講談社現代新書・西山厚著)。 kṣama
2013年の文化庁月報に依れば二月堂の本尊十一面観音像(
秘仏の典拠として知られる経典に「虚空蔵菩薩能満諸願最勝心陀羅尼求羅尼経」「七倶胝佛母所説准提陀羅尼経」が知られている。
東大寺は南都六宗兼学の道場であり、さらに平安時代には空海が第十四代別当に就任・灌頂道場として真言院を開設し天台教学も加わって八宗兼学の場となる、後には念仏院も開設された、真言院建立の官布が発布された時の右大臣は藤原冬嗣である、冬嗣と空海との緊密度は興福寺南円堂建立等多義にわたる様である、また空海と東大寺に付いた真言院の関連もあるが、空海の十大弟子と言われる僧に・杲隣(767~837)・道雄(~851)・円明(~837)と言う東大寺の僧が言われる、因みに空海は819年金光明四天王護国寺の扁額を書いている。 (旧暦の2月であるが1872年太陽暦の採用で3月に挙行される)
これらの道場から重源(注1)・栄西・明一・宝蔵・永観・弁暁など多くの逸材が輩出された。
また東大寺には戒壇院が設けられた、754年鑑真和上により聖武上皇と孝謙天皇に菩薩戒を授け戒壇堂を含む伽藍群が増設された、戒壇院は*東大寺の他に*栃木県下野市笹原26の薬師寺と*福岡の観世音寺に整備されて天下三戒壇と呼ばれた、但し現在の戒壇院は鎌倉・室町時代に兵火に遭い現在の堂宇は江戸時代の建立である。
東大寺は広大な敷地に千人を超える僧侶・僧兵を持ちそれを賄う膨大な荘園を所有していたが太閤検地等もあり鎌倉から室町時代にかけて多くを失った、失った頭部を仮設補修した摩訶毘盧舎那仏は堂宇の無いまま元禄時代に復元され現在の姿になるまで120年以上も経過した。
東大寺には受戒の為に鑑真和尚の興した戒壇院がある、他所からの引用説もあるが12世紀の「七大寺巡礼私記」(大江親通著)に依れば受戒道場である戒壇院に安置されていたと言う釈迦如来と二仏並座様式の多宝如来がある、金銅塔の中の銅像で 釈迦如来25,0cm、多宝如来24,2cmの尊像で現在は奈良国立博物館に寄託されている、これは法華経見宝塔品・従地湧出品15章に登場する法華経を肯定する如来で、東方の無量千万億阿僧祇劫の昔、宝城国にある如来で智積菩薩等を従えている、因みに智積菩薩とは提婆達多品12章に多く登場する、日蓮宗の本尊「三宝尊」に於いて題目(南無妙法蓮華経)の左右に釈迦如来(二仏並座)と共に登場する原型と言えるかもしれない。
また華厳宗(基本的に南都佛教には檀家制度は無い)は葬儀に依る収入と檀家を持たない為に一時期経済的に逼迫したようである、明治五年の太政官布告もあり、堀池春峰氏や浅野清氏の著作、奈良(社会思想社)に等拠れば1873年に京都の浄土宗の総本山・知恩院の末寺となっていたが、1886年に華厳宗大本山として独立した、因みに太政官布告では法隆寺・興福寺・薬師寺・唐招提寺も真言宗の傘下に組み入れられていた。
東大寺は創建以来、数度の戦火や廃仏毀釈などで苦難に遭遇するが太平洋戦争末期に当寺最古の建築物である国宝・法華堂(三月堂)の解体命令が下り、作業が始まるが敗戦を察知した関係者などの尽力で引き伸ばし終戦を迎え解体を免れた。(誰も知らない東大寺・筒井寛秀・小学館)
東大寺は末寺に、新薬師寺・文殊院・帯解寺(奈良市)など60ヶ寺がある、また天台宗ではあるが若狭の神宮寺はゆかりの寺であり、3月2日に遠敷川の鵜の瀬から神宮寺の住職から東大寺の若狭井(お水送り)へ送られ、汲み上げられる、最も著名な観世音懺法(注20)で知られる東大寺修二会(十一面観音悔過の法会)は「お水取り」と呼ばれて圧巻である、752年即ち東大寺落慶の時より「不退の行法」として欠かさず行なわれており最も著名な行事である、お水取りと言えば松明の火が著名であるが一日六回の法要があり声明が二月堂に響き渡る、この本尊・十一面観音像(無指定・大小二尊)は絶対秘仏(注25)であり、さらに1667年修二会終了直後の火災で損傷を受けた様で衆生の前に姿を現す事は無い,因みに光背は損傷を受けているが奈良国立博物館に存在している、閑話休題現在絶対秘仏とされる尊像は二月堂の十一面観音菩薩 ・浅草寺の聖観音菩薩 ・善光寺の善光寺如来である、因みに東大寺で行われる懺法すなわち修二会とは修二月会の略称である,八月十五日の盂蘭盆会すなわち万灯供養会は毘盧舎那仏が大仏殿の外から窓越しに拝観できる。
華厳経・入法界品(普賢菩薩行願讃)を東大寺では毎月15日に普賢菩薩行願讃が響わたる。
また当寺指図堂は法然上人二十五霊場の11番札所でもある。
東大寺は1998年に古都奈良の文化財の主要な場所として、ユネスコ(注26)よから世界文化遺産の指定を受けている。
所在地 奈良市雑司町406-1 TEL 0742-22-5511 華厳宗 大本山 華厳経
注1, 天竺様と重源 宋の建築様式で大仏様とも言う、少量の材料で大建築を作れる構造、小屋組を化粧とし、各通柱に挿肘木を貫通、上部に行くに従い材を大きくすることにより長い庇の持出梁を支える。対象様式として和様・禅(唐)様などがある。
東大寺再興に貢献したのは「俊乗房重源」で (1121~1206)13歳で醍醐寺に入るが修験道に活路を求めて山岳行脚をする、後に数回宋に留学したとされる。
1181年源頼朝と共に東大寺復元に異常なまでの執念を持つ後白河法皇から造東大寺大勧進の宣旨を受け播磨(浄土寺)を初め各地に別所を設け勧進活動に入る、留学経験を生かし天竺様(大仏様)などの新しい建築様式を採用する等システム工学の管理に優れており南大門の金剛力士の彫立にあたり慶派集団が短期間に巨像を完成させる為に工程管理・技術革新に影響を与えた可能性がある、工芸美術品等で日宋交易にも貢献した。
重源傘下の慶派集団は大仏殿脇侍も担当し観音菩薩は快慶・定覚が虚空蔵菩薩を康慶・運慶が造像しさらに四天王像も担当したとされる。
東大寺には写実性に優れた快慶作の国宝像がるが、他に三別所すなわち周防(山口県)・伊賀(三重県)・播磨(兵庫県)のも存在する。
著書に「南無阿弥陀仏作善集」がある。
注2, 金堂の天井高は大仏像高の約2倍ある、毘盧遮那佛の像高が尺貫法で5丈3尺5寸の根拠は通常の丈六佛の10倍のサイズ16丈の尊像が座った高さを言う。
注3, 錣葺 念仏堂と俊乗堂の屋根は錣葺であり、法隆寺の玉虫厨子と同じ形式の実在建築物としては数が少ない。
錣葺とは玉虫厨子等の屋根葺きの様式を言い屋根瓦が一面では無く途中に於いて段差が付く、従って入母屋のところで横にラインが入って見える、上屋を切妻,下屋を寄棟で葺きこれを一体化した屋根型で寄棟の上に切妻屋根が乗った形、現存する重文指定建築に東大寺・念仏堂(鎌倉時代)と俊乗堂(無指定)・鈴鹿市の終南山悟真寺(鈴鹿市白子本町2-27 )等がある。(近世の寺社建築・町家造に一部見られる) 語源としては武者兜の後ろの下がりから来ている。入母屋造の前時代様式と言える錣葺の屋根は玉虫厨子の他に中宮寺の国宝・天寿国曼荼羅繍帳残闕(鐘楼図)に描かれており、飛鳥時代に於ける建築様式の特徴とする上原和氏の説は慧眼である。
注4, 繧戚彩色モザイクや綴織に使われる技法でエジプト、ペルシャで始まりシルクロードを経て伝わり、日本の伝統技術となった装飾文様、彩色の技法で同系統の色に濃淡の変化を数段に付けて着色する技法で日本画や織物の伝統工芸品に使われる。
その他、繧戚彩色の代表例として正倉院の香印座。東大寺の執金剛神の他、新薬師寺の十二神将・金剛峯寺の佛涅槃図等が上げられる。
注5、長岳寺の阿弥陀三尊は焼失以前の当寺大仏殿の本尊がモデルとの説がある。
注6、六宗厨子 南都六宗の経典を納めた本棚
注7、行基 (668~749)奈良時代の法相僧で
唯識論の権威、父の高志氏は百済系渡来人。長安に於いて玄奘三蔵に学んだ飛鳥寺の道昭に師事する。(異説もある、新羅僧慧基に学ぶ等)
法興寺・薬師寺を経て山岳修行を行う、聖武天皇から造東大寺大勧進の宣旨を授かり活躍する、その信頼から天皇より菩薩号を授けられたと言う伝承が有る、彼の元に私度僧が多く集まり民間佛教の伝道と社会事業に尽力する、特に土木技術に精通し私度僧群と共に技術者集団を率いていたと考えられる。また行基により創建されたと言う寺は多くあり、彼の指導による仏像・橋梁・堤防・港など多く作られたと言いその名声から多くの伝承を残した。745年 大僧正 また歌の名手で有ったらしく行基の詠んだとされる歌が残っている。 玉葉集 「山どりのほろほろと鳴く声きけば父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ」
行基が創建したと伝えられる寺院は多く存在するが、奈良県・霊山寺 長弓寺 京都府・宝積寺 大阪府・金剛寺 孝恩寺 家原寺 喜光寺 獅子窟寺 滋賀県・金剛輪寺 などと言はれる。
注8、良弁 義淵を師とし法相を学び、大安寺に居宅していた新羅僧、審詳に華厳宗を学ぶ、百済系と言われるが出身地は不詳、聖武天皇夫妻の皇子、基親王の追悼に貢献し大仏開眼の後、初代東大寺別当となる、・聖武天皇と東大寺開眼師・菩提遷那や勧進に貢献した・行基と共に東大寺建立の四聖とされている、聖武天皇の没後に佛教界を統括する大僧都に付く、二月堂脇に良弁杉と呼ばれる古木がある。
注9、 公慶 1648~1705 江戸時代の東大寺の僧で江戸時代の大仏殿建立及び毘盧遮那佛の修復に貢献し敬阿弥陀佛とも言われた。桂昌院 ・徳川綱吉・護持院隆光等の援助を受け勧進活動を行い、1705年の棟上が終わり3ヶ月の後江戸に於いて逝去。
注10、東大寺は 新薬師寺 文殊院 帯解寺等の末寺があるが、他にお水送りを行なう神宮寺・福井県小浜市(天台宗) など60ヶ寺の頂点にある。
注11、国宝・執金剛神は二尊分割(仁王像)以前のヘレニズムの感化を受けヘラクルスから変化したとされるバーミヤン石仏群の流れを受けていると言う。
注12、
注13、聖武天皇の発願のかかると言いながら「もと太后の勧めたもうところなり」続日本書紀‐‐‐「東大寺へのいざない」堀池春峰・東大寺史研究所・昭和堂 参照。
注14、蔵輪寺 天理市山田町の高野山真言宗の寺 龍光山 山田道安 山辺郡の山田城主 雪舟を師とした武人彫刻家・画家。
注15、 南大門に於ける額の書は鎌倉時代には空海の筆に依るものであったが、後に懸けかえられたと言う説がある。
注16、 金鐘寺(金鐘山寺)とも呼ばれる、金鐘の呼称は「華厳経・十地品」に記述される灌頂水すなわち金鐘香水から引用されていると言う。
注17、 東大寺は総国分寺であるが日本各地に国分寺の建立の勅許が発せられた、各国分寺には四天王金光明護国之寺を呼称し・釈迦三尊像・金光明最勝王経・法華経を置く事が義務付けされ僧侶の20名が配置された、また国分尼寺(法華滅罪之寺)には尼僧10名が配置された。
注18、五劫思惟阿弥陀如来は全国に十六尊程度存在し東大寺には●勧学院(10月5日開扉)・末寺の五劫院(8月1日?17日開扉 ℡0742-22-7694)に安置されている。
注19 南都七大寺 天皇の発願により造営された寺で全てが官給の為国の監督を受けた官寺で七堂伽藍(西大寺など例外も在る)を備えた大寺を言う、大安寺(大官大寺)・薬師寺・元興寺(法興寺)・興福寺・法隆寺・東大寺・西大寺・の事を言い興福寺を除いてほとんどが六宗兼学の道場であった。
南都七大寺の呼称は平安時代に京都すなわち北都からの呼称で奈良時代には大寺院は四大寺とされていた、四大寺とは大安寺・元興寺・興福寺・薬師寺を言い、後に東大寺を加え五大寺と言われた。
八世紀後半に四天王寺・唐招提寺・東寺・西寺(現在は無い)嵩福寺・新薬師寺などを加えて十五大寺と言う呼び方もされた、七堂伽藍とは金堂・塔・講堂・経蔵・鐘楼・僧房・食堂を言うが七は悉くに通ずる、また禅宗・曹洞宗に於いては仏殿・法堂・山門・僧堂・庫院・浴室・東司を言う。
注20、懺法の懺とは悔過を言い法は懺を行う方法を言う、懺法には「金光「観世音懺法」が著名である、懺とは梵語に於いてはkṣamaを当てるべきか。
注21、 東大寺の梵鐘は日本三大巨鐘に数えられている、知恩院(重量75トン、高さ485cm、口径288cm)、京都方広寺(重量82.8トン、高さ424cm、口径273cm)、東大寺(重量26.3トン、高さ412cm、口径276cm)
注22、大仏の像高に付いて述べる、大仏に関する定義は確定していない、日本に於いては丈六仏(立像で約4800.0 cm)を上回る背丈の尊像を大仏と呼称されている、しかし大仏とは東大寺の盧舎那仏の坐像や鎌倉、高徳院の阿弥陀如来の坐像(1138,7cm)を連想されている、その他日本三大仏とPRされている大仏に岐阜大仏がある、1832年(正保3年)の完成で、木竹芯乾漆造の釈迦如来像は13.7mの像高である、黄檗宗金鳳山正法寺(岐阜市大仏町)。
鎌倉高徳院の大仏に付いて1896年(明治29年)に英国籍から日本国籍を取得したラフカディオ・ハーン (Patrick
Lafcadio Hearn)即ち小泉八雲は「東洋的微笑」と
仏教の発祥地インドに於いてはカニシカ王等の例外を除きサンガ(教団)を中心に檀那衆からの寄進に依り造像された為に巨大な仏像は少ない。
仏教が東漸と共に仏教徒の王が支配する国家仏教が成立すると巨大な仏像が造像される様になる。
インドに於ける少ない巨像の内で著名な尊像はナーランダにあった立像は20mを越えていたとされる、大仏で世界的に知られたのはアフガン、バーミヤンの二大仏であるがタリバンに破壊された事は痛恨の極みである、因みにバーミヤンの東大仏は38m、西大仏が55mであったとされる。
中国に於いて多くの大仏が造像されたが敦煌北大仏(96?)33mの倚像 ・南大仏(130?)26m倚像がある、最大の大仏は四川省楽山・凌雲寺71m 倚像、弥勒像とされている、因みに倚像とは台座に腰掛け両足を下に揃えた尊像を言う。(宮路昭著東大寺の歴史と教学・法蔵館参照)
東大寺の盧舎那仏のサイズを比較してみると創建時、像高15.8m 顔長4.73m 耳2.51m 口1.09m 手のひら1.65m 足3.55mで現在は像高14.98m 顔長5.33m 耳2.54m 口1.33m 手のひら1.48m 足3.74mとされる、当初東大寺に使用された金は化仏即ち千仏光は440キログラムに及んだと言う。(東大寺図鑑・ケンズ井上・長崎出版)
注23、知識寺 7世紀頃に大阪府柏原市太平寺2丁目付近に存在した寺で知識衆により創建され、薬師寺式伽藍を持ち盧舎那仏を教主とする寺を言い東塔の礎石が残る、因みに知識とは佛教用語で佛教に対して貢献を目指す信者を言う。
注24、
注25、秘仏を所持する寺院は真言宗、天台宗系が多く浄土宗(真宗を含む)、禅宗系には少ないと言われている、秘仏は密教系に多く如来では薬師如来多くあり、菩薩では観音菩薩群が多く、明王や天群は全般に秘仏が多い、中でも真言宗に偏り象頭で抱擁しあう聖天(歓喜天)は大方が秘仏である、但し浄土宗でも増上寺等々の様な例外もある。
注26、 ユネスコとは国際連合教育科学文化機関、United
Nations Educational, Scientific and Cultural Organization U.N.E.S.C.O.。
東大寺の文化財(建築・工芸品・絵画)
主な文化財 表内は国宝 ●印重要文化財 古文書・書籍・典籍を除く
名 称 |
区分 |
仕 様 |
南 大 門 |
建築 |
天竺様 5間3戸 入母屋・本瓦葺 総高25,461m 鎌倉時代 |
金 堂(大仏殿) 正面横梁は25層で須弥山を表現している。 |
建築 |
総高47,5m 正面7間 寄棟造・本瓦葺 1709年再建 床面積 約4150㎡(創建時約5910㎡)総高は同じ、 創建時・重層入母屋・現在・重層 寄棟造 |
転害門 (手掻御門・手貝門) |
建築 |
3間1戸 切妻造 本瓦葺 八脚門 天平時代 |
法華堂 (三月堂) |
建築 |
正面5間側面8間 ・正堂 天平時代 ・礼堂 鎌倉時代 |
鐘 楼 |
建築 |
天竺様 1間 入母屋造 本瓦葺 鎌倉時代 鐘1口 高1丈3尺6寸 口径 尺1寸3分 口厚8寸 用塾銅 52680斤 白鑞2300斤 |
開山堂(良弁堂) |
建築 |
桁行梁間3間 天竺様 単層 宝形造 本瓦葺 鎌倉時代 |
本坊経庫 |
建築 |
桁行梁間3間 校倉造 本瓦葺 奈良時代 八幡宮の境内 |
工芸 |
銅製 総高386cm 重量26,364t 天平時代 日本三大巨鐘(注21) |
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華厳五十五所絵巻 紙本著色 |
絵画 |
一巻 30,0×12,87cm 入法界品の物語 平安時代 |
花鳥彩絵油箱 |
工芸 |
71,3×24,2cm 宝相華をくわえた4羽の鸚鵡他絵 |
燈 籠 (八角) |
工芸 |
銅鋳造鍍金 (注14参照) |
絹本著色倶舎曼荼羅図 |
絵画 |
1幅 164,5×177,0cm 十大弟子の絵等 藤原時代 |
唐鞍・ 葡萄唐草文染韋66,7×76,5(燻韋)奈良時代 ・花鳥彩絵油色箱(印籠蓋作り)等 |
日付は拝観可能日
名 称 |
場 所 |
仕 様 |
僧形八幡神 |
八幡殿 |
坐像 木造彩色 鎌倉時代 87,1cm 慶派による作品 10月5日 |
良弁僧正 |
開山堂 |
坐像 木造彩色 藤原時代 92,4cm 東大寺開山の祖 12月16日(開山忌) |
俊乗堂 |
重源坐像 木造彩色 藤原時代 81,4cm 東大寺再興の祖 7月5日 快慶作 |
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執金剛神 |
法華堂 |
塑像繧戚彩色 天平時代 173,9cm 厨子入り 12月16日(良弁忌) |
法華堂 |
脱活乾漆彩色 天平時代 梵天403 cm 帝釈天402 cm |
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法華堂 |
脱活乾漆 漆箔 天平時代 362,1cm 羂索堂(三月堂)の本尊 |
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法華堂 |
脱活乾漆彩色 天平時代 300~315,1 cm |
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法華堂 |
脱活乾漆彩色 天平時代 阿形 326,3cm 吽形306cm 他の寺院と阿吽配置が逆 |
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法華堂 |
塑像彩色 切金文様 天平時代 日光 206,3cm 月光 206,8cm 梵天・帝釈天説が有力 |
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四天王 |
戒壇院 |
塑像彩色 天平時代 持国183,0 増長184,2 広目171,8 多門197,9㎝ |
金剛力士 |
南大門 |
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誕生釈迦佛 |
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立像 銅像鍍金 天平時代 47、0cm 奈良国立博物館寄託 |
金 堂 |
銅像鍍金 1486,8cm元禄時代(1692年)再興 華厳経典による大仏は28枚の連弁から千躯の 釈迦佛を発射している、 衣は両肩を覆った通肩 右手施無畏印 左手与願印 結跏趺坐。 |
*金堂のサイズを尺貫法で比較表示 創建時、東西284尺余 南北166尺余、現 在、東西188尺余 南北166尺余
*金剛力士は阿形像を那羅延堅固、吽形像を密迹金剛と呼ばれている。
金 堂
●如意輪観音坐像 木造漆箔 722,5cm 江戸時代(1751~1755頃) 大仏殿
●虚空蔵菩薩坐像 木造漆箔 710.0cm 江戸時代(1751~1755頃) 大仏殿
●不動明王 木造 彩色 86.5cm 矜羯羅童子 78,0cm 制吒迦童子 88,7cm 南北朝時代
●地蔵菩薩坐像 木造 彩色 玉眼 84,3cm 室町時代
●千手観音立像 木造 彩色 266,5cm 藤原時代 (四月堂)
●阿弥陀如来立像(厨子入り) 木造 74,2cm 鎌倉時代 (千手堂)
●阿弥陀如来立像 木造 漆箔 玉眼 85,0cm 鎌倉時代 (八幡殿)
●弥勒如来坐像 木造 39,0cm 平安時代 試みの大仏 檀像様 奈良国立博物館寄託
●阿弥陀如来坐像 木造 漆箔 106,0cm 室町時代 (勧学院)五劫思惟 10月5日開扉 浄土教五祖の内第三祖善導作で重源請来との伝承
●法華堂 弁才天立像 塑像彩色 219,0cm 天平時代
●法華堂 吉祥天立像 塑像彩色 202,0cm 天平時代
●法華堂 不動明王(二童子)木造彩色 玉眼 不動 86,5cm 矜羯羅童子 78,0cm 制押迦童子 88,7cm 南北朝時代
●公慶堂 地蔵菩薩立像 木造彩色 89,8cm 快慶作 鎌倉時代
●俊乗堂 阿弥陀如来 立像 木造金泥 玉眼 98,7cm 鎌倉時代 快慶作 「釘打ちの弥陀」
●俊乗堂 愛染明王 木造 彩色 98,4cm 藤原時代
●愛染明王坐像 木造彩色 98,4cm 藤原時代
●阿弥陀如来立像 木造金泥 玉眼 98,7cm 快慶作 鎌倉時代
●三昧堂(四月堂) 千手観音立像 木造彩色 266,5cm 藤原時代
●三昧堂(四月堂) 阿弥陀如来 坐像 木造漆箔 玉眼 85,0cm 鎌倉時代
●戒壇院 愛染明王 坐像 木造 93,9cm 鎌倉時代
●戒壇院千手堂 千手観音 立像 木造 74,2cm 鎌倉時代 厨子入り
●勧学院 阿弥陀如来 坐像 106,0cm 五劫思惟像 宋時代 10月5日開扉 重源請来伝承
●五劫院 五劫思惟像 木造 漆箔 長髪 124.2㎝ 鎌倉時代 五劫院 ℡ 0742-22-7694
●勧学院 阿弥陀如来 坐像 木造漆箔 87,8cm 藤原時代
●指図堂 釈迦如来 坐像 木造 29,2cm 鎌倉時代
●公慶堂 公慶上人 坐像 木造彩色 69,7cm 江戸時代
●公慶堂 地蔵菩薩 立像 木造彩色 89,8cm 鎌倉時代 快慶の代表作
●公慶堂 弥勒菩薩 坐像 木造 39,0cm 試みの大仏 奈良博寄託
●戒檀院千手堂 千手観音立像 四天王 厨子入り 木造 74,2cm 厨子扉に二八部衆など 非公開
●戒檀院千手堂 鑑真和上坐像 木造彩色 78,2cm 江戸時代
●戒檀院千手堂 愛染明王 木造 93,9cm 鎌倉時代
●念仏堂 地蔵菩薩 坐像 木造彩色 221,2cm 鎌倉時代 康清作
●法華堂 地蔵菩薩 坐像 木造彩色 玉眼 84,3cm 鎌倉時代 栄快;
●真言院 地蔵菩薩 立像 木造彩色 玉眼 96,0㎝cm 鎌倉時代
●知足院 地蔵菩薩 立像 木造彩色 玉眼 97,2cm 鎌倉時代
●阿弥陀堂 五劫思惟阿弥陀如来坐像 木造漆箔 106,0cm 室町時代 10月5日開扉
●西大門勅額 木造漆塗 286,4×289,7cm 鎌倉時代
●念仏堂 桁行3間 梁間3間 寄棟造 本瓦錣葺(しころぶき) 鎌倉時代
●二月堂 桁行10間 梁間4間 寄棟造 本瓦葺 江戸時代 752年の創建であるが1669年徳川家綱の時代に再建
●二月堂閼伽井屋 桁行3間 梁間2間 切妻造 本瓦葺 閼伽井屋とは 梵語・argha(アクア)・ラテン語でaquaの音訳で意訳すれば聖水の在る所となる、因みに閼伽とは仏が口を漱ぎ足を洗う為に供養する水を言う。
●二月堂三籠所 桁行10間 梁間4間 切妻造 本瓦葺 鎌倉時代
●三昧堂(四月堂)方3間 寄棟造 本瓦葺
●石灯籠
●法華堂北門 四脚門 切妻造 本瓦葺
●法華堂経庫 3間3面 校倉造 寄棟造 本瓦葺 平安時代
●観学院経庫 3間3面 校倉造 寄棟造 本瓦葺 平安時代
●四聖御影 2幅 絹本著色 掛幅装 建長本 197,2×152,0cm 鎌倉時代
●華厳五十五所絵 絹本著色 額装 十面 各75,8×44,0cm 平安時代
●大仏縁起 紙本著色 巻子装 3巻 芝琳筆 35,3×2121,0cm 室町時代
●永和本 201,5×153,0cm南北朝時代 他多数の文化財がある。 他多数
俊乗堂(拝観日7月5日・12月15日-1月31日)
*知足院・戒壇院千手堂は拝観否
最終加筆日2004年10月23日 2005年7月28日 12月15日公慶注2、後半 2007年8月7日 11月9日 15日注13 2008年2月13日法華堂解体危機 2010年4月30日 2011年2月21日注21 4月23日方広寺東山大仏 2014年3月6日kṣama 2017年3月14日 10月22日 2019年4月21日 2022年3月4日 11月10日加筆
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