山号を
四天王寺のある浪速地区は日本に於ける本州最大の海の玄関口(ファサード façade)
宗派名は和宗と言い1946年(昭和21年)天台宗から独立する、和との銘々は聖徳太子との関連から十七条の憲法のうち「一に
飛鳥時代に物部守屋との戦いに於いて聖徳太子が四天王に戦勝を祈願して勝利の後の建立とされる、日本書記に拠れば593年創建とされ日本最古級の寺で我が国に於ける最初の官寺である、因みに四天王寺と言う名称は日本独自ではなく新羅、現在の慶州市に薬師寺式の主要な伽藍配置を持つ寺が存在していた。
1955年の調査で飛鳥時代の物と思える瓦が境内からから出土して創建伝承との関連が証明された。
四天王寺は大阪の中心部と言える処に現在に於いても十万㎡と言う広大な境内を有している、主要な伽藍配置は中門・塔・金堂・講堂を南北中央に直線上に並べる四天王寺式として著名である、飛鳥寺跡の三金堂で塔を囲む伽藍配置に次いで古い様式である、ただ講堂の本尊には阿弥陀如来と十一面観音の二尊が置かれて教義が解らない、また宗派のオールスター、祖師達の軸が掛けられている、即ち *一遍 *栄西 *親鸞 *空海 *聖徳太子 *最澄 *法然 *道元 *日蓮達である。
四天王寺は日本国に於ける正面玄関(Facade・ファサード)の一つであり大陸からの船舶から伽藍が一望できる様に建立された。 当初は天智天皇発願で造像した四天王像が置かれ
その後落雷や火災に遭い官寺体制の衰退だけではなく、南北朝や石山本願寺の戦禍に巻き込まれる等で四天王寺は危機をむかえた。
四天王寺は太子の霊場をアピールし寺勢の維持をはかり、1007年金堂から発見されたとされる「四天王寺御手印縁起」を示して四天王寺の拡大に勤め上皇や貴族たちの信仰を集めた。
また江戸時代には幕府に庇護を受け天海が復興に尽力する、以来日光輪王寺の末寺となった。
度重なる戦火や1773年伽藍の崩解さらに1801年の火災を受ける、また1934年(昭和9年9月21日)巨大な室戸台風で金堂は大規模破損、五重塔が倒壊、仁王門壊滅するなど大きな被害を被る、更に1940年に再建されたが1945年の大空襲で略壊滅する、しかし四天王寺に対する大阪人を中心地しての信仰は篤く、勧進活動により創建時と同じ伽藍配置で復興され今日にいたる。
日本書紀に厩戸皇子が物部守屋との戦いに勝利すれば四天王寺建立を祈願した逸話は著名であるが、皇子の年齢等々、疑問視する説が多数派と言えよう、蘇我馬子と厩戸皇子とのすり替えと観る説が述べられている、また直木考次郎氏(飛鳥寺と法隆寺-吉川弘文館)は蘇我、物部の争いを崇仏vs廃仏に結びつけたのは日本書紀の編纂者の作為で物部氏も仏教を受け入れていたと言う。
文化財には太子所持を伝える丙子椒林剣七星剣(飛鳥時代)、平安時代に奉納された「扇面法華経冊子」「御手印縁起原本」「千手観音小像」等存在し、特に扇面古写経すなわち扇面法華経冊子は逸品とされる、これは扇面に法華経を初めとする法華三部経の文面を絵画と共に書いた作品である、因みに法華三部経とは「妙法蓮華経」「無量義経」「仏説観普賢菩薩行法経」の三経を言う、これ等は末世の時代に、せめて書写の功徳を授かりたい貴族たちの願望から生まれたようだ。
また当寺は日本教の中核とも言える処で、法然上人二十五霊場の六番札所でもあり西国薬師を巡礼する霊場に薬師如来を本尊とする四十九寺が参加しており、四天王寺は十六番札所となっている。
四天王寺は教義的に真逆な空海の大師堂、 ・親鸞の見真堂が西大門の至近距離にある、・天台座主を務めた良源の元三大師堂・極楽門があるなど時代により信仰が交錯する日本教であり、太子信仰・佛舎利信仰・浄土信仰がその都度主流と成る、平安時代以降には天台、真言の興隆により多くの古刹が両宗とコンタクトしたのと同じく、当寺は超宗派的性格を持つも天台宗との関連が強い寺であり保存される文化財すなわち曼荼羅、密教法具等は天台系の特徴を持ち、最澄印信・円仁上表文案などが残されている、しかし平安末期から鎌倉時代には源信が現れ浄土教が興隆し始めると四天王寺の西門(西大門・極楽門)
当地の人々から「四天王寺さん」と親しまれた寺は念仏聖の集まる場所となり良忍や法然・親鸞・一遍等、浄土関連の祖達の参詣も伝えられた所で、幾度と無く危機を迎えたがその都度脅威的な復活を見せて、東の金龍山浅草寺と共に庶民信仰の象徴として親しまれている。
四月二十二日は聖徳太子の命日とされており聖霊会の奉納舞楽・四個法要など無形文化財指定を受けており信仰を現在に生かされている、もう一つ賑わいを見せる著名法会に西大門が極楽浄土の通用門との信仰が現在も生かされている、即ち春秋の彼岸には西に沈む太陽を観想する日想観に因む彼岸会法要が行われている、この法会には古くは鳥羽上皇・後白河上皇を初め源信や法然の関わりが知られている。
四天王寺には幻となった巨大梵鐘が存在していた、総重量158トン・鐘高788.00cm・口径485cmの梵鐘で1903年(明治36年)に聖徳太子御遠忌1300年に発願されたが、二回使用されたのみで、1942年(昭和17年)第二次世界大戦の供出命令で幻と消えた、これは東大寺の27トン鐘高271.0cm、知恩院の70トン鐘高485.0cmと比較して現存する巨鐘を遥かに上回っていた。
四天王寺を中心とする大阪府は宗派は違うが、石山本願寺の影響か浄土真宗の牙城と言える、寺院数も愛知県の4600ケ寺に次ぐ3400寺を有する。
四天王寺は近畿三十六不動尊霊場の一番霊場であるが参加寺院は著名寺院が加盟しており四天王寺・大覚寺・仁和寺・曼殊院・聖護院・青蓮院・智積院・醍醐寺五大堂・根来寺さらに高野山の明王院、南院などが名を連ねているが、組織内の一部で内紛が感じられる。
近畿三十六不動尊霊場会公式サイトでは全寺に作家・家田壮子氏のコラムが掲載されている。
本尊 救世観音菩薩 和宗総本山 所在地 大阪市市天王寺区四天王寺1丁目11番 ℡ 06-6771-0066
注1、 御手印縁起 聖徳太子が作成して手印を印したとされるもので予言の書として世間の注目をあつめた。
御手印縁起には当寺は昔釈梼説法の地で麗水が東流し、宝塔・金堂は極楽土東門の中心で太子の頭髪と舎利を安置すること、資財、田園はすべて四天王が摂領し、当寺への施入は太子の加護を得、浄土への結縁であり寺物の横領は仏法滅亡し内乱となること四箇院(敬田院,施薬院,療病院,悲田院)の建立のことが記されている。 又梁塵秘抄には往生の聖地としされ、往生伝や「今昔物語集」などの説話に往生を願う人々や四天王寺での往生が記される。(世界大百科事典)
注2、 聖徳太子創建七ヶ寺 法隆寺 ・法起寺(池後寺) ・中宮寺 ・橘寺 ・葛城寺 ・四天王寺 ・広隆寺 (峰丘寺)を言う.
注3、 皇太子親肇作憲法十七条
一曰、以和為貴、無忤為宗。人皆有黨。亦少達者。以是、或不順君父。乍違干隣里。然上和下睦、諧於論事、則事理自通。何事不成。
(一に曰く 和を以って貴しと為し 忤う事無きを宗と為せ 人皆党有りて また達者なる者少なし 是を以って 或いは君父に順わず 乍た隣理に違う 然れど上和下睦 事を論ずるに諧わば 事と理 自ずから通ず また何事か成らざらん)
主な文化財
○扇面法華経冊子 絹本著色 粘葉装 扇面各 辺25,8㎝ 上弦25,8㎝ 下弦10,6㎝ 五帖
○四天王寺縁起 595年太子自筆の伝承を持つ
○懸守 七懸 檜胎 錦包 金銀透金具装 平安時代
○丙子禊林剣 聖徳太子の所持品とされる
○七星剣 聖徳太子の所持品とされる
●阿弥陀如来三尊 木造 中尊49,8cm 脇時58,5~56,2cm 平安時代
●阿弥陀如来坐像 木造漆箔 138,2cm 平安時代
●薬師如来 坐像 木造 145,4cm 平安時代
●聖観音半跏像 銅像鍍金 13,0cm 白鳳時代
●毘沙門天立像 木造彩色 105,4㎝ 平安時代
●千手観音坐像 木造 12,5cm 平安時代(箱佛)
●菩薩 半跏像 銅像 22,5cm 白鳳時代
●東大門 3間1戸 切妻造葺
●聖徳太子絵伝 絹本著色 掛幅装 150,0:83,5㎝ 鎌倉時代
●両界曼荼羅図 絹本著色 掛幅装 胎蔵界182,3:163,0㎝ 金剛界181,5:162,5㎝ 鎌倉時代
●聖徳太子絵伝 6面 板絵著色 狩野山楽筆 198,0:52,0~77,0㎝ 江戸時代
●舎利塔 銀製 10,1cm 鎌倉時代
●五智光院
●湯屋方丈 江戸時代
●元三大師堂 江戸時代
●石の鳥居 吉野、銅の鳥居・安芸の宮島、木の鳥居と共に日本三鳥居
●石舞台 等々
2006年12月27日後半 2011年2月19日梵鐘 2017年3月8日一部 6月⒛日 10月16日 12月22日 2018年3月15日加筆