黄檗宗
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江戸時代中期、長崎在住の中国系の人から招かれ当初三年の約束で、明の弟子二十数名と共に渡来した隠元・隆琦(1654年)によって始められた宗派である、臨済宗に於いて無準師範の流れをくみ円爾(弁円 道号は使われない)・無学祖元等と同じ楊岐派・法系に属する。
また渡来した禅僧の内でも隠元(1592~1673年)は中国に置いては最高の高僧である、隠元は戒律を厳守する中国臨済宗の正統を継承する僧侶(臨済正伝)で衰退していた禅宗系の再興に尽力した、従って黄檗宗の寺院は最盛期には三千ヶ寺を超えていた。
公案禅重視の臨済との相違と言えば黄檗は念仏禅であり念仏と禅のコラボを特徴としている点と密教の比重が臨済宗より多い事、通常の勤行書として・禅林課誦が使用される、また同じ経典でも日本では呉音・漢音・宋音が交錯する中で読経が黄檗唐音と言う発音が使用され全く違う点である、因みに日本に於いては仏教用語は呉音が多く使用されている、また他の禅宗系では鎌倉時代に宋から渡来した
蘭渓道隆や無学祖元等の影響がある為に宋音で発音される事が多い、因みに公案とは禅宗系、特に臨済、黄檗宗に於いて修行者に覚りに至る道標として、出題された問答(禅)を言う、元来は中国の官庁で出された文書である、著名な公案に「隻手の声」、「狗子仏性」等々がある。
注、漢音、呉音の他に宋音と言い南中国の発音で唐音(とういん)とも言う、いずれにしても日本人には中国から伝来した祝詞である。
文字の国である中国には多様な書体がある、甲骨文字、隷書、篆書、楷書等々があり経典にも使用された、特に黄檗宗が盛んであり黄檗の三筆と称される能書家すなわち・隠元隆琦(1592~1673年)独立性易(1596~1672年)木庵性瑫(1611~1684年)を輩出した。
隠元は中国福建省・黄檗山万福寺出身である為に黄檗宗を名乗ったとされるが、臨済宗を呼称しない事に諸説が交錯するが確証はない、但し正式に黄檗宗を呼称したのは明治時代(1876年)以降である。
大本山・萬福寺(宇治市)の住持は初代の隠元から十三世竺庵浄印まで全て中国人であった為、中国仏教としての正統意識が強く、日本臨済宗とは異なる黄檗禅とされる、黄檗山の建築物と黄檗僧の生活様式はすべて中国風であり、寺院建築・釈迦如来像とその佛師・礼儀作法・言動に到るまで中国式に行はれ日本の中の中国とまで言われた、因みに曹洞宗、黄檗宗では総本山は置かれていない。
4月8日に全国の寺院で行われる、釈尊の生誕を祝う灌仏会に甘茶を灌ぐのは黄檗宗が最初である、呼び名は多様で仏生会、仏誕、降誕会、浴仏斎、竜華会等の呼称もある、但し灌仏会・仏生会としては日本では元興寺が嚆矢とされている。
1874年に臨済宗に吸収されたが数年後に独立して現在32派に分かれている。
鎌倉時代には南宋から多くの禅僧が逃避し、日本に永住した、彼らの書した書体は経文等に使われて、優れた文化を育む事に貢献する、書体とは・甲骨文・金紋・隷書・篆書・楷書・叢書・草書などである。
能書家に黄檗の三筆と言われた・隠元隆琦・木庵性瑫・即非如一が居り、禅僧による「墨跡(禅林墨跡)」と呼ばれる宋時代の書風が残された、因みに三筆と呼ばれるグループは多いが日本に於ける三筆は・空海・橘逸勢・嵯峨天皇が著名である。
wikipediaで三筆を検索してみると、その他のに
・世尊寺流三筆に藤原行成、世尊寺行能、世尊寺行尹 (行成を祖とするが、上に小野道風、同系に法性寺流、持明院流など)
・寛永の三筆に本阿弥光悦、近衛信尹、松花堂昭乗、
・幕末の三筆に市河米庵、貫名菘翁
・明治の三筆に日下部鳴鶴、中林梧竹、巌谷一六 等が挙げられている。
黄檗宗の経典 施餓鬼法要の経本とし・瑜伽焔口科範通常の勤行書として・禅林課誦 陀羅尼的に・往生浄土神咒(拔一切業障 根本 得生淨土 陀羅尼)、等
主な寺院
○大本山万福寺 京都府宇治市五ヶ庄
○崇福寺 長崎市鍛冶町
信徒数約三十六万人 寺院数四百六十三、
注1、 念仏禅 往生・浄土などを合わせて説き「念禅一致」を目指す。
注2、 四聖句 達磨大師の禅の心得とされる事項に、禅宗三派の共通項である、禅の基本は以下の項目と成る。
・教外別伝 仏法には言葉や文字に依らず、心から心へと伝える
・不立文字 覚り即ち法は文字や言説では無く師から弟子へ伝える
・直指人心 生まれながらに持つ仏性を体得、体感する
・見性成仏 見性で覚る、見性悟道にある、見性とは国語辞典に依れば「自己に本来備わっている本性を見究めること」。
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2013年12月29日黄檗の三筆更新