臨済宗

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釈尊から十大弟子の一人・大迦葉を経て二十八伝目とされを標榜する菩提達磨(だるま)を初祖として六祖、慧能(えのう)南宗禅を通しているが、事実上の開祖は十伝以上を経過した唐の臨済義玄?866年)で中国臨済宗が成立する、義玄曰く「三乗十二分教は皆な是れ不浄を拭う故紙」経典の権威に対する軽視は峻烈を極める、坐禅を介して「己の脱落安心(あんじん)」「本来無一物(ほんらいむいちもつ)(注4即ち覚りを会得する宗派である、宗旨として達磨以来「四聖句」(注3すなわち「不立文字(ふりゅうもんじ)」「教外(きょうげ)別伝(べつでん) 」「見性(けんしょう)成仏(じょうぶつ) 」「直指(じきし)人心(にんしん)」がある、経典に依存しないで心から心に働きかけ覚りを目指す事にある。           

禅宗系三派(臨済宗 曹洞宗 黄檗宗)では公案を重要視する宗派で、師が公案と称する問題を出すと弟子は理論思考を超え体全体から解を応える禅である、公案禅すなわち臨済禅の禅は看話禅(かんなぜん)と言われ、座禅を覚りへの手段と考へ公案禅を手段とする、古則(こそく)公案を中心に参禅する宗派である、ちなみに公案には古則公案と現成(げんじょう)公案がある、語源は公案(こうあん)案牘(あんとく)とされる、古則は覚りを開いたとされる先人の言語録の収集である、現成公案は古則即ち達磨から数えて六祖の慧能による頓悟禅(とんごぜん)の咀嚼編・応用編である、公案禅すなわち同じ臨済系の黄檗宗の座禅中に仏を念ずる念仏禅が主な相違である。 
著名な例を挙げれば、一休宗純が 師の華叟宗雲(かそうそうどん)との公案禅で答えた歌が著名である、この歌で師から一休と銘々されたと言う、有漏(うろ)()より 無漏(むろ)()へ帰る一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」一休宗純、有漏路とは迷いの世界に居る事で、無漏とは煩悩が無くなった状態即ち覚りを言う。
禅の祖地中国の一例を挙げれば、師である南獄(なんがく)と弟子で逸材の馬祖(ばそ)の公案禅を挙げよう、
嶽「お前は座禅をして何をするつもりか?」
馬祖「仏に成る為です」
嶽「師は無言で無言で瓦を磨き始めた」
馬祖「何をされているのですか?」

南嶽「瓦を磨いて鏡を作ろうとしている」
馬祖「瓦を磨いても鏡にはなりません」
南嶽「座禅で仏になど成れようか」 *
座禅のみに拘る執着への戒めと言われている。 *井上暉堂著 朱鷺書房より  

わが国では千光(せんこう)国師・明庵栄西が唐より持ち帰った宗派とされている、栄西は自著「興禅護国論」に於いて”禅宗は諸教の極理、仏法の総府なり”等と鼓吹(こすい)していたが、元来の所属は天台僧であり、台密葉上派の祖でもあった、要するの日本の禅は北条時頼が南宋の僧・蘭渓道隆を鎌倉に呼ぶまでは禅密兼習が普通であり、栄西も密教の祈祷僧として知られていた様である、また中国で受けた伝法印は慧南を祖とする黄竜派(おうりょうは)の禅である、凡聖一如(ぼんしょういちにょ)・衆生即仏すなわち天台の本覚思想を極めており比叡山の圧力を考慮してか、鎌倉の寿福寺はともかく、京都に開いた建仁寺に於いては真言院・止観院・禅堂を置いた兼学の寺であった。
当時の建仁寺は
比叡山延暦寺の京都出張所的な存在であった為、本来本尊は釈迦牟尼仏であるが臨済宗寺院も薬師如来大日如来観音菩薩等を本尊に安置する寺は多い、余談ながら黄檗宗中心であるが臨済宗に於いても「禅浄双修(習)」と言い念仏の唱える、ただし南無阿弥陀仏を「なむおみとうふう」と発音している。
その為密教(台密)を含む天台教学に禅を加えた程度であり、密教の加持祈祷(注5)も行っており天台密教の本覚思想家としての活動部分の方が多かった、
梵聖一如(ぼんしょういちにょ)、衆生即佛)
「赤肉団上に一無位の真人あり。常に汝等諸人の面前より出入りす。未だ証拠せざる者は、看よ看よ」即ち「一無位の真人」の自覚である。
本来の臨済宗の禅は十三世紀鎌倉幕府によって保護された渡来僧であり北条時頼に呼ばれ建長寺の開祖・蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)や時宗に呼ばれ円覚寺の開祖・無学(むがく)祖元(そげん)等によってもたらされたものが臨済宗の禅であると言える、因みに仏教に於いて無学とは道を学び尽したと言う意味で、有学は学び残している状態を言う、有無に付いてもう一例を挙げると分別と無分別がある、仏教用語の分別は、「凡夫が起こす誤った判断」を言う、無分別とは「覚りの智慧」と言う。
また栄西が中国で伝法印を受けたのは黄竜派のものであり現在に於ける日本臨済宗の主流は江戸時代に白隠慧鶴(1685~1768年)による楊岐(ようぎ)派の法系で占められている。
従って禅宗が重要視する祖師の頂相として栄西が奉られている寺は鎌倉では寿福寺、京都では建仁寺の系列寺院に限られている。
日本臨済宗はその後インドの五精舎や中国の五山・十刹(じっせつ)・諸山の制度を真似て千二百五十一年鎌倉・千三百七年京都に於いて五山制度が定められた。
しかし五山の間での政争や為政者との癒着から人事権を簒奪されるなど寺格争いが激しくなり、五山の変更なども繰り返された。
千三百八十六年、足利義満によって寺格が決められ制度として確立された、一例を挙げれば義満以前の大徳寺は五山一の挌にあったが、十刹の九まで下げられ離脱した、また自身が建立した相国寺の寺格を五山に加える為に南禅寺を五山の上に格上げした。
釈尊
に帰れと言う宗派に拘わらず各寺院に祭られている仏像も様々であるのは、これも当初建仁寺が兼学道場であった為かも知れない。
しかし室町幕府の時代までは五山は叢林(そうりん)派とも呼ばれ、鎌倉・室町幕府の庇護・癒着などを受ける事により武家の宗派とも言われた、しだいに貴族化しながら栄え、枯山水の庭園・茶道・書画・漢詩文学など五山芸術を謳歌した、しかし為政者との癒着により臨済禅は衰退する。
その後次第に権力機構とは無縁の林下派と呼ばれるグループが台頭、禅宗本来の初心に返った修行・参禅により力をつけ応燈派(大燈派)と呼ばれる勢力を形成、栄西の孫弟子・円爾弁円(えんにべんねん)の甥で建長寺の大応国師・南浦紹明(なんばじょうみん)をリーダーとして大燈国師・宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)に始まり一休宗純・沢庵らの逸材を輩出した大徳寺・無相大師・関山慧玄(かんざんえげん)(妙超の弟子)による妙心寺・に勢力が移り変わった。
現在まで宗教的活動を行っている臨済宗各派の人材は全て応燈関の一派
(三名から一字ずつ取った)とも呼ばれるこのグループの後継者で占められている。
特に江戸時代中期に妙心寺から臨済宗中興の祖、すなわち五百年に一人の逸材と言われた白隠(はくいん)慧鶴(えかく)が現れてからは鵠林派(こうりんは)ともよばれ、労働の中に禅を取り込む簡易な中にも厳しい公案禅(禅問答)は臨済宗を席捲した、現在に於いて臨済宗に於ける全15派は凡て白隠の法系で占められている、禅僧である白隠の特徴は観音信仰に篤く観音経を詠み、偽経と熟知の上で延命十句観音経を重要視したことにある(延命十句観音経の全文は観音経に記述)
昭和十六年国家の統制により臨済宗の大本山は一番盛んな妙心寺に統一されたが敗戦後に各々の宗派に独立した、現在でも妙心寺派が寺院数で全臨済宗の六割を占めて宗派らしい活動をしている。
相国寺派は末寺に金閣寺
鹿苑寺(ろくおんじ)銀閣寺(慈照寺(じしょうじ)承天閣美術館などを持ち多くの観光客を集め京都観光産業の中核を為している。
大徳寺は侘び茶の創設者村田
珠光(じゅこう)の参禅やその弟子筋にあたる千利休の墓所もあって、茶道家元衆(三千家すなわち表・裏・武者小路・他)と深い関係が続いており観光だけでない存在感を持っている。    
臨済宗には本山を「ずら」呼びする風習があり・大徳寺を「茶ずら」・妙心寺を「算盤ずら」・東福寺を「伽藍ずら」・建仁寺を「学問ずら」・相国寺を「声明ずら」などと呼ばれていた。
禅宗系に付いて日本では24派が宗派を形成しているとされるが、臨済系21派(大本山21寺)、曹洞宗3派とされる。 

臨済宗では葬儀などに「観音経」「大悲心陀羅尼」を読誦する、特に大悲心陀羅尼は意訳すれば呪文であり千手観音の功徳を讃えているが、意味合いは重要視されていない様である、因みに正式名称は「千手千眼観自在菩薩円満無礙大悲心陀羅尼」と長い。

臨済宗から著名な高僧が輩出しているが、一部分を挙げてみよう。
臨済宗の祖*明庵栄西(みょうあんようさい)、 お馴染みの*一休宗純(そうじゅん)、 漢詩人としても著名な*夢窓疎石(むそうそせき)、 臨在宗中興の祖*白隠慧鶴(はくいん えかく)、 書画茶道に通じた*沢庵宗彭(たくあんそうほう)、 大覚派の祖*蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)隆、 理解しやすい言語で法を説いた*盤珪永琢(ばんけいようたく)等々多士済々と言える。
  
 

信徒数約一〇二万人  ・寺院数5,726ヶ寺    本尊 釈迦如来、但し特定されていない。    
経典 特定経典はないが 般若心経  金剛般若経  楞伽経 等 。   
   


臨済宗各宗派の寺院数 (臨済宗の常識 朱鷺書房 井上暉堂)平成14年文化庁「宗教年鑑」より

  宗派  寺院数   信者数 
 妙心寺派   3,406  327,487 
 建長寺派   406  263,300 
 円覚寺派   212   93,709 
 南禅寺派   427   36,048 
 方広寺派   171   18,795 
 永源寺派   129   15,171 
 佛通寺派     50    37,900
 東福寺派   365    40,000
 相国寺派    93     7,445
 建仁寺派   69   26,150 
 天竜寺派   105   89.700 
 向嶽寺派    61   89,700 
 大徳寺派   201   51,050 
 国泰寺派    35    1,680 
 合計  5,730  ≒ 994,435



1、 五山・十刹・諸山・林下、臨済宗寺院のランク付である、当初はインドの五精舎・十塔所の制度を模倣したもので、中国に引き継がれて南宋時代に於ける禅宗寺院に規制と保護を目的として官僚機構を絡めたもので、政治権力者が任命件を行使し、日本では北条家が鎌倉に五大官寺を開山したのを嚆矢とし後に寺挌を現すものとなった。
日本に於いては室町時代初期に採用され曲折はあったが1615年に徳川幕府が五山十刹に対して法度を出し順位は固定された。   

公案とは禅宗系、特に臨済、黄檗宗に於いて修行者に覚りに至る道標として、出題された問答(禅)を言う、元来は中国の官庁で出された文書である、著名な公案に「隻手の声」、「狗子仏性」等々がある
五精舎とはインドの・祇園精舎・竹林精舎・大林(だいりん)精舎・鹿園(ろくおん)精舎・那爛陀(ナーランダ)寺を模倣したものである、十刹、諸山と寺格は続く。

2、 公案禅 佛・祖師・の説法、問答を言い、仏法の公理・禅の覚りを目指す。
公案とは禅宗系、特に臨済、黄檗宗に於いて修行者に覚りに至る道標として、出題された問答(禅)を言う、元来は中国の官庁で出された文書である、著名な公案に白隠による「隻手の音声」、「狗子仏性(くしぶつしょう)」等々がある
大徳寺真珠庵・先代住職・山田宗俊師は言う、「禅は思想や哲学ではなく、人間としての見性体験(けんしょうたいけん)(覚り)と、それに基ずく行為そのものである」。
 

3、 四聖句 (ししょうく)達磨大師の禅の心得とされる事項に、禅宗三派の共通項である、禅の基本は以下の項目と成る。
教外別伝  (きょうげべつでん)   仏法には言葉や文字に依らず、心から心へと伝える 
不立文字  (ふりゅうもんじ)   覚り即ち法は文字や言説では無く師から弟子へ伝える
直指人心  (じきしにんしん)   生まれながらに持つ仏性を体得、体感する 
見性成仏  (けんしょうじょうぶつ)   見性で覚る、見性悟道にある、見性とは国語辞典に依れば「自己に本来備わっている本性を見究めること」。
 

4、 中国禅宗第六祖・大鑑禅師慧能の偈     「菩提本無樹 明鏡亦非台 本来無一物 何処惹塵埃」     菩提本無樹(菩提(もと)(じゅ)無し  明鏡亦非台(明鏡も(また)台に非ず  本来無一物(本来無一(もつ)   何処惹塵埃(何れの処にか塵埃(じんあい)を惹かん) 。

注5、加持祈祷の加持とは加=仏の働きかけを言う、持
=行者が「加」を受ける事である。

6、各宗派内部の序列格式としての寺格制度が定着する。

臨済宗寺院を五山、十刹、諸山、林下に分類した、曹洞宗では「別格寺院」を常恒会、片法幢会、随意会に、「法地(普通寺院)」を14にし、その下部に「平僧地」を置いた、浄土真宗では院家、内陣、余間、飛檐、平僧に区分した、さらに複雑な寺格が定められて上納金によって昇進することが出来た、1871年(明治4年)に寺格は廃止されたが現在も教団には残されている。

注7、 金閣寺 銀閣寺の総本山は足利義満が創建した相国寺であるが、相国とは中国に於いては宰相 太政大臣 左大臣の別称であり足利義満とダブらせている、また相国寺には義満の位牌があり「鹿苑院太上天皇尊」と書かれている。


主な寺院と五山 五山(ござん)叢林(そうりん)(五山を表にし各派の大本山を記す)○印大本山 ●印末寺
、五山の内訳 
*五山制度はインドの
天竺五精舎」を模した制度である、因みに精舎を梵語でvihāra(ビハーラ)と言う、因みに「天竺五精舎(天竺五山)」とは、竹林精舎、()樹給(じゅぎつ)孤独(こどく)(おん)精舎(祇園精舎)、(あん)羅樹(らじゅ)(おん)精舎、大林精舎、(りょう)(じゅ)精舎が言われている。  

 寺  挌

 五山の上

 京都五山 

 南禅寺

 天竜寺 

 相国寺 

 建仁寺 

 東福寺 

 満寿寺 

 鎌倉五山

  

 建長寺

 円覚寺

 寿福寺

 浄智寺

 浄妙寺

*京都五山は当初相国寺は存在しなかったが、三代将軍 足利義満がスポンサーとして相国寺が創建されて、南禅寺であったが、義満の祖父 尊氏が創建した天竜寺に後に強引に組み入れられた   

大徳寺 京都市北区柴野大徳寺町五十三 

妙心寺 京都市右京区花園妙心寺町六十四

南禅寺 京都市左京区南禅寺福池町

○天竜寺 京都市右京区嵯峨天竜寺芒ノ馬場

○相国寺 京都市上京区今出川通り烏丸東入る 

建仁寺 京都市東山区大和大路通四条下る

東福寺 京都市東山区本町十五丁目 

○建長寺 鎌倉市山ノ内八 

○円覚寺 鎌倉市山ノ内四百九 

○方広寺 静岡県引佐郡引佐町奥山

○向嶽寺 山梨県塩山市上於曾 

○国泰寺 富山県高岡市太田 

○永源寺 滋賀県神崎郡永源寺町高野 

○佛通寺 広島県三原市高坂町 

●金閣寺相国寺派別挌本山)北区金閣寺町・

銀閣寺 左京区銀閣寺町(以上相国寺派) 

●竜安寺 石庭(妙心寺派) 京都市右京区竜安寺町  

●西芳寺 苔寺(天竜寺派)右京区松尾神が谷町 

●妙喜庵 待庵(東福寺派)乙訓郡大山崎村 

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系列大学 (妙心寺派)
花園大学  京都市中京区西ノ京

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