泉涌寺
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泉涌寺(せんにゅうじ)平安時代以降に於ける天皇家の事実上の菩提寺である、京都の喧騒を感じさせない東山連峰の(つき)輪山(のわさん)山麓(さんろく)の地に境内の内外に多くの塔頭寺院を従えて泉山(せんざん)御寺(おてら)、泉涌寺はある。   
創建時は法輪寺を呼称したが、後に仙遊寺となり鎌倉時代初期(1218年、建保6)戒律の復活に尽力した(がち)輪大師俊芿(りんだいししゅんじょう)を事実上の開祖として泉涌寺となる、歴史的に四宗兼学の寺であったが、明治以降に真言宗となり泉涌寺派を統括する総本山であり、歴代天皇の多くの葬儀は孝明天皇まで泉涌寺で行われた、因みに当寺が天皇家の菩提寺となったのは、四条天皇が事実上の泉涌寺派の俊芿(しゅんじょう)に篤く帰依した関係からとされる

当寺中核の仏殿には過去、現在、未来すなわち阿弥陀如来釈迦如来弥勒如来で構成する三尊の如来が安置されている、文化財は国宝、「泉涌寺勧縁疏(かんえんしょ)」や観音堂の「楊貴妃観音(聖観音菩薩)」等々が文化財指定を受けている。 

俊芿自筆とされる「泉涌寺勧縁疏伽藍造営を目的とし、資金を皇室や北條一門など諸方面に求めた黄山谷流(こう ざんこくりゅう)の書風で書かれ国宝に指定されている。
更に観音堂の楊貴妃観音は、俊芿の後継で第二世・湛海が宋から将来した尊像で請来仏の内でも特に耽美さを魅せる美しい
観音菩薩である。
境内には帝達が帰依された雲竜院(重文の本堂に薬師三尊像)西国三十三所15番)今熊野観音寺、運慶 湛慶の共作と言われる542,4cm釈迦如来(重文)を持つ戒光寺、新善光寺、逆手来迎印や宝冠をかぶる阿弥陀如来の悲田院、二十五菩薩(重文)を従える阿弥陀如来の即成院空海ゆかりの独鈷水のある来迎院等多くの塔頭寺院がある、また京都十三仏霊場があり六番札所となっている、20147月に新たに塔頭の戒光寺が霊場に加わった。
因みに泉涌寺に於いて歴代天皇の葬儀が行われたのは神武天皇を初代としての計算で、1371(應安4年)99代~100代の間の、北4代の後光厳天皇から江戸時代最後の121代光明天皇すなわち明治時代以前まで行われた 
江戸時代には天皇家の菩提寺として幕府の保護も篤く寺領は1300石余であった、1668(寛文8)には徳川家綱によって伽藍がリニューアルされ安定した状態を保つことが出来た、しかし明治維新の神仏分離令によって天皇陵は泉涌寺から切りはなされたが、現在に於いても皇室の私的参詣は継続されている。 
しかし現在に於いても霊明殿や海会堂には歴代天皇の
位牌等が奉られており宗派を超越したプレステージprestigeが揺らぐ事はない。 


宗派 真言宗泉涌寺派総本山       所在地 京都市東山区泉涌寺山内町   

 


泉涌寺の文化財
国宝 
泉涌寺勧縁疏(かんえんそ)-俊芿筆。俊芿が、荒廃した寺院を「泉涌寺」と改名して再興を目指し、人々の喜捨を求める趣意書で、泉涌寺建立の起源にかかわる歴史上重要な文書である、また黄山谷流の書風で書籍としての評価がも高い。 


 重要文化財     
大門     四脚門 切妻造 本瓦葺き 桃山時代                  
開山堂  開山塔      宝形造  桧皮葺  江戸時代 
仏殿 桁行五間 梁間六間  袴腰  入母屋造  本瓦葺  江戸時代       
石造無縫塔 二基    
道宣律師 元照律師像 絹本著色    
俊芿律師像         絹本著色
後陽成院像         絹本著色   狩野孝信筆
観音菩薩坐像(楊貴妃観音)木造  韋駄天立像、伝月蓋長者立像              
中御門天皇宸翰大円覚心照国師号勅書     
太刀銘大和則長
法華経 10巻 



                               
  

     雲竜院 薬師三尊                        悲田院 逆手来迎印の阿弥陀如来        楊貴妃観音堂   楊貴妃観音(聖観音)
       
 

 写真は
泉涌寺公式サイトから転写 



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