比叡山 延暦寺

            説明: C:\Users\Owner\katada202\siga\button1.gif              仏像案内    寺院案内     最澄    天台宗     世界文化遺産


号は比叡山、全山に広大な寺域を所持しており佛教のみならず日本に於ける文化の中核をなしていた、延暦寺は三塔(東塔・西塔・横川)十六谷に 根本中堂、大講堂、文殊楼に代表される東塔・釈迦堂のある西塔・横川中堂の横川の地域分類された三千棟近い寺坊を総称して比叡山延暦寺と呼ばれる天台宗の総本山である、因みに比叡山は略五峰の主峰を中心に構成されている、* 大比叡(おおびえ)()(たけ)848m * ()()ヶ岳838m *(よこ)高山(たかやま)750m 釈迦ヶ岳) * 水井山(みずいやま)794m * 三石山(みついしやま)675m等である。

七百八十八年頃最澄が現在の東塔・根本中堂付近に草庵を結び、自ら刻んだ等身大の薬師如来を安置し「一乗止観院」を創建したのが嚆矢とされる、これが「比叡山寺」となり最澄の没後に嵯峨天皇から「延暦寺」(823年)の寺号を授かる、因みに一乗とは法華経を基本とする思想で凡ての衆生も仏に成れると言われる教義である、なお一乗止観院の構成は・根本中堂・根本薬師堂・経蔵・文殊堂である。
延暦寺は創建当初は「比叡山寺」と呼ばれていたが823年に朝廷から詔を受け年号にちなんだ「延暦寺」と名乗ことを許されるがいずれも最澄入寂後のことである。
延暦寺は奈良仏教から平安仏教への転換の拠点である、相違は奈良仏教が都市部に拠点を置いたのに対して天台・真言は主に山岳に拠点を置いている、また徳一を中心とする南都仏教の五性各別
(人間が成仏出来るか否かは人間の素質による)に対して仏性論(総ての人間は成仏出来る)で対抗し戒律を二百五十戒から一向大乗戒すなわち四十八軽戒に軽減した事にある。
これが後に・法然を祖とする浄土宗 ・親鸞を祖とする浄土真宗 ・慧能による禅宗系
臨済宗曹洞宗 ・日蓮を祖とする日蓮宗等を誕生させる事になる。 

比叡山は・東塔・西塔・横川の三塔で構成されているが全域を「院々谷々」と言う呼称もされた、主な堂宇を挙げると、

東塔(とうどう)
東・西・南・北・無動寺の五谷より成る
根本中堂  
不滅の法灯  本尊薬師如来 1642年再建 w37.5m H24.2m D23.9m 梁間6間 桁行11 一重 入母屋造 国宝
大講堂  
1956年讃仏堂(坂本)移設  梁間6間 桁行7 一重 入母屋造
文殊楼  
中国五台山文殊楼がモデル
戒壇院  大乗戒壇院 1678年再建 梁間桁行3間 一重 裳階付 とち板葺き 宝形造  重文 
阿弥陀堂
無動堂 無動尊すなわち不動明王が本尊
(秘仏)  荒行で知られる千日回峰行で著名 
浄土院 
総持坊  
北谷の総坊
蓮如堂  等。 
東塔(とうどう)
は総本堂として根本中堂があり788年以来1200年に亘り守り継がれたと言う「不滅の法灯」があり、薬師如来が安置され文殊楼・戒壇院・阿弥陀堂・講堂・法華総寺院等で構成される、ただし不滅の法灯が置かれる根本中堂は1435年足利義教・1499年細川政元・1571年織田信長に焼かれて空白期間がある、1585年分灯してあったとされる「閑さや巖にしみ入る蝉の声」で著名な山形県、立石寺から帰る。


西塔(さいとう)東・北・南・北尾・南尾の五谷より成る。 
釈迦堂(転法輪堂)  園城寺の弥勒堂を移設  梁間7間 桁行7 一重 入母屋造
本覚院  
居士林とも言い研修道場
瑠璃堂  叡山焼き討ちを唯一免れた堂宇(重文) 本尊 薬師如来  等。
西塔(さいとう)
は第二代座主・(えん)(ちょう)が開祖とされ瑠璃堂・最澄の廟のある浄土院・延暦寺最古の堂宇、釈迦堂(西塔本堂)・法華堂・椿堂・にない堂などがある。 

黒谷別所青龍寺 西塔五谷から外れ別所黒谷と言う(法然の居住した処)  他に安楽院谷別所安楽律院がある。 


横川(よかわ)般若・解脱・兜率()樺尾(かぼう)・戒心・飯室の六谷より成る。 
根本如法塔
(多宝塔)  円仁が常坐三昧した処

横川中堂  1971年再建の舞台造りの本堂   本尊 聖観音菩薩

惠心院  源信(惠心)が往生要集を著した処

定心坊(四季講堂)  良源     等。
第三代座主・慈覚大師円仁が開いた横川(よかわ)であるが、事実上は良源(元三大師)である、横川中堂を中心にして・念仏発祥の恵心院・元三大師廟・元三大師堂・常光院堂等で構成されている。
横川は叡山の隠棲地と言われるが逸材を多く輩出している、天台本覚論
(注5の完成者、良源を初め往生要集の源信、法然(黒谷)親鸞や道元が学んだ所でもある、因みに良源の時代には横川は独立した聖地となり三搭(東搭・西塔・横川)が鼎立状態になる、当初ノーベル賞受賞者は東京大学よりも京都大学関係者が多かった、横川は叡山の京大かもしれない。
この三塔の完成で円仁は東塔を「金剛界智拳峰・法華本門顕遠峰」と呼び西塔を「胎蔵界理拳峰・法華迹門開三峰」横川を「蘇悉地不二峰・法華観心峰」と呼び顕密一致として日本独自の天台教学の確立に勉めた、これで金剛界胎蔵界に蘇悉地を揃えて真言宗を凌駕したと言う意識が覗える。 
三塔とも山徒、衆徒達の下級僧
(多くは妻帯僧)のパワーは強く京の都を支配していたと言える、白河院曰く「天下三不如意」とまで畏怖させた山法師達(大衆)
(ごう)()を繰り返した、寺の実権を持ち運営していたのは坐主を初めとする学僧ではなく衆徒たちの衆議により決められていた、因みに白河上皇をも嘆かせた、三不如意とは「加茂川の水・双六の賽・山法師、 是ぞわが心にかなわぬもの」、嗷訴(ごうそ)は延暦寺だけではない、南都北嶺と言い”山階道理”と言われた興福寺も同様であった、延暦寺囚徒の強訴や園城寺襲撃の様子は平家物語にも詳しい。
最澄の晩年は比叡山の中で絶対的な統率力を失っていた様である、山内に於いて大衆達に主たる権限を簒奪されていたとの指摘もある、比叡山の後継者たる「付法の印書」を義真と円澄とに与えて混乱させ山門派と寺門派との分裂の原因を作り示寂した。
大衆であるが山内のヒエラルキー
Hierarchie)に一応、座主の地位に付く既得権を持つ*門跡(もんぜき)、 寺務を行う*寺家(じけ)、 事実上妻帯し運営の実務を掌り強訴や政治力を駆使する*大衆(だいしゅ)に分類されていた。
延暦寺は最盛期には三千もの堂宇を持ち日本最大級のスケールを誇る大寺院である、中でも東塔の根本中堂や義真による大講堂・西塔の釈迦堂・横川の横川中堂は三大堂と呼ばれて延暦寺の中核をなし、特に千二百年に亘る不滅の法燈を燈す、国宝・根本中堂は徳川家光の再建で76本の欅の柱に支えられている、外陣・中陣・内陣に分かれ内陣の宮殿に秘仏とされる薬師如来が安置される。
辛辣な派閥抗争を抱えながら巨大な権勢を維持していた、三塔十六谷に割拠しても、惣寺(そうじ)としての結束に付いて必要時には守られた様で洛内に於いて布教の許可すなわち「允許(いんきょ)」は比叡山の山徒、衆徒が実権を持つ「寺家(じけ)」の承認を必要とした、中世に於いては統括的地位にある最高位の座主(ざす)の権限は教義面等の一部であったとの指摘がある。
白河法皇の「天下三不如意」
(注4ではないが、山法師すなわち衆徒達を中心とした嗷訴(ごうそ)は強烈を極めたと、イエズス会のルイス フロイスが述べている。
宗祖は伝教大師・最澄、二十歳頃
(785年)現在の根本中堂のあたりに一乗止観院と名乗る草庵を建て自身が信仰する薬師如来を安置した事に始まる、創建当初は根本薬師堂に文殊堂と経堂の小さな庵であったらしい,当初の名称は「比叡山寺」を呼称していたが禁裏から年号の延暦寺の名称を授かる。
804年空海等と共に入唐し、天台知顗(ちぎ)より7代目の道邃(どうすい)に学び7ヶ月程の学習で帰国し天台法華宗を興すが法華経(円)を中心としながらも・円頓戒・密を取り入れ四宗兼学(四宗相承)即ち複合宗教とした為に中国の天台宗とは異質な宗派となった。
戒律
に於いて最澄の悲願として818年鑑真が東大寺に於いて興した具足戒を止め新しいく菩薩戒を行う大乗戒壇院の設立を勅願する、その間「守護国界章」「顕戒論」を上奏し努めるが、南都勢力の反対にあい勅許を受けたのは最澄の死後7日目の8226月であった、しか以後延暦寺は南都佛教の制約から独立した、それまでの天下三戒壇は*大和の大寺*()下野(しもつけ)(栃木県下野市笹原26の薬師寺、*大宰府の観世音寺であった。

最澄の最大のスポンサーは桓武天皇で天台宗は政権と結合して勢力を誇示した、因みに天台宗はエンブレムに菊の紋章を使用しているが、最澄が桓武天皇に十六辯の菊を献上して以降天皇家の紋章になったと言われ、天台宗も使用を許可されていると言う。
九世紀に入り嵯峨天皇の御世になり、空海真言宗に次第に凌駕される、桓武天皇の御世があと10年長ければ日本の仏教界の勢力地図は天台宗一色になっていた事だろう。
苦難に遭う延暦寺を再構築し全盛期を呼んだのは密教の比重を強めた円仁
(三代天台座主)・円珍(第五代天台座主)安然等の精鋭であり真言宗との対抗上密教色を強めて日本仏教界の最大勢力となる、但し初代座主・義真建立による大講堂には既に密教に傾注した形態が観られる、現在に於いては比叡山を離れて一派を起こした人々で、当時は天台から見れば異端者と言える祖師達、即ち円珍(天台寺門宗)・良忍(融通念仏宗)法然(浄土宗)親鸞(真宗)・道元(曹洞宗)・一遍(時宗)・日蓮(日蓮宗)等の像が安置されている、ここにも教義に対しての固執を捨てる日本教の典型がある。
但し創成期以降、経済的には恵まれなかったが次第に貴族たちの信仰を集める、仁明天皇846年には二人の王子の入山に前後して田地を授かり定心院に十禅師が置かれた、十禅師とは宮中内道場に支える十人の僧で知徳を兼備した僧が任命した、天皇の脇に支える内供奉(ないぐぶ)を兼ねており、内供奉十禅師ともいわれる。
時の経過と共に武力・財力を備え政治をも動かす権力機構に変貌してゆく、強訴等の圧力集団は南都北嶺の内奈良では興福寺の山階道理と呼ばれた、強力な僧兵
(山法師)を擁した比叡山は「三不如意」と言われ権力の頂点に居た白河上皇をも嘆かせた。
しかし権力抗争・風紀の乱れ等で比叡山は荒廃する、元三大師・良源が十八代座主に就任し法華一乗を更に理論化し、さらに源信を含む優れた弟子達を養成して原点に回帰目指して比叡山を再構築する。
しかし室町幕府の時代になると南朝をバックアップした事などもあり荘園を減らされ、さらに織田信長に全山焼き討ちに遭うが秀吉・家康の援助で復興を果す。
延暦寺は第十八代良源の時代に九条家出身の尋禅を迎え第十九代にした事を契機に、全盛期には皇室や藤原摂関家からの入山が増える、従って座主は家柄の高貴な階層に占められた、これにより青蓮院曼殊院妙法院三千院などの門跡寺院も数を増すことになる。
延暦寺では不動明王と同体となるとされる過酷な荒行が行われている、「千日回峰行(せんにちかいほうぎょう)」と言い、一日で約30㎞~80km・255の霊場を走破し7年間に千回を巡拝する、その内九日間は断食・不眠・不臥・断水が科せられる時がある、これは円仁が中国五台山で行われている荒行を比叡山に取り入れた行である。

天台宗は曹洞宗と共に分裂・分派現象は少ないが最澄亡き後の権力抗争は熾烈を極めた様である、十世期末頃に慈覚大師、円仁派宗徒と智証大師、円珍派宗徒の対立が激化し円珍派は山を下り三井寺(園城寺)を拠点として寺門派を形成する、そして円仁派(山門派)の暴徒達に幾度と無く寺を焼かれ争いは長く続く。
京都には寺院の数
(注1が多い、これに付いて村井康彦氏は延暦寺の存在が不可欠であると言う、比叡山では良源(第18代座主)が僧兵の横暴を危惧して二十六条起請を出すなどしたが効果は無く、鎌倉時代には洛中に寺院建立が許された事もあり、大原や東山などに遁世した大勢の僧侶が構えた庵が寺となった事にある。
延暦寺は信長軍に焼かれた創建当時の本尊即ち一乗止観院に於いて最澄が刻んだとされる薬師如来像は根本中堂に安置され後に義真により金箔彩色が為されたと言う、信長の焼き討ちで堂宇・寺宝多数を失うが、慈眼大師・天海の尽力で徳川幕府の援助で復元する、現在の根本中堂の薬師如来は1585年に創建時と同木を使用したとされ、最澄の自彫の伝承があった美濃の横蔵の本尊が移設された。
延暦寺は信長に焼き討ちされたが、宗教弾圧とは言えない、信長は天下統一を目指し武力集団を駆逐したが、焼き討ち後に坂本等の復旧を容認している、日本における宗教弾圧は切支丹と明治初期の廃仏毀釈である、即ち日本に於いて仏教弾圧は行われた、明治維新には確実に弾圧は存在した、明治以前に於ける神社の多くは寺院の境内にあった、神仏分離令は国家神道育成を目的としての実質的仏教抹殺計画にある、これは信長や秀吉ではなく明治になってからである、仏教弾圧は徳川斉昭の水戸や薩摩等に於いて流血が行われた様である、但し是は総てに地域で行われたのではなく、国が廃仏毀釈を行う情報を事前に寺院側に伝えた旧藩主も存在した。
因みに前例として1180年に平清盛による興福寺・東大寺を中心とする南都焼き討ちがある。 
現在に於いても多くの文化財を残しており、堂宇も三塔十六谷に七十余を持つ日本最大の寺院である。

比叡山で行われる荒行に千日回峰行がある、平安時代の天台僧・相応(831~918)により開創された回峰行は比叡山を巡って礼拝する修行であるが、この行は法華経第二十常不軽菩薩品の常不軽菩薩の心を具現した行と言われている、因みに宮沢賢治の「雨にも負けず‐‐‐‐‐」の詩は常不軽菩薩がモデルとされている

百日回峰行の終えた行者から選ばれた行者が三塔、九院、山王七社の峰や谷を七年の時を要して一千日を巡り、真言を唱えながら礼拝する厳しい修行である、総てのものに仏の姿を感得しながら動く距離は概ね四万キロに及び、行を終えた行者は大阿阿闍梨の称号が与えられる、よく似た行に「日光山大千度御祈祷修行」や「求菩提山千日行」等がある。


また当寺は四宗兼学の懐の深さからか都との地の利と高い文化を所持する為か、多くの人材を輩出し禅宗を除けば日本人が作り出したと教義と言える、浄土宗 ・浄土真宗・真宗 ・臨済宗(禅宗) ・曹洞宗(禅宗) ・日蓮宗など鎌倉仏教の基点となった。 
西国薬師
を巡礼する霊場に薬師如来を本尊とする49寺が参加しており、延暦寺は四九番の満願札所となっている。              


天台法華宗総本山(山門派)            所在地 大津市坂本本町4220    TEL 077-573-0001

1、日本における寺院数は概ね77467寺存在し、都道府県別では集計には寺と庵の解釈など誤差はあるが、    1、愛知県46054649ヶ寺  2、大阪府33923394ヶ寺  3、兵庫県32803284ヶ寺   4、滋賀県32153217ヶ寺   5、京都府30743084ヶ寺   7、東京都2868ヶ寺  12、岐阜県19882296ヶ寺、また人口10万人当たりでは滋賀県が228.97ヶ寺で第一位である。 少ない県を挙げると47、沖縄県77ヶ寺  46、宮崎県348ヶ寺   45、高知県376ヶ寺  44、鳥取県469ヶ寺となる。    平成19523日現在         参考資料   http://j-town.net/tokyo/column/allprefcolumn/200705.html 

2、 安然 

3阿闍梨(あじゃり)とは阿舎梨・阿闍梨耶とも書き、梵語(Sanskrit)
ācārya(アーチャリー)の音訳で意訳をすれば師・規範となる、教団の高位の指導者を指し空海も唐に於いて師の阿闍梨恵果より伝法阿闍梨位灌頂を受けている。  
阿闍梨の種類は特に選ばれた大阿闍梨、法を指導する教授阿闍梨、灌頂を受けた伝法阿闍梨、高貴な身分の者がなる一身阿闍梨、勅命による七高山阿闍梨などが在る。

注、4
 白河上皇の言う天下三不如意とは朕の意の如くならざるものとして、「鴨河の水」、「双六の賽」、「山法師」と述べたと言う。

5、天台本覚論、平安後期に起こる日本天台宗の
衆生は誰でも仏になれると言う現実や欲望を肯定して解釈する理論、本来の本覚に関する教義を拡大解釈した論議である、現実の世界や人間の行動様式が真理であり、本覚の姿と説き煩悩と菩提を同一視した教義で修行、戒律を軽視する傾向に解釈された、天台本覚論を論拠として日本仏教は世界に類例のない佛教の必須である戒律無視の「所謂佛教」になったと言う論者は少なくはない。  

 



延暦寺の文化財     表内は国宝   ●印重要文化財 

   名      称

            適                  用

  時   代 

  根本中堂

  桁行11間 梁間7間 入母屋造   銅板瓦棒葺

  江戸時代

  金銅経箱

  銅金鍛造 鍍金 h8,3cm 30,212,1cm

  藤原時代

  宝相華蒔絵箱

  黒漆塗 蒔絵 合口造 h17,0 33,020,3cm

  平安時代

  羯磨金剛目録 

  最澄筆 27,937,0cm 惣封最澄 66の宝物を記す 

  平安時代

 

  伝教大師将来目録・七条刺納袈裟(刺納衣 最澄将来)・天台法華宗年分録記(伝教大筆)        

  

 

  嵯峨天皇辰翰光定戒牒・伝教大師入唐牒の文書五点 等

  

*根本中堂の屋根は現代風の銅版瓦棒葺で20世紀の建築と錯覚するが、創建時は厚手の(とち)板を用いた栩葺?葺きの一種・w約120cm、L600cm、D30cmの板を板と呼ばれる)であった、因みに現在の栩葺は法隆寺金堂の()(こし)のみとされる。      

●転法輪堂(釈迦堂)桁行7間 梁間8間 栩葺形銅板葺 室町時代1347年秀吉の命により園城寺金堂を移築  

相輪橖(そうりんとう) 10mの青銅製の塔で内部は法華経、大日経が収められている、820年(弘仁11)に創建。正式名称は「浄菩提心無垢浄光摩尼憧相輪橖」  

●定行堂 桁行・梁間5間 宝形造 寄棟造 栩葺形銅板葺 桃山時代 

●法華堂 桁行5間 梁間5間 宝形造 栩葺形銅板葺 桃山時代 

●瑠璃堂 桁行・梁間3間 入母屋造 桧皮葺  (明王堂) 

●大乗戒壇院

不動明王二童子像 木造彩色 玉眼 不動67,9 童子39,7 矜羯羅童子36,7cm 鎌倉時代  不動寺明王堂  秘仏  脇侍通常と逆配置 

降三世明王立像 木造彩色 玉眼 80,9cm 鎌倉時代 

軍荼利明王立像 木造彩色 玉眼 82,4cm 鎌倉時代  

大威徳明王立像 木造彩色 玉眼 47,0cm 鎌倉時代 

●金剛夜叉明王立像 木造彩色 玉眼 86,4cm (山王院・旧西塔)

千手観音立像 木造彩色 51,2cm 平安時代 (西塔釈迦堂)

●釈迦如来立像 木造 79,3cm 鎌倉時代 

四天王立像 2尊 木造彩色 多門天144,0広目天150,0cm 

(横川中堂)

聖観音立像 木造 170,6cm 藤原時代 

●四天王立像 木造彩色 持国天158,8 増長天157,6 広目天160,0 多門天154,2cm  藤原時代 

(滋賀院)

吉祥天立像 木造彩色 102,1cm 藤原時代 

阿弥陀如来立像 木造玉眼 97,4cm 鎌倉時代 

(葛川明王院)

●不道明王 立像  93,5cm  平安時代

●千手観音 立像 106,0cm 平安時代


毘沙門天 立像   103,4cm 平安時代  

(律院)

大黒天立像 木造 76,0cm 鎌倉時代 

●維摩居士坐像 木造彩色 34,8cm 平安時代  国宝殿

●山王霊験記 紙本著色 巻子装 31,51011,0cm 室町時代  

●相応和尚図 絹本著色 掛幅装 116,080,7cm 鎌倉時代 

●天台大師像 絹本著色 掛幅装 100,038,0cm 鎌倉時代 

●天台大師像 絹本著色 掛幅装 91,858,5cm 鎌倉時代 

●天台大師像 絹本著色 掛幅装 99,7:38,0cm 鎌倉時代 

●不動明王三大童子五部使者像 絹本著色 掛幅装 131,591,5cm 鎌倉時代 

殊菩薩像 絹本著色 掛幅装 90,543,9cm 鎌倉時代 

悉曇蔵(しったんぞう) 紙本墨書 延暦寺 平安時代   梵文本源 悉曇韻紐 章藻具闕 編録正字 等八帖  悉曇とは梵語シッダムの音訳で安然が集大成した悉曇学即ち哲学である。    

  

最終加筆日2004719 2005126日桓武、注1,2、 2008111日  2010年1月5日 千日回峰行 2015116日天下三不如意 1221日注5  2017315日 2018年1月26日 2019年1月29日加筆  

 


 
   
   
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