石山寺

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 山号を石光山(せっこうざん)と言い、古来から長谷寺清水寺と肩を並べる観音信仰の寺として発展して来た、石山寺は近江八景(注2の中でも月見亭からの「石山の秋月」と言われる素晴らしい景観を誇る風光明媚な寺である,境内に大きな珪灰石があり寺名の由来とされている、また・梅・桜・牡丹・躑躅(つつじ)など季節感あふれる花の寺でもある。
寺伝すなわち「石山寺縁起絵巻」に拠れば東大寺の大仏すなわち毘盧舎那仏建立に際して、良弁(ろうべん)使用する金の探索を聖武天皇に依頼された、しかし金峯山(きんぷせん)の金は弥勒下生の為であり譲られなかったが、志賀の川辺に如意輪観音を安置すれば入手出来ると告げられ従ったところ東北から金が産出されたと言う、石山寺は東大寺別当となる良弁の夢想により創建されたとされるが、本来は瀬田川を利用して建設資材を運搬する為の集積材を管理する東大寺司のサテライトであった石山院所を後に寺に直し如意輪観音を安置したのが始まりとされる。
創建の経過から華厳宗すなわち東大寺の末寺であったが平安時代に入ると醍醐寺の開祖・聖宝(しょうぼう)と、その弟子で空海の大師号取得に貢献した・観賢の影響を受け寺勢は徐々に拡大した、しかし事実上の寺勢を拡大させたのは観賢の弟子で菅原道真の孫である淳祐(しゅんにゅう)が法主になる頃からで真言宗に於ける醍醐寺系の法流を伝える寺となる、淳祐は師の観賢から醍醐寺の座主に指名されたが断り学問を行う環境に適した石山寺に入る、淳祐は血統に値する俊英であり石山寺は真言宗に於ける「学問の寺」と言われた。
当寺の明媚な風向と如意輪観音の霊験が石山寺縁起等
(重文・江戸時代)で喧伝され平安貴族から民衆に至まで信仰を集め観音信仰の霊場となり「石山詣」として現在まで続いている。
良弁の夢想とは「石山寺絵巻
(重文)」に描かれ、岩山の水辺で釣り糸を垂らす比良明神の化身である翁から如意輪観音の啓示を受けたとされる。
本尊の如意輪観音
(秘仏)は聖徳太子伝承が伝えられるが理源大師・聖宝の如意輪観音信仰の篤さと思惟すべきと考えられるが、当初は聖観音の寺と言われ如意輪観音が標榜されたのは平安中期からと言われる、正倉院文書に依れば本尊は観世菩薩で脇侍に神王と記述され、覚禅鈔(平安時代)には如意輪観音を本尊に(しゅ)金剛神と金剛蔵王が脇侍とされている(石山寺の信仰と歴史・思文閣)。  
また石山寺は女性に人気が高く紫式部や和泉式部などの参詣もあり、紫式部による「源氏物語・須磨、明石の巻」の執筆がなされたとの伝承もある、また藤原道綱の母による「蜻蛉(かげろう)日記」菅原(すがわら)孝標(たかすえ)の娘の「更級(さらしな)日記」、清少納言の「枕草子(まくら の そうし)」等にも石山寺が書かれている。 梁塵秘抄312による「観音験を見する寺 清水石山長谷の 御山 粉河近江なる彦根山 間近く見ゆるは六角堂」。 
閑話休題、石山寺は浄土真宗中興の祖である蓮如の母に関係があるのか真宗門徒の蓮如堂への参詣も多い。 
石山寺の伽藍は1078年全焼し鎌倉時代の再建が多い、・本堂 ・多宝塔 ・毘沙門堂 ・御影堂 ・東第門等で構成されている、現在の堂宇は修験道を興隆した聖宝の影響を受けているのか真言宗の山岳伽藍様式を持ち本堂は清水寺・東大寺二月堂・長谷寺と共に舞台造
(縣造)が著名で、源頼朝がスポンサーとされる日本最古の多宝塔と共に国宝指定を受けている、指定文化財を挙げれば、20073月現在国宝12件90点・重要文化財37件6688件に及ぶ。
石山寺は観音菩薩信仰の寺である、観音霊場即ち西国三十三箇所・13番札所として多くの参詣者を集めている。 


1、 理源大師・聖宝 832909年)修験道に於ける中興の祖、天智天皇の血統を引き恒蔭王と呼ばれた、空海の実弟の真雅を師として16歳で東大寺に入る、唯識・三論・華厳・真言を学び山岳修験の道に入り笠取山に如意輪観音・准胝観音を奉り真言道場を作り醍醐寺の基礎を確立する。
東寺や東大寺の要職も勤め皇室の信頼も厚く1707年理源大師の称号を東山帝より授かる。
空海の死後に小野曼荼羅寺仁海の小野流と広沢遍照寺の広沢流に別れ更に十二流に分派するが聖宝は小野流の柱石でもある。  
醍醐派系の
奈良県吉野郡黒滝村にある真言宗鳳閣寺派の鳳閣寺には聖宝が刻んだとされる如意輪観音がある。 
また聖宝を派祖とする当山派・修験道の教団が存在し
金峰山・大峰山・葛城山を拠点として活動したが変遷を経て明治の廃仏毀釈のときに姿を消す。

2、近江八景とは北から ・比良の暮雪 ・堅田の落雁 ・唐崎の夜雨 ・三井の晩鐘 ・粟津の晴嵐 ・瀬田の有照 ・石山の秋月 ・矢橋の帰帆 を言う。

3、多宝塔 インドに於いては古来より二種類の塔が存在している、 1、釈尊の遺骨を収納する「真
舎利塔」と経典を法舎利として供養する「法舎利塔」とがある、但し真心舎利には量的に限度がある為に宝石、香木、等で代用された、多宝塔は法舎利塔の発展形と言えよう。

多宝塔は第十一法華経「見宝塔品」の記述で霊鷲山に於いて法華経を説法していると宝塔が湧出した、塔内に居た多宝如来が釈尊を讃嘆し招き入れて半座を空けて両如来が並座したとされる事からの銘々とされている.伝承になるが、多宝塔は龍猛が開いたとされる「南天の鉄塔」がイメージされている、との説がある、因みに南天とは南天竺の略でインドを意味する。
代表的な多宝塔を挙げると以下のようになる。

*慈眼院(大阪府泉佐野市)     *長保寺(和歌山県海南市)   *金剛三昧院(和歌山県高野町)    *根来寺(和歌山県岩出市)         *浄土寺(広島県尾道市) *石山寺


4、良弁は如意輪観音を安置したが、東大寺法華堂の不空羂索観音と(しゅ)金剛神を崇拝した。   



 東寺真言宗      本尊 如意輪観音菩薩     所在地  〒520-0861 滋賀県大津市石山寺111     п@0775370013



石山寺の文化財     表内は国宝   ●印重要文化財 

 名    称 

      適                       用

 時   代  

 本   堂

 本堂桁行7間  梁間4間 合の間 桁行1間 梁間7間 礼堂
 桁行9間 梁間4間 寄棟造 桧皮葺  縣造(舞台造)

 藤原時代
 江戸時代

 多宝塔

 3間 桧皮葺  日本の多宝塔中で最古様式を残す(真言様式)

 鎌倉時代

 文   書 2

 越中国官倉納穀交替記残巻・周防国玖珂郷延喜八年戸籍残巻

 

 書・典籍  8

 延暦交替式・春秋経伝集解巻(55巻)・釈摩珂衍論(5帖)等

 

石山寺縁起絵巻 紙本著色巻子装  鎌倉時代-江戸時代 七巻 巻1〜3鎌倉時代 巻4〜5室町時代 巻6〜7江戸時代(谷文晁筆・如意輪観音霊験のPR)   

佛涅槃図 絹本著色 249,1281,2cm 鎌倉時代 

如意輪観音半跏像 木造漆箔 293,9cm 藤原時代(秘仏33年に1度開帳・次回2024年開帳、他に天皇即位の翌年)

兜跋毘沙門天立像 木造彩色 174,2cm 平安時代 

不動明王坐像 木造彩色 86,7cm 藤原時代 

大日如来坐像 木造 101.7cm 鎌倉時代   快慶作 多宝塔本尊 

大日如来坐像 木造 96.6cm 藤原時代    

釈迦如来坐像 銅像鍍金 14,1cm 平安時代 

観音菩薩立像 銅像 60,3cm 天平時代  

如意輪観音半跏像 木造漆箔 40,3cm 藤原時代 両手先欠 鎌倉時代-江戸時代 

如意輪観音半跏像   61.3cm  平安時代  元前立像 

四天王立像 木造彩色 持国天162,1 増長天158,8 多門天262,1 広目天欠 藤原時代 

維摩居士坐像 木造彩色 51,1cm 平安時代 

淳祐内供坐像 塑像 彩色玉眼 77,6cm 南北朝時代 

東大門(仁王門)3間1戸 入母屋造 本瓦葺 

鐘 楼 桁行3間 梁間2間 重層 入母屋造 桧皮葺 南北朝時代

金剛蔵王 立像 塑像 159.8cm 天平時代(762年)   

佛涅槃図 絹本著色 掛幅装 249,1281,2cm 鎌倉時代 

不動明王二童子像 絹本著色 掛幅装 126,575,5cm 鎌倉時代 

源氏物語絵 紙本著色 巻子装 35,51586,5cm 江戸時代  

多宝塔柱絵 軍荼利明王など 


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最終加筆日2004年10月30
12月24日 20081213日 2014年8月28日注4 2019年3月20日他





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