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七世紀には西国に於ける文化・行政・軍事の中心地で九州を統轄した大宰府政庁の東約0.6kmの場所に創建された観世音寺の歴史は古い、
創建当寺は広大な敷地に七堂伽藍と多くの塔頭寺院を備えた法隆寺に匹敵する西国随一の大寺であったが、建造物は1064年に五重塔と講堂を1143年には金堂を焼失、庇護を受けていた大宰府政庁の権勢が衰えたこともあり寺も衰退し原型は留めていない、現在の堂宇は江戸時代の建築である。
十二世紀には多くの寺領を失い東大寺の末寺となるが、この時代の寺の動性は定かでは無い。
しかし発掘調査によると当寺の伽藍配置は塔と金堂が向き合っているが法隆寺と同型の配置をしており、時代的には同時期に存在したと推定できる。
観世音寺の文化財は藤原時代の仏像彫刻を多く残しているが、当寺には菅原道真が榎社(別称を榎寺と言い道真の居住地で逝去した処)で失意の中に詠んだ七言律詩・不出門の一節に「観音寺只聴鐘声」(注1)で知られる国宝指定の梵鐘は創建当初の作とされている。
当寺には優れた仏像を多く残すが ・517p の不空羂索観音 ・503p の馬頭観音 ・498p の十一面観音と三尊の巨像が圧巻である。
また当寺は754年鑑真和上により聖武上皇と孝謙天皇に菩薩戒を授けた東大寺に次いで下野の薬師寺と共に戒壇院が設けられ天下の三戒壇と呼ばれた、天下の三戒壇とは*大和の東大寺、*
鑑真が採用した厳しい四分律に対して戒律を大幅に削除した最澄による天台の大乗戒が設けられるまで栄えた、ちなみに律には四分律、五分律、十誦律、摩訶僧祇律、根本説一切有部律があり互いに独立したいる。
太宰府天満宮は道真の遺骸を榎寺から運ぶ途中の牛が動かなくなった場所に建立されたとの伝承がある。
隣接地には、創建時には観世音寺の一院であった戒壇院(臨済宗・妙心寺派)に●盧舎那佛坐像 木造漆箔 148.5cm が安置されている。
天台宗
所在地 福岡県太宰府市観世音寺5丁目6番1号
観世音寺の文化財
○梵鐘 159,4cm 径86,4cm 天平時代
●阿弥陀如来坐像 木造漆箔 219,6cm 藤原時代
●阿弥陀如来立像 木造漆箔 167,3cm 藤原時代
●聖観音坐像 桧寄木造 漆箔 321,3cm 藤原時代
●十一面観音立像 桧寄木造 漆箔 498,0cm 藤原時代 (延久元年・1069年甲斐講師暹明の墨書)
●十一面観音 303,0cm 鎌倉時代
●十一面観音 桧寄木造 漆箔 103,3cm 藤原時代
●馬頭観音立像 桧寄木造 漆箔 503,0cm 藤原時代
●不空羂索観音立像 木造漆箔 517,0cm 鎌倉時代
●地蔵菩薩半跏像 木造123,6cm 藤原時代
●地蔵菩薩立像 木造 136,3cm 藤原時代
●四天王立像 木造 224,0-236,0cm 藤原時代
●毘沙門天立像 木造彩色 160,0cm 藤原時代
●吉祥天立像 木造彩色 215,5cm 藤原時代
●大黒天立像 木造 171,8cm 藤原時代
注1、 不出門 菅原道眞 もんを出でず
一従謫落在柴荊 ひとたび たくらくして さいけいにありてより
萬死兢兢跼蹐情 ばんし きょうきょうたり きょくせきの じょう
都府樓纔看瓦色 とふろう わずかに がしょくを み 都府樓とは大宰府政庁
観音寺只聴鐘声 かんのんじはただ しょうせいを きく
中懐好逐孤雲去 ちゅうかい よしこうんをおうてさり
外物相逢満月迎 がいずつ あいおうて まんげつむかふ
此地雖身無検けい このち みに けんけい なしといえも
何為寸歩出門行 なんすれぞ すんぽも もんを いでてゆかん
注2、伽藍配置に付いて法隆寺の金堂は南正面に対して観世音寺は塔の方角を向く、即ち東向きで観世音寺式伽藍配置と言う。
2005年3月29日 加筆