中尊寺

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山号を関山(かんざん)と言い創建当初の中尊寺は関山弘台寿院と言われた、みちのく平泉の地を眼下に観る
天台宗の東北大本山である、寺伝に依れば850(嘉祥3)円仁の開創で、859(貞観1)に清和天皇より中尊寺の号を賜ったと伝えるが定かとは言えない、円仁の場合特に勧請開山(かんじょうかいさん)(注5)が多いと言えよう。 
平安末期に藤原清衡が平泉に入り、伽藍の建立に着手した。1126(大治1)の金堂落慶(らっけい)供養願文(くようがんもん)により、前九年・後三年の役を経て奥羽地方の覇者となった清衡が戦死した敵味方兵士の霊を弔う為の鎮魂の場所とし鎮護国家の根本道場を目指した寺である、その後基衡、秀衡も相次いで寺すなわち拠点を拡張した。最盛期には堂塔40余宇、僧坊300余宇と伝えられ、結構皆金色と称された。

一時期荒廃していたが1105年藤原清衡が20年余りの歳月を費やし再興する。 
天皇(すめろぎ)御代(みよ)栄えむと(あずま)なる陸奥山(みちのくやま)(くがね)花咲く大伴家持(おおとも の やかもち)」、辺境の地、奥州に平泉文化と言われる華麗な仏教文化を花開かせた象徴的な寺院である。
平安な仏国土建設を目指し荘厳(注6)化の極致とも言える金色堂を含め一切経
(紺紙金字一切経)など平安時代を代表する文化財の真髄が中尊寺に於いて生み出された石田茂作の言う奈良時代に於ける美術品の宝庫が正倉院ならば平安時代を代表する仏教のパンテオンPantheonと言える處は中尊寺であると言えよう
当時の陸奥は唐との交易が行われていた、特産品の金だけではなく駿馬・和紙の生産など経済的基盤が整備されていた、
仏像寺院建築工芸品に至るまで絢爛たる貴族趣味の都風でありながら京都を凌ぐ仏教文化都市を形成し,奥羽地方に君臨した藤原三代による栄華を伝える寺である、寺伝に拠れば850年延暦寺第三代座主・慈覚大師円仁による創建で「弘台寿院」と呼ばれた、859年(貞観元年)清和天皇より中尊寺の号を賜ったと伝えるが、円仁が陸奥を訪れた記録は見られず弟子による勧請開山の可能性が高い、因みに勧請開山とは師(この場合円仁)の法弟・法孫達による開山を師の開山とした寺を言う、みちのくには円仁に依るとされる勧請開山の寺院は伊達市の霊山(りょうぜん)(福島県)瑞巌寺(宮城県)、奥の細道に記述がある(かん)満寺(秋田県)、奇祭で著名な黒石(こくせき)(岩手県)等がある。
平安末期に奥羽地方を征圧した藤原清衡が平泉に入り極楽浄土を目指して諸堂宇の建立し仏教都市を形成する、平泉支配のシンボルとして、また敵味方の霊を弔うための鎮魂の寺として栄え、現在においても自立した東北人の誇りとしての存在感を持つ。
息子秀衡、孫基衡も寺勢を拡大して京から人材を集め、当時の日本に於ける芸術・工芸技術の粋を尽くし京都の寺を凌駕した寺院を造営した、金色堂の仏像は3箇所の須弥壇に32尊
(西南壇1尊欠落)を安置して洗練された定朝様式を備えている、吾妻鏡に依れば定朝の作とされるが年代に誤差があり、定朝門下の仏師達の手になるとも考えられる。
最盛期には阿弥陀如来九尊を安置した二階大堂や百尊の釈迦像を置かれる釈迦堂を含む堂宇40余、僧坊300余の大伽藍であったという、現在に於いても山内に17の子院に囲まれている。
1337年に火災により金色堂と経蔵を残して焼失し「夏草や つわものどもが 夢の跡」
(芭蕉)と化す。 
国宝の金色堂は1124年に建立され藤原四代にわたって一族の佛堂である、金色堂は建立から百八十年程は覆堂がなく交通の要衝であり通行人までもが直接に拝観できた堂宇であっとも言われ地元民の心のよりどころでもあった、拝殿は東から西に向かって参拝する様式でまさしく西方極楽浄土を拝する様に配置されている、また金色堂は光堂とも言われ阿弥陀如来の光背から放たれる無量寿光から言われている。
金色堂の修復に六万四千枚の金箔を要したとされる、高さ8m、5.4m×5.4m、一間四面堂で須弥壇の軸組は八角柱に桶形に板を張り円状に加工し蒔絵を施した巻柱を採用し、全体で二万七千個もの夜光貝の螺鈿(らでん)細工や蒔絵(まきえ)(4宝相華(ほうそうげ)を施し、四方内外部に同様の長押を通し、軒は間隔を詰めた二軒繁垂木(しげだるき)として屋根は宝形造(ほうぎょうずくり)・本瓦形板葺で最上部に露盤・宝珠を置き、また堂内は庇の天井を化粧小屋組として、内陣の四天柱内には格天井(ごうてんじょう )を張り豪華な黒漆金箔押の仕上がりを見せて、純和風の最高水準の空間を具現しており仏堂と言うより巨大な仏壇と呼んだほうが相応しい,まさしく金色堂は大伴家持ではないが「黄金花咲く」殿堂である、仏壇と言えば一般に普及させたのは浄土真宗中興の祖である八祖・蓮如の功績と言えよう。  (すめろぎの御代栄えむと東なるみちのく山にくがね花咲く ・大伴家持)
又当寺の創建時には金堂が百体釈迦堂であったらしく、法華経による浄土実現を目指した寺とも言われている。
俳聖・松尾芭蕉が詠んだ「五月雨の 降りのこしてや 光堂」 も戦後の農地解放などで寺の資産を失い荒廃したが1968年復旧が完了し現在も過日の栄華を伝えている。
金色堂と対照的な堂宇が経蔵
(重文)間口三間、屋根は宝形、金属板葺きの庵で侘び寂びの世界に浸ることが出来る、因みに経蔵の本尊は文殊菩薩である。
中尊寺は天台宗に於ける北日本屈指の古刹であり東北大本山である、・寛永寺
(東京都台東区上野) 立石寺(りっしゃくじ)( 山形市山寺川原町)  ・善光寺  ・喜多院無量寿寺(埼玉県川越市小仙波町) ・観世音寺と共に別格本山に位置している。   

中尊寺に祀られた、つわもの達に付いて言えば敵味方に分かれて戦をした兵達は日本人同士であるが、古来より日本人は「怨親平等」所謂死者に対しては敵味方の区別無く手厚く葬るエトスがある様だ、怨霊に対する恐怖もあるが法隆寺・出雲大社・諏訪大社・天満宮・等は敗者を丁重に弔った場所であり元寇の乱に於いても鎌倉に円覚寺を興して追悼する等、元軍の戦死者
(中国人・朝鮮人を含む)を日本人戦死者と同様に弔っており、諸外国のエトスと違い敵であっても死者に対しては敵愾心を持たない民族ではないか、ただし明治政府に拠る国家神道と靖国神社建立によりその心は失われようとしている。  
日本人は「(みそぎ)」即ち水に流す事で禍根や歴史を簡単に忘れる、文永の役等で多くの婦女子を含む日本人が惨殺された事など完全に忘れている、さらに「死ねば仏」的感覚でモンゴル・中国・朝鮮の戦死者をも追悼した、しかし中国の場合は大きく異なる、南宋時代の英雄・岳飛(がくひ)を奉る為の岳王廟が存在して軍人・岳飛が奉られ中国人の尊敬を集めているが、秦檜(しんかい)宰相に陥れられて獄中で死亡する、岳飛廟内には縄目にかかる秦檜夫妻の像がある、これは罵り唾を吐きかけ侮蔑する為の銅像と言われている。
総理大臣の靖国参拝に対しての賛否は保留するが、戦争犯罪を非難する日本人も死者を追悼する気持ちを持っている、しかし歴史を教訓とし忘れる事のない中国人は唾を吐きかけても飽き足りないだろう。
憲法学者、(ゆえ)芦部信喜(あしべのぶよし)氏は総理大臣の靖国参拝の違法性を指摘して「‐‐‐伝統神道は、味方よりむしろ滅ぼされた敵を手厚く祀るが、靖国神道は自国の犠牲者のみを祀り、敵を祀ろうとしない、これは靖国神道が欧米の国家主義に影響された、伝統を大きく逸脱した新しい神道による」と論じている、閑話休題
故中村始氏は「日本人には狭い人間関係を重視する傾向があり、それが極端な形態をとると超国家主義となる」と言う。
寺外の十七箇院には藤原秀衡建立が伝えられた金輪閣(きんりんかく)の本尊であったとされる最勝最尊の仏がある、五智寶冠を冠り智拳印を結ぶ秘仏の大日如来で知られている、「人肌の大日」とか、「生身の大日」とか言われる究竟至上(くきょうしじょう)(無見頂相)を示す
一字金輪仏頂を本尊とする極秘の修法が行われている、この大日如来は秘仏で一字金輪仏頂(Ekākaroṣṇiackra・エーカークシャラ-ウシュニーシャチャクラ )とは梵字一文字で表せるボロンを真言化したもので、「全ての尊格の功徳はボロン(bhruuM)に帰す」要するに仏の中に於いて尊格が最上位の如来すなわち仏頂最勝最尊)を言う、因みにこの尊像を修理した新納忠之助の摸刻像に依れば太陽(大日輪)を光背としている様である(摸像は東京国立博物館)
金輪仏頂は二系列があり大日金輪・釈迦金輪の分類される、姿形は菩薩形で宝冠・瓔珞(ようらく)臂釧(ひせん)腕釧(わんせん)などで装飾している、中でも大日金輪は智拳印を結び日輪の中に現れると言う、因みに金輪とはインドにおける伝説上の英雄・転輪聖王すなわち金輪王を意味する。
因みに
金輪とはインドに於ける伝説的聖王とされる「(てん)(りん)(しょう)(おう)あらゆる駆逐武器であ釈尊象徴涅槃足跡てい
金輪仏頂は
二系列があり大日金輪・釈迦金輪の分類される、姿形は菩薩形で宝冠・瓔珞・腕釧などで装飾している、中でも大日金輪は智拳印を結び日輪の中に現れると言う。   
「金剛頂経一字頂輪王瑜伽一切時処念誦成仏儀軌」に依れば、一字金輪仏頂(いちじこんりんぶっちょう)を修めれば五百由旬内で行われる修法を無力化する程の
利生(りしょう)を持つとされる、即ち仏菩薩を現証出来るとされ空海も「即身成義」に採用している、また儀軌の内頂は「ちょう」と発音するが「いただき」即ち頂点を意味する。
如来三十二相に記述される、頭頂は見ることが出来ないと言う「無見頂相」を佛挌化した尊像に「一字金輪仏頂」「大仏頂」「熾盛光仏頂」「最勝仏頂」などが存在する。無見頂相の原本は
(照字面的解釋是看不到頭頂的相、但事實上並不如是、這一種相的鑑定必須修到眼根圓通的人才能看見、而且這一種相是一種相對的看法而無對的看法。因為無見頂相所看的是法身的等級、一個慾界未過就已經具有眼通能力的人、他只要看到初禪的法身,他就已經無法看到對方的頂。但一個初禪的眼通者卻要看到二禪以上的法身、才會看不到頂。同樣的情形下、二禪要看三禪、三禪看四禪、四禪要看無色界、無色界要看超出三界者才能見到「無見頂相」)

中尊寺では5月初頭に毛越寺と共に「藤原まつり」が行われており、20116月に「平泉‐浄土思想を基調とする文化的景観」は世界文化遺産に登録された。


                   
 
天台宗 別格本山  東北大本山     本尊 阿弥陀如来      所在地  岩手県西磐井郡平泉町平泉衣関202    ℡ 0191-46-2211  


1、 奥州の藤原氏   藤原清衡・基衡・秀衡・泰衡の四代を言い、初代清衡は秀郷流藤原氏の出身で母の再嫁の関係で清原氏の元で育つ、後に八幡太郎義家とともに異父兄弟である清原家衡との戦いに勝ち安倍・清原両氏の支配地を簒奪して平安時代末に奥州に佛教文化を開花させた。現在に残る遺功は中尊寺の金色堂と毛越寺の庭園がある。 


2、中尊寺金色堂に安置してある三体の遺体は清衡・基衡・秀衡のものである。  

3、宝相華  8?9世紀に多用された空想上の華紋で五弁花の唐草様の装飾文様。

4
漆工芸 文化庁月報20101月号に依れば、・蒔絵 ・螺鈿 ・沈金 ・蒟醬(きんま) ・(きゅう)(しつ) ・輪島塗 があり、無形文化財の指定がある。

蒔絵――漆で文様を描き、金粉・銀粉・色粉などを蒔く。  螺鈿――貝で文様を作り漆地に埋め込むか貼り付ける。  沈金――漆面に文様を彫り、窪みに漆を擦り込み金の箔や粉を挿入。   蒟醬(きんま)――漆面に線刻や点刻で文様を彫り凹みに色漆を埋めて研ぎだす。  髹漆(きゅうしつ)――漆塗りのみで仕上げ、装飾文様は施さない。  

5、勧請開山とは師を慕う弟子達の開山であるが、円仁を慕い師の創建とした法弟・法孫による開山された寺院を言う。

6荘厳(しょうごん)vyūha , ヴィユーハalakāra , アランカーラ) とは仏教用語で「信仰の対象を尊く装飾する」ことを言う。


中尊寺の主な文化財    表内印国宝  ●印重要文化財   

 場  所

 名    称

適             用

時    代

 金色院 

 金色堂 

 高さ8m、桁行3間(5.4m)梁間3間 本瓦形板葺 宝形造 

 平安時代  

 金色院 

 金色堂内具

 礼盤・磬架,案,華鬘などの荘厳具一式 

 平安時代 

  金色院 

 天蓋 

  

 平安時代  

  金色院 

 宝塔曼荼羅

 金光明最勝経金字 

 平安時代  

 大長寿院

 八角須弥壇

金色堂と共に精緻で和様須弥壇の代表的遺例 

 平安時代 

 大長寿院

 経蔵堂内具

 螺鈿平塵案 

 平安時代 

 大長寿院

 一切経 

藍染の紺紙金文字 2739巻  浄土絵に般若波羅密多経  

 平安時代 

 地蔵院 

 孔雀文磬 

 

 平安時代 

*覆堂は1965年建立の鉄筋コンクリートRC構造。

一切経とは漢訳経典総ての事で、一切とは三世の法すなわち過去・現在・未来の法に無為法の四法を言う

金色堂 
 中央壇  右壇、左壇総て国宝 但し右壇の増長天欠落 

金色堂  中央壇  右壇、左壇総て国宝 但し右壇の増長天欠落 

中央壇
阿弥陀三尊像 木造漆箔 彩色  中央壇 阿弥陀如来 62,3cm  脇侍観音菩薩、勢至菩薩 74,2cm   
2004.6.8日 指定 

地蔵菩薩立像 六尊 63cm                                                   2004.6.8

二天王立像 66cm                                       2004.6.8

左壇
阿弥陀三尊像 中尊64,7cm 脇侍68cm 
                               2004.6.8

地蔵菩薩立像 六尊                                      2004.6.8

二天王立像 69cm 一尊                                                     2004.6.8 
右壇
 阿弥陀三尊像 中尊48,9cm                                                  
2004.6.8 
地蔵菩薩立像 六尊 64cm                                                   
2004.6.8
二天王立像 持国天、増長天 68.2cm                                             2004.6.8日      


旧本坊   

●阿弥陀如来 坐像 木造漆箔 267,9cm 藤原時代  瑠璃光院    

大日如来 木造漆箔 56,1cm 藤原時代  金剛院   

●大日如来 木造漆箔 95,4cm 藤原時代  千手堂     

千手観音 立像 174,2cm    藤原時代 金色院    

薬師如来 立像 木造漆箔 266,0cm 藤原時代   

願成就院  

●薬師如来 坐像 木造漆箔 273,3cm 藤原時代     

●経蔵 桁行梁間3間 一重 宝形造 銅板葺 平安時代  


十七箇院   

 字金輪仏頂(ekākaroiacakra 如来の頭頂の功徳を神格化したものである、中尊寺の大日如来 坐像 (拝観否) 木造彩色(桂) 玉眼 76,0cm  人肌の大日如来と言われ秀衡の念持佛(智拳印)と言われている、躯体の後部三分の一程は無い、板光背に嵌め込む形式、蓮華坐に裳懸け方式。
一字(bhrūm)則真言とする仏頂、一字金輪仏頂とは一字金輪王、金輪仏頂王、一字頂輪王、などとも呼ばれ最も尊い徳を有する、伝説上の転輪聖王(鐡輪王、銅輪王、銀輪王、金輪王)のうち最も優れた金輪王が呼ばれている、一字金輪には釈迦金輪と大日金輪の仏頂尊とが存在している。


 

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最終加筆日2004913  2005512日  726日  2007年8月23日 一字金輪 2011年7月19日 巻柱世界遺産他 、2012年3月21日一字金輪仏頂 2015年3月26日一部 2016年11月3日一字金輪の説明 2017年7月20日 2018年2月3日 2019年4月27日  2022年2月23日 3月5日加筆

  

    

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