善光寺

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定額山・善光寺と言い、善光寺聖や時宗徒の布教等で善光寺の信仰が広まり、多くの伝承に包まれている、「大勧進」すなわち天台宗の大本山と塔頭寺院二十五寺(五寺は近世まで時宗に所属)、「大本願」即ち浄土宗尼寺が14坊、大本山の二寺で運営されている。 

古くから浄土信仰すなわち阿弥陀信仰の聖地として巡拝者が多数集り、信州(長野県)に於ける文化及び経済・観光の中心地として栄えている。
善光寺は1175年焼失するが再建は源頼朝を初めとする東国武士の信仰は篤く、鎌倉時代の歴史書的な吾妻鏡(あずまかがみ)に依れば1191年には主要伽藍が完成した。
今昔物語の寓話ではないが現在は牛ならぬ観光バスに導かれた参拝者が多い、知人などに信濃善光寺の感想を聞けば、牛王宝印(ごおうほういん)(厄除祈願のお札)を求めるのではなく大門町の八幡屋で「とうがらし」を買い求めたと答える人が如何に多いことか、また浅草寺の本尊を答えられても当寺の本尊を答えられる人は多くはない。
善光寺に於いては宗派が無いとされるが、政治権力が勝った江戸時代以降、徳川幕府の影響力が働いた事は疑いの余地は無い、浄土宗は徳川家康と芝の増上寺の法主(ほっす)であった「存応(ぞんのう)(1544~1620年)との関係、天台宗は寛永寺の「天海」と家康、家光(第三代)に対する影響力が多大であった。
浄土宗に於ける大本願と、天台宗に於ける大勧進の二寺に於ける支配下で事務局が運営されている、また大勧進の支配は本田善光~天台寺門宗~真言宗~東叡山~比叡山と変遷している、また大本願は現在に於いては五摂家の持ち回り、すなわち皇室ゆかりの尼僧
(第121鷹司(たかつかさ)(せい)(ぎょく)大僧正)が上人を勤めている。
宗派の曖昧な扱い関しては、日本人の行動様式にマッチしており、浅草寺や他の宗派を含めて世界宗教の視点からすれば日本教宗と言えるかも知れない、「月影や四門四宗もただ一つ」松尾芭蕉。

善光寺の四方の門を「四門四(しもんし)(がく)」と言う、
東門「定額山善光寺」、
南門「(なん)命山(みょうざん)無量(むりょう)寿寺(じゅじ)」、
北門「北空山(ほくくうざん)雲上寺(うんじょうじ)」、
西門「捨山(ふしゃさん)浄土寺」と別々の扁額が架かる。
 

辺境の地とも言える信濃に有りながら浅草寺と双璧をなす大衆信仰の篤い寺である、1941年頃、小学校(当時は国民学校)へ入学前母に手を引かれ十六羅漢の一尊と言われる、「おびんずるさま」正式名称を賓頭盧(びんずる)尊者(そんじゃ)(注1に触れるなど、大勧進の大僧正、大本願の大谷智栄尼上人から「お数珠頂戴(輪蔵回し)」や戒壇めぐりを初めて経験したが、ぞっとするほど厳粛な気持ちになった記憶は生々しい、あれから80数年以上を経過し、訪れる度に敬虔な気持ちは薄れてゆく、因みに賓頭盧尊者とは正式には賓度羅跋囉惰闍(びんどらばらだーじゃ)Pindolabharadrājaと言い釈尊の弟子、すなわち十六羅漢の中での第一席の位置にある、善光寺には極楽上行きを意味する儀式に「御印文(ごいんもん)頂戴」と言い額に宝印を押す儀式が知られている。     
一般的コースでは定額山の扁額が架かる重文の三門は、屋根が銅瓦葺きで1918年(大正7年)落慶された、扁額は伏見宮貞愛親王の書である、金剛力士像は皇居前広場の楠正成や
上野恩賜公園の西郷隆盛像を製作した高村光雲1852年~ 1934年)と、その弟子で師にも勝ると言う米原雲海18691925)による金剛力士像があり、その裏には日本独自の尊格で仏法や伽藍を守護すると言う三宝荒神や・大黒天弁才天毘沙門天の三尊を習合させた三面大黒の横を通り本堂に向かう。
脱線するが善光寺の上記金剛力士像は向かって右側の像は吽形、すなわち他の寺院と逆配置である、通常の配置は吽形は左側である、左右逆配置の寺は運慶快慶が関った東大寺の南大門や三月堂の金剛力士像も同様である。
善光寺が文献に現れるのは十世紀頃とされ十一世紀中盤には園城寺の末寺であった、天台宗と浄土宗の別格本山で各門の名称が違ったことから「四門四額」と言われる。 
分院的存在ばかりでないが
現在は「全国善光寺会」と言う組織がある、これに依ると善光寺の名称をもつ寺院は日本中に百十九ヶ寺も存在する、真偽を議論する気はないが、善光寺如来すなわち阿弥陀三尊はインド、朝鮮を経て日本でも教化を重ね各地を行脚した如来と言える、これは善光寺聖と呼ばれる修験者や半僧半俗の行者等の勧進達の功績であろう、もう一つ吾妻鏡にも記述があるが、鎌倉時代以降に於ける源頼朝に代表される東国武士団の信仰も忘れてはならない。 
因みに寺名の由来は東大寺要録や正倉院文書に記述される尼僧・善光尼に有るとの記述があるが定かではない、また全国には443尊の「善光寺仏」があるとされる、但し直接の末寺と言う関係では無い。 
鎌倉時代に始まったと考えられる総菩提所として納骨・塔婆供養などの追善儀礼が盛んなわが国屈指の著名な観光名所を兼ねた古刹である、寺の創建に関する縁起伝承は諸説があり真偽は問えないが、日本最初の渡来佛で六世紀中盤に欽明天皇の御世に百済の聖明王から献上されたとされ禁裏に置かれたが、摂津の堀江に捨てられた像を善光と名乗る僧侶が当地まで運んだとされる、秘仏の阿弥陀三尊像(観音菩薩・勢至菩薩)善光寺如来が嚆矢とされるが、寺の開基は七世紀後半と見るべきではないか。

10余度におよぶ火災にあう、内でも平清盛が起こした政変の年、1179年治承(じしょう)3年)の焼失で百年以上復旧はされ無かったが、源頼朝を中心とした鎌倉武士団により修復される、しかし川中島の合戦等で衰退して、武田信玄や上杉謙信により本尊などの寺宝が甲府や越後府中に移転した事により更に寂れる。

その後、善光寺如来は信長等の為政者により岐阜など各地を移動し、1597年秀吉の命令で慶長大地震による崩壊した京都東山大仏(方広寺)の本尊として移されるが1598年秀吉の病中に現在地に戻り、家康の庇護もあり勢いを盛り返す、脱線するが方広寺の大仏は東大寺を凌ぐ巨像で、像高18m(東大寺14.868mであったとされる。
善光寺は真言宗醍醐寺・天台宗・浄土宗・時宗など各宗派の勢力争いの場所となるが、徳川幕府の以前から家の宗派である浄土宗と東叡山寛永寺(天台宗別格本山)との関係から二宗派が残り現在は天台宗支配下の”大勧進25坊)”と浄土宗配下の大本願17坊)”が善光寺住職を並立させている。
善光寺は女人往生の寺として知られ平家物語の千手前(せんじゅのまえ)「吾妻鏡」の虎御前(とらごぜん)等にも登場する。

阿弥陀信仰の聖地・善光寺には晩年東大寺造営大勧進を成し遂げた重源も宋から帰国後に二度参詣し百万遍念仏を成就・七日七夜唱え続ける不断念仏を行い阿弥陀如来の霊性を感得したと言う、善光寺に浄土信仰の発展の原因に重源を初め・証空・親鸞・一遍等々の参詣が観られる前述の如く浄土信仰の盛んな寺で特に一遍は自身の看板ともいえる「踊念仏」を善光寺系から採用している。
善光寺の本尊はインド・中国を経た三国伝来の伝承を持つが、インドに於いては阿弥陀如来が造像された例は台座が一躯残るだけであり、「扶桑略記」「平家物語」等の記述は伝承として受け入れるのみである、絶対秘仏とされる阿弥陀三尊であるが前述の様に各地を変遷している、形式は法隆寺金堂の釈迦三尊像と同じ一光三尊像である、一光三尊とは源流は北魏に観られる、一つの光背に一如来と二菩薩が収まる事を言い船形光背の場合が多い、一光三尊如来であるが鎌倉時代の中期には生身の如来であると言う信仰から各地に模造三尊像が造像された、善光寺では一光三尊如来像を「善光寺佛」と呼ぶ様で全国に443カ所に存在している。  
阿弥陀如来は衆生の臨終の折に浄土へ来迎する如来であり秘仏とされる事に違和感を持たざるを得ない、しかも前立ち本尊を拝すれば菩薩を引き連れた立像であり来迎に適した姿である、また善光寺如来は戦禍を避けて各地を移動し多くの模彫像が存在している、因みに絶対秘仏とは開扉日を決めて行われる秘仏と違い衆生の前に姿を現すことは無い、絶対秘仏とされ創建以来一度も開帳されていない尊像は東大寺二月堂の十一面観音菩薩 ・浅草寺聖観音菩薩 ・善光寺の善光寺如来の著名三寺である、閑話休題、つうじょう秘仏のご開帳は十二年毎、三十三年毎、六十年毎の一度と言う寺院が多い。
 
仏像を秘仏とする典拠として知られる経典に「虚空蔵菩薩能満諸願最勝心陀羅尼求羅尼経」「七倶胝佛母所説准提陀羅尼経」が知られている。
三国伝来の日本三如来と言われている三尊がある、清凉寺釈迦如来因幡堂薬師如来と共に善光寺・阿弥陀如来(三尊像)が言われている、二百組以上存在する様であるが、代表例を挙げると * 甲府善光寺、 * 向徳寺(埼玉県嵐山町)、 * 鎌倉市円覚寺、安国寺(広島県福山市)、* 福島県いわき市等が挙げられる
光寺には寺名や本尊の由来に付いての伝承として、本田善光と言う人が阿弥陀三尊を難波の海から拾い現在地に安置したとか、寺名の善光は仏教用語の「善因善果」からとか、法華寺の寺主であった「善光尼」からとか中阿含経巻第九「善光朱印経」など諸説あるが、何れも定かとは言えない様だ、因みに「善光朱印経」H27.4cm×w1190cm759年)奈良国立博物館にあり重文指定を受けている。
国宝の本堂は間口23m、奥行が長く約54m、高さが29.54mの撞木(しゅもく)作りで後ろに別棟がある、サイズは縮小されているが様式を踏襲した寺(善光寺別院等)は多い。
仏や寺と結縁を結べる
縁日の関連では、一度の参詣で千回の結縁を結ぶ「千日参り」「千日詣」と呼ばれる会が善光寺710日)や東大寺(8月9日)にあるが佛教では類似の行為がよく見られる、特に浅草寺などでは観音菩薩の功徳日である七月十日の「四萬六千日」参りの人気が高い、即ち一日の参詣で百二十年間毎日参詣した事になるとされている、因みに縁日とは「結縁の日」「有縁の日」の略語である。 
善光寺の様式とまでは決められていないが、多くの善光寺(注2)は入母屋、妻入り、裳階、正面向拝に唐破風がある、背後には乗り越しの屋根を持つ処が多い、向拝部は外部に階段がある、周囲に濡れ縁の勾欄で外周を構成される、堂内は外陣と内陣の区分が明確である。



  〇印国宝   ●印重要文化
○本堂   間口27m 奥行き53m  三棟撞木作り 入母屋二重屋根(撞木作り  裳階付き)         

●三門   栩葺 20.398m 奥行き8m 入母屋造 唐破風 二重門  高村光雲と米原雲海による金剛力士像

●阿弥陀如来 両脇侍 銅像 鍍金 中尊 42.4cm  観音 30.5cm 勢至 30.2cm 一光三尊形式 鎌倉時代

 



注1、 賓頭盧(びんずる)尊者(そんじゃ)  、ビンドラ・バラダージャ賓頭盧跋羅堕闍(びんずるばらだじゃ)、梵語のPiṇḍola Bhāradvāja)、博識で慈悲深いが十善を尊重した、説法が異論反論に対して許さず、吠えるライオンに形用され獅子吼(ししく)第一と称される、十六羅漢の筆頭尊者で部派仏教では最上席の羅漢である、大乗佛教では文殊菩薩に従う尊格とされている、日本では病平癒の信仰から「おびんずる様」(お賓頭盧)として親しまれている、体の欠陥箇所を撫でると病が快癒するとして信仰されて寺の前に安置されている。
十六羅漢とは
(1)賓度羅跋囉惰闍(びんどらばらだじゃ)、(2)迦諾迦伐蹉(かなかばっさ)、(3)迦諾迦跋釐堕闍(かなかばりだじゃ)、(4)蘇頻陀(そびんた)、(5)諾距羅(なくら)、(6)跋陀羅(ばっだら)、(7)迦理迦(かりか)、(8)伐闍羅弗多羅(ばざらほったら)、(9)戍博迦(じゅばか)、(10)半託迦(はんだか)、(11)囉怙羅(らこら)、(12)那伽犀那(ながさいな)、(13)因掲陀(いんがだ)、(14)伐那婆斯(ばなばし)、(15)阿氏多(あした)、(16)注荼半託迦(ちゅうだはんたか)をいう。

 

2、六善光寺とは七年毎の開帳を同時に行う所で以下の様になる、
*
信州善光寺(長野県長野市元善町491) 026-234-3591   
*
飯田元善光寺(長野県飯田市座光寺2638) 0265-23-2525   
*
甲斐善光寺(山梨県甲府市善光寺3-36-1) 055-233-7570   
*
善光寺東海別院(愛知県稲沢市祖父江町祖父江南川原57-20587-97-0043   
*
関善光寺、妙祐山宗林寺(岐阜県関市西日吉町35) 0575-22-2159   
*
岐阜善光寺(岐阜県岐阜市伊那波通り1-8) 058-263-8320 を言う
。 



                   
   東海別院
(祖父江善光寺)極楽戒壇(御錠前の処)              関善光寺(宗休寺)の大日如来、 五郎丸ポーズ大日剣印か。




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2011
36日 2012630日 20131015日一部加筆 2014114日縁日 2015年6月4日注2加筆 2017年10月20日御印文頂戴 2018年5月1日 6月30日 2020年2月22日 6月3日 2021年3月20日 8月25日 12月22日 2022年8月14日 2023年4月6日加筆  

 



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