浄土寺

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浄土寺には国宝の阿弥陀三尊像や重文で快慶作の阿弥陀如来像など貴重な文化財が在るが、寺の見せ場は本堂に於いて阿弥陀来迎と極楽浄土観想の空間を体験できる事であろう。

すかし蔀戸(しとみど)を開き、池を利用して夕日を取り込む浄土堂から観て、極楽浄土をイメージした黄金に輝く光の空間を演出した阿弥陀三尊を拝することに尽きるのではないだろうか。

この空間に光を演出する構成は現在我が国の建築界の至宝とも言える安藤忠雄氏による淡路島の本福寺・水御堂(真言宗・御室派)や茨木の春日丘教会等の作品にも反映されている。
山号を極楽山と言い荒廃していた東大寺の所領の寺格及び1193年(建久4年)に伽藍再興を目指す、後に”大仏の聖”と呼ばれた重源が再興した寺である、源氏に肩入れし平家に崩壊させられた東大寺を復興するにあたり、大勧進となって大仏殿の再建に奔走する「重源」三度の渡宋体験を生かし播磨の念仏別所として開いたのが嚆矢とされる。
国宝・浄土堂は念仏を信仰する当寺の要諦であり重源が関与した寺院で現存する唯一の別所遺構とされる。
浄土堂の内部は小屋組を見せる化粧天井で軸組部分と母屋垂木に朱色を塗り、梁の一部と野地板は白く塗りコントラストを強調している。
平面的には桁行が6mと広く設置さら軸組は柱の途中から複数の肘木を差しこんだ組物で構成しており、屋根部分は反りの少ない直線的な意匠であるが、幾何学的構造美を強調した化粧天井で宝形造を構成した小屋組を見せる。
この様式は重源が宋本と三度の入宋から学んだ様式と言われ天竺様
(大仏様)と言い再建を果した東大寺の様式に先駆けて日本に於ける天竺様の代表作の一堂である、この天竺様では東大寺大仏殿、南大門と浄土寺の浄土堂等が建立されたが、大仏殿等は失われて二棟が現存している。 
浄土寺の国宝・阿弥陀三尊像は建久6
(1195)の墨書があり快慶(仏師)の代表作でもある、重源が快慶に依頼した作品で三尊とも雲に乗り中尊も来迎の為か希少な立像であり美しいフォルム
(forme・仏)を見せている。
浄土寺の三尊像は従来の阿弥陀像と異なる印を結ぶ、即ち
左臂は掌を外に向けて胸前に上げる、右臂は掌を外に向けて前に出すか垂れ下げる、両臂リング状に親指と人差し指を付ける逆手来迎印(さかてらいごういん)を結んでいる、逆手来迎印を結ぶ像は少ないが京都の「清浄華院」に国宝の絵画(絹本著色 三幅・四明普悦筆の銘)が、唐招提寺聖衆来迎寺、悲田院、東京国立博物館にある。
浄土寺の三尊像は阿弥陀堂と溶け合い夕日の彼方にあるとする極楽浄土の観想を見事に演出している。
因みに阿弥陀三尊像
(注5は重源が住んだ事がある高野新別所(専修往生院)に納められた宋本の仏画を踏襲したとされる、即ち通常左尊が観音菩薩で右尊が勢至菩薩であるが浄土寺の場合は左右が逆になっている、通常の脇侍は宝冠には観音が化佛を着け勢至は水瓶を着けているが、両脇侍とも宝冠に化佛を付けている、しかし持物に相違が観られる、すなわち観音菩薩の蓮華に対して勢至菩薩は水瓶を手にしている、他の寺院に於ける仏像(脇侍)逆配置の例は仁和寺金堂の阿弥陀三尊願興寺の釈迦三尊も逆配置になっている、また東大寺南大門の金剛力士は阿形と吽形が通常と逆配置である、延暦寺無動寺明王堂の秘仏不動明王の脇侍、矜羯羅童子と童子も他の寺院とは逆配置である。 
阿弥陀三尊に於ける菩薩の逆配置は密教寺院に存在する様で「阿唎多羅陀羅尼阿嚕力(ありたらだらにあろりき)(きょう)「観自在最勝心明経第九品」などの「密教系経典には右観自在・左大勢至とす」云々の記述がある。
東大寺南大門、浄土寺浄土堂は重源、快慶が深く関与しており堂宇の天竺様や雲に乗る菩薩の配置に興味がもてる、阿弥陀三尊に付いて
阿唎多羅陀羅尼阿嚕力(ありたらだらにあろりき)(きょう)「観自在最勝心明経第九品」「陀羅尼集経」などの密教系経典には、多く右観自在・左大勢至とか、十一面観音、金剛手菩薩など云々の記述がある(密教大辞典・法蔵館)。  
塔頭寺院は現在に於いては歓喜院と宝持院の二院が近くに存在している。


1、蔀戸 (しとみど) 寝殿造等の外周の建具で蔀の語義は日除けや囲いである。一般には格子に板を張ったものや、板を両面から格子ではさんだものを蔀と呼んでいる。
鎌倉時代後期を境に社寺建築以外にはあまり使われなくなった扉で、上半分(上蔀)を長押から釣り下げ、開閉時ははねあげて先端を垂木から下げた金具にかけて下半分(下蔀)は柱に打ちつけられた寄に掛金でとめておき、または取りはずして柱間全部を開放することも可能。   

2、真言八祖 諸説あるが密教伝持の師を言い 龍猛(竜樹) ・竜智 ・金剛智 ・不空 ・善無畏 ・一行 ・恵果 ・空海とされ真言祖師とも言う。

3重源 (11211206俊乗房重源と言い、醍醐寺の開祖「聖宝」の系列。13歳で醍醐寺に入るが修験道に活路を求めて山岳行脚をする、後に3回宋に留学したとされる。1181年後白河法皇から造東大寺大勧進の宣旨を受け勧進活動に入り当寺を初め各地に別所を設ける、留学経験を生かし天竺様(大仏様)などの新しい建築様式を採用する等システム工学の管理に優れており南大門・金剛力士の彫立にあたり慶派集団に短期間で巨像を完成させる為に、革新的な工程管理・作業手順に影響を与えた可能性が大きい、美術工芸品等の日宋交易にも貢献した。著書に「南無阿弥陀仏作善集」がある。
東大寺
には写実性に優れた快慶作の国宝像がるが、他に三別所すなわち周防(山口県)・伊賀(三重県)・播磨(兵庫県)のも存在する。

4、別所 所属寺を出た僧侶が滞在して宗教活動を行う施設や所領を言い、財政基盤の確立と宗派の発展の前線基地を目的とした、別所は自治性を持った所が多く後に系列内外の大寺院の末寺等に変化した、東大寺の別所は浄土寺の他三重県伊賀市の新大仏寺・山口県防府市(周防)の阿弥陀寺等があり、備中(岡山)摂津渡辺(大阪府)高野山が東大寺七別所と呼ばれた。

5、著名な阿弥陀三尊 法隆寺伝橘夫人念持仏) 阿弥陀坐像・観音勢至立像 飛鳥時代  三千院(往生極楽院阿弥陀堂) 阿弥陀坐像・観音勢至跪坐 平安時代 仁和寺(金堂)  阿弥陀坐像・観音勢至立像  平安時代 清凉寺(霊宝館) 三尊坐像 平安時代 中尊寺(金色堂)阿弥陀坐像・観音勢至立像  平安時代 浄土寺(浄土堂)三尊立像 鎌倉時代,、この内仁和寺と浄土寺の脇侍が逆配置(右観音菩薩、左勢至菩薩)である。

6、 証券用語に三尊天井と言う熟語がある、語彙は無関係であるが、浄土寺の三尊を語源として証券業界に於いて株価の乱高下に使われている。


真言宗 高野山真言宗      所在地   兵庫県小野市浄谷町1951           案内℡ 0794-62-4318                                        

             
浄土寺発行のrésuméからの転写

主な文化財
 

阿弥陀如来三尊 木造漆箔 阿弥陀530,0cm 脇侍各371,0cm 鎌倉時代  

阿弥陀堂(浄土堂)桁行梁間3間 宝形造 本瓦葺 鎌倉時代  

●阿弥陀如来立像(快慶作) 木造漆箔 266,5cm 鎌倉時代     

●重源(俊乗上人)坐像 木造彩色 82,5cm 鎌倉時代 

●菩薩面(25)木造彩色 17,8-20,8cm 鎌倉時代 

●真言八祖像 絹本著色 掛幅装 各112,064,0cm鎌倉時代 

●佛涅槃図 絹本著色 掛幅装 180,3164,8cm鎌倉時代
  

寺院案内


最終加筆日2005728日 2012年6月1日本尊逆配置 2914年6月30日 2021年12月21日加筆   



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