曹洞宗の禅は、臨済宗の公案中心(公案禅・看話禅)の禅とは信仰の実態、及び信徒の階層の違い、 ”
一佛両祖両大本山を標榜する宗派である、一佛は本尊・釈迦如来であり両祖とは*高祖で
日本曹洞宗の高祖・道元は官僚としても巨大な権勢を得られる程、高貴な血統に生まれながら権力や冥利愛で欲は無論のこと、己の出身の天台教学とも一切妥協しなかった人である「猶ほ孤輪の太虚に処るが如し」、また中国で学び一典の経典も所持しないで帰国している、「眼横鼻直 空手還郷」を宣言したとされる、即ち仏性は己の心中にあると言う意味合いである。 「永平広録・巻1-48上堂」より。
宋に学び如浄(天童如浄 長翁如浄 1163年~1228年)の下で修行し帰国する時、師の如浄のはなむけの教訓は、「城邑聚落に住することなかれ、国王大臣に近づくことなかれただ深山幽谷に居して、一個半個を説得して、わが宗をして断絶を致さしむることなかれ」(建撕記)である、因みに如浄の法系は日本に馴染みの臨済宗、楊岐派や大慧派とは異端と言えるほどで、応酬数遍で拈華微笑と言える程の出会いであった。
それは釈迦如来から十大弟子の一人・大迦葉の教えを正統な経路で祖師を通じて、佛法の正統を継承したと言う確信から生まれた,また禅宗と言う呼称も拒否した、中国の文化哲学を広めた禅僧や禅宗寺院が外交特使や接待所の様な存在になる中で、乞われて北条執権に面会した後に永平寺に籠る、永平寺はかって最澄が南都佛教の世俗的腐敗を嫌い篭ったであろう比叡山の世俗的腐敗を避けた場所である、当初の永平寺は大仏寺と言い寺と言うより庵に近い規模であった。
如淨曰く因みに公案とは禅宗系、特に臨済、黄檗宗に於いて修行者に覚りに至る道標として、出題された問答(禅)を言う、元来は中国の官庁で出された文書である、著名な公案に「隻手の声」、「狗子仏性」等々がある。
曹洞宗に於ける「王三昧」は座禅三昧である、三昧(Samādhi、サマーディ)はインドに於いても瞑想即ち座禅の中から生まれた、先発の臨在禅が公家や武家に浸透したのに対して曹洞宗は農村部に浸透し禅宗系では最大の信徒数を擁している、道元が帰国して建仁寺に
因みに座禅とは「雑阿含経」「成実論」からの出典でパーリ語(pāli)でニッサジャー(nisajja)からとされる、ヨーガ(yoga)が原語といわれている、禅は梵語(sanskrit)でデヤーナ(dhyāna)、パーリ語(pāli)でジャーナ(jhā-na)と言い沈思黙考を意味し「坐」は中国で付けられた様である。
参禅の曹洞禅に対して臨済、黄檗宗の公案とは修行者に覚りに至る道標として、出題された問答(禅)を言う、元来は中国の官庁で出された文書である、著名な公案に白隠の「
「端座参禅を正門とせり」座禅すなわち「安楽の大法門」を説く、臨済宗と比較すれば公案禅即ち禅問答を行わない、曹洞宗は「
道元の視点からは本来「本覚思想」である筈の法華経への疑問、及び偏りと教義的にも停滞し権力抗争を繰り返す比叡山に見切りをつけて尋ねた三井寺の
道元の宗派には天台や南都宗派から迫害を受けていた大日能忍が興し禅系の達磨宗があり、弟子の懐奘や義介は道元の基に合流して二祖、三祖となる、因みに能忍は天台の学僧で禅を無師独悟し禅密兼帯の三宝寺(吹田市)を創建した、栄西以前の日本に於ける禅宗とも言われている。
中国に於いて構成された五門七宗(注2)に位置する曹洞宗は総本山を置かないで大本山が永平寺と総持寺の二ヶ所に総持寺・能登祖院があるが大きな分派は無く、
下述するが寺院数一万四千七百以上あり単独教団としては日本最大の教団と言える、しかし後述するが曹洞宗の各寺院は二つの会派に所属している、また祖師に二人を置いている、
同一宗派に二人の祖師について曹洞宗恵林寺の関口道潤師は道元を「高祖」と言い父に変換し、
キリスト教にパウロ(Paulos)、真宗・浄土真宗に八世蓮如なくして教団存続が危ぶまれたように、紹瑾と二十五哲と呼ばれる弟子の明峰素哲・
親鸞も道元も求道者としてあまりにも真摯でありラジカルな為大衆が追従することは困難であった、これに対して井沢元彦氏の記述(逆説の日本史)が理解しやすい、道元・親鸞の強烈な個性を持つモルトウイスキーを直接与えないで薄い水割りや炭酸orレモンを入れて民衆に与えたのが浄土真宗の蓮如であり瑩山紹瑾であったと言う、まさしく
今一人の祖師、瑩山紹瑾(十五世紀・室町時代)は原理主義的路線(Fundamentalism)
曹洞宗の要諦は道元の正法眼蔵、弁道話にある、「宗門の正伝にいはく、この単伝正直の仏法は、最上のなかに最上なり。参見知識のはじめより、さらに焼香・礼拝・念仏・修懺・看経をもちいず、ただし打坐して身心脱落することをえよ」に代表されよう。
正法眼蔵とは道元の創作とは言えない、以前から禅宗では使われていた様で意味は、主巻の弁道話には「釈尊が説いた無上の正法」と言えよう。(道元 百瀬明治著
淡交社)
道元の主張は釈迦正伝仏法の絶対性にあり釈尊~達磨~如浄~道元と引き継ぐ正伝の仏法である、「即心是仏」を目指す座禅即ち仏法の正門であるとする、其処にあるのは「
因みに沙門(梵語Śramaṇa, シュラマナ、pāḷi語 Samaṇa, サマナ)とは出家、修行者を言う。
所謂「如是我聞」から始まる経典も法華経・般若心経以外は全て否定している、また宗派おも否定、自分の周囲をも禅宗や曹洞宗と名乗ることおも禁止している、道元の主張は釈迦の教え即ち仏教と言える、親鸞にも言えるが道元は過去現在に於いて日本仏教界で権力に
更に晩年にはラジカルな教義が加速して出家至上主義を唱え、帰国当初は認めていた在家・女人成仏をも否定した。
余談かも知れないが、梅原猛氏は「臨済宗は芸術が花開いたが、曹洞宗は修行があまりにも厳しく芸術家が育たなかった、----十八世紀になり漸く、良寛は曹洞宗が生んだ素晴らしい芸術家」との意味合いを述べている、曹洞宗を大衆にも理解できるように咀嚼したのが教団を組織した瑩山紹瑾と弟子達であり曹洞宗の今日の繁栄は紹瑾の解釈改宗によるところが大である。
曹洞宗の最大の特徴は根本経典が千二百四十四年、道元の著わした「
正法眼蔵とは全九十五巻からなり、佛法の真理・修行のあり方・宗門の規則・の他、只管打坐(ひたすら座禅)・本証妙修(本来覚っているものの座禅)・修証一如(座禅そのものが覚り)・行持道環(座禅を通じて佛と一体になる)等仝膨大な著作である、要諦は束縛を離れて心・身で座禅し煩悩から離脱した処に、己と宇宙が通い(一体化)液状化した「
道元の著作に仮名法語集 ・「正法眼蔵」75巻本、12巻本、・坐禅の方法や心得をひろく大衆に説き勧る「普勧坐禅儀」1巻、・「宝慶記」1巻、・「学道用心集」1巻、・「永平清規」、・正法である事を強調した「護国
ところで正法眼蔵と言うタームは道元の創語ではない、禅宗系で使われる四文字熟語で意味合いとして概ね「釈尊が説いた無上の正法」と言える(道元 百瀬明治著淡交社)
曹洞宗の教義は道元の厳しさを緩めた、逆に臨済宗は白胤以後
なお管長は総持寺・永平寺交互に就任している。腐敗堕落した比叡山に見切りをつけ、尋ねた三井寺の
道元の主張は釈迦正伝佛法の絶対性にあり、座禅即ち佛法の正門であるとする。
所謂如是我聞から始まる経典も法華経・般若心経以外は全て否定している。また宗派おも否定、自分の周囲をも禅宗・曹洞宗と名乗ることおも禁止している。道元の主張は釈迦の教え即ち佛教と言える。
更に晩年には出家至上主義を唱え、帰国当初は認めていた在家・女人成仏をも否定した、僧侶には高位に就き法会を行い官位を獲得を目指す者と、権勢とは距離を置き遁世的な行動を採る僧に分類されるが、道元は後者に属する、因みに女人成仏のタームを記述してある経典は法華経第十二品「提婆達多品」のみの様である。
これを大衆にも理解できるように咀嚼したのが教団を組織した瑩山紹瑾であり曹洞宗の今日の繁栄は紹瑾の解釈改宗によるところが大である。
高祖永平道元に対して祖師、瑩山紹瑾は道元の門下四代の人であるが、大衆の教化・祈祷の採用・偶像崇拝を認め・宗門の名称を禅宗・曹洞宗と呼ぶなど道元の主張を緩めるなど大衆に馴染み易くした、また
その決果曹洞宗は道元の厳しさを緩めた、逆に臨済宗は白胤以後
曹洞宗の最大の特徴は根本経典が千二百四十四年、道元の著わした「
一部重複するが曹洞宗の寺院数は14,713ケ寺を有し、浄土真宗本願寺派10,488寺、真宗大谷派8,881寺を凌いでいる。
正法眼蔵とは全九十五巻からなり、佛法の真理・修行のあり方・宗門の規則・の他、只管打坐(ひたすら座禅)・本証妙修(本来覚っているものの座禅)・修証一如(座禅そのものが覚り)・行持道環(座禅を通じて佛と一体になる)等仝膨大な著作である。(注・証は覚り・修は座禅)
因みに正法眼蔵と言うタームは道元の創語ではない、釈尊は迦葉に微妙の法門即ち後継者として
前述の二会派であるが 曹洞宗は道元の没後に紛争があった、所謂三代目に於ける相論があり、その内容は井沢流に言えばストレートウイスキーか水割りかの論争である、現在は有道会(永平寺派)と総和会(総持寺派)があり、曹洞宗の管長は両会で二年毎の輪番制である、僧侶の修行先は所属寺院に関係なく師の許可があれば永平寺でも総持寺でも自由である、従って同安居会と言う同窓会は総和会、有道会に関係なく修行先の寺に所属する、但し宗派としてのガバナンス(governance)は働いている部類に属する様である
道元の曹洞宗には米付きの作務担当から禅仏教に於ける達磨禅師を初祖として第六祖と成った曹渓山大鑑慧能の禅すなわち南宗禅が原点とされる、道元が天龍寺やニン波の港に於いて出会った老典座(炊事係)達との会話は著名であるが労働即修行など南宗禅精神が生きている様に感じられる、共通点として為政者の招きを断りひたすら見性禅の道を進む、ちなみに「本来無一物」(注3)は慧能の偈に詠まれているのが嚆矢とされる、因みに臨済宗、黄檗宗も南宗禅である、また曹洞宗の呼称は慧能の流れの中の洞山良价を派祖としておりその弟子の曹山本寂から由来しており洞曹宗とする記述もある。
道元による日本人の心に多大な影響を与えた言葉に「典座教訓」がある、慧能以来の禅宗の伝統か炊事の仕事に修行・功徳・生甲斐を持つ事である、但し久しぶりに永平寺に参詣したが儀礼など作法を大切に残しているが、素人感覚では禅の精神に些か肉山化が感じられる、浮かんだタームはアンシャン レジーム(Ancien Régime)
依経とされる経典は正法眼蔵の抜粋された「修証義」や「法華経」「般若心経」「大悲心陀羅尼」等が読誦されている。
曹洞宗の寺院に僧侶の修行中に於ける守護尊として安置される重要な仏に「白山妙理大権現」がある、道元が帰国前日に「碧巌録」をコピー中に白山妙理大権現が現れて助勢したと言う伝承がある、白山は奈良時代の修験僧である泰澄に依って開山された修験道場で白山妙理大権現が安置されている、因みに白山妙理大権現の本地仏は泰澄が修行時代に念じた十一面観音と言われている。
佛法の基本的スタンスに七仏通戒偈(注6)と言う著名な句がある、「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」意味は「意味:諸々の悪をなさず、諸々の善いことを行い、自ら心を浄める、是れ諸仏の教えなり」で唐の白楽天(白居易)が道林禅師を訪ねて弟子になる物語で法句経や道元も正法眼蔵に引用している。
同じく曹洞宗寺院で崇拝される神がある、道元が帰国の折に秘かに伴ったとされる尊挌である大権修利菩薩と言う、出自は定かでないが海神とか伽藍神とか言われる招宝七郎と同尊と言われ西遊記や水滸伝に出てくる。
曹洞宗の逸材に良寛を挙げなければならない、良寛は常不軽菩薩に心酔しながら政治に無関係で、漢詩、和歌、俳句等に優れ書は空海と共に日本の二大書家とも言われている、また日本最初のインド哲学を東京帝国大学で教鞭を執った
曹洞宗の特徴の一つに静岡県を挙げなければならない、禅宗王国と言われる程の寺院数を誇る、即ち静岡県内に仏教寺院はは約2600ケ寺が存在するが、
曹洞宗は著名(特にスポーツに強い)な大学を傘下に持っている、駒澤大学 愛知学院大学 東北福祉大学 鶴見大学などを持つ、駒澤大学を例にとれば1882年創立の曹洞宗大学林専門学本校、1904年に曹洞宗大学、1925年駒澤大学と言う経緯で発展してきた、後の学校も1875年と76年の曹洞宗専門支校を嚆矢としている。
禅宗系に付いて日本では24派が宗派を形成しているとされるが、臨済系21派(大本山21寺)、曹洞宗三派とされる。
曹洞宗で会や葬儀で読まれる経典は般若心経、正法眼蔵を部分抜粋された「修証義」と
寺院数 14,699寺 信者数 1579,301人。
常済大師・
總持寺五世、後円融天皇の勅命により洞上の僧録を受ける、曹洞宗大躍進の原動力となった僧侶で、紹瑾の直弟子蛾山韶硯の五哲であるが通幻十哲と言われる多くの優れた弟子を輩出する、通幻十哲の活躍により他宗寺院を寺ごと改宗させる等、曹洞宗末寺一万数千ヶ寺の内、寺格に付いては・大本山・別格地・法地・平僧地とされたが、現在は「大本山」「格地」「法地」「准法地」と呼ばれている、そのうち九千ヶ寺が通幻派といわれた、また格地のグレードは高く別格地の略と言われている。
總持寺二世である
注1、 永平寺の他もう一つの大本山に総持寺がある、神奈川に移転する以前は石川県鳳至郡にあり、行基の創建伝承のある真言宗の寺であった、総持とは禅宗の祖・達磨大師ゆかりの言葉で梵語 dhāraṇ ī ダーラニーと言い、法・陀羅尼・総持と訳されると言う、ちなみに総持寺(院)の名称を持つ寺院は10ヶ寺を超えるがほぼ真言宗で占められている。 (阿部慈園氏・新佛教語散策・東京書籍より)、因みに永平寺1246年(寛元4年)に於ける寺名の由来は中国に仏法が伝えられた年号を採ったものであり当初は
正法眼蔵から在家への布教を意識して一部を取り出した陀羅尼に「修証義」(五章三十一節)があり、曹洞宗必須の陀羅尼である、宗内に於ける位置付けは「宗典」であり信徒に向けた法要で読誦したり、法話の材料として使われている、永平寺と総持寺二つの大本山ではないが、真宗高田派の場合「本山」と「本寺」の専修寺がある、真宗高田派と仏光寺派は親鸞の弟子「真仏」が興した処で、蓮如が登場するまで本願寺を遥かに凌ぐ勢いであった、この内高田派の専修寺は「本山」と「本寺」の二寺がある、本山は三重県津市一身田町の専修寺、本寺は栃木県真岡市高田1482にある、本寺は親鸞が流罪中に活躍した拠点であったらしい、本山は神宮(伊勢)の念仏信徒との関連が強い様である。
注2、五家七宗(五門) とは中国に於いて成立した禅宗の会派を言い「法眼宗」」「差仰宗}「曹洞宗」「雲門宗」「臨済宗」に臨済宗から分かれた「楊岐派」・「黄龍派」が独立し五門七宗と言われた、ちなみに栄西が宋で修めた禅は黄龍派であるが、現在日本の臨済宗の主流は妙心寺系の楊岐派(法系)で占められている。
注3、慧能の偈 菩提本無樹 明鏡亦非台 本来無一物 何処惹塵埃 (佛教への旅・五木寛之・講談社より抜粋)
菩提本無樹(菩提本樹無し) 明鏡亦非台(明鏡も亦台に非ず) 本来無一物(本来無一物) 何処惹塵埃(何れの処にか塵埃を惹かん)
神秀の偈に対してであろう、本来菩提には樹等という不変なものは存在しない、明鏡という心も無い、即ち本来無一物である。よって塵埃の溜りようがないから払拭の必要はないではないか。
注4、見性とは禅に於ける覚りを言い人間が本来備えている本性を理解する事。
注5、最澄の菩薩戒(円頓戒)は日本仏教界のみの戒律で他国の仏教界に於いては戒律とは認知されていない、日本以外では菩薩戒だけの納戒では僧侶とは認められていない、因みに上野雅文著「最澄再考ペリカン社」に依れば比叡山で得度し、仏教に対して原理主義的とも言える道元ですら中国に於いて正式な僧としての認知を受けられなかったと記述されている。
注6、 七仏通誡偈 過去に存在したとされる過去六仏+釈尊が説いた教えの共通項を纏めた偈(詩)で七仏を賛美している、本文の
*
注7、各宗派内部の序列格式としての寺格制度が定着する。
臨済宗寺院を五山、十刹、諸山、林下に分類した、曹洞宗では「別格寺院」を常恒会、片法幢会、随意会に、「法地(普通寺院)」を1~4にし、その下部に「平僧地」を置いた、浄土真宗では院家、内陣、余間、飛檐、平僧に区分した、さらに複雑な寺格が定められて上納金によって昇進することが出来た、1871年(明治4年)に寺格は廃止されたが現在も教団には残されている。
注8、
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注9、 可睡斎 静岡県袋井市久能2915-1にある曹洞宗の仏教寺院。山号は
注10、曹洞宗宗務庁では式典に利用するために、道元のメイン著作”正法眼蔵”の一部を”修証義”の中に 1
主な寺院
大本山 吉祥山永平寺
・福井県吉田郡永平寺町
大本山 諸嶽山総持寺 ・神奈川県鶴見区2-1-1 凡そ百年前明治末期に石川県から移る、
大本山 総持寺・能登祖院 石川県鳳至群門前町、
永平寺別院(三院) 東京都港区西麻布 ・名古屋市東区布池町 ・北海道松前郡松前町
永澤寺 兵庫県三田市永沢寺210
寺院数 14,686ヶ寺 信徒数 約688万人 本尊 釈迦如来
主な経典 金剛般若経 正法眼蔵(修証義) 楞伽経 般若心経 法華経(観世音菩薩普門品 如来寿量品)
曹洞宗
如浄 ──── 道元 ──┬─── 紹瑾 ──┬─── 総持寺
──┐
│ │ ├─┬─ 曹洞宗
└────── ──┴─── 永平寺──┘ │
宏智派・寿昌派 ─────────┘
系列大学
駒澤大学 東京都世田谷区駒沢1-23-1 有道会(永平寺派)
愛知学院大学 愛知県日進市岩崎町阿良池12 総和会(総持寺派)
東北福祉大学 宮城県仙台市青葉区国見1丁目8番 有道会(永平寺派)
鶴見大学 神奈川県横浜市鶴見区鶴見2-1-3 総和会(総持寺派)
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