修験道  説明: C:\Users\Owner\katada202\kyoto\button1.gif     仏像案内  寺院案内   役小角


修験道とは山岳信仰を淵源としたもので、日本の土着神道と浄土真宗(真宗)を除いて、概ね総ての仏教宗派の頭陀行(注1と外来の陰陽道や道教などが混在した日本独自の宗派である、日本列島に住む衆生達の精神文化、生活様式即ちエトスethos)と修験道との共通点は著しく多い、古来からの信仰対象に総てとは言えないが、山は先祖たちが集まる処即ち「山中他界の信仰」が盛んであった、富士山をはじめ、奈良県の三輪山 二上山、青森県の恐山(おそれざん)、滋賀県の比叡山和歌山県の高野山、石川、福井、岐阜三県にまたがる白山、富山岐阜の立山連峰、出羽三山月山(がっさん) 羽黒山 湯殿山(ゆどのさん)等々数多くの山岳霊場が存在し、里から拝する、籠る、縦走、登拝など儀礼に敬われた、修験とは正木晃氏の著作に依れば「修」を行して「験」を獲得する「道」と言う、験は験力を意味し、超自然的な力、即ち霊力を現す、正木説を敢えてそのままコピーした(密教の聖なる呪文 ビイング・ネット・プレス)

修験道は教団と言う組織を持たない、更に成立時期に関する確かな定説も存在しない、縄文時代に自然信仰としての例、平安末期と言う研究者、記録に残らない庶民信仰等と言う研究者もある、日本では国土の80%近くを山岳や丘陵で占めている、そこには「霊峰(れいほう)○○山」等と呼び天孫降臨(てんそんこうりん)、神仏が顕現(けんげん)する霊地であり、豊かな恵みや、荒れ狂い畏怖を示す聖地でもある、奥深い山で修行し「験力」即ち霊力を宿した者が下山し衆生救済・加持祈祷を行い修験道が誕生した、これ等が平安末期には吉野・熊野・大峯山等々で峰入りの形式・儀礼・哲学が整備され教団へと形付けられた、因みに修験者は頂上近くを通るが頂点は神仏の坐す聖なる地点であり足を踏み入れる事は無い。
修験道の開祖は役小角と言われているが、著作は無論のこと、一篇の記述の残していない、さらに役小角の登場した七世紀よりはるか以前からの土着的に信仰されていたと言える、聖護院門主、宮城泰年師は修験者、山伏、聖、行者と呼称される組織があり、横の連携に関係なく存在しており修験とは異なる加持祈祷をする組織も存在してようだ(修験道と言う生き方、新潮社)

修験道と仏教との相違を挙げれば、三世の仏の位置がずれている事であろう、即ち仏教では現世の釈迦如来であるが、修験道では過去仏に位置している、位置付は以下表の様になる。
 

 

 過去仏

現在仏 

未来仏 

 修験道

 釈迦如来

 観音菩薩

 弥勒仏

 仏教

 迦葉仏、燃燈仏他

 釈迦如来

 弥勒仏

 

 正木晃氏に依れば修験道とは仏教請来以前から存在する「日本古来の山岳信仰に、神道・佛教道教・陰陽道が習合して呉越同舟、すなわち混淆(こんこう)して成立した日本固有の民俗信仰」と言う、因みに修験者の出入りした著名寺院をランダム挙げれば、法隆寺薬師寺興福寺、永平寺、輪王寺、金峯山寺等々、真宗系を除く総ての寺院が関係した歴史を有する。 
従って経典は般若心経が読呪、陀羅尼に採用されている。
古来より山岳聖地で修業し霊力を養い修験の験力を身に着けて”持明者”となり下山して衆生にサルベージ
salvageを施すとされる、修験の意味は験(験力)≒霊力を取得する超自然的な力を言う、特に密教との関連は著しい、山川草木に霊を感じる日本教の霊魂観すなわち文化的遺伝子を持つアニミズムanimism宗教と言える、ちなみに修験の意味は験(験力)≒霊力を取得する超自然的な力を言う、更に正木氏は日本仏教の自然観はアニミズムの上に仏教が乗っかった姿と言う。 
仏教(密教)、道教、儒教などと習合シンクレティズムsyncretism習合思想して平安時代末に宗派としての形態を為したものとされる、一説には道教の日本版とか密教と道教を日本化した道と言う説もある、因みに日本の山名と仏教の関連を挙げれば・薬師岳・観音岳・普賢岳・大日岳・地蔵岳・龍神山・金剛山・蔵王山・荒神山・稲荷山・八幡山等々数えるには困難と言える。
閑話休題、琴平山の山岳信仰と修験道習合した金毘羅権現はインドではクンビーラ( Kumbhīra)と言いガンジス川の鰐を神格化した尊像である。
 
修験道は正確には「生活仏教」であり高尚な仏教哲学をを研究する「教義仏教」とは違い現世利益(げんぜりやく)と通過儀礼を大切にする、現世利益と通過儀礼
(出生、成人、婚姻、死亡時等の儀礼)をパスして教義仏教に固執してムスリムMuslim ラーに帰依した者)の攻撃に滅んだインド仏教と同じ道を進んではならない、因みに現世利益と通過儀礼を重要視したヒンズューは健在である。 
1300年程前に活躍したとされる役小角
を祖としているが弓削の道鏡最澄空海が修験者的行動をしていた、空海の孫弟子であるが役小角を崇拝し両者の後継者にあたる真言僧で醍醐寺を創建した聖宝や天台僧で回峰行を始めた相応等により広められた、生涯に十二万尊の仏像を刻んだ円空も修験者である、また後に皇位に付いた皇室関にも複数の修験者すなわち”山伏”が存在していた、因みに修験者には出家、在家の区別はなく、在家信者すなわち優婆塞(うばそく)であるが後醍醐天皇も修験者であった。
唱えられた経典は般若心経法華経普門品であるが、主に真言や陀羅尼を唱えて加持祈裳に効験のあった者を出家、在家の区別なく効験を大切にして修験者とか山伏山臥と呼ばれた。
天皇家や貴族の金峯山参詣すなわち御嶽詣や熊野詣の先達を行い権力機構とのコンタクトcontactを為した、蔵王権現と修験道の本丸・金峯山寺と御嶽山の関連であるが宮家準(みやけひとし)(修験道・法蔵館)氏に依れば御嶽とは岩石が累々とした高山を言い、嶽に美称の御を付けた事を言う、「金の御嶽」即ち吉野の金峯山寺を初めとして武州御嶽・木曽御嶽などに蔵王権現と共に勧請された。 
修験者、山伏は僧侶、在家信者など制約は無いが密教僧が多く参加している、従って密教の王道である両部の大経が最も重要視されている、但し修験道は浄土真宗を除く全宗派に習合している、但し真宗が主力の一向一揆には修験者の参加もあった様だ。
信仰対象としては大日如来を中心として両部曼荼羅が主体であり大日如来の教令輪身としての不動明王などが広く信仰された、また金剛蔵王権現、大峰八大童子、熊野権現などが出現した、不動明王と修験道との関連は深い、不動信仰が遍く興隆したのは修験者に依る布教が否定できないし、修験者に重用される経典は「聖不動尊大威怒王秘密陀羅尼経」「聖無動尊秘密陀羅尼経」「聖不動経」などがある。
多くの宗派が存在したが江戸時代には二大宗派に所属を義務化された、すなわち天台系の本山派と真言系の当山派である、明治政府(明治5年、修験道廃止令)によって修験道は廃止され本山派は天台宗、当山派は真言宗に所属させられた。 

金剛蔵王菩薩と金剛蔵王権現に付いて、胎蔵界曼荼羅の虚空蔵院、右に向かって16面に煩悩を断ち切る108臂の“金剛蔵王菩薩”が配置されている、また密教の儀軌には22面もある様子である、要するに金剛蔵王菩薩は多面多臂の菩薩である、一方修験道の本尊である蔵王権現とは像容の相違が著しい、“蔵王権現”は単面2臂であり権現の原型が菩薩説には疑問が多い様である。

修行して迷妄(めいもう)を排除し験徳を得ることから修験者、山中に伏して修行する事から山伏とも呼ばれる、修験道は日本の古典文学との関わりに、*紫式部日記、 *源氏物語、 *枕草子、 等に修験道の祈祷師が登場している。
修験道の法流は役小角を祖とされるが確証はない、伝承では小角は金峯山寺で金剛蔵王権現を感得したとも言われる。
現在は真言系の聖宝を祖とする当山派、及び天台系の相応
(天台修験の開祖)を初めとする本山派に分類されている、両者は不動信仰が篤く修験道に重用される様になる、羽黒修験も覇を競っていたが神仏分離令で多くは神道に鞍替えするが、特に羽黒山壊滅的打撃を受けた。
修験者の荒行は峻烈を極めた様である、行脚の道程でさえ「崔嵬嶮路(さいかいけんろ)」「嶮難(けんなん)遠路」と言われ六道の苦を現世で担う代受苦、など来世の罪業を滅罪に努めたと言える。

当山派は醍醐寺三宝院の聖宝を祖としている、本山派は園城寺の僧が聖護院を建立して熊野に三所権現の関連である、仏教は貴族階層とのコンタクトが強いが、修験者は一般民衆との接点から修験者との関わりは大きい、一説には江戸時代の仏教の凡そ半分は修験道が関係していたとされる、因みに後醍醐天皇は修験者であった。
政治と修験道の関連は表面に現れる事は稀であるが、建武新政を断行した後醍醐天皇を擁護したのも修験者で自身も修験者あったという記述も観られる

修験道は日本に於いて宗教弾圧を受けた唯一とも言える組織である、明治維新までに存在した修験者の数は凡そ十七万人(当時の日本の総人口は三千三百人程度)と言う修験者を擁しながら1872年(明治5年)の「修験宗廃止令」により活動停止状態にさせられた、本山派、羽黒派は天台宗の傘下に、当山派は真言宗の傘下に入り教義、儀礼等々で両派の方式を強要された、廃止令前の勢力の十七万人と言う数字は当時の日本の全僧侶、すなわち十三宗五十六派の僧侶数にさして遜色ないと言われている。
修験道が宗教弾圧を受けた最大の理由は、国家神道を標榜する政府から神仏習合、多神教を唱える修験道は、太政官の目指す神仏分離及び一神教的な国家神道から観れば最も邪魔な存在であったと思惟される、ひろさちや氏は明治の太政官政府が憲法で信仰の自由を詠いながら都合に合わせて急いで作った国家神道は宗教ではないと言う。
(世界の宗教 宗教の世界 春秋社)

修験道特有の哲学に三密一仏(三体一仏)がある、以下の三尊釈尊の現れである、釈尊を過去仏・観音菩薩を現在仏・弥勒菩薩を未来仏としている、三尊が溶け合い一尊となり蔵王権現として著わされるが総てが釈迦如来であるとされる。
修験道の本丸とも言える金峯山修験宗の本山であり釈迦如来等と蔵王権現と同尊とする「三体一仏(三密一仏)(注8思想がある為に、本尊は蔵王権現三尊である、過去現在、未来の三世救済が信じられている、修験道の現状に付いて日本人の文化的遺伝子が組み込まれた信仰、即ち寺と僧侶の為の仏教でなく民衆仏教である、江戸時代までは衆生仏教を担ってきたが明治の禁止令で壊滅的に衰退したが、現在増加の傾向が観られる。 

修験道の修行に「四無行」と言う峻烈を極める行がある、九日間完全な*断食*断水(五日目からうがいok)*不眠*不臥の上で堂内に篭っての行で、生葬儀と言う「浄斎の儀」を行い逆さ屏風の中で行われる、感覚が鋭くなり三ヶ日目辺りから己の死臭がすると言う、佛教の否定する釈尊、竜樹の言う中道から逸脱する峻烈さであるまた勤行儀に「九条錫杖経(くじょうしゃくじょうきょう)」があり、六環(ろくかん)の錫杖を振りながら経典を読む、錫杖の発する音で悪霊は退散すると言う、因みに六環には六波羅蜜(布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧)が込められている、因みに錫杖とは梵語でkhakkhara (カッカラ)と言い、長さが1.7m程の金属製で頭部に音を発する(ゆかん)が六~十二個取り付け僧が山野を遊行する折に武器禽獣(きんじゅう)除け、合図等に使用される。
特に日本人は神の住む世界として山岳地帯を崇めてきたエトスがある、1868(明治元年)神仏分離令、1873年の修験禁止令で壊滅的な憂き目に会うが神仏は「不可分一体」の関係である、20世紀中盤から下記の地域が勢いを盛り返している、修験道の主な聖地に・羽黒山・日光・高尾山・伊吹山・園城寺・聖護院・醍醐寺・金峯山寺・那智山等、俗界と隔絶された深山霊玄の地が拠点とされている、山岳地帯と言えばブータンのニンマ派にも役小角信仰よく似た伝承がある様だ。

密教では真言の教えは顕教と違い大日如来の所説は(しん)(みつ)秘奥(ひおう)であると言う、すなわち(しん)(みつ)秘奥(ひおう)である、深秘釈は「密勝顕劣」を強調している、密教以前に釈迦如来が説いた顕教は方便であると言い、法華経の言う小乗の佛教を顕教(大乗)に変換している事と同根である、顕教の浄土と区別して真言宗では「密厳浄土」と言う、密教では浅略と深秘は相にも適用される、すなわち無相を仏教の正しい在り方で空、無我を意味し、有相は浅略で凡夫に知られる色心諸法難解な解釈)としている、”うぞうむぞう”の語源かも知れない、但し修験道に於いては有相三密と無相三密を並立させて *有相を密教、*無相を修験道としている。

修験者の多くは在家信者に分類され行事参加以外は一般人に戻るが、薬草に関する知識は豊富であり、・祈祷師・日本教エバンジェリスト
evangelist即ち、伝道者として存在感を示していた、現在は日本山岳修験学会と言う組織があるが、宗教学、文献史学、考古学、民俗学、等々多様に分類され統一した研究は為されていない様である。
余談になるが、ユダヤ教のラビであるマービン・トケイヤー氏は修験者と古代ユダヤ教徒の服装に多くの共通点
(頭襟、房等)を指摘している。

  

*荒澤寺正善院--羽黒山修験本宗--山形県鶴岡市羽黒町大字手向 
*晀岳山験成験成就寺山王院--日光修験道--栃木県鹿沼市日吉町字金山
*高尾山薬王院有喜寺--真言宗智山派大本山--東京都八王子市高尾町   

*大乗峰伊吹山寺--伊吹山修験道--滋賀県米原市上野  
*園城寺三井寺--天台寺門宗総本山--滋賀県大津市園城寺町 
*聖護院門跡--本山修験宗総本山--京都市左京区聖護院中町  
*醍醐寺三宝院--当山派修験総本山--京都市伏見区醍醐東大寺 
*金峯山寺--金峯山修験本宗総本山--奈良県吉野郡吉野町  

犬鳴山(いぬなきさん)七宝瀧寺--真言宗犬鳴派大本山--大阪府泉佐野市大木  
*那智山青岸渡寺--天台宗--和歌山県東弁婁郡那智勝浦町那智山  等々が儀典を継続したりして活動している。

 

1、 僧侶が托鉢の行に出かける時に掛ける袋を頭陀袋(ずだぶくろ)と言う、梵語でDhūta(ドゥータ、意味:払い落とす、棄捨)と言い衣食住に於ける貪欲を払拭する為の修行である、出家者の原点とも言える修行に頭陀行と言う行があり十二頭陀支、若しくは十三頭陀行、十三頭陀支などがある。
内容は以下の様になるが戒の範疇にはない。

  1. 糞掃衣(ふんぞうえ)――――糞掃衣しか着ない
  2. 三衣(ざんえ)――――大衣、上衣、中着衣以外を所有しない
  3. 常乞食(じょうこつじき)――――常に托鉢による乞食の生活する
  4. 次第乞食(しだいこつじき)――――托鉢に廻る家は選り好み出来ない
  5. 坐食(ざしょく)――――一 一日に一回の食事のみ
  6. 一鉢食―――― 一鉢以上食べない
  7. 時後不食――――午後には食べない
  8. 阿蘭若住(あらんにゃじゅう)――――人里離れた所を生活の場とする
  9. 樹下住――――樹木の下で暮らす
  10. 露地住――――屋根や壁のない露地で暮らす
  11. 塚間住――――墓地など死体の間で暮らす
  12. 随所住――――偶然入手した物や場所で満足する
  13. 常坐不臥(じょうざふが)――――横にならない、即ち座ったまま。 


2、 六根清浄(ろっこんしょうじょう) 修験者が修を行する時に称える六根清浄に付いて、六根とは人間が持つ認識の根幹すなわち五感と第六感を加えたものである、六感とは眼(視覚) 耳(聴覚) 鼻(嗅覚) 舌(味覚) 身(触覚) +意(意識) を言う。



       

  *ユダヤ教のラビ・マーヴィン トケイヤー師に依れば衣装に於いて修験者と古代ユダヤ教のラビとの共通点が多いと言われる。

 

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