天台宗

                    説明: C:\Users\Owner\katada202\kyoto\button1.gif                  仏像案内    寺院案内   仏教宗派   比叡山延暦寺
 


日本天台宗は788年に天台智顗の摩訶止観、法華一乗の仏法をとりいれた最澄が比叡山に一乗止観院
(現在の根本中堂)を創設した時を嚆矢とするが、勅許(ちょくきょ)公認されたのは806年である、鳩摩羅什の漢訳により理解を広めた法華経を根幹として・空論・如来蔵・禅定・戒律を含む総合宗派である、天台のキーワードとしては”悉有仏性((しつうぶっしょう)”すなわち誰でも仏に成れる種を持つと言う。
法華経を竜樹による中論即ち空の理論で理解する哲学である、中国天薹山(てんだいさん)
(浙江省)に於いて完成された宗派であるが、最澄は四宗を融合してをり・法華教学(円経)・台密(密教)・禅・戒(律)を相承した形態をとり天薹山(隋)とは多くの部分で異にしている、要するに中国天台の教義に密教、菩薩戒等を加えたものである、また「四宗相乗」と言うが最澄没後の天台は密教と浄土信仰に比重が偏ったと言えよう。(摩訶止観 śamatha-vipaśyanā サマータ‐ ヴィパッサナー) 
後述するが隋の僧・天台智顗(ちぎ)を開祖としている、智顗は法華三大部すなわち1,
法華玄義」(二十巻 大正三十三№1716 経題を詳しく注釈) 2,「法華文句(もんぐ)(二十巻 大正三十四 №1718) 3,「摩訶止観」(二十巻 大正四十六 №1911)(以上を天台三大部とも言う)を著し皇帝煬帝をスポンサーに天薹山国清寺を興し根本道場及び州玉泉寺を創建したのを嚆矢とされ、宗派名も山の名前から銘々されている、また智顗は「観音玄義」「観音義疏」を著しており観音信仰にも篤かった、従って天台宗と言う宗派名は智顗が興した地名から取られて天台宗とされた、八宗綱要には「従山為名 此宗従 彼山 面起故山」と書かれている、要するに天台宗の蘊奥は法華経の教理に基づく「一念三千の法門」を説き、「摩訶止観(まかしかん)」の説く観法(かんぽう)により覚りに至る事である、中国天台宗から受け継がれた摩訶止観に三諦が言われている、即ち空諦、仮諦、中諦がある、真理(梵語・satyaと言う意味である、は総ての物事には実体は無い、存在は総て仮の姿である、総ての存在は空でも有でもなく言語や思慮の対象を超越している、の解釈である、因みに法華三大部は摩訶止観を筆頭にして日本天台のバイブル的存在にある。
初祖を厳密に見れば中国天台の初祖は北斉時代
550577年)に「一心三観」を覚った慧文で第二祖は「法華三昧(注21」を覚り、空と法華経 (安楽行品第14がベース)を関連付けた慧思515577年)である、最初に天薹山に庵を構築した智顗は第三祖との見解もある、因みに一心三観の三観とは空観・仮観・中観を瞬時に修める事とされる(稲葉幹雄・新視点の仏教史)、また龍樹を初祖として慧文以下が下がると言う見解もある。
法華三大部は日本天台宗に於いてもバイブル的存在である。
         1、法華玄義は
智顗の講義を弟子が筆録した法華経の意義を論じた書で妙法蓮華経玄義とも言い20巻に纏めてある。 
         2
法華文句は同じく智顗の講義を弟子に依る筆録書で妙法蓮華経文句とも言い法華経の注釈書。 
         3
摩訶止観(注17)智顗の講義を弟子の筆録書で天台摩訶止観とも言い天台の観心すなわち修行法を説いた10巻の書。
正式名称は天台法華宗であるが法華経の教え、即ち円頓止観(えんどんしかん)から円教と言い円宗とも言われる、又真言宗の東密(注17に対して台密とも呼ばれている、通常経典は呉音で詠まれるが天台に於いて法華経・安楽行品第十四や阿弥陀経は漢音で詠まれている。

(えん)(ぎょう)とは”円満融和の教え” 全・円満な究極教えを言い、天台では法華経の教えと言うことになる因みに華厳宗では華厳経の教えを言い、浄土真宗では本願一条すなわち他力本願を言う。
天台は諸法実相を重要視している、諸法実相の出典は「法華経」方便品に記述される「唯仏与仏及能究尽諸法実相」即ち、仏は真実の世界を熟知している、これすなわち久遠実成の根本仏と言う解釈。
日本に於ける既存仏教すなわち南都仏教との最大の相違は二点あり、まず戒律問題である、南都仏教側の言う具足戒
(分通大乗)と最澄の言う菩薩戒との相違であり、ひとつは仏性論にある、菩薩戒とは梵網経に説く円頓戒(えんどんかい)」すなわち十重禁戒戒律注3、四十八軽戒(戒律注4)を言う、閑話休題、世界の佛教界に於いて具足戒を省略して円頓戒だけで事足りる仏教は日本佛教界に限られている。
Eka-yāna法華一乗思想」即ち「一切階成(いっさいかいじょう)」如何なる人間も成仏する事が出来ると言う法華経・法華三大部を土台とした天台のキャッチフレーズである、法相宗・徳一の唱える三乗即ち五性(姓)格別(注1)との論争は三百年に渡り続いた、因みに三一権実論争は日本が嚆矢ではない、インドでは大乗仏教の興りと共に唯識と中間派とで論争があり中国(六朝時代~唐時代)でも教相判釈を絡めて論争された。

総ての人間は仏に成る可能性すなわち「悉有仏性(しつうぶっしょう)」が看板であるはずの最澄が論敵を攻撃する激しさには驚かされる、即ち徳一に対して「北轅者(ほくえんしゃ)」「麁食者(そじきしゃ)謗法者(ほうぼうしゃ)」「「悪法師」等と罵る、峻烈を極め真摯な宗教家の論争とは考えられない、明らかなヘイトスピーチhate speechである、因みに北轅者とは北方の囚人を意味し、麁食者とは人間の食物を食していない者、謗法とは誹謗(ひぼう)正法(しょうぼう)の略語で正法を無視すると言う仏教用語である、さらに言えば最澄の顕戒論は日本以外の宗教家から観れば我田引水であろう。 

徳一も「真言宗未決文」の即身成仏疑の項で「あの天台・真言二宗の学僧達は、自分の宗の拠所たる経論を充分に研究せず、勝手に別の宗をたてて即身成仏と言っているのは、様々の論に背き、後学の者を誤らすものである、智慧ある者は謬ってそれを拠所として学んではならない」と述べている。 (徳一と法相唯識・水谷孝一・長崎出版) 
天台宗は五世紀の初期に中国
(隋)で起こる、
鳩摩羅什が翻訳した妙法蓮華経(法華経)を天台智顗による解釈書である法華玄義・法華文句・摩訶止観・の三典を根本教義として成立した、隋の天台宗は智顗が最初に行った教相判釈に於いて五時教判を言い釈迦がレベルに合わせて五段階に分類して説教し到達点が法華経とした。(鳩摩羅什に付いては経典4参照)
要するに天台の根幹は教観二門とも言い法の研究門・教相門と実践、修行の観心門に分類される、しかし隋の天台宗は法華経と大日経の同一思想性を持つ等、複合性、即ち幅広い解釈を容認する宗派であった為か、隋から請来した日本の天台宗は「転字釈」を取り入れて、智顗の天台と異質とも言える教義を取り入れながら東塔・西塔・横川の三塔が競合しながら発展する、密教大日経を標榜する遮那業(しゃなごう)(注17と法華経ベースの止観業(顕教)の両輪として京を席巻する、さらにや円頓戒(注15に加え古来よりの民間信仰を取り込み、天台密教を形成し独自性を深めた発展した、天台宗の根幹を成す教義は「本来本仏性・天然自性身」すなわち本来人間には「悉有仏性」を有する元来仏と言う哲学にある、因みに最澄の時代に於ける年分度者(注11すなわち得度の受領者は二名であるが、止観業と遮那業より各一人であり既に密教に対するスタンスは大きかったと言える、但し中国天台も法華経のみを依経としていたわけでは無い、即ち法華経を第一義に於いて仏法の統合を目指した様である、湛然711782年)の「止観義例」に依れば「法華を以って宗骨と為し、大智論を以って指南と為し、涅槃経を以って扶䟽と為し、大品般若経を以って観法と為し、-----緒論を引て以って助成す、云々」と書かれている。
天台宗成立の必要条件の一つに一切経・大蔵経は全て釈尊が説いたものであると信ずる事が重要である、天台智顗により「一切経」と呼ばれる数千部をしのぐ経典の格付け即ち、教相判釈が行われ五段階に分類したが法華経を最上位にランクした、大蔵経は凡て釈尊の経説と最澄が信じて日本天台宗を興したとも言える。
最澄の天台宗は隋の天台宗とは相違がある、比叡山は四宗兼学の他に本尊に相違がある、智顗の興した隋の天台宗の本尊は文殊菩薩であるのに対して延暦寺の本尊は薬師如来である、日本天台宗は隋の天台から見れば異端とも言える哲学を取り入れているが、智顗以来の天台に於ける根幹教義である「一念三千の解心」の理念に相違はない、但し戒律に対しては南都仏教と同じく隔たりがある、随の天台は菩薩戒は無論のこと声聞具足戒が必須科目であるのに対して最澄は具足戒を放棄している、しかし最澄は東大寺に於いて具足戒を受けながら自身を無戒と称して叡山に籠る、これは最澄が戒律は三師七証(注23)から受けるのではなく仏から受けるべき「浄戒」が必要と解釈した事に有る、即ち日本に於ける受戒は最澄から観ればすでに戒律と認知していなかったと考えられる
(浄戒部分は仏教発見・西山厚・講談社より)
日本天台宗は中国の天台を総て正確に踏襲した訳ではない、延暦寺に於いては学僧たちは「転字釈」即ち教義の本意を離れた恣意的に異なる解釈を多くしている様である。

天台(えん)(どん)戒、最澄 が四分律すなわち比丘戒(声聞戒)の廃止し大乗円頓戒を唱える、菩薩の戒法として中国天台の第七祖・道邃が創出した菩薩戒を実践行で天台宗に伝えられる、大乗戒すなわち極めて緩い戒律である。
伝教大師・最澄が義真(通訳で初代座主)と共に805年唐・留学から帰国日本天台宗を起こす、弘法大師・空海密教を学んだのに対して最澄は天台の法華、達磨による禅、大乗戒思想の内、六波羅蜜の円頓戒、密教と当時の唐仏教の殆ど全て持ち帰り四宗兼学を武器に桓武天皇の庇護の下で南都仏教、更には真言宗との対抗手段とした為に本家中国とは違った日本独自の天台宗となったが、最澄が望み死後に認められた「一向大乗戒」は日本のみ存在した緩やかな戒律である、当寺「具足戒」を受ける場所は東大寺観世音寺(福岡)下野の薬師寺(栃木県)の三戒壇が存在するのみで、三師七証(注12の基で行わねばならず、かつ出目が重要視され何人でも受戒出来る場所として努めたと考えられる。
また天台宗が求める勤行として在家には「朝題目夕念仏」を出家者には「四種三昧」
(注14を課している。

空海は真言密教を完成させた、しかし最澄は法華経を最高経典としたが、四宗兼学で円・戒・禅・密を一論に試みたが融合しておらず、生涯自身の組織教学を完成させることは無かった、未完成すなわち、これが後に鎌倉仏教浄土宗真宗禅宗日蓮宗を成立させた原因と言える、比叡山が京の都に近く時代の変化に敏感であったとの説もある、適切と言えるか不詳であるが、鎌倉仏教の祖、すなわち腐敗した比叡山を捨てた法然親鸞、栄西、道元、日蓮達は天台の中枢からドロップアウトした人達と指摘する説もある。
最澄には法華一乗思想の確信があった、それは既存哲学の様に歴劫(りゃくごう)修行(∞に近い)を必要としない「直道(じきどう)」すなわち「最も近い道」で成仏に至ると言う哲学があった。
最澄の一乗戒と、良源
(元三大師・慈恵大師)
紋章即ちインプレッサimpreza「天台本覚論」(注25)が鎌倉仏教に与えた影響力は絶大なものがある、特に良源は比叡山を機能化した功績は偉大であり、現在でも延暦寺内に於いて尊敬を集める量は最澄を凌ぐとされている、天台本覚論は比叡山に於ける最奥義を為す教義である、煩悩を抱えた状態で悟りが開ければ千日回峰行や十二年籠山行を初めとする荒行は不要ではないか、天台本覚論は台密から生まれたとされるが、良源無くして「鎌倉仏教」即ち源信・往生要集、法然・念仏・浄土宗、親鸞、浄土真宗、が発生する事は無かったと梅原猛氏や小室直樹氏は言う。 
但し良源にも功罪がある、罪としては935年(承平5年)と966年(康保3年)根本中堂などの大火災の復興の為に、摂関家を初めとする貴族達を衆徒に迎え入れた、以降衆徒達の台頭を招き「神輿振り(注24)」など山法師の乱脈ぶりを助長した。
小室論では仏教とは釈尊の時代に定めた戒を守る事にある、これ即ち仏教の根本と言う、鑑真が艱難辛苦を味わいながらの来日、また戒律を求めてインドへ向かった法顕(337年~422年)や義浄(635年~713年)達で証明されよう、その大切な規範を全廃したのが比叡山を中心とした日本である、これに輪をかけた天台本覚論は釈迦の仏教からは異端であると言う。
主題が前後するが最澄と空海及び天台と真言の優劣は存在しない、また両宗の優劣論を論ずる事は意味がないし最澄が智行具足(ちぎょうぐそく)(智慧と修行を完備した)の傑僧である事に変わりない、正木晃氏(文芸春秋)は「最澄が法華経の諸法実相を用いて実現したことを、空海は真言密教のマンダラ理論を用いて実現したまでである」と記述している、しかし天台の宗是とも言える大日如来と法華経の釈迦如来を同体説は、あまりにも強引と言えよう。
天台宗は日本人が開いた最初の宗派とも言える処で総本山延暦寺を初めとして・京都五箇室門跡や・寛永寺
(上野)中尊寺・輪王寺(日光)・深大寺(東京)善光寺大勧進・観世音寺等々著名寺院が傘下に存在している。 
比叡山は辛辣な派閥抗争を抱えながら洛内に於いて巨大な権勢を維持していた、三塔十六谷に割拠しても、惣寺(そうじ)としての結束に付いて必要時には守られた様で洛内に於いて布教の許可すなわち「允許(いんきょ)」は比叡山の山徒、衆徒が実権を持つ「寺家(じけ)」の承認を必要とした。
閑話休題、良源に付いて御神籤の発案者との説があるが、御神籤に書かれる籖詩(せんし)は中国から渡来した「天竺霊籤(てんじくれいくじ)」からのものである。
 
天台真言両宗の相違を端的に言えば専門店と百貨店・単科大学と総合大学にたとえる人も多い、真言宗は空海亡き後分派を繰り返すが天台宗は大きく二派に分かれた程度である、しかし比叡山の歴史は凄惨な主導権争いの歴史でもあった、但し日本には多くの佛教宗派が存在するが南都と真言宗を除けば比叡山即ち天台宗を母胎としている。
叡山に於いて念仏は円仁の行っていたが、事実上天台に取り入れたのは良源である、鎌倉仏教は日蓮を含めて、良源を嚆矢として往生要集の源信~法然~親鸞~蓮如に繋がる。
天台智顗の時代には密教は中国に
請来されていない時代の為か、最澄は当初法華経を重視した顕教が主体であったが唐僧・元政(円仁の師)の教学を取り入れた日本天台の後継者で「一大円教」を唱えた三代座主・慈覚大師・円仁・更に五代座主・智証大師・円珍更に・五大院安然・良源により、台密すなわち天台密教が完成される、因みに天台宗の台密と真言宗の東密(東寺から採られた)の呼称は虎関師錬(こかんしれん)12781346年)著の(げん)亨釈書(こうしゃくしょ)27の諸宗志が嚆矢の様である。 
天台智顗の教義は日蓮にも及んでいる、日蓮宗の根幹を為す表題は「法華経に帰れ」にある、智顗が教範で示した「妙法蓮華経玄義」に於いての「名体宗用経(みょうたいしゅうようきょう)五重玄具足(ごじゅうげんぐそく)の妙法蓮華経」に於いての宗用すなわち唱題効力を強調している。
円仁に到っては空海の胎蔵界
(慈悲)・金剛界(智慧)を両界に空海が受けていない灌頂儀礼(注20すなわち蘇悉地(そしつち)(覚りの完成・蘇悉地法)を加え三部立(三大法・真言三部経)として真言宗より優れているとした、是について末木文美土氏は天台は法華経とのバランス上蘇悉地経を重視したと言われる。
両部の大経に蘇悉地経を加え”胎金蘇”即ち「大日三部経」「真言三部経」「台密三部経」と言う呼称がある、但し真言宗は即ち両部の大経を”一具(いちぐ)両部”としている、但し密教後発の天台宗台密(たいみつ))蘇悉地経を重要視している蘇悉地経とは「蘇悉地羯羅(そしつじきゃら)Susiddhikāra Sūtra, スシッディカラ・スートラ」と言い台密三部秘経に挙げられている、因みに円仁は自著の蘇悉地羯羅経略疏(りゃくしょ)に於いて「三部ノ経王」として最重要視している、これは密教に立ち遅れた天台宗が真言宗に対する挽回の一手であり無理があると正木晃氏は言う、すなわち蘇悉地経は本来大日経の範疇に加えられる経典で成立した時代は大日経よりも古い、これで”統一止揚(とういつしよう)”が出来る筈がないと言う
更に円仁は顕教経典である法華経までも密教の中に加えてしまった、但し蘇悉地経は初期密教に属しており典拠とした曼荼羅も成立しておらずやや強引とも言える、しかし蘇悉地経すなわち「蘇悉地()()(きょう)」は大日経系の古い経典で恵果以降に取り込まれたが以後中国の密教は消滅状態となる、後代中国密教は元~清の時代に姿を表すが、不空・恵果の時代の中国風に咀嚼された中期密教ではなくチベット密教すなわち後期密教であった、
因みに蘇悉地経の正式名称は「蘇悉地(きゃ)()(きょう)」と言い、大日経、金剛頂経、と共に「台密三部秘経」を形成している、円仁は台密三部秘経の内でも蘇悉地経Susiddhikāra Sūtra, スシッディカラ・スートラ」を自著の蘇悉羯羅経略疏(りゃくしょ)に於いて三部ノ経王と言い、最重要視していた
円仁・円珍の留学であるが「会昌の廃仏(注22」の最中と直後であり困難を極めた事であろう、二人の力で比叡山は黄金時代を向かえ我が国最大の仏教勢力に発展する、円仁・円珍・までは「法華一乗と真言一乗は何ぞ優劣あらん」即ち「円密一致」を教学にして密教と円
(法華経・完全な教え)は同列に扱っていたが安然に到っては円を密の下位に置き比叡山を真言宗とまで言った、真言と天台を混成即ち安然による法華曼荼羅と真言密咒は日本人好みの口伝法門として定着する、安然は「仏の所説乃至(ないし)その法門は悉く真言教」と言い、五時教判すなわち「円劣密勝」である。 
安然たちに依り延暦寺は勢いを取り戻すが「法華一乗思想」は希薄に成り最澄が天台宗に於ける最高経典の法華経を完全な教えと定義した事と著しく変化してしまった。
この状態は十八代慈恵
(元三)大師・良源まで続く事になる、良源912985年)は天台本覚思想(誰でも仏になれる)の完成者であり長く座主を務め三塔十六谷を完成し延暦寺を興隆させる、また密教に固執していた比叡山に円教を復活し、本来の覚性、即ち総ての人間に本来殻持つ覚の智慧、言い換えれば草木国土悉皆(そうもくこくどしつかい)成仏を言う「天台本覚論」を著しこれが浄土系、禅宗、日蓮宗などの鎌倉仏教発祥の触媒に為るなど浄土教研究にも尽くした人であり天台宗は善く言えば懐が深い宗派と言える、梅原猛氏は「天台本覚思想、が鎌倉仏教即ち、浄土、禅、及び法華思想の共通の前提となった、即ち仏教を日本化した」という。 
反面
法華信仰を取り入れた文学や美術の分野に貢献したが教学的には脆弱化する、因みに天台の言う本覚論とは、全ての人は仏性を持ち覚りの心を持つ事を言う、重ねて述べれば、この天台本覚論は全ての鎌倉仏教発生の根源である、また良源没後に東塔の檀那院の覚運いわゆる檀那流と横川恵心院の源信の恵心流の対立が起る、良源は政治力と霊能力に優れ禁裏や摂関家をバックに坐主として権勢を奮うが園城寺を激しく敵対視して壊滅を狙う事に終始した、一神教で言われる様に「異端の罪は異教より重い」と言う事か。
叡山中興の祖である良源は僧侶の奢侈(しゃし)や武装、等々を厳しく禁じ籠山結界を遵守し、天台宗の古儀に則る大法要が、大講堂を中心に全山で行う等の「広学(こうがく)(りゅう)()」を定めて復興させる。
太政官符からの任命制度が確立し、座主に十九代尋禅から貴族・皇族が占める様になる、これらの人々は叡山に住まず都に居を構えていた、そして門跡寺院などが出来るようになると武力・政治力は増大するが人脈は硬直化し単なる腐敗集団となってしまった、因みに比叡山では良源
(第18代座主)が貴族化や僧兵の横暴を危惧して「二十六条起請」を出すなどしたが効果は無く大原や東山などに遁世した真摯な僧侶は多く居た様である。

閑話休題、天台宗の教義に十界互(じゅうかいご)()がある、凡ての人間は互いに十界を有した境界があるとされ、いかなる人間も仏界から地獄界までの心があると言われる、すなわち心の内に十界を観て覚りを目指す教義とされる、これを絵画とした熊野観心十界曼荼羅があり、熊野三山の本願所に所属する熊野比丘尼が全国を勧進行脚した、天台の言う十界互具の十界とは・仏界・菩薩界bodhisattva(ボーデイサットバ)・縁覚界pratyekabuddha(プライエーカプッタ)・声聞界śrāvakayāna (シュラーヴアカ)・天界upper region・人間界Manussya・阿修羅界asura・畜生界Tiryagyoni・餓鬼界Preta・地獄界Narakaを言う、これは大乗非仏説側から観れば仏弟子の乗り物である声門乗の行く先すなわち声聞界は大乗仏教を自称する教団と言えよう
天台には三諦と言う著しがある、空諦、仮諦(げたい)、中諦を言う、空諦は総て空無の道理を説く、仮諦は現実に存在する道理を説く、中諦は前述の二諦は不二一如とする。
九世紀末には天台全盛期に義真の弟子である円珍が23年間と長く座主を務めた関係か最澄と義真
(義真は最澄の直系弟子ではない)を同格とする雰囲気が教団内に広がり,教義に違いの無い円仁派と円珍派との間に二人の死後には、実権を簒奪した衆徒間を中心に武力確執が起きる、
円珍派の余慶(よぎょう)法性寺座主にさらに989二十代天台座主に任命された事により爆発し骨肉の争いとなる、この争いは鎌倉末期まで続き山門派・延暦寺・円仁グループと寺門派・園城寺・円珍グループに決別することになる、即ち「山寺の六流」(穴太流、法曼流、西山流、三昧流、葉上流の五派と寺門派の六流)である。  
これは教義より人脈が優先した歴史が繰り返される、最澄が後継者と考えた泰範が空海の下に学び比叡山に帰らなかったのも、義真が次期座主と希望した修円が室生寺に逃れたのも派閥関係によるところが大きい。  

平安時代に於いて天台宗は真言宗と仏教勢力を二極化していたが、桓武朝があと10年継続していたら少なくとも平安時代の日本仏教界は最澄の下で得度を受けられる年分度者の配分を含めて統制され天台宗一色になっていたかも知れない。
比叡山は戦国時代織田信長の焼き討ちに遭うが信長は総ての寺社と敵対する意思はなく己を覇権者と認知されれば攻撃は無かったと思惟される、信長は武力・政治力を排除したのであり宗教弾圧を行ったのではない、比叡山壊滅直後に坂本の統治を任せていた明智光秀による周辺の天台宗寺院の復興を認めているし、石山本願寺も壊滅させないで和議に応じている。
日本の文化遺伝子は存在するが結果的に信長は欧米より数百年早く政教分離に着手し秀吉を経て徳川時代の檀家制度で完成した事になる。
しかし日本に於いて仏教弾圧は行われた、明治維新には確実に弾圧は存在した、
明治以前に於ける神社の多くは寺院の境内にあった、神仏分離令は国家神道育成を目的としての実質的仏教抹殺計画にある、これは信長や秀吉ではなく明治になってからである、仏教弾圧は徳川斉昭の水戸や薩摩等に於いて流血が行われた様である、但し是は総てに地域で行われたのではなく、国が廃仏毀釈を行う情報を事前に寺院側に伝えた旧藩主も存在した。
天台宗の荒行を二行挙げれば浄土院の待真僧(じしんそう)による「十二年籠山行」と、前述と甲乙つけ難い「千日回峰行」と言う荒行が有る、これは日蓮宗に於ける祈祷の奥義秘法を修得する教師、すなわち修法師になる為の荒行と相壁を為している、これらの行とインドに於けるヨーガを含めて世界三大荒行と言う記述がある、天台の両行は特に選ばれえた僧侶しか行に参加できないが、籠山行(ろうざんぎょう)は行に入れば十二年の間下山できない、また待真僧に成るには仏に出会うまで継続する「好相行」と言う難行を必須とする、好相行(こうそうぎょう)とは一日三千回の五体投地(最低15時間以上)を平均三ヶ月要すると言う。          日蓮 
比叡山で行われる荒行の千日回峰行とは、百日回峰行の終えた行者から選ばれた行者が三塔、九院、山王七社の峰や谷を七年の時を要して一千日を巡り、真言を唱えながら礼拝する厳しい修行である、総てのものに仏の姿を感得しながら動く距離は概ね四万キロに及び、行を終えた行者は大阿阿闍梨の称号が与えられる、よく似た行に「日光山大千度御祈祷修行」や「求菩提山千日行」等がある、この様な荒行と天台宗の奥義とも言える「天台本覚論」、や「中論」即ち「
根本中頌(こんぽんちゅうじゅ)Mūlamadhyamaka-kārikā, ムーラマディヤマカ・カーリカー)との関連に対して腑に落ちる説明は困難と言えよう。
慧文、慧思に次いで第三祖とされている
(龍樹を開祖とし慧文を第二、慧思を第三、智顗を第四祖とする場合もある)
天台宗と法華経に付いて乱暴な見解を言えば、仏滅後五百年以上も後に書かれた法華経に対する拠所は、釈尊の最晩年八年の説法と解釈する事にある、「無量義経の説法品」のなかに「四十余年未顕真実」、方便品には仏像を造像し祈れと説かれているが、釈尊が久遠実情なら仏像を制作する必要はない、実像に祈れば良い事になる。


基軸経典  根本経典は法華三部経「無量義経」「妙法蓮華経」「仏説観普賢菩薩行法経」  その他 阿弥陀経  ・法華文句 ・摩訶止観 ・梵網菩薩戒経 他も聖典とされる。

信徒数約三百五十万人。  本尊 釈迦如来即ち「常寂光土第一義諦久遠実成多宝塔中釈迦牟尼世尊」、但し一尊に限定されず、久遠実成無作(むさ)の本仏とされる、因みに無作とは自然のままで人為が無い事(無為)を言う。 

 寺院数4462ヶ寺    高祖(開祖)・天台智顗  宗祖・伝教大師最澄   座主 半田考淳師 

1, 五性(姓)各別(ごしょかくべつ)・人間が成仏出来るか否かはその人の素質による、これと逆の解釈が一切偕成(いっさいかいじょう)で全ての人が成仏できるとする天台宗(最澄)等と法相宗の徳一等と後に論争することになる。   最澄が大安寺に於いて南都六宗の僧達と論争をはじめ、その後東国へ行き会津滞在中の法相宗の学僧・徳一との間で三一権実論争(さんいちごんじつ)を始めた。  最澄が関東滞在中のことであるが論争は最澄が比叡山へもどった後も長く続く、最澄・徳一の死後一世紀半の後、即ち963年村上天皇の要請で行われた「応和宗論」に於いて法華経の解釈論を交えて再燃した。
後日源信は「一乗要決」に於いて三一権実論争に於いて三乗説を方前段階の大乗、方便即ち権と論破し一乗説を真実の教えとした。
徳一が仏性抄(ぶっしょうしょう)を書いて最澄を攻撃したのに対して最澄は照権実鏡(しょうごんじっきょう)や梵網経を基にして出家僧の受けなければならない戒律を小乗色が強い具足戒(二百五十戒)から大乗の菩醍戒(十重戒・四十八軽戒)に変へる顕戒論(けんかいろん)などを顕し反論する。

五性とは
1、菩薩定  自利利他の菩薩行を行じる最も勝れた人達。
2、独覚定  独りで覚りを開く素質を有するが、自利行のみで利他が出来ない(縁覚)。
3、声聞定  仏の教えを聞き修行する真摯なだけの人。
4、三乗不定定 素質が固定しない不安定。

5、無性有情  佛法を学ぶ素質も気概もない人
三一権実論争の三とは上記の菩薩乗・緑覚(独覚)乗・声門乗を言い、一とは唯一無二を言い一乗(一仏乗)を言う。
       無他方便   


2、 徳一 平安時代初頭の法相宗のエリート学問僧で藤原仲麻呂の子とされている。最澄が会津滞在中の徳一を訪れ、三一権実(さんいちごんじつ)論争を行う、徳一の言う、五性各別とは要約すれば人間が成仏出来るか否かはその人の素質による、これと逆の解釈が一切偕(いっさいかいじょう)で全ての人が成仏できるとする天台宗(最澄)等と後に論争することになる、論争は世紀を跨いで行われた、応和宗論は963年(応和3年)清涼殿に於いて天台宗は横川の良源達が法相宗は興福寺の仲算達が村上天皇の面前で行われた。 三一権実論争とはインドに於いて大乗仏教の興起と共にはじまった論争であるが、唐に持ち込まれ天台宗と法相宗の間において繰り返し行われた論議を日本に持ち込まれたもので、どちらが釈尊の教えた「真実か権(仮の姿・方便方便upāya・ウパーヤ)」であるかを論争するものである。
三一権実論争とはインドに於いて大乗仏教の興起と共にはじまった論争であるが、唐に持ち込まれ天台宗と法相宗の間において繰り返し行われた論議を日本に持ち込まれたもので、どちらが釈尊の教えた「真実か権(仮の姿・方便方便upāya・ウパーヤ)」であるかを論争するものである。一乗とは即ち一つの乗り物 Vs 三乗は *声聞乗(Śrāvakayāna・シュラーヴァカヤーナ 阿羅漢になる為の教え) *縁覚(独覚)乗paccekabuddha・プラティエーカ・ブッダ 辟支仏(びゃくしぶつ)目指す) *菩薩乗(仏に成る)をいう、徳一が仏性抄(ぶっしょうしょう)を唱えて最澄を批判、最澄は照権実鏡(しようごんじつきよう)をもって反論、この大論争は矜持(きょうじ)・プライド(prideの衝突であり最澄が延暦寺へ帰山後も長期間続いた。 
但し徳一の著述は現存しておらず、天台宗としては最澄の著した「法華秀句」により結論は出されたとしている。
最澄は会三帰一を称える、法華経を最高と経典とした天台宗創始の学説である、対して徳一の法相宗は解深密経等々を依経として五性各別を説く、本来衆生にはレベル格差があり総てが成仏可能ではない、三乗とは声聞・縁覚・菩薩の為に説いた三乗教(総てに相当する)を言い、一乗とは唯一仏になる教義を言う、五性格別の対極に総てが成仏可能と言う”一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)がある
この大論争は矜持(きょうじ)・プライド(prideの衝突であり最澄が延暦寺へ帰山後も長期間続いた。 


3、最澄の直弟子は三代・円澄、四代・円仁で義真門下は円修、五代・円珍、義真は自分の後の座主に円修を推薦するが最澄派の反対で室生寺に逃れる、天台宗は曹洞宗と共に分裂・分派現象は少ないが、特に義真入寂後の天台座主を目指す抗争は熾烈を極めた様で円澄の入寂から円仁が座主に就任するまで17年の歳月を要した。  

4、一大円教  仏の教義は全てが密教であり、他に教えはなく大日如来一仏のみで諸仏も大日如来そのものと言う教説。

5
安然(あんねん) 841~不詳(没年50歳頃)  円仁の弟子で比叡山を真言宗とまで称した天台一の碩学と言われ台密の完成者、入唐八家の招来経典類を研究しまとめた、四宗兼学の内、円(法華経)・戒(戒律)・禅を否定し密教に統一した。
安然は円珍と共に不動明王信仰に篤く、十九の観想法を示す「立印儀軌修行次第」を著す等、天台宗の不動信仰の隆盛に貢献した。
空海の真言宗よりも優位を論じ、著作に「八家招来録」「悉曇蔵(しったんぞう)」「教時問答」「教時諍論(きょうじじょうろん)」「菩提心義抄」がある、悉曇蔵とは清和天皇の勅命で著した8帖の解説で梵語の学問全体を言う。
五大院に住んだことから五大院阿闍利・五大院先徳・阿覚大師などと呼ばれた。

入唐八家とは最澄・空海・円仁・円珍・円行(真言宗)・常暁(真言宗)・恵運(真言宗)・宗叡(真言宗)を言う。 

6阿闍梨(あじゃり)とは阿舎梨・阿闍梨耶とも書き、梵語のācāryaSanskrit(アーチャリー)の音訳で意訳をすれば師・規範となる、教団の高位の指導者を指し空海も唐に於いて師の阿闍梨恵果より伝法阿闍梨位灌頂を受けている。
阿闍梨の種類は特に選ばれた大阿闍梨、法を指導する教授阿闍梨、灌頂を受けた伝法阿闍梨、高貴な身分の者がなる一身阿闍梨、勅命による七高山阿闍梨などが在る。  
 

 

7、門跡寺院とは平安時代には宗門に於ける祖師の法脈を継承する寺の事を言い,最澄の門跡などと呼んだ、平安時代後期になると皇族や公家などが出家して代々入寺する寺を言い、塀には5本線を入れる事が許された。  

 

8, 密教には顕教に比べ多くの儀礼法式があり灌頂・大元帥法・不動法・五壇法・七仏薬師法・如意輪法・孔雀経法・愛染王法・大威徳法・北斗法等があり、平安時代には国の儀礼や禁裏、貴族達の私的儀礼に採用された。(顕教では仁王会・御斎会・季御読経など)
因みに密教と顕教であるが一方からは外道と決め付けても不思議ではない対立軸にある、後発の密教が優位性の主張の為に、誹謗の意味合いで顕教を呼称したものであり、既存仏教では顕教とは呼称しない。

 

 
9真言宗を東密と呼ばれる事があるが東寺から呼称されている、天宗の場合は台密と言い宗派名の台からとられている。
また純密・雑密(ぞうみつ)・タントラ等の分類法があり、純密とは両部の大経を典拠として整備された主に中期密教の教義で東密はこの範疇に入る、雑密は初期に相当する呪文・明呪・マントラ(真言)・陀羅尼などを強調し主に体系化される以前の密教を言う、最澄は唐に於いて大素から雑密法を受けているが天台宗は円仁・円珍・安然により確立された教義は純部も掌握している。
因みに純密の呼称は略称であり正式には「正純密教」と言い雑密は「雑部密教」の略称である、但し純密は空海以後を言い雑密は空海以前であり、この用語は日本のみ特に真言宗で使われる。
   


10鳩摩羅什(クマーラジーバ)344413  シルクロード天山南路の要衝(ようしょう)亀慈(キジ)国の王子の一人、7歳で出家しキジルの石窟寺院で仏教を学ぶ、少年時代中国の侵略を受け17年間の捕虜生活の後、401年長安に呼ばれ経典の翻訳を皇帝から命じられる、父がインドの僧侶(母は国王の妹)の為梵語に精通しており、翻訳した経典は294(35部)に及ぶ、三論・成実論・般若経典・法華経・維摩経など多義にわたる。   

11年分度者(ねんぶんどしゃ)  得度を受けられる僧侶の数を朝廷が統括するもので全27条からなる僧尼令(そうにりょう)は、私度僧が多く輩出した事により僧尼の質と人数の制限を目的に創られた、718年(養老2年)に始まり当初は10名、即ち三論・法相各5名から、806年には三論・法相各3人・華厳、天台、律各2名となる、 ・734(天平6)804(延暦23)806(大同1)に条件が加えられた、835年には真言3名が加わる、律令制度の崩壊で形骸化する。
また得度とは仏門に入る、救いの道に入る、娑婆から彼岸に行く、などにも使われる。


12、三師七証 具足戒を受戒する儀式の形態で 1、戒を授ける戒和上 2、作法実行の羯磨師 3、作法を教える教授師に証明する立会七人の七証を必要とした。

13、天台宗寺院の本像は特に多様で不動明王 釈迦如来 地蔵菩薩 大日如来 毘沙門天 虚空蔵菩薩などがあるが、数量的には阿弥陀如来41% 薬師如来19% 観音菩薩18% を占めると言う。

14、四種三昧 僧侶に勤行をして課すもので以下のようになる。
・定行三昧(歩行しながらの念仏修行)
・常坐三昧(座禅修行)
・非行非坐三昧(日々修行、観法に努める)
・半行半坐三昧(読誦修行)がある。   

15、円頓戒  最澄が採用した戒で大乗戒であるが法華経をベースにした理解しやすい戒律で概略は悪行の否定・善行の勧め・利他に務める、などである,すなわち
円頓止観(えんどんしかん)止観とは智慧と覚り実践方法で漸次・不定・円頓を言い一心三観とする。

16、天台智顗の師・南嶽慧思(なんがくえし)は弥勒下生を信じる「立誓願文(りゅうせいがんもん)」を著し、かつ般若経を写経している、立誓願文とは釈尊入滅ら三時観(正法・像法・末法)を経て弥勒仏の下生を著した書を言う。

17止観業と遮那業 天台宗の教義に於ける根幹を示す両輪である、この養成を「山家(さんげ)学生(がくしょう)
(六条式、八条式、四条式と呼んだ、天台の学生の修行必須で"摩訶止観経”を専修する摩訶止観即ち法華経・仁王経などの顕教と、密教学すなわち”大眦遮那神変加持経”を学ぶ遮那業を言う。
平安時代には天台宗に年分度者二人が認定されたが止観業と遮那業から各一名が認定されていた、因みに止観とは天台と同意語と解釈できる、遮那業も天台宗内部の用語と言える。

密教の内容に於いては教相(きょうそう)事相(じそう)に分類できるが、教相は教理的な研究を言い、事相は実動修行の方法をいう、教相は事相の原理を説明する、事相は教相の原理下で実践の行を行う、事相・教相は表皮一体でなければならない。

*止観とは梵語のシヤマタ ヴィパシュヤナー(śamatha vipaśyanā)である、仏法は六道からの開放を見区的とした宗教である、即ち戒律、禅定、智慧の三学に集約されるが止観は禅定の範疇に入る。

仏法の実箋門を指した代表作に天台智顗の摩訶止観がある、三種正観があり円頓、漸次、不定がある。 止とは散乱及び動揺等を真実に力で止める事、観は真実及び実相を観る、となる。

18、 釈尊が生涯に説いた法を5期に分類したと言う天台智顗の思想で、華厳時・鹿苑時・方等(ほうどう)時・般若時・法華涅槃時をいう。

19、 下記の主な系図にある天台(てんだい)真盛宗(しんせい)とは1486年真盛により興った宗派で念仏と戒律に特に重きを置く宗派である、総本山は西教寺(戒光山兼法勝西教寺)と言い、所在地は大津市坂本5丁目131

20、 灌頂儀礼 インドに於いて古代からおこなわれた成人儀礼や王族の立太子儀礼に於いて頭に水を灌ぎ権威を示す儀式で現在もヒンズー教や密教で行われている、灌頂には在家信者に対する結縁灌頂 ・密教僧を目指す学法灌頂(弟子灌頂) ・師の位に付く伝法灌頂などがある。

21、 慧思の法華三昧には有相行と無相行の二つの行がある、有相行とは法華経を読誦しながら普賢菩薩を感得する行である、無相行とは安楽行品第15をベースに空を会得する行を言う。

22会昌の廃仏 三武一宗の法難の一難で最大の法難である、「北魏423452年」「北周560578年」「唐(会昌)840846年」を言い佛教やキリスト教のネストリウス派の流れを汲む景教なども法難に遭い概ね消滅する。 

注23、 
三師七証とは 戒を授けるチーフの・戒和上、白四羯磨の文を読む・羯磨阿闍梨、威儀と作法を教える・教授阿闍梨と立ち合いの七人の証人を言いう、但し証人の数は柔軟性がある。

注24、 神輿振りとは坂本の日吉神社の神輿を担ぎ、御所などへ強訴した、日吉神社の神輿が神の意志で動く産土神となる。日本神道の根幹を為す産土神(うぶすながみ)とされる事を朝廷は恐れた。

注25、 
天台本覚論、 本覚とは“本来の覚性”即ち総ての衆生に覚りの智慧を内包している、要するに誰でも成仏出来るという意味合い、即ち「草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)」である。

比叡山に於ける秘中の秘で日本天台宗の根幹を為す奥義である、平安後期に起こる日本天台宗の衆生は誰でも仏になれると言う現実や欲望を肯定して解釈する理論を言う、本来の本覚に関する教義を拡大解釈した論議である、現実の世界や人間の行動様式が真理であり、本覚の姿と説き煩悩と菩提を同一視した教義で修行、戒律を軽視する傾向に解釈された。

煩悩と菩提を同一視して修行や戒律を軽視した思想。

天台本覚論を論拠として日本仏教は世界に類例のない佛教の必須である戒律無視の「所謂佛教」になったと言う論者は少なくはない、中国の天台にも本覚論は存在するが比叡山ほど急進的ではない、但し天台本覚論の御蔭で所謂日本仏教は命脈を保っていると言えよう。
小室直樹氏に依れば鎌倉佛教の旗手たち、源信、法然、親鸞、日蓮達も比叡山で学んでおり、その主張は天台本覚論が下敷きになっていると言う。



注26、摩多羅神 天台で淫祠とも採られるが玄旨帰命壇(げんしきみょうだん)と言う阿弥陀経及び念佛の行が摩多羅神(またらじん)を本尊の背後で「後戸(うしろと)」の守護神として常行三昧堂で行われている。
 


     
(
天台の四宗兼学 

 

 

 

 

完璧な教え、円教 妙法蓮華教 

戒律、大乗経典全て律蔵 

達磨大師の禅教外別伝 

密教、金剛頂経、胎蔵経、蘇悉地経 


天台宗の主な系図                                
最澄――――円澄 2,―――円仁 3,・天台宗―――延暦寺・四天王寺(和宗)・浅草寺(聖観音宗)

              
義真1,―――――円珍 5,・天台寺門宗 ―――園城寺・聖護院(修験宗)               
真盛(しんせい)――天台真盛宗――西教寺(
大津市坂本)                    


門跡寺院 輪王寺 東京都台東区上野  ○輪王寺 日光市山内  ●妙法院日吉門跡・三十三間堂、蓮華王院とも言う) 京都市東山区東山七条上る  ●三千院(梶井門跡) 京都市左京区大原来迎院  ●青蓮院(粟田御所) 京都市東山区粟田口  ●曼殊院(竹内門跡) 京都市左京区一乗寺   ●毘沙門堂 京都市山科区安朱稲荷山町  ●印を京都五箇室門跡と言う。   

別格大寺 ○寛永寺  東京都台東区上野    ○中尊寺 岩手県平泉町  ○立石寺(りっしゃくじ) 山形市山寺川原町  ○善光寺大勧進 長野市元善町  ○喜多院無量寿寺 埼玉県川越市小仙波町  ○観世音寺 太宰府市観世音寺町     


天台宗系分派

天台寺門宗○総本山 園城寺 (三井寺)大津市園城寺町    

天台真盛宗(しんせいしゅう)○  西教寺  滋賀県大津市坂本5丁目13-1
 

聖観音宗○ 浅草寺 台東区浅草  

本山修験宗○総本山聖護院 京都市左京区聖護院中町 

金峯山(きんぶせん)修験本宗○総本山 金峯山寺 奈良県吉野郡吉野 

和宗○総本山(戦後独立) 四天王寺 大阪市天王寺区四天王寺 

鞍馬弘教○総本山鞍馬寺 左京区鞍馬本町 

粉河観音宗○総本山粉河寺 和歌山県那賀郡粉河町 

○寂光院 京都市大原草生町 

その他 △平等院(天台系)宇治市宇治蓮華町   △頂法寺(六角堂)中京区   善光寺大勧進

  

 

20041115日 加筆 200517日 加筆 1122日注4、 126日「円密一致」・元政 安然他  2008618日 戒律・仏性論  201057日良源他 2012年6月8日一部分 2015年12月21日注25 2017年5月11日 9月5日 2018年1月17日 1月22日 2020年4月9日 2021年4月30日 2022年9月16日加筆


大正大学  東京都豊島区西巣鴨   天台宗・真言宗・浄土宗の総合大学

           

      説明: C:\Users\Owner\katada202\kyoto\button1.gif       仏像案内   寺院案内
  

   

inserted by FC2 system