法然の孫弟子「一遍」を開祖として成立した宗派である、法然・親鸞の思想を更に進めた他力本願の典型信仰である、浄土宗西山派の流れを汲み、念仏を唱えながら全国(北海道を除く)を遊行して歩き「阿弥陀仏決定往生六十万人」と書いた、仏への感謝状すなわち「
阿弥陀如来の本願により救済され、現世に於いて往生出来たことによる感謝の名号を唱え、一切の衆生が他力本願により阿弥陀浄土に行く念仏勧進を行う、同様の思想はキリスト教にもみられる、新約聖書に於けるマルコ伝11章24項に「‐‐‐あなた方が祈りまた求める、すべてはそれをすでに受けたのだという信仰を持ちなさい‐‐‐」と書かれている。
信者全てに名号札と共に法名に阿弥陀仏の名を付けて観阿弥・世阿弥等と現世に於いて阿弥陀仏と一体に成れると説いた、一遍の教えは本願寺八世・蓮如が現れるまで浄土信仰の主流を占めていた様である。
一遍と言えば踊念仏、詳しくは
親鸞の浄土真宗との相違は神祗崇拝を否定しなかった事と、既に弥陀の本願により救済が為されている事から自力及び他力の本願を超越しているとした事であろう、即ち阿弥陀如来への信仰をも救済の必要条件とはしなかった、また阿弥陀経が主体であるが浄土宗や真宗が主に浄土三部経だけを依経としているのに対して法華経・華厳経も採用している。
当初は定まった住まいを持たない教団であり、徳川時代以前は時衆と呼称されていた様である、時宗と言えば踊り念仏だが一遍や弟子で遊行二代の真教・四代の呑海の遊行の済に六時衆・信徒等が現世での成仏出来た事による歓喜の表現から来たものである、踊り念仏は空也が始めたもので後の一遍が是を受け継いだ。
時衆は定まった拠点を持たない為か十二派に分れるが呑海を中心とした遊行派が最も力を持った、しかし浄土真宗に吸収される等遊行が隠密行為に繋がる危険から監視が厳しくなり急速に衰える。
ひたすら念仏のみに没頭した一遍は捨聖と呼ばれた、聖とは教団に所属しない僧を言い捨てるとは現世に於ける執着は無論のこと家族及び財産の総てを指している、一遍の語録に・「和願和讃」・和文の詩、和歌等を含む「一遍上人語録」・「播州法語集」等有るが一遍は著作を何も残していない、但し異母弟にあたる「聖戒」を中心とした弟子たちの編纂による「一遍聖絵」と言う伝記絵巻が知られており誕生から没するまでが、聖戒(本文の著作は聖戒)に伴われた画家、円伊により画かれている。
播州法語集に依れば往生の為の念仏には・上根・中根・下根の三種がある、上根とは財産、衣食住と家族を持っても往生できる衆を言う、中根は妻子を捨てなければならないが衣食住はOKの衆を言う、下根は上記を全て捨てなければならない衆を言い自身もその範疇に入れている。
時宗と呼ぶ意味は定かではないが複数言われている、「今現在を臨終の時と考えて念仏を唱える」とも言われている、因みに時宗は浄土三部経の内では阿弥陀経を最重要視している、もう一つの説は浄土五祖の第三祖で中国浄土教の完成者である善導(613〜681年)の著した観無量寿経疏(観経疏)の一節「道俗時衆等、各發無上心」から採られたとも言われている。
「一代の
一遍で特筆すべきは鎌倉時代以降の宗派の祖は、・法然・親鸞
・日蓮 ・栄西・道元と多彩であるが、一遍のみが天台宗の寺で出家しているが比叡山で修行していない事である、冒頭に浄土宗西山派の法系を述べたが一遍の父河野通広(法名は如佛・瀬戸内海に於ける河野水軍の一族)は西山派の祖証空の弟子であったと言われている。
浄土三部経 ・ 阿弥陀経 ・観無量寿経 ・大無量寿経 ・法華経 ・ 華厳経
注1、踊念仏 信州で創められた行で、一遍が布教を目的として、仏の名号を唱え、讃えて鼓、鉢、鉦等を鳴らして各地で踊る。
○一遍上人伝絵巻 絹本著色 巻子装 38,1×628,0p 鎌倉時代 東京国立博物館
信徒数約35万人 寺院数412ヶ寺 本尊 阿弥陀如来
主な寺院
○総本山
●無量光寺(旧当麻派本山)神奈川県相模原市当麻
●
●正法寺(旧霊山派本山)京都市東山区清閑寺霊山町
●歓喜光寺(旧六条派本山)京都市山科区大宅奥山田