薬師
梵語名 Bhaṣiajya‐guru-vaidūrya-prabha-rāja(バイシャジャ・グル・ブアイドーリャ・プラバ)の意訳である、バイシャジャ(Bhaiṣaj)とは梵語で薬剤のことを言い瑠璃光浄土の教主と医者集団の指導者すなわちグル(guru)とに解釈される、因みに瑠璃光浄土とは、この娑婆(sahā saṃskṛtaで大地の意味も)から十
薬師如来の脇侍として日光菩薩・月光菩薩が随い、さらに薬師如来の十二誓願をシンボライズした十二神将が守護する構成となる、即ち十二と言う数字は薬師如来の経てた誓願の数に由来するとされる(新薬師寺・東寺 等)、但し薬師如来の脇侍であるが「薬王薬上菩薩経」に二菩薩が脇侍として説かれている、特に東寺の場合は不空訳の「薬師如来
薬師如来が説かれている経典は非常に少ない、薬師如来信仰が興隆している国は概ね日本に限定されている、インドに於いて信仰された形跡は非常に小さい、正木晃氏はインドが起源でない可能性があると言う、密教でも両部曼荼羅に姿は観られない、インドから略直輸入したチベット仏教界では医薬関係者の信仰に限られる様である、中国でも同様に少ない。
薬師如来に関する代表的な経典類も他の経典と同様釈尊の法からとされる、例を挙げると以下の経典がある、因みに梵語の原典は1931年にギルギット(カシミール)の仏塔から発見された様だ。
*玄奘訳で薬師仏の功徳をメインにした「薬師瑠璃光如来本願功徳経」(Bhaiṣajyaguru-vaiḍūrya-prabhā-rāja Sūtra)所謂「薬師経」(Bhaiṣajyaguru
Sūtra)
*義浄訳(注9)の「薬師瑠璃光七佛本願功徳経」すなわち「七仏薬師経」等がある。
「薬師
*「灌頂経第十二抜除過罪生死得度経」。
*達磨
薬師如来は後述する十二の大願でも解るように”
薬師如来の供養法として続命法が行われており薬師如来を信仰する衆生を十二神将が守護すると言われている、最澄に薬師信仰に篤かった事から台密に於いては阿閦如来と同尊とする思考も見られる、また台密の大日如来=釈迦如来説も二律背反(antinomy アンチノミー)
インドに於ける古代信仰に長寿・投薬を司る神々の信仰から派生したとされる、また初期仏教に於いて仏陀を医王と呼称されたとの言われる、供養の代表とも言える四事供養(注3)に「湯薬」がありインドに於いても信仰は確認されている、但し坂内龍雄はインドに薬師如来の図像は無いと言う、チベットでも信仰は存在するが日本ほどではない、容姿は日本の薬師と似ているが、右手には薬壺ではなくミロバランと言う薬草である。
薬師如来の特徴は大乗仏教を更にデフルメした如来であり、深遠な哲学の探究は無く物的欲望を満たす仏である、即ちご利益が直接的・具体的であると言うことである、「薬師経」を依経とする十二の大願を取り上げてみると。
・光明普照(自らの光で三千世界を照らし衆生を覚りに導く)
・除病安楽(困窮や苦悩を除く)
・安立大乗(異教徒を仏道へと導く)
・諸根具足(生来の障碍・病気・苦痛を無くす)
・苦悩解脱(重圧に苦しむ衆生が解き放す)
・飽食安楽
・美衣満足(窮しく寒さや虫刺されに悩やむ衆生に衣を施す)
・施無尽仏(仏性の所持者たちに覚りの為の物品を施す)
・随意成弁(瑠璃光を通じて仏性に目覚めさせる)
・施無尽仏
・具戒清浄(破戒者も戒律を守れる様に援ける)
・安心正巳(一切の精神的苦痛や煩悩を浄化する)、など至れり尽せりで他の如来のような精神的・哲学的なご利益などでは無く非常に実利的かつ菩薩的なご利益である、また神仏融合の先駆け的如来でもある、除病安楽を謳う薬師如来のプラシーボ効果(placebo)は大きな信仰を得た様である。
外国に於いて薬師如来像は少数であるが、日本では国分寺などで釈迦如来に勝る尊数が存在するのは745年聖武天皇の病平癒を祈願して薬師悔過が行われた事が原因の一とされよう、他に観音菩薩や吉祥天の悔過が行われた様である、
また同じ他土仏(注12)であるが阿弥陀如来の浄土に於ける安寧と違い薬師如来は五濁悪世の娑婆に於ける御利益であり具体的である、法隆寺や薬師寺に於いても薬師如来は病気平癒の信仰から造像されている、浄土との往復券いわゆる「二種廻向」即ち「往相廻向」と「還相廻向」を言う浄土真宗ほど便利では無いが、薬師浄土と阿弥陀如来の極楽浄土との最大の相違は極楽浄土が来世を言うのに対して薬師如来の瑠璃光浄土は現世利益を言う、因みに廻向とは梵語pariṇāmā(パリナーマ)でインド哲学用語では能変・転変と訳される。
また瑠璃光浄土は男性のみの浄土で女性の存在しない事である、これは女性の苦しみを与えないために瑠璃光浄土に於いては男性に変身させる為と解釈があるが、男女差別が強いバラモンの思想からのサルベージとして、初期大乗仏教興隆の先端と言える「八千頌般若経」や「大集経全17分の内第九宝幢分の女が男に生れかわる思想」等の影響をうけ「変成男子(転女成男)」即ち男性への性転換が考えられたと言えよう、佛教は平等思想に貫かれているが変成男子や初期佛教で強調された僧侶に成れる条件の五種不男などは差別と考えられる、また異性の居ない浄土は地獄と変わりない、
薬師如来の造像で現存する場所はインドには作品は存在しない、中国に於いても大変に少ないが、僅かに龍門石窟(525年)・敦煌千仏洞の薬師浄土変相図辺りが最古とされる、但し朝鮮には多くの作品が残る。
如来にしては呪術的な如来である、除病安楽や呪術・悔過などを目的として、天平時代には薬師信仰の広まりは顕著で薬師寺を初め元興寺・大安寺・西大寺・興福寺・唐招提寺から国分寺の本尊にまで浸透する、さらに平安時代になると最澄の薬師信仰の篤さから延暦寺を中心に浸透する、因みに最澄は遣唐船に乗船する以前に大宰府に於いて船中安寧を祈願して四尊の薬師如来像を造像したとされるが現存像は存在しない、薬師信仰の根強さは平安後期における今昔物語の巻十二・十九に於いて奈良
閑話休題、最澄の薬師信仰の関連か、後白河法皇撰の「
現存薬師像には該当しないとされるが続日本書紀745年薬師如来像七尊と経典七巻を製作された記録がある、日本に於ける初期の薬師像は法隆寺金堂の607年造像は奈良時代造像説も囁かれ疑問として法輪寺や興福寺の旧山田寺佛頭が685年とされ特に法輪寺像は最古の様式をもつ、薬師信仰は用命天皇の遺言により607年推古天皇と聖徳太子が造像したと言う伝承や、聖徳太子の病平癒祈願に始まるとも言いう法隆寺の薬師如来像を初めとして、日本書紀には686年経典講義が為されたと言い、天武天皇が皇后の病のとき薬師寺建立を発願があり、藤原不比等の病や聖武天皇が病んだとき薬師悔過が天皇家や貴族達の病気平癒に薬師如来に対する祈願が流行し釈迦如来が本尊である筈の国分寺にも薬師如来を本尊にする機運も生まれた、ご利益の関係から四事供養の中に飲食・衣服・臥具・と共に湯薬が加えられている、薬師信仰は8世紀後半から興隆するが怨霊鎮魂にも利用されたようで745年創建の新薬師寺は藤原廣嗣の鎮魂祈願に神護寺は弓削道鏡の鎮魂祈願に利用された形跡が感じられる。
創建当時には七仏薬師堂が本堂で七尊が本尊であったとされる新薬師寺の場合、薬師如来は鞘佛であり体内に香薬師を収納していたとされ、収納された尊像の霊を封じる目的があり鞘仏と秘仏の関連は深い,この形態は法隆寺・西円堂や勝持寺など各地に相当数存在しており臨終の際に来迎に現れる為に衆生に身をさらす阿弥陀如来と対照的である。
また薬師如来は佛教伝来以後日本の古代信仰と融合が困難であったが、峻厳な表情等の造像が為され民衆に神仏融合の思想を植えつけた先駆仏と言える。
顕教に於いては四方佛の一尊に数えられ前世,即ち瑠璃光浄土に君臨する重要な如来であるが、密教では異なり両界(部)曼荼羅には多くの如来を初めとする仏像が取り上げられているにも拘らず薬師如来の姿は無い、これは教えがご利益に偏り他の如来の持つ真理・覚りの追究などはあまり感じられない為かも知れない、薬師如来は強い呪術性を持つが、同じ呪を持つ密教との関連は薄く両部曼荼羅には存在しない、阿閦法と共通点を挙げて阿閦如来との同尊説も言われるが如来の持つ哲学・姿形に相違が多い、しかし野口圭也氏は薬師七佛経に於いて初期の密教的要素を指摘している(初期密教、春秋社)。
玄奘の漢訳した薬師瑠璃光如来本願功徳経に依れば、薬師瑠璃光浄土とは女性の姿は無く、諸々欲悪、悪の道に悩む声等は無い、地面は瑠璃土で構成され、道は金の縄であり、宮殿は七宝で飾られた浄土とされる国であると「薬師経」に記述されている、個人的な好みを言えば財宝は多すぎて希少価値が無いし、
薬師信仰の源流をを辿れば仏教の興りよりも遥かに古い、二十世紀に薬師寺再興の総指揮を執った橋本凝胤師に依れば、インドに於いては仏教の興る千年も前から
日本にある如来像の内最も多くの寺院が国宝指定を受けており(阿弥陀如来は16尊の指定であるが浄瑠璃寺に9尊が並ぶ為10箇寺に計算)、各時代を通じて多くの像が制作されたが特に平安時代(重文以上の指定佛の約80%が平安時代の作)に優れた造形の像が多く作られた、前述の如く最澄が薬師信仰者であったせいもあり天台宗の興隆と共に地方にも広がりを見せたが特に皇族・貴族が病気平癒などの祈願を多く受けていた、正木晃氏は延暦寺。教王護国寺などの本尊が薬師如来であり、言霊信仰が強く信じられた時代であり薬師に期待されたのは呪詛から回避を切望しての造像と言われている。
この時期(六世紀頃)に於いて不空訳の不空訳の「薬師如来念誦儀軌」に従い右手平を胸の前に見せ左手には薬壺を載せる尊像が造像される様になる。
日本の場合不空の「薬師如来念誦儀軌」の影響を受けて天平時代末から平安時代以降医薬の効験を示す佛として薬壷を持つ像が多く作られる、この経典に忠実な尊像の代表は東寺金堂の薬師如来である、これは主に脇侍の日光・月光菩薩や像高一メートル未満の十二神将の配置にある。
さらに既存の如来像に薬壺を置かれた例もある、日本以外にこの形態の像は多くはないが中国隋の時代に高揚し敦煌莫高窟148、417、220・雲崗石窟11窟・龍門古陽窟に薬師変相図として存在する、石窟以外ではボストン美術館所蔵の新羅・楡岾寺がある、53佛中の薬師像やソウル国立中央博物館等の像は薬壷を持つ、薬壺持つ事の根拠に付いては前述した不空の「薬師如来念誦儀軌」に記述されている。
しかしこの時代の民衆は観音・地蔵菩薩のほうが多くの信仰を集めていた様である。
経典には薬師経以外に数点しか存在せず薬師如来の姿形・印相等は薬師如来本願経に如来形と記述があるが、他には説かれていない為か釈迦如来と同じ形(施無畏与願印すなわち通仏相or通如来形)をしており判別は難しい、古い造例に於いては右臂・施無畏印で左臂・与願印であるが平安時代以降左手に薬壺を載せる例が増える、また兵庫県水上郡の常勝寺の様な法界定印に薬壷を持つ薬師如来まで存在する、稀に三毒すなわち貪・瞋・痴を降伏する薬師三界印や智吉祥印(瑠璃寺)とも言う転法輪印や天部形もある様だ、これらはインドに於いて釈迦以外にも過去・未来に於いて覚者(如来)が現れると言う哲学的思考から発達した為、姿形的に表現方法が同型に成ったのは致し方のない事であろう。
薬壷は不空の漢訳「薬師如来念誦儀軌」以後所持する様になったとされる、天平時代の像で法隆寺・西円堂の薬師如来は薬壷を持つが像造当初の薬壷では無いとされている。
注目すべきは日本各地の国分寺や四国八十八ヶ所などに伝わる本尊に現世利益が叶う薬師如来が多いということである。
薬師如来の特徴として薬壷の他に光背に小さな如来を七尊すなわち七仏薬師(注1)を持つケースが多い、室生寺の場合国宝・釈迦如来は礼堂の蟇股の薬壷、光背の七仏薬師などから現在では薬師如来とされている。
2001年現在我が国に国宝15尊(興福寺佛頭を含む、室生寺釈迦如来除く)を含む約249尊の重要文化財指定の尊像が存在する、地域的には滋賀県・45尊が最多で奈良県・42尊次いで京都府34尊と続く、因みに重文以上の如来像に占める尊数では阿弥陀如来に次いで二番目である。
絵画に於いては金剛院(京都)・高野山の桜池院などに薬師十二神将像がある。
薬師如来の具体的なご利益から「西国薬師霊場」が昭和の最晩年に49ヶ寺で結成され多くの著名寺院が参加している。
報身佛 真言 オン コロコロサンダリマトウギソワカ
注1, 七仏薬師とは初期の経典には記述されていないがチベット訳や「
七仏薬師法の採用は日本では円仁が熾盛光法・八字文殊法と共にを請来した大法である、天台では七仏薬師法は息災・安産をもたらすとして重要視され、8-9世紀には藤原摂関家等で信仰された、主に息災と安産を祈る比叡山の重要な密教修法の一つで義浄が漢訳した経典を採用しており薬師七体を祈るものであるが、東方に七尊の如来が存在し最も遠い第七の如来が薬師如来であるとされる、しかし薬師如来の分身か別尊かの確証はないが、一佛経と七佛経に分類し、七佛に於いては薬師如来が浄瑠璃浄土に到達するまでの六箇所の仏国土の変遷過程との説もある、七仏薬師信仰は8~9世紀にかけて天台宗が藤原摂関家の安産祈願を行なってから顕著になる、因みに真言宗に於いては七仏薬師に関する修法は行われていない。
薬師如来の光背に七尊又は六尊の薬師如来を配置された寺に薬師寺・新薬師寺・醍醐寺、東寺があり新薬師寺の場合は創建当初は七仏薬師が本尊であった、七仏は七仏薬師として七体一具で薬師如来の化仏と言える。
七仏薬師信仰から七所薬師に対する信仰も生まれ、京都を中心に延暦寺・広隆寺・珍皇寺・法雲寺・護国寺・観慶寺・平等寺を言われたが現在は言われていない。
また唐招提寺の薬師如来の光背にも七仏薬師が存在したとされる、さらに神護寺・法隆寺西円堂・醍醐寺・黒石寺(岩手県)等にも、そのこん跡が見られる、現存する七佛薬師像に松虫寺・鶏足寺(己高閣)には七尊が揃い松虫寺は重要文化財指定を受けている、両寺の相違は松虫寺の場合は中尊が大きく坐像に対して、焼失した延暦寺の七仏薬師と同型とされる鶏足寺(下の写真参照)は七尊が立像で像高は概ね均等である。
瑠璃光浄土を描く曼荼羅で本来は瑠璃光浄土変相図に薬師八大菩薩(文殊菩薩・観音菩薩・勢至菩薩・弥勒菩薩・宝檀華菩薩・無尽意菩薩・薬王菩薩・薬師上菩薩)を描かれる事がある。
閑話休題、光背には頭部にあるものを
七仏薬師の尊名は以下のようになる。 写真は鶏足寺・七仏薬師
鶏足寺七仏薬師 中尊 慧日寺
(1)
(2)
(3)
(4)
(5)
(6)
(7)
注2, 室生寺金堂の国宝・釈迦如来は後背に七佛薬師が画かれており本来薬師如来である。
注3、供養 梵語のpūjanā(プージャナー)の音訳で仏に供物を供える事、 佛教では供犠すなわち生贄を肯定しておらず様々な供養方が説かれている、法と財とに分かれ礼拝・賛歌・恭順等と四事供養(飲食・衣服・臥具・湯薬)に代表される供え物とがある、その他二種供養とは香華・飲食を供えることを言い三種供養には香華・飲食(利供養)讃嘆恭敬敬供養、 密教で用いられる五供養(塗香・華・焼香・飲食・灯明)、その他六種供養・十種供養がある。
注4、薬師八大菩薩とは 薬王菩薩 ・薬上菩薩 ・弥勒菩薩 ・文殊菩薩 ・観音菩薩 ・得大勢至菩薩 ・無盡意菩薩 ・宝檀華菩薩を言う。
注5、四方佛とは 顕教に於いては四方に佛国土があると言う考えがあり、東方の瑠璃光世界に薬師如来 西方極楽浄土(来世)に阿弥陀如来 南方現世に釈迦如来 北方弥勒浄土に弥勒菩薩 が君臨している、この形態は興福寺の五重塔を初めとして多く存在するが、密教寺院である教王護国寺等の五重塔内は五智世界による羯磨曼荼羅で構成されている。
注6、鞘仏とは仏像の胎内に小規模の仏像を施入された外側の仏像を言い現在も厨子に納め施錠し怨霊を封じるため秘仏とされる像が多い。
注7、中国に於いては随の時代に薬師信仰の広がりが確認されており、雲岡石窟11窟、龍門古陽洞、敦煌莫高窟148窟、417窟、220窟など多くの変相遺例が存在する。
注8 石窟寺院 山は精霊の住む場所であり、そこに彫られた石窟はガルバ(子宮)と呼ばれ戒律を遵守し石窟瞑想の世界に於いて覚りを目指す格好の場所である、石窟寺院は人里から隔離されているが交通の要路近くに彫られており、水・寒暖に優しいところが選ばれている、代表的な石窟寺院にインドではアジャンター・エローラ・アフガンのバーミヤン・中国の敦煌・雲崗・龍門・朝鮮の石窟庵等が挙げられる。
注9、 義浄 635~715年 張氏の出身で唐時代の律僧、玄奘三蔵に心酔しインドに渡り約20年間留まり、各佛跡地を歴訪し経典を請来し「金光明最勝王経」「薬師瑠璃光七佛本願功徳経」等漢訳を行う、著作に「南海寄帰内法伝」「大唐西域求法高僧伝」がある。
注10、 梵語名 Bhaioajya=薬 guru=師匠 vaidurya=瑠璃 prabha=光 (梵語スペルは書き込み不正確)。
注11 カヤ材とは針葉樹で平安時代初期より木材の材質は楠から檜や榧に変わり始めた。
注12、 他土仏信仰とは大乗仏教が起こり釈尊を思慕した事から生まれた地球空間以外の空間の如来・菩薩である、代表的な尊名は阿弥陀如来・薬師如来等々である、法華経・金光明経・阿弥陀経など多くの経典に記述されているが共通する如来名は阿閦如来と阿弥陀如来のみで異なる尊名が多数を占める、因みに過去七仏は釈尊と同じ娑婆の世界仏である、いわゆる報身佛が他土仏に相当するとも言えよう、これに対して地球空間を「自土」と言う、従って釈迦如来は自土仏である。
注13、薬師如来の特異像が鎌倉・海蔵寺に祀られている、「
注14、秘仏とは通常公開されない仏像を言う、本来仏像は衆生が尊像に対面し礼拝、祈願する対象であり常に開示されるべきである、秘仏に関連する経典に「
東大寺二月堂の様に何らかの事情で絶対秘仏とされる寺院もあるが、概ね個々の縁日(8日、18日等々)や十二支に関連して12年毎、観音菩薩の変化数に関して33年毎、阿弥陀仏の誓願の48年毎、干支関連の60年毎など多様である。
注15、 恒河沙(Gaṅgā-nadī-vālukā)とは恒河すなわちガンジス河の砂を意味する、極(1088)の万万倍で1096とされる。
注16、 千葉県南房総市富裏町深名の日本寺(曹洞宗)の山中に千五百羅漢像(1553尊)がある、本尊の薬師如来は石造で21、3m(総高31.05m)がある。
主な薬師如来像 表内は国宝 ●印国指定重文 (興福寺佛頭を含む)
寺 名 |
仕 様 |
時 代 |
木造 坐像彩色(京都の若王子社本地佛)49,7cm |
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興福寺(国宝舘) 仏頭 |
銅像 鍍金(旧山田寺金堂の伝薬師如来)98,3cm |
白鳳時代 |
元興寺(国立博物館寄託) |
立像 木造彩色 164,8cm |
平安時代 |
獅子窟寺(大阪府交野市) |
木造 坐像素地 92,9cm |
平安時代 |
勝常寺 (福島県河沼郡) |
木造漆箔(欅)中尊141,8日光169,4月光173,9三尊 |
平安時代 |
坐像 木造(カヤ)一木造 素地 190,3cm |
平安時代 |
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立像 木造(カヤ)一木造 169,7cm |
平安時代 |
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仁和寺(北院旧日本尊) |
坐像 木造檀像 11,8cm 円勢・長円 |
平安時代 |
醍醐寺(上醍醐) |
一木造漆箔 三尊 中尊176,5 脇侍120,1―120,9cm |
平安時代 |
立像 木心乾漆 漆箔 369,7cm |
平安時代 |
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法隆寺(金堂) |
坐像 銅像鍍金 63,0cm |
飛鳥時代 |
法隆寺(講堂) |
坐像 木造 三尊 中尊247,2脇侍172,1cm |
平安時代 |
法隆寺(西円堂) |
坐像 脱活乾漆造 244,5cm |
天平時代 |
薬師寺(金堂) |
坐像 銅像 三尊 中254,8左311,8右309,4 |
白鳳時代 |
薬師寺 | 立像 木造 160,2cm 2019年国宝指定を受ける | 平安時代 |
臼杵 |
磨崖佛(まがいぶつ) 智拳印 |
平安時代 |
深大寺 (2017年国宝) | 坐(倚)像 銅像 60,6㎝ 東京都調布市 国宝指定は釈迦如来 | 白鳳時代 |
●中尊寺 立像 木造漆箔 266,0cm 藤原時代
●高山寺 坐像 木心乾漆像 漆箔 73.6㎝ 天平時代 三尊像であったが日光菩薩(半跏像)は東京国立博物館・月光菩薩は東京芸大に所属 本尊 東博寄託
●興福寺(国宝舘)坐像 木造漆箔 107.3㎝ 玉眼 藤原時代
●興福寺(東金堂)三尊 銅像 中尊漆箔 255.0㎝ 脇侍 約300.0㎝ ・天平時代 中尊・室町時代
●法隆寺(新堂) 三尊 木造漆箔 85,5cm 月光104,7cm 日光103,0cm 藤原時代
●薬師寺(講堂)三尊 銅像鍍金 天平時代 薬師寺講堂の三尊像は中尊は・文化財指定は薬師如来であるが薬師寺では2003年から弥勒三尊と呼ばれるようになり脇侍に法苑林菩薩・大妙相菩薩とされるようになった。
●室生寺(金堂)立像 木造彩色 164.6㎝ 藤原時代
●辻之薬師堂 木造 欅一木造 薬師三尊 中尊173.5cm 脇侍104.0cm (神奈川県鎌倉市大町)
●養命寺 木造漆箔 玉眼 88.5cm 鎌倉時代 (神奈川県藤沢市城南4丁目10-35)
●新薬師寺 立像 銅像 73.0㎝ 白鳳時代 盗難に遭い現在不明
●唐招提寺 立像 木造 160,2cm 平安時代
●秋篠寺 三尊 140,5cm 木造 中尊素地140,5cm 脇侍 彩色 月光156,7cm 日光155,1cm 藤原時代(中尊室町時代) ●般若寺 立像 銅像鍍金 天平時代
●教王護国寺 三尊 木造漆箔 玉眼 288,0cm 月光290,0cm 日光289,0cm 桃山時代
●覚恩寺 木造漆箔 44.2㎝ 藤原時代 (奈良県宇陀市大宇陀牧)
●大蔵寺 木造素地 265.0㎝ 一木造 板光背 藤原時代 秘仏 (奈良県宇陀郡大宇陀町粟野)
●双林寺(京都)木造 漆箔 85.4cm 平安時代 東山区下河原鷲尾町906
●松虫寺 七佛薬師 中尊坐像 木造寄 54,3cm、 立像 木造一木造 38,8cm 37,9cm 38,4cm
38,4cm 38,4cm 39,0 cm 平安時代 (千葉県印旛郡印旛村松虫)
●定灯寺 木造漆箔 140.9cm (千葉県銚子市常世田町53-1)
●龍角寺 銅像 90.0cm 白鳳時代 (千葉県印旛郡常町大字龍角寺239) 関東地方最古に属する。
●宝城坊 三尊(神奈川・伊勢原市)木造116,7cm 平安時代
●覚園寺(鎌倉)木造木造玉眼 181,2cm 三尊 鎌倉時代
●法輪寺 楠一木造・坐像 110,2cm 白鳳時代
●称名寺 立像 木造 138,0cm 藤原時代
●浄瑠璃寺 坐像 木造漆箔 藤原時代
●広隆寺(霊宝舘)立像 木造彩色 藤原時代
●広隆寺(本堂)坐像 木心乾漆 平安時代
●神護寺 坐像 木心乾漆 漆箔 68,3cm 平安時代
●観心寺 木造漆箔 89,4cm 平安時代
●興福寺 木造漆箔 107,3cm 平安時代
●横蔵寺 木造漆箔 87,7cm 鎌倉時代
●栄山寺(奈良) 木造金泥 玉眼 109,0cm 室町時代
●西教寺 木造漆箔 88,5cm 鎌倉時代
●法界寺(京都) 木造 88,8cm 平安時代
●宝菩提院 立像 木造漆箔 彩色 110,3cm 平安時代
●六波羅蜜寺坐像 木造漆箔 藤原時代
●高山寺 木心乾漆 漆箔 73,6cm 天平時代
●東寺(金堂)三尊 288,0cm 十二神将 坐像 木造漆箔 桃山時代
●醍醐寺(金堂)三尊 木造彩色 玉眼 鎌倉時代
●法界寺(伏見区醍醐) 立像 木造彩色 玉眼 88,8cm 藤原時代
●平等寺(因幡堂、いなば) 立像 木造漆箔 153,0cm 藤原時代 康尚(定朝の師で父)作の可能性 (京都市下京区烏丸松原上ル東入ル因幡堂町728)
●岩船寺 坐像 木造彩色 藤原時代
●勝持寺 坐像 木造切金文様 91,0cm 平安時代 (京都市西京区大原野)
●延暦寺 立像 銅像 鍍金 天平時代
●善水寺 木造漆箔 102,5cm 藤原時代 秘仏
●四天王寺 木造漆箔 138,0cm 藤原時代
●櫟野寺(滋賀) 木造漆箔 222、0cm 平安時代
●醍醐寺 三尊木造 玉眼 128,8cm 鎌倉時代
●浄瑠璃寺 木造漆箔 彩色 85,7cm 平安時代
●願興寺 三尊 木造 137,3cm 脇持各206,6cm 平安時代 (岐阜県御嵩町)
●中山寺 (薬師堂) 木造 古色 87.5㎝ 藤原時代 (兵庫県宝塚市中山寺2-11-1)
●東光寺 木造素地 155.0cm 藤原時代 (滋賀県近江八幡市浅小井町305)
●願福寺 木造漆箔 137.4cm 藤原時代 (滋賀県近江八幡市加茂町411)
●善性寺 木造彩色 粉止 62.5cm 藤原時代 (滋賀県近江八幡市田中江町173)
●冷泉寺 木造古色 107.0cm 藤原時代 (滋賀県近江八幡市千僧供町251)
●西得寺 木造漆箔 88.0cm 藤原時代 (滋賀県野洲郡中主町比留田852)
●明星寺 木造漆箔 102.7cm 平安時代 (三重県度会郡二見町三津787)
●奈良国立博物館 坐像 銅造
●常勝寺(兵庫)木造漆箔 玉眼 77,2cm 鎌倉時代 (法界定印)
●多田寺(福井小浜) 木造 192,5cm 平安時代
●覚園寺(神奈川)三尊 木造 中尊181.0㎝ 脇侍150.0㎝ 中尊 鎌倉時代 脇侍 室町時代
●宝城坊 三尊 木造 中尊116.6㎝ 日光 123.2㎝ 月光113.9㎝ 平安時代 (神奈川県伊勢原市)
●寛永寺 木造 素地 薬師如来 142,25cm 日光 142,4cm 月光 135,4cm 平安時代 秘仏 本尊は滋賀・石津寺 脇侍は山形県 立石寺からの移設 (東京都台東区上野桜木1丁目14番11号)
●武蔵 国分寺 木造漆箔 179.0㎝ 藤原時代 (東京都国分寺市西元町1-13-16)
●勝尾寺 木造 50,0cm 脇持各 53,2cm 平安時代 (かちおじ) (大阪府箕面市)
●黒石寺(岩手県水沢市黒石町)木造 桂一木造 漆箔 126.0cm 平安時代(862年)
●立石寺 坐像 木造 129.7㎝ 秘仏(開扉50年毎、次回は2063年) (山形市大字山寺)
●万福寺(大寺薬師) 三尊 木造彩色 橡一木造 中尊133.7㎝ 日光 161.7㎝ 月光160.3㎝ 平安時代 飜波 (出雲市東材木町416)式衣文 ●延算寺(かさかみやくし) 木造(榧.かや一木造) 古色 153.0cm 平安時代 (岐阜県岐阜市岩井)
●大善寺(ぶどう寺) 三尊 木造桜材一木造 漆箔 薬師85.4cm 脇侍103.0cm 平安時代 手にぶどうを持つ。 (山梨県甲州市勝沼町勝沼3559)
●雪渓寺 木造漆箔 玉眼 140.0cm 運慶作とも 四国霊場三十三番札所四国八十八所
●種間寺 朱雀院 木造漆箔 140.3cm 平安時代 四国霊場三十四番札所
●国分寺(筑紫) 木造素地 204.9㎝ 室町時代 伝薬師如来 (福岡県太宰府市国分4-13-1)
●国分寺(宝蔵院) 木造古色 99.4㎝ 藤原時代 四国霊場二十九番札所 (南国市国分546)
●国分寺(宝蔵院) 木造漆箔 玉眼 35.6㎝ 鎌倉時代 四国霊場二十九番札所
●清滝寺 木造彩色 153.4㎝ 鎌倉時代 四国霊場三十五番札所 (土佐市高岡町大字清滝)
●四天王寺 一木割矧造 彫眼 漆箔 65.0cm 藤原時代 (三重県津市栄町1丁目892)
●光善寺 三尊 木造古色 檜一木造 中尊95.0cm 脇侍107.1cm 藤原時代 (三重県津市片田薬王寺町1)
●美濃国分寺 木造 素地 299.8㎝ 藤原時代 (岐阜県大垣市青野町)
●神護寺 坐像 木心乾漆 漆箔 68,3cm 平安時代
●観心寺 木造漆箔 89,4cm 平安時代
●福満寺 三尊 木造 素地 147.9㎝ 平安時代 (長野県東筑摩郡麻績村)
●西光寺 木造
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拝観日 11月19日~23日
●達身寺 木造漆箔 147.9㎝ 藤原時代 木彫仏の原郷 (兵庫県丹波市清住259)
●黒石寺 坐像 桂一木造 126.0㎝ 平安時代 (岩手県奥州市水沢黒石町字山内17) 像内膝裏には貞観4Ð年(862年)
●福岡市美術館 坐像 木造古色 87.5㎝ 藤原時代 (福岡市中央区大濠公園1-6)
●福岡市美術館 立像 木造漆 箔 198.1㎝ 藤原時代 (福岡市中央区大濠公園1-6)
●常福寺 坐像 木造素地 82.7㎝ 藤原時代 (佐賀県小城市牛津町上砥川)
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●竹林寺 木造古色 94.5㎝ 桜一木造 藤原時代 (高知市五台山)
●東光寺 木造 漆箔 142.5㎝ 藤原時代 (香川県丸亀市本島町甲生)
●北 寺 木造彩色 49.05㎝ 藤原時代 (高知県安芸郡安田町別所)
●豊楽寺 木造古色 131.5 ㎝藤原時代 檜一木造 (高知県長岡郡大豊町寺内314)
●種間寺 木造古色
140.3 ㎝ 藤原時代 (高知県吾川郡春野町秋山)
●大乗院 三尊 木造漆箔玉眼
86.1 ㎝ 藤原時代 脇侍104.5㎝ 105.3㎝ (高知県高岡郡佐川町川内ケ谷)
●長楽寺 三尊 木造漆箔 132.3㎝ 藤原時代 脇侍171.4㎝(毘沙門天) 169.9㎝(不動明王)(鳥取県日野郡日野町下榎875)
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●国分寺 木造素地 299.8cm 藤原時代 (岐阜県大垣市青野町880)
●国分寺 木造素地 145.7cm 藤原時代 (岐阜県高山市総和町1-83)
●横蔵寺 木造素地玉眼 87.7cm (岐阜県揖斐郡谷汲村神原1160)
●淨妙寺 木造彩色 玉眼 中尊88.2cm 脇侍100.3~199.6cm 鎌倉時代 (和歌山県有田氏宮崎長小豆島)
●雙(双)林寺 木造素地 玉眼 121、2cm 鎌倉時代 (宮城県栗原郡築館町字西小山3)
●長楽寺 木造 漆箔 81.8cm 桃山時代 (秋田県男鹿市船川港)
●常福寺 木造 漆箔 彫眼 124.0cm 藤原時代 (茨城県土浦市下高津)
●岩谷寺 木造漆箔 彫眼 84.8cm 鎌倉時代 (茨城県笠間市来栖2696)
●岩谷寺 木造漆箔 玉眼 185.0cm 鎌倉時代 (茨城県笠間市来栖2696)
大窪寺 坐像 木造 一木造 約140,0cm 天平時代 (四国霊場八十八番札所 秘仏)
鶏足寺(己高閣・滋賀)七佛薬師立像 七尊 木造90,0~100,0cm 藤原時代 滋賀県指定文化財
薬師三尊像は多く存在しており、法隆寺(豊楽講堂) 薬師寺(金堂) 勝常寺
醍醐寺(講堂)が国宝であり、重文では銅像の薬師寺(講堂) 興福寺があり、木造の法隆寺(新堂) 宝城坊 寛永寺 願興寺 教王護国寺(金堂) 秋篠寺 勝尾寺(大阪)など三〇組を超える傑作が存在する。
最終加筆日 2004年7月2日 12月10日 2005年4月13日 12月17日瑠璃光浄土 2006年4月10日注7、 11月1日関連経典 2007年1月10日 7月7日 2008年12月15日 2009年7月11日 2016年5月14日 2017年4月11日 11月21日 2018年1月24日 2018年3月11日 2019年2月12日 2020年4月14日 6月12日 10月19日 10月31日 11月29日 2021年3月26日 6月29日 7月14日 2022年9月11日
2023年4月23日 6月4日加筆
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