禅宗系

                         説明: C:\Users\Owner\katada202\kyoto\button1.gif               仏像案内   寺院案内     臨済宗  黄檗宗    曹洞宗

自身の心すなわち心性を見極め覚りに導く修行、これ等”内観自省(ないかんじしょう)”にある、人の心は仏と異なるものではなく、心が(そく)(ほとけ)であると言う、(そく)(しん)是仏(ぜぶつ)(即心即仏・是心是仏)を説く宗派である、「禅は思想や哲学ではなく、人間としての見性(けんしょう)体験(覚り)と、それに基ずく行為そのものである」、大徳寺真珠庵、先代住職・山田宗俊師の言葉である、即ち内観自省と言える、余談になるが密教の根本思想と言われる即身成仏義は日本の仏教書の内で最も難解な書と言われている。
「衆生本来仏なり」
白隠(はくいん)の座禅和讃の冒頭に言われているタームである、正木晃氏流に言えば神秘、儀礼、象徴主義は呪術が密教には必須である、神秘体験を重要視する禅と密教は、あたかも双子の様であるが、禅は密教の儀礼主義、象徴主義には関心が薄いという 

禅とは梵語のデヤーナdhyānaの俗語音訳であると中村元氏は言う、ジャーナ(jhāna)となり、aが省略された、漢式の発音ではチャーンとなると言う、因みに玄侑宗久(げんゆう そうきゅう)氏は音訳で禅那と訳されていたが那を外して禅とした、また意訳の定を加えて禅定となったと言う、即ち禅定とは音訳+意訳の合成語といわれる、冷めた見解として禅宗とは小乗仏教上座部仏教への先祖返りと言う人もある。

達磨大師(菩提多羅・bodhidharmaを初祖とする宗派である、”ダルマさん”の名前に付いては子供にも馴染まれている、佛法修行には三学が言われ慧、戒、禅定、が在るが、禅定に対するプライオリテーpriorityの高い宗派である、禅の三宗派(臨済宗、曹洞宗、黄檗宗)に於ける代表的フレーズは面壁九年即ち禅宗の祖である達磨による四聖句 *「教外(きょうげ)別伝(べつでん) *不立(ふりゅう)文字(もんじ) *直指(じきし)人心(にんしん) *見性(けんしょう)成仏(じょうぶつ)(注14即ち「経典以外の坐禅等により自己の仏性を自覚する」にある、因みに(しょう)」「修証(しゅしょう)」「(しょう)(とく)」「(しょう)()」「菩提」「(どう)」等々がある。

禅宗系が大切にする起源を説く寓話すなわち禅定のプライオリテー(priority)に付いて、拈華微笑(ねんげみしょう)と言う師資相承(ししそうじょう)物語がある、釈尊が霊鷲山での説法中に一本の金波羅華(こんぱらげ)の茎を取り出した、皆が理解できないでいたところ、迦葉一人が理解でき微笑して釈尊に応えた、釈迦如来は「われに正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微笑の法門あり。不立文字、教外別伝、摩訶迦葉に付嘱(ふぞく)する」と述べた。
禅の思想はインドを源流とするが、中国で興隆し禅宗の祖は菩提達磨である、伝承では釈尊から二十八代目に菩提達磨に伝えられたとされる、達磨は5世紀~6世紀に活躍したインド僧である、彼に率いられた中国仏教界は幾度も法難を潜り抜け禅がメインであった、禅は無神論的な一面がありヨーガとも関連する瞑想法でもある。中国では会昌の法難(廃仏)等で寺院や仏像を公に開示出来ない時代に、道教と習合して秘密裏的に生まれた宗派といえる、従って初期の禅宗は伽藍整備や仏像に対する拘りは少なかった、現在の禅哲学は日本が中心であり、欧米に紹介したのも鈴木大拙等を初めとする日本人である。 

会昌の法難(注17)は道教を興隆させる為の法難と言はれているが、中国に於いては佛教請来時には教義を優遇し兵役、租税の免除した、その為に租税、兵役免除の目的で利殖はするが、生産性の無い寺院僧侶が増え過ぎた為の処置とも言えよう、即ち教義上の問題からの廃仏とは決め付けられない。
中国禅宗は達磨より代目の曹渓山(そうけいざん)宝林寺(ほうりんじ)、慧能(えのう)によって南宗禅として大成された、通称は禅宗と呼称されクラスター(cluster)化されることがあるが、宗派として日本では・臨済宗曹洞宗黄檗宗の三宗を総称して禅宗と呼称されている、しかし正確に言えば日本に禅宗と言う名称の宗派は存在しない、要するに宗教法人に於ける固有名詞として禅宗と言う名称は無い、但し臨黄ネットと言う寺院組織があり臨済宗と黄檗宗のネットワーク(network)で構成されている。
但し禅宗の発生地である中国では禅宗
(佛心宗)と呼称されている、日本では二十四派が宗派を形成しているとされるが、臨済系二十一派大本山は二十一寺、曹洞宗三派(道元、東明、東陵で現在は道元のみ)とされる。
金剛般若経(金剛般若波羅蜜多経)の中に「(おう)無所(むしょ)(じゅう)而生(にしょう)()(しん)がある、(しか)であが、中国禅宗第六祖、ターム仏門伝承著名であ
中国禅宗達磨請来
四巻楞伽経」を依経としていたが、慧能以後通称金剛般若経、正しくは「金剛般若波羅蜜経」を依経とし、座禅第一主義から智慧第一主義に舵が切られた。 (般若経典 中村始 東京書籍参照)  

近年欧米に禅宗がが浸透している、禅の教えは現存する佛教宗派の内で最も釈尊の教え、即ち原始佛教の面影を保持している宗派といえる、釈迦如来十大弟子上足で釈尊の入滅後に仏教教団を統率した大迦葉の教えが(注5正統な経路で嗣法(しほう)され、実在の可能性の強い達磨大師(?~530年)~南禅宗の慧能(えのう)(638~713年)を経て継承されていると言はれている、脇道に反れた仏教を本来の「釈尊教え」へ帰を目指す宗派である、禅宗系寺院では正統な嗣法(しほう)をオーソライズauthorizeする法会として「臘八接(ろうはちせつ)(しん)」がある、すなわち釈尊が覚者と成った八日間に因んで陰暦12月1日~8日まで昼夜を通しての参禅が行われている、因みに嗣法とは特に禅宗系に於いて法統を師から継承する事を言う。
禅とは正式には大乗仏教の修行の根幹である六波羅蜜
(注6の第五に相当する禅定(ぜんじょう・梵語dhyāna、ジャーナ・パーリ語jhāna ジャーナ)を意味している、「禅那」すなわち瞑想と心身の安定を意味する「定」の合成語である、要するに禅とは禅定(yoga)の略語である、因みに瑜伽(yoga)は釈尊以前から現在もインドで行われている、男性行者をヨーギン (yogin)と言い女性行者をヨーギニー (yogini)と言う。 禅宗が他の教派との最大の相違は経典に対するプライオリテpriorityの相違で「教外別伝」即ち師から弟子へ直接に教義や言葉、人格へ伝える師資相承にある、禅宗以前の中国佛教は老荘思想を色濃く受容した「格義佛教」であったが、影響を受けながらも老子・荘子から中国独自の佛教を構築したと言えよう、重ねて強調するが禅宗六祖・慧能の言う「解脱を論ぜず、見性を論ずるのみ」であろう。
慧能が心酔した般若経典の範疇で般若心経に次いで人気の高い”金剛般若波羅蜜多経”の内に「応無所住(おうむしょじゅう) 而生其心(にしょうごしん)」に記述がある、
(まさに住する所無くして而(しか)も其の心を生ずべし)と読まれるが、慧能以前の禅宗は楞伽経を拠経としていたが、慧能以後は金剛経(般若)が禅宗内で読聚される様になる。 
禅宗の源流は釈尊が菩提樹の下に於いて「
(かい)()成道(じょうどう)」からと言われる、但し禅を歴史から俯瞰すればインドに於いて瞑想の行として存在していたが、中国に於いて唐の時代に仏教が否定され経典は破棄され寺院も解体された為に、多くの分野に道教すなわち老荘の哲学を取り入れて起った宗派である、一例を挙げれば公案で六祖慧能の言とされる「父母未生以前本来面目(ふもみしょういぜんほんらいめんもく)」「祖師西来意(そしさいらいい)」「無」等が老荘思想の典型とされる、従って禅宗寺院に仏像は安置されているが像名は多様であり祖師像(頂相像・頂像(ちんぞう))(注2が重要視される、所謂禅宗は中国で興り「面壁九年」で知られる達磨大師が祖であるが、出自は定かではなくペルシャ生まれとか南天竺のバラモンの出身など諸説が交錯する、また実在を疑問視する人達も多い、ちなみに禅定(禅・dhyāna定・samaadhiとは音訳と意訳を合成された熟語である、因みに中国仏教に於いては禅と浄土の思想を根幹とした仏教すなわち「禅浄双修」が興隆し日本佛教に多大な影響を与えた、閑話休題、佛教でも顕教には、さほど見られないが、禅と密教との共通点がある、それは禅定、瞑想からくる神秘体験であろう。 
中国に於ける禅哲学嗣法(しほう)経路は 1達磨、2 慧可、3僧(さん)、4道信、5弘忍の後、北宗禅の神秀漸語(ぜんご)を説く)と南宗禅の慧能頓悟(とんご)を説く)に分裂し六祖は慧能が継いだとされる、中国に於いて禅宗を席捲した慧能の南宗禅から臨済宗や曹洞宗など五家七宗に分かれる、因みに禅は(さん)に時代に老荘思想 即ち自然の作用に素直とされる道教思想と融合している、しかし会昌の廃仏で衰退したが慧能の法兄にあたる神秀の北宗禅には「三帝国師」すなわち・則天武后・中宗(ちゅうそう)睿宗(えいそう)達の帰依を受けて興隆して居た様である。  
禅宗に於ける五祖・弘忍から六祖への衣鉢移譲の話は著名であるが、福永光司
(老荘思想・道教の碩学)を引用した五木寛之は中国は二つの文化があり、北は儒教的(シンメトリック)で合理性を持ち神秀の「漸禅」「漸禅」即ち北宗禅につながる、南は道教的で本能生を重視すると言い慧能の「頓悟禅」「頓禅」即ち南宗禅となる所謂「南船北馬」の説を言われる。
九世紀に吹き荒れた「会昌の廃仏」(注13)で師資相承と舞台装置を必要とする密教を初めとして佛教諸宗派は壊滅的な打撃を受けたが、禅と浄土信仰は座禅と念仏を重要視する為に儒教、道教との区分が難解の為か回復は早かった、中でも禅宗が廃仏を回避出来たのは作業も修行とする下層民をも取り込んだ南宗禅であった、閑話休題、現代の日本の於けるキャリヤ官僚なら採用するのは精緻で難解な哲学を持つ北宗禅であろう。
我が国に禅が伝えられたのは653年玄奘に学んだ法相僧道昭が元興寺に伝えたのが嚆矢とされる、また736年頃北宗禅の祖、神秀の孫弟子で東大寺大仏開眼の呪願師を務める為に来日し大安寺に寄宿していた道璿(どうせん)くが、本格化したのは鎌倉時代である、後醍醐天皇を擁護した比叡山に対抗する意味もあり室町時代に足利幕府の庇護を受けて発展した、日本の禅文化は明治から昭和にかけて世界に広がりを見せた。 
インドに於いては瞑想、座禅と言う行為はバラモン以前から存在した行で「雑阿含(ぞうあごん)(きょう)」や「成実論」にも記述がある様だ、即ち釈尊も座禅に依る瞑想から覚者となった、禅宗の伝承では釈尊の覚りを大迦葉~阿難陀を経て第28代菩提達磨により完成されたとされる、従って禅宗に於けるに於ける多くの釈迦三尊像は大迦葉と阿難陀(あなんだ)を従えている、すなわち大迦葉は十大弟子の上足で舎利弗と目犍連(もっけんれん) 亡き後、事実上釈尊の後継者であり、記憶力に優れ長く釈尊の秘書的存在であった阿難陀達を従えて阿羅漢 500人を招集して釈梼の教義を編集した、すなわち第一結集を行った、舎利弗と阿難陀が脇侍を勤める事は禅宗が本来の釈迦に帰ると言う哲学の故であろう、因みに多くの経典の初めに詠まれる「如是我聞(にょぜがもん)」とは阿難陀が「釈尊からこの様に聞いた」とされる事に始まる。       
禅宗系に於ける釈迦如来であるが印形は日本に於いて禅宗以外では施無畏印・与願印が多くを占めるが、禅宗の場合は定印を結ぶことが多い。
菩提達磨により完成された禅哲学は「()聖句(しょうく)(注1にあると言える、すなわち不立(ふりゅう)文字(もんじ)教外(きょうげ)別伝(べつでん)見性(けんしょう)成仏(じょうぶつ)直指(ちょくし)人心(じんしん)である。
禅宗には座禅や禅問答が主流で依経とする経典の存在は明確でない様であるが、如来蔵と唯識を説く楞伽(りょうが)Laṅkāvatāra Sūtraの影響を受けていると中村始氏は言う、氏の著作大乗仏典5(東京書籍)に依れば大変難解で、唯識すなわち如来蔵にバラモン哲学の影響を受けた経典で、梵語名La
kāvatāra-sūtra(ランカーヴァターラースートラ)と言い67世紀に成立した経典とされる、禅宗系に唱えられる陀羅尼に大悲呪すなわち「千手千眼観自在菩薩広大円満無礙大悲心陀羅尼経」から抽出した「大悲心陀羅尼」が読誦される。如何なる組織にも文化が生まれるが禅は中国で興った哲学・文化である、五木寛之氏は「中国に於いて仏教がみずから発したのが禅」であると言う、禅が日本に請来され独自性と習合しながら熟成した、禅宗文化は鎌倉から室町時代にかけて高い教養を保持した文化として貴族や武家の棟梁達に尊重された、いわゆる茶道・築庭・建築・書画等々芸術の興隆に大きく寄与したのが禅文化と言える。
正木晃氏は密教と禅宗を双生児と言えるほどの共通点を指摘している、即ち密教は・神秘主義・象徴主義・儀礼主義を重要視するが禅宗は・神秘主義は禅定に不可欠であるが・象徴・儀礼に於いて密教程の比重を置いていないという。
1187
年栄西が帰国後に臨済宗を興し鎌倉幕府の帰依を受けて発展する、1228年には道元が京都深草に興聖寺を拠点に曹洞宗を興す、1661年明国から渡来した隠元が黄檗宗を興した総称を禅宗と言う、鎌倉時代から室町時代にかけて臨済宗(後に黄檗宗を含む)・曹洞宗として定着する、但し禅の初伝は長安に於いて玄奘に師事した日本法相宗の祖である道昭
629700年)とされる、もう一つ栄西以前の日本に於ける禅宗とも言われている達磨宗が存在した、禅を無師独悟した大日能忍が興し禅密兼帯の三宝寺(吹田市)を創建した、天台や南都宗派から迫害を受け逃避していたが弟子の孤雲懐奘(こううんえじょう)や義介は曹洞宗・道元の基に合流して二祖、三祖となる。
禅宗には「聖胎長養(しょうたいちょうよう)」と言うタームがあり、覚りの印可を受けても完成ではなく登竜門に過ぎない、悟後の修行に聖胎長養二十年と言う言葉がある。

梵語でdhyāna(ドラヤーナ)の漢訳即ち静慮(じょうりょ)と訳される、即ち「静寂の中の瞑想」を意味し、インドでは jhāna 及び jhān の発音を中国でchnと音訳され、日本に於いて禅と呼ばれた、禅と呼ばれる語源に仏教徒に課せられる三学(戒律・常・慧)の内、常の語源がsamādhi(三昧)で禅常と訳され、これが禅宗の語源説とも言われる。  

また静か・周囲に自然の神々を祭る・皇位を譲る・熟慮・熟考等の意味を持つ、古代インドより瞑想の実践文化として釈迦の時代から存在ししており座禅から始まる、禅宗とは釈尊に帰れとされる宗派で第一祖は十大弟子の大迦葉とされ嗣法(しほう)即ち法統を受け継ぐ事を大義としている、「釈迦に還れ」、これは日本では不可能である、誤解を恐れずに言えば釈尊の原始仏教は衆生を相手に説いたのではなく自分の覚りを出家に説いたのである、因みに出家は日本では極めて希少で在家僧が大勢を占める。
禅の起源とされる寓話に拈華微笑(ねんげみしょう)」(霊山(りょうぜん)拈花(ねんげ))即ち霊山に於いて釈尊が大迦葉一人に嗣法を授けた伝承は著名である
 
 

禅のメソッドmethodは菩提・達磨により中国に伝わるが禅宗は中国に於いて始る、達磨を初祖として慧可(えか)僧燦(そうさん)道信(どうしん)弘忍(ぐにん)慧能(えのう)衣鉢(えはつ)の継承すなわち嗣法が続いた系列の禅宗も慧能と弘忍門下の兄弟子で弘忍の後継者を自任していた神秀(じんしゅう)が対立して南宗禅と北宗禅に分裂し、さらに慧能の弟子・行思(ぎょうし)懐譲(えじょう)から、曹洞宗・臨済宗に分裂して、さらに24派に分かれて発達する、主な宗派は五家(五門)と言われ「法眼(ほうげん)宗」「差仰(いぎょう)宗」「曹洞宗」「雲門宗」「臨済宗」が主に在る、唐の五家から宋時代には臨済宗から「楊岐派(ようぎは)」・「黄龍派(おうりょうは)」が独立し五家(五門)七宗といわれた、ちなみに栄西(11411215が宋で修めた禅は黄龍派であるが、日本の臨済宗の主流は妙心寺系の楊岐派(法系)が占めている、これは鎌倉、京都五山(注4の禅僧達が禅美術すなわち五山文芸に傾注し宗朝禅の気風を失った事に依り、五山から外れ禅の心を保持した大徳寺、妙心寺等の林下(りんげ)(山林派)に法系が凌駕された、達磨大師と慧可を著した碧巌録仏果圜悟禅師碧巌録・注18の「面壁九年」が著名であるが達磨140歳・慧可40歳であったと言う。
日本で生み出された念仏宗に比べ禅は唐への留学僧が開いた輸入宗派である、禅が日本に及ぼした影響は信仰もあるが通常禅宗芸術と言われる総てにあると言えよう、正式には「禅美術」と言われる様で禅宗寺院や禅僧が日常使用した鎌倉、室町時代より江戸初期の黄檗宗まで、禅の真髄を内包した施設、設備等を言う、茶道 ・書画 ・五山文学 ・工芸 ・作庭・建築等に多大な影響を与えて、日本流にアレンジした文化として花開く事になる、中でも特に著しいのに庭園がある、「山水には得失なし、得失は人の心にあり」作庭に腐心した夢窓疎石の言葉であるが覚りに入る為の環境設定としての庭園であろう。

代表例を挙げれば絵師で連歌師でもある相阿弥(そうあみ)の作とされる・竜安寺の石庭 夢窓疎石の・西芳寺の枯山水 ・東福寺 地方に行けば永保寺など枚挙にのぼる。
もう一つ禅宗寺院の特徴として塔頭寺院の多い事が挙げられる、これは地方豪族や武将達が檀越として造営した寺である。
平安時代
までは招来された典籍は概ね仏典に限られていたが、鎌倉時代初期には真言宗泉涌寺派の祖、俊芿(しゅんじょう)を初め円爾弁円(えんにべんねん)等により道教儒教の典籍が増える、更にモンゴルの脅威から逃れてきた蘭渓道隆、無学祖元達により道教、儒教を含む鎌倉文化が形成される。
鈴木大拙1870年(明治31111日~1966年(昭和41年)712日)は「日本的霊性」として情性方向、感情的方向へ深化し発現させたのが念仏系の教えで、知性方面に深化・発現させたのが禅であると結論付けているが教義的には二律背反(独、Antinomie・アンチノミー)ではなかろうか。 
栄西・円爾弁円(えんにべんえん)(臨済宗)も道元(曹洞宗)も唐より学んできたものであるが俊英も多く輩出した臨済宗では無窓疎石・一休宗純、曹洞宗では明峰素哲・峨山紹碩等が居る、唐の禅の始祖は達磨(円覚大師)であるが、曹渓慧能(そうけいえのう)による南宗禅系のものが大半を占め前述の如く曹洞・雲門・法眼・臨済・の流れがあり、これを唐の五家と言う、因みに「曹渓」とは慧能の住んだ土地である

閑話休題、東大寺の大仏開眼に於いて咒願師(じゅがんし)を務めた道璿(どうせん)曹渓慧能のライバルで北宗禅を開いた(じん)(しゅう)の孫弟子である、禅の日本への将来は道昭と言われるが内容は具体性に欠しく道璿を嚆矢と観るべきであろう
現在我が国には臨済宗・黄檗宗と曹洞宗とがある、初期の臨済宗は密教・念仏・を取り入れて時の権力密接に繋がっていたが、後の大燈派
(応燈関)や曹洞宗は権力と関りをもたずに活動して教勢を拡張した、これ等は伽藍規模に於いて大禅刹と言われる寺院が多い。
歴史的に見ても権力と癒着した教団は必ず腐敗・堕落しており、次の改革者が現れるまで停滞か消滅している。     
  (しょう)(たい)長養(ちょうよう)
 

臨済宗  座禅と師資相承(ししそうじょう) ・公案禅・ 師より弟子に伝える不立文字(ふりゅうもじ)教外別伝(きょうげべつでん)によって成立する宗派、最高経典は無い。  栄西が初祖
黄檗宗  座禅と師資相承(ししそうじょう) ・公案禅・ 師より弟子に伝える不立文字(ふりゅうもじ)教外別伝(きょうげべつでん)によって成立する宗派、最高経典は無い。  隠元が初祖
曹洞宗  座禅三昧(Samādhi)・見性禅(けんしょうぜん)只管打坐(しかんたざ)であり、  読経・念仏禅・密教色・加持祈祷・末法思想の否定  道元が初祖 

公案禅とは修行上手本となる古仏、祖師の源句、問答、逸話等々を言い、公按とも記述も観る。
日本の禅宗系宗派は中国の禅宗五家即ち*曹洞 *臨済 *潙仰 *雲門 *法眼、を踏襲したと言えよう、日本に於いては*曹洞宗 *日本達磨宗 *臨済宗 *黄檗宗 *普化宗(ふけしゅう)がある。

達磨大師の教えとされる四聖句(ししょうく)(注1と呼ばれる事項を挙げると、下述する「教化別伝(きょうげべつでん)」、経典よりも座禅の「不立文字(ふりゅうもんじ)」、自身を見つめる「直指人心(じきしにんしん)」、己の仏性を見つける「見性成仏(けんしょうじょうぶつ)」とされる。
所謂禅宗はひたすら座禅をする事と経典に記述された「教内の法」と「教外(きょうげ)の法」とがあり師から弟子に伝える「教外別伝」が重要視される、これ「以心伝心」と言う、特に臨済宗・黄檗宗は座禅と師資相承 ・公案禅・ 師から真髄を伝えられる不立文字・教外別伝によって成立する宗派で最高経典は特に無い。
臨済宗を活性化させた白隠慧鶴(はくいんえかく)以降は鵠林派(こうりんは)とも呼ばれ、その厳しい公案禅は臨済宗発展の礎とした。
また教えを咀嚼して覚りに至る段階を示す教えに「十牛図(じゅうぎゅうず)」があり牧童に例えて描かれている。

重複するが禅すなわち瞑想法には二種類がある、公案禅(看話禅)すなわち臨済の禅と曹洞の黙照禅(生活禅)である、門外漢から観ての相違は曹洞宗は中国に習い壁に向かって
(面壁)参禅するが、臨済宗は壁を背にして座る。 
通常に於いて釈迦如来像は施無畏・与願印が多いが、禅宗系に於いては瞑想の為か定印を結ぶ像が多い。

一休が 師の華叟宗雲(かそうそうどん)との公案禅で答えた歌が著名である、この歌で師から一休と銘々されたと言う、有漏(うろ)()より 無漏(むろ)()へ帰る一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」一休宗純、有漏路とは迷いの世界に居る事で、無漏とは煩悩が無くなった状態即ち覚りを言う。
臨済宗は鎌倉時代初期に明庵栄西が中国に渡り、五家七宗から黄竜宗を伝え「興禅護国論」を唱え、守旧勢力と調整を試みながら鎌倉幕府の援助を受けて京都に
建仁寺を開くことに成功する、「看話禅(かんなぜん)」とも言い、座禅を覚りへの手段と考へ公案禅を手段とする。

公案とは禅宗系、特に臨済、黄檗宗に於いて修行者に覚りに至る道標として、出題された問答(禅)を言う、元来は中国の官庁で出された文書である、著名な公案に「隻手の声」、「狗子仏性」等々がある

また幕府が招いた蘭渓道隆・無学祖元、等渡来僧は藤原一門の帰依を受けて東福寺が開山される、閑話休題、無学祖元の無学に付いてであるが、無学とは梵語でśaikaと言い、最早学ぶところは無い完成者を言う、因みに有学とはaśaika修行の未完成を言う、他にも、分別:無分別も同様で分別を超越した智慧を無分別と言い覚りの意味合いを持つ。  
また臨済宗は渡来僧だけではなく、円爾弁円・南浦紹明ら入宋僧の活躍もあり京都・鎌倉等に足場を築く。
黄檗宗は中国の黄檗山・万福寺の隠元隆雫が徳川幕府の援助で宇治に万福寺を開いたのに始まる。 隠元隆雫は中国では臨済宗楊岐派に属し日本でも明治初期に臨済宗黄檗派から独立し臨済正宗を正式名称とする。
両宗の同じ経典からの経を聞いても、発音が違うため全く違う経に聞こえる、黄檗宗中心であるが臨済系に於いても「禅浄双修
(習)」と言い念仏の唱える、ただし南無阿弥陀仏を「なむおみとうふう」と発音している所がある。

曹洞宗は「黙照禅(もくしょうぜん)」座禅を行する姿を覚りとする、即ち心を無にして深い瞑想に入る、曹洞宗は心を無にして深い瞑想に入る、ただ座禅のみである、即ち自己に本来備る本性を覚る、「見性禅(けんしょうぜん)」と、ひたすら座禅に打込む、「只管打坐(しかんたざ)を採用し読経・念仏禅・密教色・加持祈祷(注8)・末法思想の否定である、「端座参禅を正門とせり」座禅すなわち「安楽の大法門」を説く、臨済宗と比較すれば公案禅即ち禅問答を曹洞宗は行わない事にある。 
曹洞宗は永平寺を開創する
道元希玄(きげん)が中国に学び、天童如浄に学んだ正法眼蔵を伝えるのに始まる。
天童如浄は中国曹洞宗に属していたが、道元に曰く自己の宗旨を五家の曹洞宗とはせず、仏法の全て任じ、禅を名乗る事も戒めたといわれる、
道元の正法眼蔵は上記を説明する著作である、但し正法眼蔵と言うタームは道元の創作ではない、禅宗系の宗派では無上の正法すなわち肝心要を意味し、”教外別伝の心印”として使われ重要視されている。
当初道元の唱えた曹洞宗は栄西等の臨済禅とは明らかに峻別されていた、但し曹洞宗も第四祖瑩山紹瑾(1268年~1325年)は厳しさを緩めたり、衆生に受ける俗信仰を取り入れて興隆させる。

閑話休題、最澄の菩薩戒(円頓戒)は日本仏教界のみの戒律で他国の仏教界に於いては戒律とは認知されていない、日本以外では菩薩戒だけの納戒では僧侶とは認められていない、因みに上野雅文著「最澄再考ペリカン社」に依れば比叡山で得度し、仏教に対して原理主義的とも言える道元ですら中国に於いて正式な僧としての認知を受けられなかったと記述されている。 
禅宗と言えば七仏通誡偈を挙げねばならない、七仏通誡偈(つうかいしげ)とは釈尊を含む過去七仏が説いた共通の偈を言う、法句経などに記述がある、日本では禅宗系が重要視している、以下に記述するがルビは呉訳で付けるが天台宗は漢訳で呼称される。  パーリ語(pāli)による記述

*諸悪莫作(しょあくまくさ)Sabba pāpassa akaranam・サッバ パーパッサ アカラナン)もろもろの悪を作すこと莫く。  *(しゅう)(ぜん)奉行(ぶぎょう)kusalassa upasampadā・クサラッサ ウパサンパダー)諸々の善を行い。  *自浄(じじょう)()()Sacitta pariyodapanam・サチッタ パリヨーダパナン)自ら其の意を浄くす。  *()(しょ)仏教、etam buddhāna sāsanam・エータン ブッダーナ サーサナン)是が諸々仏陀の教えなり。   (「衆善奉行」は天台宗では「諸善奉行」)

出光美術館や茶会等に於いて一休宗純による「諸悪莫作・衆善奉行」とした軸を見かける、また道元は「正法眼蔵」で「諸悪莫作」の巻を設けている。
物語を記述すると、著名な官僚で四千近い詩を残す詩人である白楽天が左遷に遭い杭州の長官として赴任してきた、白楽天は鳥窠(ちょうか)道林(どうりん)と言う禅僧を訪ねた、道林は木の上の鳥巣で座禅中であったが、危ないと声を掛けたが、貴公より危険はないと言う、即ち貴公の煩悩は薪を燃やす様に激しく燃え上っている、と諭された、姿勢を改めた白楽天は”仏法の神髄とは”尋ねると「諸悪莫作 衆善奉行」即ち悪い事はするな、好い事をせよ、と回答した、そこで白楽天は「そんな事は三歳児でも承知している」と言うと、「実践するは80歳の年輪を経ても容易ではない」を返答され、辞を低くして場所離れたと言う、智識より実践を強調したのかも知れない。

楞伽経  Lakāvatāra Sūtraと言う経典がある禅宗系宗派が依経としている非常に難解な経典で南伝佛教圏では九法宝典の一典に加えられている、但し依経としている禅宗系でも勤行に於いて読経される事は無い、ランカーアヴァターラの内ランカーはスリランカの音訳が楞伽となる、スリは慶賀を意味する、ヴァターラは化身を意味し釈尊が訪れて法話を説いたとされる。     

現存する経典は求那跋陀羅(ぐなばっだら)訳「楞伽阿跋多羅宝経(りょうがあばたらほうきょう)(四巻本)菩提流支(ぼだいるし)訳「入楞伽経」(十巻本)実又難陀(じっしゃなんだ)訳「大乗入楞伽経」(七巻本)であるがバラモンの哲学を取り入れた如来蔵思想と言われるが難解である。
日本の黄檗宗は江戸時代初期に、明の高僧で長崎に渡来した隠元隆琦15921673を祖としている、戒律に厳粛な中国臨済宗を踏襲して権力との癒着や文化に偏重していた禅宗系に活力を注入した。
隠元は妙心寺の要請に応じて入洛する、天皇家や徳川将軍・家綱の帰依を受け正統な臨済禅を広める為に宇治の地に、中国様式を踏襲した伽藍配置で黄檗山満福寺を興す。

韓国の仏教徒は現在人口の25%程度とされる、
真覚宗、元暁宗、天台宗、華厳宗、さらに妻帯を認める太古宗、等の小さな宗派が群有しているが、24寺の本山を持つ曹渓宗(そうけいしゅう)」と言う儀礼的には密教の要素を持つが、華厳と混血的な禅宗に概ね統一され、日本による統治の残滓的な例外とする太古宗を除いて肉食妻帯など戒律が厳しく守護されている、閑話休題韓国に於いて華厳哲学が強い影響力を持つ理由として挙げられるのは中国華厳宗の第二祖智儼の弟子義湘が新羅出身である可能性が強い、日本の禅は六祖慧能禅師を祖としているが韓国の曹渓宗も慧能を祖としている。
禅僧が死者の授ける引導に付いては、釈尊が荼毘に於いて諸行無常を説いたとされた言う説があり「法華経・法師品」に諸々の衆生を引導し‐‐‐‐‐と記述されている、中国に於いて黄檗僧が母の遺骸に法を説いたのが嚆矢とも言われている。

諸行無常に付いては平家物語の冒頭、すなわち「祇園精舎の鐘の声  諸行無常の響きあり  沙羅双樹の花の色  盛者必衰の理をあらわす」が著名であるが、これは大般涅槃経を典拠とする釈迦涅槃図の情景を書いたものである。
禅宗寺院の庭を含むプロポーションproportionは美しい、近年造仏に力を注ぐ処も多い、留意すべきは鹿苑寺すなわち金閣を訪れた水上勉は「ここには禅はない」を肝に銘じなければならない。
曹洞宗の特徴の一つに静岡県を挙げなければならない、禅宗王国と言われる程の寺院数を誇る、即ち静岡県内に仏教寺院はは約2600寺が存在するが、可睡斎かすいさい曹洞宗 注9)を筆頭に曹洞宗1100寺、臨済宗550寺、以上が存在する、これには可睡斎を起こした如仲じょちゅう天誾てんぎんとその弟子達が挙げられる。(お寺の日本地図 鵜飼秀徳 文芸春秋) (如仲天誾 1365~1437年 南北朝から室町時代の僧)



1、 四聖句 (ししょうく)達磨大師の禅の心得とされる事項に、禅宗三派の共通項である、禅の基本は以下の項目と成る。
教外別伝  (きょうげべつでん)   仏法には言葉や文字に依らず、心から心へと伝える 
不立文字  (ふりゅうもんじ)   覚り即ち法は文字や言説では無く師から弟子へ伝える
直指人心  (じきしにんしん)   生まれながらに持つ仏性を体得、体感する 
見性成仏  (けんしょうじょうぶつ)   見性で覚る、見性悟道にある、見性とは国語辞典に依れば「自己に本来備わっている本性を見究めること」。

2頂相(ちんぞう)  主に禅宗の高僧の肖像を言う、宗門の長である師が弟子に頂相画に賛、印可(いんか)をつけて付与し伝法の証明とするもので画像が多いが、頂相彫刻も存在する、彫像で表した頂相彫刻もある。
宋代から起こり日本に於いては禅宗の興隆した鎌倉時代に秀像が多い、相猊(そうげい)と言う意味もある、即ち宗門の長を猊下と呼ばれる様に尊敬を籠めているが猊とは百獣の王、ライオンをも意味する。

3、禅宗寺院に於ける伽藍の呼称は他の寺院とは相違がある、即ち本尊を安置する「金堂・本堂」は「仏殿」と言い大寺院に於いては「大雄宝殿(だいゆうほうでん)と言われる、この場合大雄とは仏を意味する、また読経や法を学ぶ「講堂」に当たる堂宇を「法堂(はっとう)と言い、大寺院で座禅をする場所を「僧堂」若しくは「選仏堂」と言う、トイレは二か所あり上位の僧のトイレを「東司(とうず)」と言い、下位の僧のトイレを「西司」と呼ばれた、住処も僧の位に依り「東序」と「西序」の分類されていた、その他・南大門―――総門 ・中門―――山門(三門)仁王門などがある、因みに三門には三解脱門の意味合いもある
三解脱門は空門・無相門・無願門の三境地((さん)三昧(ざんまい))を経て仏国土に亘る、因みに三解脱とは菩薩の悟りの境地を言い、・空解脱・無相解脱・無願解脱(無作)を言う。


4、五山の内訳 
五山制度はインドの
天竺五精舎」を模した制度である、因みに精舎を梵語でvihāra(ビハーラ)と言う、因みに「天竺五精舎(天竺五山)」とは、竹林精舎、()樹給(じゅぎつ)孤独(こどく)(おん)精舎(祇園精舎)、(あん)羅樹(らじゅ)(おん)精舎、大林精舎、(りょう)(じゅ)精舎が言われている。
室町幕府の庇護下にあった五山派は応仁の乱を境に力を失い、山林派すなわち権勢に媚びない曹洞宗や大徳寺派(大応派 後の妙心寺派)林下(りんげ)が力を持つようになった。
   
五山内訳

 寺  挌

 五山の上

 京都五山 

 南禅寺

 天竜寺 

 相国寺 

 建仁寺 

 東福寺 

 満寿寺 

 鎌倉五山

  

 建長寺

 円覚寺

 寿福寺

 浄智寺

 浄妙寺

  大徳寺 京都市北区柴野大徳寺町五十三      妙心寺 京都市右京区花園妙心寺町六十四。

5、大迦葉が
釈梼の事実上の後継者で禅宗では創設者として崇めている、霊鷲山に於いて釈尊の趣旨を理解即ち拈華微笑(ねんげみしょう)した逸話は著名である正法眼蔵・涅槃妙心・実相無相・微妙(みみょう)法門・不立文字(ふりゅうもんじ)・教外別伝の真理を授けられたとされる。


6、 六波羅蜜 梵語名
pāramitā (パーラミータ)の音訳で到彼岸すなわち完成・到達を意味する、菩薩道に於ける修行方法の完全なあり方を波羅蜜と言い大乗仏教に於ける菩薩の必修条件でもある、六波羅蜜の起りは、初期の大乗経典で現存はしていないが「六波羅蜜経」が諸経典に引用されている様である。  
・布施波羅蜜 (施し)          余談 布施を施す事をdānaダーナと言うが旦那の語源になる。
持戒(じかい)波羅蜜 (道徳・法律)  
忍辱(にんにく)波羅蜜 (耐え忍ぶ)   
・精進波羅蜜(努力)  
・禅定波羅蜜 (徳を行う行動) 
・般若波羅蜜 (単に知恵ではなく慧に裏付けられて完成される、悟りに向けた智慧)
さらに十波羅蜜もあり、六波羅蜜に方便・願・力・智が加えられている。

7、 中国禅宗第六祖・大鑑禅師慧能の偈     「菩提本無樹 明鏡亦非台 本来無一物 何処惹塵埃」     
菩提本無樹(菩提(もと)(じゅ)無し  明鏡亦非台(明鏡も(また)台に非ず  本来無一物(本来無一(もつ)   何処惹塵埃(何れの処にか塵埃(じんあい)を惹かん
神秀の偈に対してであろう、本来菩提には樹等という不変なものは存在しない、明鏡という心も無い、即ち本来無一物である。よって塵埃の溜りようがないから払拭の必要はないではないか。

注8、 
僧侶が托鉢の行に出かける時に掛ける袋を頭陀袋(ずだぶくろ)と言う、梵語でDhūta(ドゥータ、意味:払い落とす、棄捨)と言い衣食住に於ける貪欲を払拭する為の修行である、出家者の原点とも言える修行に頭陀行と言う行があり十二頭陀支、若しくは十三頭陀行、十三頭陀支などがある。

内容は以下の様になるが戒の範疇にはない。

  1. 糞掃衣――――糞掃衣しか着ない
  2. 三衣――――大衣、上衣、中着衣以外を所有しない
  3. 常乞食――――常に托鉢による乞食の生活する
  4. 次第乞食――――托鉢に廻る家は選り好み出来ない
  5. 一坐食――――一 一日に一回の食事のみ
  6. 一鉢食―――― 一鉢以上食べない
  7. 時後不食――――午後には食べない
  8. 阿蘭若住――――人里離れた所を生活の場とする
  9. 樹下住――――樹木の下で暮らす
  10. 露地住――――屋根や壁のない露地で暮らす
  11. 塚間住――――墓地など死体の間で暮らす
  12. 随所住――――偶然入手した物や場所で満足する
  13. 常坐不臥――――横にならない、即ち座ったまま。               

注9、加持祈祷の加持とは加=仏の働きかけを言う、持=行者が「加」を受ける事である

注10、野狐禅と増上慢  
増上慢(ぞうじょうまん)とは、佛教で悟りを得ていないのに自身で悟りの境地に入ったと慢心する事で、禅宗に於ける野狐禅(やこぜん)と同意である 増上慢には四慢(増上・卑下・我・邪)と七慢(慢・過・慢過・我・増上・卑劣・邪)がある 例として倶舎論、巻十九於いて慢を取り上げている。 (いまだ証得せざる殊勝の徳の中において已に証得すると謂うを、増上慢と名づく)。
特に禅宗の場合、師から印可を受けても、終わりではない、大燈国師、宗峰妙超や一休崇善等々はそれから「
(しょう)(たい)長養(ちょうよう)と言い長い修行をお子ナッツている。


注11、 見性とは禅に於ける覚りを言い人間が本来備えている本性を理解する事。


注12、 慧能(南修禅)の「頓悟禅」に対して、神秀の北修禅を、「漸悟禅」、「漸修禅」と言う、漸とは緩やかにを意味する。   南船北馬 


注13、 
会昌の廃仏 (三武一宗の法難)、中国に於ける宗教弾圧は四回あり、①五世紀、北魏 太武帝(423~452年)による道教保護廃仏、  ②六世紀、北周 武帝560578年) 道教佛教の廃止、 ③九世紀、北周 武宗840846年) 会昌の廃仏、 ④十世紀、 後周 世宗954959年)、 と続いた、因みに三武一宗とは弾圧した皇帝の名から銘々された様である、また会昌の廃仏は元号から取られた。()内は在位年数   

   

注14、禅宗では創設者として十大弟子の上足である大迦葉を崇めている、著名な寓話では霊鷲山に於いて釈尊が説法中に華を捻った趣旨を只一人理解した、即ち拈華微笑(ねんげみしょう)したとして 「正法眼蔵」「涅槃妙心」 「実相無相」 「微妙(みみょう)法門」「不立(ふりゅう)文字(もんじ)」「教外別伝」の真理を授けられたとされる、但しこの寓話はインドやチベット等では語られていない、因みに拈華微笑の物語は偽経である「大梵天王門仏決疑経」の記述である                                                                                  

即ち「聯燈会要釈迦牟尼仏章には「世尊在霊山会上。拈華示衆。衆皆黙然。唯迦葉破顔微笑。世尊云。吾有正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙法門、不立文字、教外別伝。付属摩訶迦葉」とある。

15、 「解脱を論ぜず 見性を論ずるのみ」 佛教の革命とも言える。

注16、菩提達磨 (bodhidharmaは南インドのパッラヴァ朝で国王の第三王子、とかペルシャ(波斯国)とか南天竺の出身言われるが定かではない。

17、 中国の主な法難 ①五世紀、北魏 太武帝(423452年)による道教を保護し廃仏、    ()内は皇帝の在位年数    ②六世紀、北周 武帝(560578年) 道教、佛教の廃止、    ③九世紀、北周 武宗(840846年) 会昌の廃仏として著名、   ④十世紀、後周 世宗(954959年)。

注18、 
碧巌録とは中国の佛教書で、仏果圜悟禅師碧巌録(ぶっか えんご ぜんじ へきがんろく)と言い、特に臨済宗に於ける代表的公案集で全10巻で構成されている。

 

        


    説明: C:\Users\Owner\katada202\kyoto\button1.gif             仏像案内   寺院案内     臨済宗  黄檗宗    曹洞宗





聯燈会要釈迦牟尼仏章には「世尊在霊山会上。拈華示衆。衆皆黙然。唯迦葉破顔微笑。世尊云。吾有正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙法門、不立文字、教外別伝。付属摩訶迦葉」とある


   

inserted by FC2 system