自身の心すなわち心性を見極め覚りに導く修行、これ等”
「衆生本来仏なり」
禅とは梵語のデイヤーナ(dhyāna)の俗語音訳であると中村元氏は言う、ジャーナ(jhāna)となり、aが省略された、漢式の発音ではチャーンとなると言う、因みに
達磨大師(菩提多羅・bodhidharma)を初祖とする宗派である、”ダルマさん”の名前に付いては子供にも馴染まれている、佛法修行には三学が言われ慧、戒、禅定、が在るが、禅定に対するプライオリテー(priority)の高い宗派である、禅の三宗派(臨済宗、曹洞宗、黄檗宗)に於ける代表的フレーズは面壁九年即ち禅宗の祖である達磨による四聖句 *「
禅宗系が大切にする起源を説く寓話すなわち禅定のプライオリテー(priority)に付いて、
禅の思想はインドを源流とするが、中国で興隆し禅宗の祖は菩提達磨である、伝承では釈尊から二十八代目に菩提達磨に伝えられたとされる、達磨は5世紀~6世紀に活躍したインド僧である、彼に率いられた中国仏教界は幾度も法難を潜り抜け禅がメインであった、禅は無神論的な一面がありヨーガとも関連する瞑想法でもある。中国では会昌の法難(廃仏)等で寺院や仏像を公に開示出来ない時代に、道教
会昌の法難(注17)は道教を興隆させる為の法難と言はれているが、中国に於いては佛教請来時には教義を優遇し兵役、租税の免除した、その為に租税、兵役免除の目的で利殖はするが、生産性の無い寺院僧侶が増え過ぎた為の処置とも言えよう、即ち教義上の問題からの廃仏とは決め付けられない。
中国禅宗は達磨より六代目の
但し禅宗の発生地である中国では禅宗(佛心宗)
金剛般若経(金剛般若波羅蜜多経)の中に「
中国禅宗は達磨が請来した「四巻楞伽経」を依経としていたが、慧能以後通称金剛般若経、正しくは「金剛般若波羅蜜多経」を依経とし、座禅第一主義から智慧第一主義に舵が切られた。 (般若経典 中村始 東京書籍参照)
近年欧米に禅宗がが浸透している、禅の教えは現存する佛教宗派の内で最も釈尊の教え、即ち原始佛教の面影を保持している宗派といえる、釈迦如来の十大弟子の
禅とは正式には大乗仏教の修行の根幹である六波羅蜜(注6)の第五に相当する禅定(ぜんじょう・梵語dhyāna、ジャーナ・パーリ語jhāna ジャーナ)を意味している、「禅那」すなわち瞑想と心身の安定を意味する「定」の合成語である、要するに禅とは禅定(yoga)の略語である、因みに瑜伽(yoga)は釈尊以前から現在もインドで行われている、男性行者をヨーギン (yogin)と言い女性行者をヨーギニー (yogini)と言う。 禅宗が他の教派との最大の相違は経典に対するプライオリテイー(priority)の相違で「教外別伝」即ち師から弟子へ直接に教義や言葉、人格へ伝える師資相承にある、禅宗以前の中国佛教は老荘思想を色濃く受容した「格義佛教」であったが、影響を受けながらも老子・荘子から中国独自の佛教を構築したと言えよう、重ねて強調するが禅宗六祖・慧能の言う「解脱を論ぜず、見性を論ずるのみ」であろう。
慧能が心酔した般若経典の範疇で般若心経に次いで人気の高い”金剛般若波羅蜜多経”の内に「
禅宗の源流は釈尊が菩提樹の下に於いて「
中国に於ける禅哲学の
禅宗に於ける五祖・弘忍から六祖への衣鉢移譲の話は著名であるが、福永光司(老荘思想・道教の碩学)
九世紀に吹き荒れた「会昌の廃仏」(注13)で師資相承と舞台装置を必要とする密教を初めとして佛教諸宗派は壊滅的な打撃を受けたが、禅と浄土信仰は座禅と念仏を重要視する為に儒教、道教との区分が難解の為か回復は早かった、中でも禅宗が廃仏を回避出来たのは作業も修行とする下層民をも取り込んだ南宗禅であった、閑話休題、現代の日本の於けるキャリヤ官僚なら採用するのは精緻で難解な哲学を持つ北宗禅であろう。
我が国に禅が伝えられたのは653年玄奘に学んだ法相僧道昭が元興寺に伝えたのが嚆矢とされる、また736年頃北宗禅の祖、神秀の孫弟子で東大寺大仏開眼の呪願師を務める為に来日し大安寺に寄宿していた
インドに於いては瞑想、座禅と言う行為はバラモン以前から存在した行で「
禅宗系に於ける釈迦如来であるが印形は日本に於いて禅宗以外では施無畏印・与願印が多くを占めるが、禅宗の場合は定印を結ぶことが多い。
菩提達磨により完成された禅哲学は「
禅宗には座禅や禅問答が主流で依経とする経典の存在は明確でない様であるが、如来蔵と唯識を説く
正木晃氏は密教と禅宗を双生児と言えるほどの共通点を指摘している、即ち密教は・神秘主義・象徴主義・儀礼主義を重要視するが禅宗は・神秘主義は禅定に不可欠であるが・象徴・儀礼に於いて密教程の比重を置いていないという。
1187年栄西が帰国後に臨済宗を興し鎌倉幕府の帰依を受けて発展する、1228年には道元が京都深草に興聖寺を拠点に曹洞宗を興す、1661年明国から渡来した隠元が黄檗宗を興した総称を禅宗と言う、鎌倉時代から室町時代にかけて臨済宗(後に黄檗宗を含む)・曹洞宗として定着する、但し禅の初伝は長安に於いて玄奘に師事した日本法相宗の祖である道昭(629~700年)とされる、もう一つ栄西以前の日本に於ける禅宗とも言われている達磨宗が存在した、禅を無師独悟した大日能忍が興し禅密兼帯の三宝寺(吹田市)を創建した、天台や南都宗派から迫害を受け逃避していたが弟子の
禅宗には「
梵語でdhyāna(ドラヤーナ)の漢訳即ち静慮と訳される、即ち「静寂の中の瞑想」を意味し、インドでは jhāna 及び jhān の発音を中国でch⊂nと音訳され、日本に於いて禅と呼ばれた、禅と呼ばれる語源に仏教徒に課せられる三学(戒律・常・慧)の内、常の語源がsamādhi(三昧)で禅常と訳され、これが禅宗の語源説とも言われる。
また静か・周囲に自然の神々を祭る・皇位を譲る・熟慮・熟考等の意味を持つ、古代インドより瞑想の実践文化として釈迦の時代から存在ししており座禅から始まる、禅宗とは釈尊に帰れとされる宗派で第一祖は十大弟子の大迦葉とされ嗣法即ち法統を受け継ぐ事を大義としている、「釈迦に還れ」、これは日本では不可能である、誤解を恐れずに言えば釈尊の原始仏教は衆生を相手に説いたのではなく自分の覚りを出家に説いたのである、因みに出家は日本では極めて希少で在家僧が大勢を占める。
禅の起源とされる寓話に
禅のメソッド(method)
日本で生み出された念仏宗に比べ禅は唐への留学僧が開いた輸入宗派である、禅が日本に及ぼした影響は信仰もあるが通常禅宗芸術と言われる総てにあると言えよう、正式には「禅美術」と言われる様で禅宗寺院や禅僧が日常使用した鎌倉、室町時代より江戸初期の黄檗宗まで、禅の真髄を内包した施設、設備等を言う、茶道 ・書画 ・五山文学 ・工芸 ・作庭・建築等に多大な影響を与えて、日本流にアレンジした文化として花開く事になる、中でも特に著しいのに庭園がある、「山水には得失なし、得失は人の心にあり」作庭に腐心した夢窓疎石の言葉であるが覚りに入る為の環境設定としての庭園であろう。
代表例を挙げれば絵師で連歌師でもある
もう一つ禅宗寺院の特徴として塔頭寺院の多い事が挙げられる、これは地方豪族や武将達が檀越として造営した寺である。
平安時代までは招来された典籍は概ね仏典に限られていたが、鎌倉時代初期には真言宗泉涌寺派の祖、俊芿を初め
鈴木大拙(1870年(明治3)11月11日~1966年(昭和41年)7月12日)は「日本的霊性」として情性方向、感情的方向へ深化し発現させたのが念仏系の教えで、知性方面に深化・発現させたのが禅であると結論付けているが教義的には二律背反(独、Antinomie・アンチノミー)ではなかろうか。
栄西・円爾弁円(臨済宗)も道元(曹洞宗)も唐より学んできたものであるが俊英も多く輩出した臨済宗では・無窓疎石・一休宗純、曹洞宗では明峰素哲・峨山紹碩等が居る、唐の禅の始祖は達磨(円覚大師)であるが、曹渓慧能による南宗禅系のものが大半を占め前述の如く曹洞・雲門・法眼・臨済・差仰の流れがあり、これを唐の五家と言う、因みに「
閑話休題、東大寺の大仏開眼に於いて
現在我が国には臨済宗・黄檗宗と曹洞宗とがある、初期の臨済宗は密教・念仏・を取り入れて時の権力密接に繋がっていたが、後の大燈派(応燈関)や曹洞宗は権力と関りをもたずに活動して教勢を拡張した、これ等は伽藍規模に於いて大禅刹と言われる寺院が多い。
歴史的に見ても権力と癒着した教団は必ず腐敗・堕落しており、次の改革者が現れるまで停滞か消滅している。
臨済宗 | 座禅と師資相承 ・公案禅・ 師より弟子に伝える不立文字・教外別伝によって成立する宗派、最高経典は無い。 | 栄西が初祖 |
黄檗宗 | 座禅と師資相承 ・公案禅・ 師より弟子に伝える不立文字・教外別伝によって成立する宗派、最高経典は無い。 | 隠元が初祖 |
曹洞宗 | 座禅三昧(Samādhi)・見性禅・只管打坐であり、 読経・念仏禅・密教色・加持祈祷・末法思想の否定 | 道元が初祖 |
公案禅とは修行上手本となる古仏、祖師の源句、問答、逸話等々を言い、公按とも記述も観る。
日本の禅宗系宗派は中国の禅宗五家即ち*曹洞 *臨済 *潙仰 *雲門 *法眼、を踏襲したと言えよう、日本に於いては*曹洞宗 *日本達磨宗 *臨済宗 *黄檗宗 *
所謂禅宗はひたすら座禅をする事と経典に記述された「教内の法」と「教外の法」とがあり師から弟子に伝える「教外別伝」が重要視される、これ「以心伝心」と言う、特に臨済宗・黄檗宗は座禅と師資相承 ・公案禅・ 師から真髄を伝えられる不立文字・教外別伝によって成立する宗派で最高経典は特に無い。
臨済宗を活性化させた白隠慧鶴以降は鵠林派とも呼ばれ、その厳しい公案禅は臨済宗発展の礎とした。
また教えを咀嚼して覚りに至る段階を示す教えに「十牛図」があり牧童に例えて描かれている。
重複するが禅すなわち瞑想法には二種類がある、公案禅(看話禅)すなわち臨済の禅と曹洞の黙照禅(生活禅)である、門外漢から観ての相違は曹洞宗は中国に習い壁に向かって(面壁)
通常に於いて釈迦如来像は施無畏・与願印が多いが、禅宗系に於いては瞑想の為か定印を結ぶ像が多い。
一休が 師の
臨済宗は鎌倉時代初期に明庵栄西が中国に渡り、五家七宗から黄竜宗を伝え「興禅護国論」を唱え、守旧勢力と調整を試みながら鎌倉幕府の援助を受けて京都に建仁寺を開くことに成功する、「
公案とは禅宗系、特に臨済、黄檗宗に於いて修行者に覚りに至る道標として、出題された問答(禅)を言う、元来は中国の官庁で出された文書である、著名な公案に「隻手の声」、「狗子仏性」等々がある。
また幕府が招いた蘭渓道隆・無学祖元、等渡来僧は藤原一門の帰依を受けて東福寺が開山される、閑話休題、無学祖元の無学に付いてであるが、無学とは梵語でśaikṣaと言い、最早学ぶところは無い完成者を言う、因みに有学とはaśaikṣa修行の未完成を言う、他にも、分別:無分別も同様で分別を超越した智慧を無分別と言い覚りの意味合いを持つ。
また臨済宗は渡来僧だけではなく、円爾弁円・南浦紹明ら入宋僧の活躍もあり京都・鎌倉等に足場を築く。
黄檗宗は中国の黄檗山・万福寺の隠元隆雫が徳川幕府の援助で宇治に万福寺を開いたのに始まる。 隠元隆雫は中国では臨済宗楊岐派に属し日本でも明治初期に臨済宗黄檗派から独立し臨済正宗を正式名称とする。
両宗の同じ経典からの経を聞いても、発音が違うため全く違う経に聞こえる、黄檗宗中心であるが臨済系に於いても「禅浄双修(習)」と言い念仏の唱える、ただし南無阿弥陀仏を「なむおみとうふう」と発音している所がある。
曹洞宗は「黙照禅」座禅を行をする姿を覚りとする、即ち心を無にして深い瞑想に入る、曹洞宗は心を無にして深い瞑想に入る、ただ座禅のみである、即ち自己に本来備る本性を覚る、「見性禅」と、ひたすら座禅に打込む、「只管打坐を採用し読経・念仏禅・密教色・加持祈祷(注8)・末法思想の否定である、「端座参禅を正門とせり」座禅すなわち「安楽の大法門」を説く、臨済宗と比較すれば公案禅即ち禅問答を曹洞宗は行わない事にある。
曹洞宗は永平寺を開創する道元
天童如浄は中国曹洞宗に属していたが、道元に曰く自己の宗旨を五家の曹洞宗とはせず、仏法の全て任じ、禅を名乗る事も戒めたといわれる、
道元の正法眼蔵は上記を説明する著作である、但し正法眼蔵と言うタームは道元の創作ではない、禅宗系の宗派では無上の正法すなわち肝心要を意味し、”教外別伝の心印”として使われ重要視されている。
当初道元の唱えた曹洞宗は栄西等の臨済禅とは明らかに峻別されていた、但し曹洞宗も第四祖瑩山紹瑾(1268年~1325年)は厳しさを緩めたり、衆生に受ける俗信仰を取り入れて興隆させる。
閑話休題、最澄の菩薩戒(円頓戒)は日本仏教界のみの戒律で他国の仏教界に於いては戒律とは認知されていない、日本以外では菩薩戒だけの納戒では僧侶とは認められていない、因みに上野雅文著「最澄再考ペリカン社」に依れば比叡山で得度し、仏教に対して原理主義的とも言える道元ですら中国に於いて正式な僧としての認知を受けられなかったと記述されている。
禅宗と言えば七仏通誡偈を挙げねばならない、七仏
*諸悪莫作 、(Sabba pāpassa akaranam・サッバ パーパッサ アカラナン)もろもろの悪を作すこと莫く。 *衆善奉行 、 (kusalassa upasampadā・クサラッサ ウパサンパダー)諸々の善を行い。 *自浄其意 、(Sacitta pariyodapanam・サチッタ パリヨーダパナン)自ら其の意を浄くす。 *是諸仏教、(etam buddhāna sāsanam・エータン ブッダーナ
サーサナン)是が諸々仏陀の教えなり。 (「衆善奉行」は天台宗では「諸善奉行」)
出光美術館や茶会等に於いて一休宗純による「諸悪莫作・衆善奉行」とした軸を見かける、また道元は「正法眼蔵」で「諸悪莫作」の巻を設けている。
物語を記述すると、著名な官僚で四千近い詩を残す詩人である白楽天が左遷に遭い杭州の長官として赴任してきた、白楽天は
現存する経典は求那跋陀羅訳「楞伽阿跋多羅宝経」(四巻本)、菩提流支訳「入楞伽経」(十巻本)、実又難陀訳「大乗入楞伽経」(七巻本)であるがバラモンの哲学を取り入れた如来蔵思想と言われるが難解である。
日本の黄檗宗は江戸時代初期に、明の高僧で長崎に渡来した隠元隆琦(1592~1673)を祖としている、戒律に厳粛な中国臨済宗を踏襲して権力との癒着や文化に偏重していた禅宗系に活力を注入した。
隠元は妙心寺の要請に応じて入洛する、天皇家や徳川将軍・家綱の帰依を受け正統な臨済禅を広める為に宇治の地に、中国様式を踏襲した伽藍配置で黄檗山満福寺を興す。
韓国の仏教徒は現在人口の25%程度とされる、真覚宗、元暁宗、天台宗、華厳宗、さらに妻帯を認める太古宗、等の小さな宗派が群有しているが、24寺の本山を持つ「曹渓宗」と言う儀礼的には密教の要素を持つが、華厳と混血的な禅宗に概ね統一され、日本による統治の残滓的な例外とする太古宗を除いて肉食妻帯など戒律が厳しく守護されている、閑話休題韓国に於いて華厳哲学が強い影響力を持つ理由として挙げられるのは中国華厳宗の第二祖智儼の弟子義湘が新羅出身である可能性が強い、日本の禅は六祖慧能禅師を祖としているが韓国の曹渓宗も慧能を祖としている。
禅僧が死者の授ける引導に付いては、釈尊が荼毘に於いて諸行無常を説いたとされた言う説があり「法華経・法師品」に諸々の衆生を引導し‐‐‐‐‐と記述されている、中国に於いて黄檗僧が母の遺骸に法を説いたのが嚆矢とも言われている。
諸行無常に付いては平家物語の冒頭、すなわち「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす」
禅宗寺院の庭を含むプロポーション(proportion)
曹洞宗の特徴の一つに静岡県を挙げなければならない、禅宗王国と言われる程の寺院数を誇る、即ち静岡県内に仏教寺院はは約2600ケ寺が存在するが、
注1、 四聖句 達磨大師の禅の心得とされる事項に、禅宗三派の共通項である、禅の基本は以下の項目と成る。
・教外別伝 仏法には言葉や文字に依らず、心から心へと伝える
・不立文字 覚り即ち法は文字や言説では無く師から弟子へ伝える
・直指人心 生まれながらに持つ仏性を体得、体感する
・見性成仏 見性で覚る、見性悟道にある、見性とは国語辞典に依れば「自己に本来備わっている本性を見究めること」。
注2、頂相 主に禅宗の高僧の肖像を言う、宗門の長である師が弟子に頂相画に賛、印可をつけて付与し伝法の証明とするもので画像が多いが、頂相彫刻も存在する、彫像で表した頂相彫刻もある。
宋代から起こり日本に於いては禅宗の興隆した鎌倉時代に秀像が多い、相猊と言う意味もある、即ち宗門の長を猊下と呼ばれる様に尊敬を籠めているが猊とは百獣の王、ライオンをも意味する。
注3、禅宗寺院に於ける伽藍の呼称は他の寺院とは相違がある、即ち本尊を安置する「金堂・本堂」は「仏殿」と言い大寺院に於いては「大雄宝殿と言われる、この場合大雄とは仏を意味する、また読経や法を学ぶ「講堂」に当たる堂宇を「法堂と言い、大寺院で座禅をする場所を「僧堂」若しくは「選仏堂」と言う、トイレは二か所あり上位の僧のトイレを「東司」と言い、下位の僧のトイレを「西司」と呼ばれた、住処も僧の位に依り「東序」と「西序」の分類されていた、その他・南大門―――総門 ・中門―――山門(三門)仁王門などがある、因みに三門には三解脱門の意味合いもある、三解脱門は空門・無相門・無願門の三境地(
注4、五山の内訳
五山制度はインドの「天竺五精舎」を模した制度である、因みに精舎を梵語でvihāra(ビハーラ)と言う、因みに「天竺五精舎(天竺五山)」とは、竹林精舎、祇樹給孤独園精舎(祇園精舎)、菴羅樹園精舎、大林精舎、霊鷲精舎が言われている。
室町幕府の庇護下にあった五山派は応仁の乱を境に力を失い、山林派すなわち権勢に媚びない曹洞宗や大徳寺派(大応派 後の妙心寺派)の
五山内訳
寺 挌 |
五山の上 |
① |
② |
③ |
④ |
⑤ |
京都五山 |
天竜寺 |
相国寺 |
満寿寺 |
|||
鎌倉五山 |
|
円覚寺 |
寿福寺 |
浄智寺 |
浄妙寺 |
注5、大迦葉が釈梼の事実上の後継者で禅宗では創設者として崇めている、霊鷲山に於いて釈尊の趣旨を理解即ち
注6、 六波羅蜜 梵語名pāramitā (パーラミータ)の音訳で到彼岸すなわち完成・到達を意味する、菩薩道に於ける修行方法の完全なあり方を波羅蜜と言い大乗仏教に於ける菩薩の必修条件でもある、六波羅蜜の起りは、初期の大乗経典で現存はしていないが「六波羅蜜経」が諸経典に引用されている様である。
・布施波羅蜜 (施し) 余談 布施を施す事をdānaダーナと言うが旦那の語源になる。
・持戒波羅蜜 (道徳・法律)
・忍辱波羅蜜 (耐え忍ぶ)
・精進波羅蜜(努力)
・禅定波羅蜜 (徳を行う行動)
・般若波羅蜜 (単に知恵ではなく慧に裏付けられて完成される、悟りに向けた智慧)さらに十波羅蜜もあり、六波羅蜜に方便・願・力・智が加えられている。
注7、 中国禅宗第六祖・大鑑禅師慧能の偈 「菩提本無樹 明鏡亦非台 本来無一物 何処惹塵埃」
菩提本無樹(菩提
神秀の偈に対してであろう、本来菩提には樹等という不変なものは存在しない、明鏡という心も無い、即ち本来無一物である。よって塵埃の溜りようがないから払拭の必要はないではないか。
注8、 僧侶が托鉢の行に出かける時に掛ける袋を
内容は以下の様になるが戒の範疇にはない。
注11、 見性とは禅に於ける覚りを言い人間が本来備えている本性を理解する事。
注12、 慧能(南修禅)の「頓悟禅」に対して、神秀の北修禅を、「漸悟禅」、「漸修禅」と言う、漸とは緩やかにを意味する。 南船北馬
注13、 会昌の廃仏 (三武一宗の法難)、中国に於ける宗教弾圧は四回あり、①五世紀、北魏 太武帝(423~452年)による道教保護廃仏、 ②六世紀、北周 武帝(560~578年) 道教佛教の廃止、 ③九世紀、北周 武宗(840~846年) 会昌の廃仏、 ④十世紀、 後周 世宗(954~959年)、 と続いた、因みに三武一宗とは弾圧した皇帝の名から銘々された様である、また会昌の廃仏は元号から取られた。()内は在位年数
注14、禅宗では創設者として十大弟子の上足である大迦葉を崇めている、著名な寓話では霊鷲山に於いて釈尊が説法中に華を捻った趣旨を只一人理解した、即ち
即ち「聯燈会要・釈迦牟尼仏章には「世尊在霊山会上。拈華示衆。衆皆黙然。唯迦葉破顔微笑。世尊云。吾有正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙法門、不立文字、教外別伝。付属摩訶迦葉」とある。
注15、 「解脱を論ぜず 見性を論ずるのみ」 佛教の革命とも言える。
注16、菩提達磨 (bodhidharma)とは南インドのパッラヴァ朝で国王の第三王子、とかペルシャ(波斯国)とか南天竺の出身言われるが定かではない。
注17、 中国の主な法難 ①五世紀、北魏 太武帝(423~452年)による道教を保護し廃仏、 ()内は皇帝の在位年数 ②六世紀、北周 武帝(560~578年) 道教、佛教の廃止、 ③九世紀、北周 武宗(840~846年) 会昌の廃仏として著名、 ④十世紀、後周 世宗(954~959年)。
注18、 碧巌録とは中国の佛教書で、
聯燈会要・釈迦牟尼仏章には「世尊在霊山会上。拈華示衆。衆皆黙然。唯迦葉破顔微笑。世尊云。吾有正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙法門、不立文字、教外別伝。付属摩訶迦葉」とある