「 般若心経  私の読み方」                      般若心経に戻る (古寺散策)

はじめに

 般若心経にでてくる有名な文句、「色即是空」「空即是色」は、大変深遠な意味をもった仏の教えです。それは又一口に云えば、仏教の思想や哲学の真髄を象徴している教えと言ってもいいでしょう。

 でも、あまり難しく考えると取り付く島もなくなるので、「般若心経」を平易に分かりやすく説いてくれているものを参考にしますと、それは、おおらかに、こだわり無く生きるための真実の智慧と、心に自由を取り戻すための方法を教えて呉れている言葉、だと受け取っていいと思います。

 人生を「四苦八苦」と観じて、それを脱却する智慧を二六二文字(本文別掲)にこめた「般若心経」は、今ではお経というより、幸せな生活のための指導書だと、受け取って居る人も多いわけです。その為に「般若心経」を一句、一句、分かりやすい言葉で理解できるように、解説してくれている資料も沢山出回っています。ですから、殊に「般若心経」は信仰とか、宗教的行為とは別にして、一般の人々が日常、心の平安を得ることを主な目的にして、唱えたり、勉強したりしていることは極く自然なことと思われますし、現代の複雑化した世相のなかで、心豊かに生きることが求められる時代であればあるほど、当たり前になってきた理由もよく分かると思います。しかし、そうはいっても「般若心経」は、「仏の真言」とも云うべき難解で不思議な呪文までも含むような内容をもった教えですから、簡単に納得できるようなものでないことも事実でしょう。その為に、分かりやすく解説するといっても、それは、解説するほうにも又解説されるほうにも一定の限界があるのだと云われています。ある意味で、頭で理解すると云うよりは、心で感受するというか、身体で自然に受け入れるというような会得・経験というものが必要なのだとも云われています。或る意味で個々の主体的な受け止め方による授受によって、主体的な伝達をし、一方で又それを主体的に授受する事にもなります。あくまで主体的であると言うことは、個々に感受の仕方や経験などが異なるわけですから、十人十色、百人百色の伝達・受領の方法が有ることにもなります。考えて見れば、それほど「般若心経」は、伝授のことひとつとっても難しさがあると同時に、冒頭にも述べたように深遠な仏の教えである奥が広くて深い智慧ということですから、そう簡単に会得される筈がありません。しかし、そうであるからこそ、むしろ取り組み甲斐のあることと思って真摯に取り組んでいる人も多いわけです。人は年齢と共に知識の広さのようなものではなくて、考えるという智慧の深さの方に惹かれていきますし、楽しみにもなりますから、「般若心経」のような考えるための教えが、近代ではますますもてはやされていくことでしょう。そんなわけで私としても楽しみながら自由に、所見を含めて、「般若心経・私の読み方」を書いてみましたので飽きずに読んでみてください。



仏説摩訶般若波羅蜜多心経

  観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識亦復如是 舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中 無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 無眼界乃至無意識界  無無明 亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽  無苦集滅道  無智亦無得 以無所得故  菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切 顛倒夢想 究竟涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提  故知般若波羅蜜多 是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 能除一切苦 真実不虚  故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰 羯諦羯諦波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶

           般若心経


本文  太字二六二字

①仏説摩訶般若波羅蜜多心経        仏の説く、摩訶=大きく、偉大な般若=仏の智慧で、波羅蜜多=こちらの岸「此岸」からあちらの岸「彼岸」へ渡す、つまり悟りの境地に達する、心経=仏教の要点をまとめた肝心な教え、です。

 

 仏が説く、此処ではお釈迦様の説く、大きく、偉大な智慧とも云うべき「この岸、つまり苦に満ちた迷いの世界から、あちら、つまり彼岸の悟りの世界へ、達するための肝心・要の教え」と言う意味であり、タイトルです。「摩訶」は音の写しで、「マハー」という印度サンスクリット語です。中国で、お経を翻訳するとき、当て字にしたもので、漢字そのものに意味はありません。又「般若」も「波羅蜜多」も「パンニュヤ」、「パラミッター」というサンスクリット語で、同様の音写です。以下このように、お経を中国で翻訳したとき、適切な訳語が見あたらず、このように原語を音写したものは、多々あります。しかし、本当は、訳語が見あたらないと云うのは間違いで、此処では釈迦の説く、独特の言葉にあまりに、多義・深重な意味があって、簡単に中国の訳語を用いては、その真実内容が確かに伝わらないという、深い洞察があって、音写という方法を採っているのです。「パラミッター」というサンスクリットなど、そう簡単に訳語があろう筈がないということは、誰にも想像が付く事でしょう。

 さて、①は、この経の意味を表す題名ですから、特に解題は要らないと思いますが、少しだけ簡便に述べます。

 マハーという、大きな、偉大な、という意味について、仏教には、大乗(大きな乗り物)と小乗(小さな乗り物)という二つの教えがあり、小乗は、仏教初期の頃の専門的、学問的(哲理的)な教えをいい、大乗は、後期の一般大衆をも対象にした、慈悲と救いに主眼を置いた教えです。般若心経は後期大乗の教えですから、ここにマハーという言葉は、その大乗という意味が含まれていることが知られます。

 又パンニュヤ、つまり「智慧」という言葉も、仏の智慧と、我々人間の浅知恵とは、比較になりませんが、深い悟りという仏の知慧を、釈迦は体得したのであって、ここでは、その仏の知慧を指していると思われます。パラミッターという言葉は、迷いの衆生を此岸から、彼岸へ渡さずにはおかないいう「菩薩」の誓願の言葉です。菩薩というのは、仏様になるために一生懸命に修行を積んでいる人のことです。「他の人を渡し渡して、己が身は遂に渡らぬ渡し守かな」という歌があるように、自利を捨てて、他利を全うする慈悲修行の人です。三界は火宅と言われるように、此の岸の世は、自我や欲望の業の火が渦巻く世間であって、その為に悩みや迷いの尽きない大衆を、仏の智慧でもって、安心立命の彼の岸の世界へ導き渡すという、「菩薩行の人の言葉」なのです。お釈迦様は、後にも書きますが、菩薩の修行をしていた時は、「観自在菩薩」という名前でよばれて表されています。

苦行の後、「ぶっちけん仏智見」という仏の知慧を開いたので、「釈迦如来」という仏になりました。

 従って、この般若心経は、釈迦が艱難辛苦の末に、開悟した尊い大乗の智慧の教えであり、他利、救済を願うが故に、後に出てくる「般若・空」という、心経の中心思想が述べられるので、一番肝心な教えだといわれて、多くの人に感銘を与えてきました。

 又宗儀や葬祭においても、宗派を越えて、どんな時でもこのお経だけは読誦されますのは、その功徳が深いのだと云われる所以があるのでしょう。

 

②観自在菩薩

 観世音菩薩、つまり観音様のこと、此処では、菩薩時代の釈迦のこと。

 仏には、色々な仏があるのですが、その性格上大きく分けて、三つの姿に大別されています。

 一つは「法身仏=ほっしんぶつ」、二つは、「報身仏=ほうしんぶつ」、三つには「応身仏=おうしんぶつ」です。

 「法身仏」は、その形態が、太陽や地球のように大きな法則によって運行されている大自然の宇宙の法を象徴する「法の身姿(みすがた)」を意味します。奈良の東大寺の大仏さんは「毘盧遮那仏=びるしゃなぶつ」といわれますが、何故あんなに大きいのかの意味は、宇宙というとてつもない大きな法の姿を現しているわけです。ですから正しく法身仏です。

 「報身仏」は、長い間の菩薩行が報われて報身仏になるわけです。例えば、阿弥陀如来(あみだにょらい)という仏は、報身仏の代表仏みたいなものです。よく知られるように法蔵という菩薩であつた頃に、衆生が一回でも”南無阿弥陀仏”と称名念仏すれば、必ず浄土へ往生させずにはおかないと大誓願して、気の遠くなるほど永い間、修行をしました。そして、若し、念称した衆生が、往生を遂げられなかったら、私は仏にならなくてもいいと誓いました。そして、遂にその確信を得たので阿弥陀如来になったといわれる仏です。浄土教の無量壽経(むりょうじゆきょう)という、お経にこのことが書かれて有名です。

 「応身仏」は先の二人の仏と性格が異なり、お釈迦さまや、イエス・キリストのように、実在であった人が、苦行や苦難のすえに仏や神の子になったように、人間に分かりやすい身姿を現している仏のことです。お釈迦さんは、観自在菩薩になぞらえられた修行時代に悟って、遂に応身仏になり、その悟りの内容を弟子に明かしたものが、「般若心経」でもあるのは、先に述べたとおりです。

 観自在とは、自由自在にものを見るということです。観自在菩薩は、その自在のまなこで、人間は誰でも根本的には、食欲、性欲、睡眠欲、財欲、名誉欲という五欲のほかに、俺が、俺が、私こそ、私こそ、という「自我」の欲望が、心の奥底にあって、どうしても自己中心の色メガネを通して、ものを見又判断し行動する、更には、その事(色メガネ)にも気が付かないで普段に生活しているという、深い業をもっていることを見破ったのです。そしてその業によって、結局は生死(しょうじ)の苦しみに陥っている衆生の実態を明らかにしたのです。そしてどのようにすればそのような業・欲から離れて、自由自在・安住の境地を得られるかを説いたわけです。それがこれ以降の般若心経の核心になっていきます。

 

③行深般若波羅蜜多時 

 仏の深い智慧でもって波羅蜜多を行じ、考え、実践する時。     

 

  これまでに般若も波羅蜜多も出てきました。そして今度は、「深・般若波羅蜜多を行ずる時」です。

観自在菩薩が、深い仏の智慧でもって、此の岸から彼の岸へ渡すための行いを実践するその時ということです。ここの文句では「行」と「時」がキーワードになっているようです。「行」は実践することです。仏教では、「実践の行」ということをとても大切に考えています。学問は”知る”ということが大切になりますが、仏教では”行う”ということがむしろそれを上回ります。知っていても、行わなければ意味をなしませんからその事を強調するわけです。

 昔、中国にちょうか鳥窠禅師(別称、道林禅師)という偉い坊さんが居ました。この禅師はいつも木の上で、坐禅を組んで修行をしている高僧でした。木の上の鳥の巣に座っているように見えたので鳥窠禅師というわけです。ところで、その時代、漢詩文に長けた有名な白楽天が、師を尋ねて木の上の禅師に質問をしました。師よ、貴方は大変高貴な仏者とお聞きしましたが、ひとつ、私に仏法の一番肝心なところをお教え下さい、と。すると師は「諸悪莫作、諸善奉行、自浄其意、是諸仏教」(諸々の悪行を作すことなかれ、諸々の善行を作しなさい、自ら其の心を浄らかにしなさい、是れが諸々の仏の教えです)と云いました。すると白楽天は、がっかりして云いました。なんだ、そんなことですか。そんなことなら三つの子供でも知っています、と。すると師は云いました。三つの子供でも知っている事を、七十歳の大人が実践できない、と。この句は、実は七仏通戒偈といい、お釈迦さまを含め、それ以前の六人の諸仏に共通の仏教の本旨を述べられたもので「増一阿含経」という初期教典にあるものをとって、寓話にしたものです。今の時代、偉い政治家や、先生と言われる人にでも云ってあげたいような話ではないでしょうか。実践の行ということが如何に大事なことであるか、を譬喩しています。

 次に「時」のことです。一般にもよく言われることですが「今」を大切にしなさい、という、その貴重な所在のことです。思い立ったら、今、直ちに実行しなさい、という今の時です。偶々こうして、般若心経を覚えることとか、勉強することとかが大事だと、思いついたら、後回しにしないで、直ちに行うようにしなさい、ということでしょう。本当は、前々からそう思っていたのになあ、という人間の悔いや、取り返しのつかない時のあることを戒めています。

「今という、今なる時は無かりけり、まの時くれば、いの時は去る」という歌もありますね。

 富山県の永平寺を開いた「道元禅師」という高僧は、「今・此処」という、大変深い禅の教えを説いています。西洋思想に、「実存哲学」という学問がありますね。その中には「今において存在するもの、のほかには何もない」ということが書いてあるらしいのです。正岡子規の句にも、「一年は正月に一生は今に在り」という当に実存の思想を詠ったものがあります。人間にとって、時とは物理的な時間ではなくて、質的なもの、充実している時は、短くて、あっという間に過ぎ、そうでなければ、なかなか時間が過ぎないということ、「時間が熟する」という意味の「熟時」と言う言葉もあるようです。今が凡てであり、今をこそ大事にしなければ、と思うわけです。凡庸な私自身、高齢者手帳を貰う年令を既に過ぎて、今迄に比べれば残りは少ない人生の時を思うと、身につまされることがありますけれど、でもそんなことをほんの少しでも実感し、理解もできるようになるわけですから、あながち、年令を重ねるということも捨てたものではない、と思って一人慰めています。

 ところで、本文に帰って、「観自在菩薩が深い仏の智慧をもって、波羅蜜多を行ずる、其の貴重な今」という解釈をもう一度確認しておいたほうがよさそうですね。

 

④照見五蘊皆空 ( 度一切苦厄) 

 人や物、形あるもの、森羅万象の凡ての実体は、真実には「空」なることである事を照見して(喝破して、見破って、見極めて)

( 一切衆生の苦しみ厄災を救い給われた)

 

  早くも核心の「空」と言うことが出てきました。「般若・空」という仏の智慧の中味、内容はあまりにも有名ですが、同時にこれほど又難解な教えはないと云われるものです。般若経(後に説明しますが大般若経や般若心経)は、別に「般若・空の論」、略して「空論」を象徴的な表現で述べる経であると云われます。

 三蔵法師という中国の「西遊記」に出てくる「孫悟空」が助けた高僧がいますね。この三蔵法師は実在した人物、「三蔵玄奘」という高僧がモデルですね。玄奘は偉大な僧で、シルクロードを経て天竺(印度)のナーランダという所へ仏教を学びに行きました。そして、焦熱の大砂漠を艱難辛苦の歩行・行脚をし、仏教経典を沢山持ち帰りました。そして「般若経典」を自身で翻訳した学僧でもあります。「仏説摩訶般若波羅蜜多心経」の次に、「唐玄奘三蔵訳」いう文字がはいっている「般若心経」が、今の日本では普通に読まれていますね。唐というのは玄奘が中国・唐の時代の人だからです。奈良の薬師寺に、「玄奘三蔵院」が近年完成しました。その中の壁画として、平山郁夫画伯が「玄奘三蔵の仏教請来の図」を物語風に何枚にも分けて描いた大作が、今話題になっています。完成までに何年かかったのでしょうか、当時の薬師寺の管長で有名な、高田好胤という和尚が百万人写経という、お布施の行を企図して浄財調達したそうですが、完成した時は既に高齢で亡くなられています。高田和尚と平山画伯の、執念かけた「玄奘顕彰」を為す事績ということでしょう。私は先年テレビで放映された特集を見ました。

 横道にそれましたが、三蔵とは「経蔵」「律蔵」「論蔵」の三つをいいます。経は、お経そのもの、律は戒律という戒めや掟のこと、論は経論のことでお経の論述集です。この三種が仏教経典で「大蔵経」なるものに編纂されています。三蔵法師というのは、この三種の経典に精通した人を意味します。だから玄奘もその一人です。「般若心経」は元々六百巻もある「大般若経」の真髄を抜粋したと言われるお経であり、又「般若・空論」は、その「大般若経」にでる「空」の思想を、論述した圧巻集です。奈良時代に日本には、三論宗という宗派がありました。南都六宗のひとつです。この宗派は今はありませんが「空」の思想に関する三論である、「中論」「百論」「十二門論」という経論を宗旨とする学問宗で、難解な「空」思想を精緻に極める宗派でした。ですから「空」思想や空論は、その歴史と背景を見るだけでも、大変分厚い気の遠くなるような深い内容をもっている教えであることが分かることと思います。その事を理解して貰うために、遠回りしてしまいました。

 「般若心経」は、たった二百六十二文字の中でその深淵な「空」思想のことを、説いていると云われるのですから、一般に理解でき難いのは当たり前でしょう。「直指人心」という禅の言葉があります。前説明を省略して直接、重厚な核心を衝く、という意味のことですが、正しく般若心経の冒頭で、早くも「空の思想」を述べています。

 この辺から、煩雑で少し嫌になって来ます。私自身もよく分からない事を説明するのですから、眠くなってきますが我慢してください。

 「五蘊」というのは、「色」「受」「想」「行」「識」の五つの集まりです。「色」が「物や人の体」、「受、想、行、識」が「人の心」のことを表します。「蘊」は、「集積」の意味ですがまた「森羅万象の凡て」と言う意味も含んでいます。「色」は、「物と物の現象」という意味もあり、身体は、心に比べれば物理的なものですから「もの」です。「受、想、行、識」は、心=精神の作用だと、ここでは理解しておきます。後に受、想、行、識については説明します。

 さて其の「五蘊」が凡て(皆)「空」であると照見した、というのです。一体どういうことかな、何のことかなと思ってしまいます。

 この「色という物や体」は、一説に「地、水、火(熱)、風(大気)」という四つの元素的物質からできているといわれます。そしてこの物質と、心=精神作用(受想行識)が、色々の因縁で寄り集まって五蘊として形成され一つになっているのが我々人間です。そういえば、地は肉や骨、水は血液や水分、火は体熱、風は呼吸する大気、つまり体の組成を象徴しているようですね。そして空は心の組成を意味しますが、心は物のように、よく見えませんから人間の不思議な働きとしての空というのでしょう。そしてよくお坊さんが、「色心不二」と言いますが、心と体が別々にあれば人間ではなくなります。心と体が一つに融けあって集まっているので人間です。だから、「五蘊」です。そして人間もこの世の因縁が尽きて、寿命が終わると、五蘊は、バラバラになって、自然の(先ほどの人間の、ではなくて)不思議な働きとでもいうべき「空」に帰るというのです。此の自然の働きとしての「空」が、般若心経にいう空なのですが、この空は、現象としては見えない働きや、作用、自然科学的に云うとエネルギーのようなもの、例えば、重力としての引力などもそうですし、磁石の磁気力みたいなもの、もっと大きくいうと宇宙大生命の働きです。人間世界的に見れば、精神の活力源、宗教的霊魂の力などの抽象的な働きといわれるようです。勿論、仏教の真髄である「空」の定義は、そんな簡単なものではないでしょう。大前提には、東洋的な「無」の思想をも含むし、「虚空」のような意味もあるようです。但し「虚無」的なものではないことは確かです。

  そして此処まで、結論としてまとめて云うと「五蘊は仮の姿であって、帰すべき本来の姿は空であると、照見した」と言うわけです。

 横道へそれますが、例えば宇和島市の龍華山・等覚寺や金剛山・大隆寺の、伊達家墓所などへ行きますと、立派な五輪石塔が建ててありますね。あの五つの石は、下から上へ、地、水、火、風、空の順に組建ててあります。「五蘊」を象徴しているといいます。人間この世の因縁が尽きて、元の大自然の組成に帰るのですが、一番上の石である人間の不思議な働きの空(心)迄の「五蘊」の石塔を、下から上へ見上げていく時、自然の働きの不思議な天の「空」へと、昇り帰り行くような、私にはまさしく「五蘊皆空」のそんな姿に見える気がするのですが、如何ですか。俗にいうなら、人間、形在る体も、形無き心も、凡ては平等に、何時か因縁の果てに元の自然に帰るものと思えば、何も迷うこともなく、恐れることもなく、大安心を得るということでしょうか。なかなかそうはいきませんが。

 

⑤度一切苦厄 

 凡ての苦しみや災難のある此の岸から安楽の彼の岸へ渡すことです。

 

 此処では④の前文を受けて、つまり、深い仏の智慧で波羅蜜多を行じる時に、「五蘊」を「空」とありのままに照見する故に、凡ての衆生の苦しみや厄難の世界から安楽の境地にさし渡す、ということでしょう。

 此処でのキーワードは「度」ということです。度というのは、別に「渡す」という意味があるそうです。自動的には、渡る、ということですね。先述した、渡し守の歌にもあったように、衆生済度という言葉があります。済は救済の済ですから、救いへ渡すということのようです。そしてその衆生を渡す、渡し守の舟を、大乗で説明した「大きな乗り物」と言うわけです。勿論ここでは菩薩が船頭です。いずれも菩薩乗の「慈悲」を象徴する言葉として、深い仏教の言葉になっているようです。「度脱」という熟語もありますが、同じ意味でしょう。

 

⑥舎利子十大弟子の一人の名に呼びかけて、

 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色

  色は空に

異ならず、空は色に異ならず、色 は即ち空、空は即ち色

 

  舎利子は釈迦の十人の弟子でシャーリープトラという人の名前です。舎利子は当て字です。別名、舎利弗(しゃりほつ)ともいいます。

 釈迦には多くの弟子がいて、中でも秀れて、それぞれに持ち味をもった十人の弟子が有名です。

一番が智慧第一といわれた「舎利子=しゃーりーし」

二番に神通力第一と言われる「目犍蓮=もっけんれん」

三番に乞食行(正しくは頭陀行、衣食住の欲を離れること)第一という「摩訶迦葉=まかかしょう」

四番は天眼(千里眼)第一の「阿那律=あなりつ」

五番が解空(「空」を悟ること)第一の「須菩提=しゅぼだい」

六番に説法第一の「富楼那=ふるな」

七番は弁舌第一の「迦旃延=かせんねん」

八番は戒律を誰よりも守る、持律第一の「優婆離=うばり」

九番は修行第一の「羅?羅=らごら」この人は釈迦の息子さんです。

十番は釈迦の説法を一番よく聴いた多聞第一の「阿難陀=あーなんだ」です。

 棟方志功という、ド近眼の版画家がいますね。その中の有名な作品に「二菩薩と釈迦十大弟子」があります。迫力のある白、黒のコントラストの面白い顔の版画が、何とも言えません。二菩薩は文殊菩薩と普賢菩薩で女人風に彫られていて、愛くるしい独特の風情があります。彼は多くの仏教的作品を残していますが「煩悩多き凡夫・衆生と慈悲」がテーマだったようですね。だから如来とか、仏陀とかではなくて、煩悩を背負って懸命に修行に励み、共に同じ愚鈍の衆生を救わんとする「菩薩」こそモチーフだったようです。「般若心経」は勿論彼の作品に大きな影響を及ぼしていた教典と云われます。

 さて舎利子に呼びかけるかたちで、いよいよ、この般若心経の中心思想の「空」が、説かれます。                「色」即ち此処では、物(又は物質、人の体もそうです)は、本質的には因縁により生じている仮のものだから、「実体の無いもの」即ち「空」と、異ならない。又逆に「空」という実体の無い物が、因と縁に依って、仮に物として現象している「色」に異ならない、と言うのです。そして、その後の二行は「即」で結ばれて、「色」があるが故の「空」であり「空」あるが故の「色」であることをも強調しています。

 因と縁については、仏教の重要な概念ですが、別に出てきますので後述します。   

 

⑦受想行識亦復如是 受、想、行、識という心の組成もまた、現象の「色」だが、真実は「空」なのである。

 

  先述の④で、「色=体」と「受想行識=心の作用」は「五蘊」であり、是を皆「空」と照見したとありました。ですから、色、受、想、行、識が皆「空」であり、更に⑥の文句で、色は空に異ならないし、色即空と言い、更にその逆も亦、同じだと云いました。従って此処⑦の文句で云うように、「心」についても、現象としての色であり、真実は空である事を確認しているわけです。「心」は実体が無くて、むしろ「空」だと云われる方が、「色」であるよ、と云われるよりよく分かるような気がしますね。

 仏教の禅宗の初祖に達磨さんがいます。その弟子に「慧可=えか」という優れた禅僧がいました。若くして達磨の門に入りたいと思い、中国は嵩山の、雪降り続く山奥で、何年間も坐禅している達磨に、弟子として入門を請いましたが、相手にしてもらえません。遂に持っていた小刀で、自分の肘を切り落として達磨に差し出しました。血に染まった雪を見て、達磨はただならぬ慧可の決意の程を察し、入門を許可しました。その慧可が、厳しく坐禅の行をしましたが、一向に心の平安が得られません。遂に思いあまって、達磨に聴きます。「どうしたら私の心の平安は得られるのでしょうか」と。すると達磨は「その平安でない心を、此処に持ってきなさい」そうしたら「私がその心を平安にしてやろう」と言います。心を此処に持ってこい、と言われた慧可は、長い間苦悶します。そして、遂に「心はそのようなもの、ではありません」と答えます。即座に達磨が云います。「汝、心の平安を得たり」と。慧可は、咄嗟に会得しました。

 そして、後には禅宗の二祖として知られる高僧になります。

 自分が、平安でないと思い悩む、その心は、その時点では「色=仮の姿の現象」であり、何も確実なものではない、つまり、自分一人で思いこんでいる悩みへの執着であり、此処へその悩みの心を持ってこい、と言われて初めて、その心の実体は「空」なのだ、と悟らされたというのでしょう。

 心も体も因や縁によって、「色」とも「空」ともなるような真実性を説いていると思われます。俗に、心の持ち方や、ものは考えようで、幸にも、不幸にもなるということでしょうか。

 そして、拙速に結論すれば、そのような心の持ち方は、般若の智慧の実践である、色不異空、空不異色、色即是空、空即是色、受想行識亦復如是にあるのだと、いうのでしょう。 ところで、心の働きの組成である「受想行識」について、説明します。

 「受」は、五つの感覚器官としての眼、耳、鼻、舌、身、の感受作用を云います。表象作用ともいいます。例えば花を見て、その形や色を心に写す作用です。「想」は、思考作用であり、花を見て、奇麗と思うのはその例です。「行」は意志作用と言われます。そして「識」は判断・認識等の意識や知識、心の総合作用を云うようです。そして、⑦の文面にある、「亦復如是」の「またまたかくのごとし」ですが、これは⑥の文面を受けてのことですから、受不異空、空不異受、受即是空、空即是受、であり、又、「想」「行」「識」についても、受と同様に字句が略されているわけです。感覚器官の感受も、思考の想も、意志の行も、認識、意識の識も凡ては因と縁による、本質的には一時の仮象であり、変化するものであります。故にそれらに固執・固陋すること無きよう、総括して一切は空と卓見する般若の智慧を説いているわけです。

 尚、仏教に於ける「不異」と「即是」の論理は、後程出て来ますけれど、一度万象を否定し、一切を空であると、即是の総括・肯定をすることにより、究極の真理に到着させる教えとなることが暗示されています。   

 

⑧舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減

 舎利子よ、この諸法は空相にして、生とか死とかいうことも無く、清も濁も無く、増減も無い。

 

  再び舎利子に呼びかけるかたちで、是まで説いた五蘊皆空を含めた、諸法(大自然の法や存在)について説きます。是の法や存在は、実体は「空」の形相なのであるというのです。此処からは、是までとは異なり、大局的な見地で、「空論」の核心が述べられていきます。そしてその最初の説明が、生じるとか、滅するとか、別に云うと、生もなく死も無く、又垢もなく、浄もなく、別に云うと、清も無く、濁も無く、又増えるとか、減るとか云うようなことも無い、と説くのです。元々空の世界には、生・滅とか垢・浄とか増・減という物質界・精神界の現象的なものは、無関係なのであると云うのでしょう。人間の心でつくるそのような現象観念は、それこそ諸法色相であり、仏の智慧の観方で正しく認識するならば、それは空相なのである、ということと思われます。

 少し難しくなりますが、不明の部分は飛ばして読んで貰って結構です。勝手に前後しながら解釈してくださるのも、一方法です。

 禅の典籍に、青原惟信(せいげんいしん)という中国は宋代の人で、臨済宗の禅師が述べた、有名な言葉があります。 

 青原惟信は言った。

 「自分が三十年前、修行は未熟であった頃に、山を見るにこれは山、水を見るにこれは水であった。後に少し修行が進んだところ、山を見るに、これは山にあらず、水を見るに、これは水にあらずという境地に至った。ところがこの頃は依然として山を見るに、ただこれは山、水を見るにこれはただ水だと」。

 意訳しますと、

①自分が未だ禅僧として日が浅い頃は、山河を見て、山は山であり、河の水は河の水であった。

②しかし少し修行に励み、得るところある頃には、自分の見る山や水は、眼に写った現象として、自己の勝手な、主観混じりの印影・姿形であり、客観的な山や水という真実の姿でないことに気が付いた。(これは、見る人により、或いは見る時と場合の気分により、例えば同じ山を見ても、ある人は美しいと思い、別の人はそうでもないと思う。又ある人はその山がとても貴高いと思ったり、別の人はそうでもないと思ったりして、人様々に主観的に見る。そこに存在する真実・真相の山とは何の関係もないことです。) 

③しかし、そのような分別も離れて、真の形相としてただ山はこれ山、水は只これ水と見ることができるようになった。 ①ここでは、見方において、諸法色相も諸法空相もありません。②は、諸法は心で見てつくる色相と見ていたことに気が付いたということでしょう。③はありのままに山はただ山、水はただ水と、大自然の空相の経験(自分が山河水と一体になって見る=諸法空相)を云っていることと思われます。空の世界は、見る己と見られる山河水の対立する事が無い見方で成立する存在(諸法)なのであり、生・滅とか垢・浄とか増・減のように対立し、人間が分別して見る世界存在のことではないと思われます。そこには微塵も自己の主観や自我意識はありません。その時初めて、真実・根本のものの姿が見えるというのでしょうか。無分別の実相を見るとも云うようです。そしてそれが「空」以外の何ものでもない、と直覚するというらしいのです。平たく云うと、奇麗な鏡で自然にありのままに写してみる、と言うことでしょうか。この鏡とは、勿論心の鏡です。写る姿・形を、或いは写る心を、主観や自我で曲げて写すことはありません。奇麗なものは奇麗なままに、汚れたものは汚れたままに写して、「えこひいき」はしません。そんな心の空観を云っているのだと思います。

 山をみても、水を見ても、花をみても、心の動きを見ても、その存在の根本的な背景にある「空」の心から、ものを見るべきだというように云っていると思います。そしてそれが、ありのまま・平等・真実なる、仏の智慧で云う「空観」であり、この観法とは、人間の心を限りなく純化させることであり、山や河の水と一体となって見るとき、その真実なる自然の美しさや、清らかさが、見極められると言うのです。この心の純化こそ、まさしく浄化(無執着)、であり、自由自在であり、迷妄や迷執、苦悩の三毒と言われる貪り、瞋り、愚か(貪・瞋・痴といいます)など主観的なものや、自我などは、微塵も関係のないもの、と云うわけです。そして、このような観法の実践方法が、今までにも出てきた、般若の波羅蜜多行というわけです。この行については、後にも出ますのでそこで述べます。

 此処で更に「空」について大切なことを、二つ述べておきたいと思います。「空」は、総体的には、因や縁によって仮に存在するものであり、実体のない虚空・空無の有り様を云うわけですね。一つはその事です。元々因や縁とは、直接原因である因と、縁、つまり間接原因とか条件のことですね。原因は例えば植物の種子のようなもの、芽が出て、花が咲いて、実がなる過程を見れば分かるように、種子はそれが必然の原因です。縁とは、此処では日光や雨や空気のような間接的、条件的な成長原因です。雨が降らねば折角芽を出した苗が枯れたり、日光が不足すれば花が付かなかったり、花が付いても、そこに鳥や蝶が来なければ受粉できず、実が付けられなかったり、強い風が吹けば、結実しないうちに落ちたりしてしまいます。仏教では、根本的には因縁因果が説かれますね。まさに、因と縁で、ものの存在が完成されると云うことが洞察されます。そのように、存在とは、偶々の因と縁に依って成り立つ存在であり、あらゆるものは仮の姿、因縁の結合であり、本質的なそれ自体固有の実体はない、と言われる所以です。釈迦の教えに「法を見るものは縁を見る。縁をみるものは法を見る」と言う言葉があります。因縁因果に係わる重要な思想です。法を見るとは、此処では「空を見る」と言ってもいいのだと思っていますが、凡ては「縁起」思想にかかわるもの、縁に依って起こるものである故に、空に深い関係づけをするのです。その事は後ほど、「十二支縁起」としても出て来ますので、そこで述べてみたいと思います。

 もう一つは、繰り返しになりますが、そのような本質的実体のない日常の我々の肉体やもの、或いは、心の活動・現象が、即ち空、と言ったところで、何もそれが、夢・幻、虚無的なものに落ちて、全く意味のないものとして理解することとは異なるということです。ものの本質は空であっても、その空なるものは、我々の経験に働きかけてくるもの、その力を持っているもの、と言うことです。それが為に、空も亦、色(精神活動としての力や現象)とも云われるのでしょう。つまり、此処で諸法が空相であるというのは、「かたちあるもの」と「かたちなきもの」の一見、相矛盾する二つを総合・統一し、更にそこから超越して、とらわれのない自由自在なものの見方や、経験ができる世界のあることを教えているのだと思います。「空」は、人間の考えや、言葉で、定義できるようなもので無いという意味で、不思議とか不可思議とも云われます。このことは、知識や思考をこえて、つまり純一・無雑な実践・経験(般若波羅蜜多行)に基づいて体得・領解するものでもあるのかと思えます。 以上です。

 次ぎに、「不生、不滅、不垢、不浄、不増、不減」というのは、もともとは、先にも少し触れましたが、「般若空論」の一つである「中論」からの出自だと言われています。その中論の文句を紹介します。

 「不生亦不滅、不常亦不断、不一亦不異、不去亦不来は、能くこの因縁を説いて、善く諸々の戯論(けろん=無意味な論)を滅す。我れ稽首(首を地につけて)して仏に礼す。諸説中の第一なりと、、、、、」です。

 生、滅、断、常、一、異、去、来という「八つの主観的な見方」に対して、それを論理としても否定(不=否定して)するいうことを述べた空論の一部です。「八不」と言われています。この「八つの相対対立主観」は因縁による、若しくは縁起に依るものであり、縁起は、先にも述べたように相依相対の相関関係を意味しますから「空」として、八種の考え方の否定です。最初の生・滅はものが生じ滅することで、縁起による変化の意味ですね。別に云えば無常といってもいいでしょう。人間の一生を見ても、縁あって生まれたものは必ず死なねばならない。死とは滅の事です。縁あって形なされたものは、何時か必ず壊れるということは経験上も分かることです。生じたものが、そのまま滅しなければどうなるか。それはこの世にものがあふれて、常住するという、あり得ない様相になる。逆に、滅したものがそのまま生じないということになれば、どうなるか。それこそ凡てのものが断滅の世のなかになってしまい、それもあり得ない様相である。生じたままの状態も、滅したままの状態も、その存在を否定し、亦ものは必ず常住の世界にあると云う見方=常見も、ものの凡ては断滅の世界にあるという見方=断見も否定されるのです。それが不生、不滅、であり亦不常、不断といわれるようです。

 また「一・異」についても、凡てのものが孤立して、独存していると見れば、実はそうではない。人は縁により生じて、男もいれば女もある、健康な人もいれば、病人もいる、個性もあって皆色々です。みんなに差別があって、「一」ではくくれません、「異」るのです。でもそんな差別、色々の違いの面を見るといえども、その差別を越えて見れば、同一性の人間に変わりはないという「一」でもあります。人間を、どちらで定見することもできません。それが不一不異です。

 「去・来」についても時間的な面から無常なことを表しています。凡てのものは往来(時間で推移)するということ。去と言うことだけで、或いは来ということだけで、時間を捉えれば時間の推移は定義できないことになりますね。一方的な見方だけでは、真理は現れないという見方で「不去不来」です。

 中論の八不は、我々の日常的な考え方、見方(相対対立的主観)を凡て絶対否定するところに、真の存在があることを教えているようです。日常、人間のものの見方は、有るとか無いとか、大きいとか小さいとか、上とか下とか、右だ左だとか、奇麗だとか汚いとか、善だ、悪だとか、相対・対立的にものを分けて見て、判断し対処しています。即ち分別(対立的に分けて見て)して初めて分かったと了解して対処するのです。これが、人間主観の真相だというわけです。仏教ではそんな人間の分別の定見が、ありのままに見ることのできない間違いの元(それが結局は迷いや、悩みのもととなってくる)として否定されます。八不はその象徴的否定論です。これが般若心経の「是の諸法の空相は、不生、不滅、不垢、不浄、不増不減なり」という、此処では六不としての典拠だというのです。

 このあともまだまだ「空」に関して、述べられていきますが、空の思想や教えは、本当に奥が広くて、深いものだとつくづく思わずにはいられませんね。

 

⑨是故空中、無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 無眼界乃至無意識界

  是の故に空の中には、色も無く、受想行識も無く、六つの感覚器官(六根)も無く、六根の感覚対象である六境も無く、亦其の六根と六境からの認識や判断をする識界も無い。

 

 空論が続きます。これまでと又趣を変えて、「空」の説明が「無」という否定の論理で説かれる段です。是まで述べられたことを再度まとめますと、⑦では色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。又、受不異空、空不異受、受即是空、空即是受。同様に、想不異空、空不異想、想即是空、空即是想。以下、行、も識も同様に述べられて、つまり五蘊が空と異ならず、空が即五蘊とされました。又⑧では、又諸々の存在(諸法)は空相だと

説かれました。 

 この二つの説示をもとに今度は、空の中には、色も無く、受想行識も無くと言います。つまり五蘊も無いのだと、云います。是はどういう事でしょうか。「五蘊」を「空ずる」という意味では、同様の事を述べているとも見られます。と同時に、此処では「五蘊」という人間の仮象の姿と、「空」という二つを、存在的に対立させ比較して、それは同じものだよ、(或いは、いや同じものではないよ)という分別主観を問題にしていて、それを、いや、そんなことではないよ、と云っているらしいのです。⑧では、諸々の存在の見方を変えなさい、と言うことでした。生・滅、垢・浄、増・減というように、対立的に存在を比較分別するような見方を「不」であるとしました。つまり空という観法は、そのような二元対立をさせること自体が、誤謬で迷いの元であると云うようです。平たく云うと、五蘊とか諸法は、空に対しての観念ではなくて、不対立の円融した中で見るものと此処では述べているようです。だから、それを空の中には、そのようなものは何も「無」いよと、云い表しているというのです。「無」という表現は、又別に大変難解な意味があり、よく分かりませんが、大意はそのようなものだと思われます。

 此処までが⑦と⑧の無受想行識迄のまとめです。

 次は、是の故に空の中には、六根も無く、その対象の六境も無く、その六根、六境の統括・総意としての意識界も無い、と言います。此処で、仏教に於ける心の問題を取り上げた「唯識」の思想に触れねばなりません。唯識は、別に「唯心論」とも云われるように、心を主体に世界の存在を考える思想です。一般的な学問では「心理学」の範疇です。

 心の活動の入り口は、大概に云えば、先ず六根の感覚器官、即ち、眼、耳、鼻、舌、身、意です。その感覚の対象、又は、対境は、眼は、外界のもの、形や色です。耳は、声です。鼻は香り、舌は味、身は触覚で寒暑などを含みます。意は少し性格が異なりますが、五つの感覚を統括する意識で、ほかにも色々ありますが、此処では法(認識)をその対境としています。従って六境と言いますが、此の六根が六境を捉えることにより、神経刺激されて、意識となります。その意識に依り、心の活動が展開されます。この意識は、六識と言いますが、それが眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識です。そして、この六根と六境を十二処といい、十二処と六識を併せて、十八界といいます。この十八界が心の世界の活動基盤です。十二処の活動を停止した睡眠時間の夢の意識活動もありますから、心の世界はそんな単純なものではありませんが、ともあれ、それが心の活動の縁起になると云われています。

 そして、その「十八界」という心の活動存在(世界)は、「空」と無縁なのであり、空の中には無いと、云っているようです。是は何と言うことでしょうか。

 一口に平たく言うと、「無心」とか、「無我」ということが、「空」であると云うのだと思われます。

 無心な子供を見て、仏様のようだ、といいますね。大谷句仏という俳人の句に、「口あいて落花眺むる子は仏」というのがあります。口開けて、散る桜の花を眺める無心な子供の姿は、本当に仏様でしょう。此の子は、見ている意識もありませんね、只美しく舞う桜の花と一体になって、自分を忘れているのです。だから口を開けているのです。空の世界です。 良寛和尚さんは、子供が好きで、「童らが、ののさまという梅の花」という句を作っています。幼児の心は、無心で無我、汚れなく、素直なために、梅の花が、大自然の空なる真実の姿だと直感して、「のの様」と云うのでしょう。

 ある意味で「空」は、この無心・無我のことを捉えている、と云っていいのだと想われます。だからといって無心な赤ちゃんや、子供が「空」を悟っていると云うことではありませんね。いやが上にも、心の実相を識って、その心を、無心に(実践)することが、仏の「空」の教えであることと思われます。色々な人生を経験し、考え悩み、苦楽のことも知り、その上で、初めて素直な「空」の心に、ということが、如何に難しいことか。年老いて、頑固になり、素直になれなくなってから、いよいよその事を、僕もしみじみ思う此頃なのです。

 

⑩無無明 亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽  無苦集滅道

(この故に空の中には)無明と言うことも無く、又無明が尽きると言うこともなく、ないし、老死も無く、又老死の尽きると言うことも無く、苦集滅道も無い。

 

 ここでは、先に触れた「縁起」のことが出て来ました。「十二支縁起」の事です。「法を見るものは縁を見る、縁を見るものは法を見る」、と云った仏法の一つとも云うべき縁起の思想です。結論から先に言うと、この般若心経では、この縁起までも、空とは無縁であると、絶対否定するのです。そして更には、後で説明しますが「四聖諦」ともいう、仏の智慧の「四つの真実義」まで否定してしまいます。 

 先ず縁起について説明します。十二支縁起です。

無明から老死に至るまでの人間生存の実相は、「十二縁起」又は、「十二因縁」とも云われます。それは、順次次のとおりです。

一、無明(むみょう)無知なること、人間存在の初めから今日 に及ぶ普遍的な無知、この無知こそ、生死する人間の根本 を為すもの故に、根本無明というのです。

二、行(ぎょう)過去に、無明が作り出す人間の様々の行為(善 ・悪その他、色々の行為)です。

三、識(しき)過去の行によって人間存在の第一歩が始められ る、母の胎内で受ける意識の一念です。

四、名色(みょうしき)母の胎内でもちはじめる心と体です。

五、六入(ろくにゅう)胎内で調えられる六根、先述の六種  感覚器官。ここへ外界から刺激が入ってくるので「六入」と いうのです。

六、触(そく)出胎の後、しばらく感覚・苦楽を識別することが できず、物に触れる働きのみあること。一般に云う触覚。

七、受(じゅ)苦と楽、不苦と不楽など更に好・悪など感覚・感 情を感受・印象する力です。

八、愛(あい)苦を避け、楽を追い求める、という人間の根本 的な志向、傾向です。

九、取(しゅ)自分の好むもの、欲するものに執着することで す。

十、有(う)愛と取に縁って、作られる種々の業(ごう=業欲) のことです。それが未来の結果に影響を与えます。

十一、生(しょう)有を受けて、生きていく、生存実態です。

十二、老死(ろうし)必ず老いて、死すことです。 

 以上です。此の文句はよくよく吟味下さい。

 無明に縁り、行があり、行に縁って、識があり、識に縁って、名色があり、というように、以下老死までの因縁と結果が関係づけられています。このように一、から十二までの因縁を見ていく事を「十二因縁の順観」といい、逆に、生無ければ、老死無く、有無ければ、生無く、取無ければ、有無く、愛無ければ、取無し、と原因がなければ結果もないと見て行く事を「逆観」とよんでいます。

 インドのお釈迦様は、マガタ国、シャカ族の王家の何不自由ない太子の身でありながら、人生を深く思索して、お父さんの浄飯王(じょうぼんのう)の反対を押し切り、奥さんと息子を残して、突然出家しました。三十歳の時でした。六年の間、苦行林で、艱難辛苦の断食・不眠という坐禅と瞑想の修行に入りました。その為、眼は落ちくぼみ、肌は土色となり、やせ細って皮膚と骨がひっつくような姿になり、あばら骨と背骨が透けて見えました。「苦行釈迦」という像を見たことありますか。あの苦難の形相は、まるで頭蓋骨と骸骨とが座っているようですね。そしてそれでも未だ悟ることができませんでした。「心身清浄の行」とはいえ、体躯を痛める厳しい禁欲・苦行だけに偏っても、悟れないことを知った釈迦は、苦行林を離れて、尼連禅河(にれんぜんが、という河)のほとりへ出て行きます。それを見たスジャータという近隣の村の娘さんが、鉢一杯の乳粥をもって、太子に食事供養をしたことは、よく知っていることでしょう。(コーヒー用のミルクに、最近『スジャータ』というのがありますが、このネーミングのセンスは、なかなか素晴らしいと思いませんか。金属磨きの『ピカール』とか、ワカメ乾燥機の『カワイター』なんかとはワケが違いますよね。)

 元気を回復した太子は、やがて正覚が近づいていることを予感して、菩提樹の下で、再び静かな瞑想に入ります。そして遂に、十二月八日未明、成道を達成し、仏陀となりました。三十六歳でした。その時の「無上の正覚」が、この「十二因縁」を静かに順観し、逆観して確信に至られたといいます。更に、「四聖諦、すなわち苦・集・滅・道」を悟りの智慧として得られたということです。

 釈迦牟尼物語という本にもありますが、インドの青年僧・釈迦が如何に、この世が、苦の世界であるかを観じ(苦諦)、その為に其の苦の原因は何かを思索して、それが欲望や愛着や執着にあることを明らかにし(集諦)、それを滅することで煩悩の根が断たれ、心の平安が得られるということ(滅諦)、そして、その滅する方法を説いたのが、八正道という八つの教え(道諦)です。此処に、「苦諦」の苦は、四苦・八苦です。「生」、生まれ、生きることの苦しみ、「老」、老いの苦しみ、「病」の苦、「死」の苦しみ、の四苦、それに「愛別離苦」(愛するものも、いつかは別れねばならない苦しみ)「求不得苦」(求めても求めても、人間は欲にきりがないので、満足することができない苦しみ)「怨憎会苦」(人は、会いたくない恨みや憎しみの人とも縁があって出会う苦しみ)「五蘊盛苦」(五蘊は出てきましたね、心と体の業に伴う苦しみです、所有欲とか、食欲とか性欲とかの盛んなことによる苦しみです)四苦と併せて八苦ですから、四苦八苦と言います。

 又、八正道とは、次の図を見てください。

順次それの解説を述べます。

一、正見

 二、正思惟

 三、正語

 四、正業

五、正命

 六、正精進

 七、正念

八、正定               

                                         

 一、正見とは、正しく無常を観察することです。正しく観ずるが故に、身心の一切について無常の事実を知り、自分の心身を厭う想いを起こし、心身のうえに起きる喜びや、貪りの心を価値のないものと斥けるのが「正見」です。このように現実を厭うことが正見であるなら、日常性を否定する消極的なもののように思われすね。しかし、その日常性の否定は、真実を積極的に追求することから生まれますので、かえって真実の認識の完成であると言われます。仏教は否定を越える肯定の思想ですね。この意味で「心解脱」といわれ、正見が「四諦の智」といわれるのです。

この正見は、下段の七つの正道によって実現されます。その点で、八正道とは、すべて正見である「智慧」の活動形態を意味すると云われます。

 二、正思惟とは、元々は出家を思惟することですから、日常的なものの一切の否定、即ち、財欲、色欲、飲食欲、名誉欲、睡眠欲等の「五欲」にまつわる人間の日常生活の否定であり、それを思惟することが正思惟なのです。この五欲の心の否定は、具体的には無瞋(いからない)の思惟、無害(いためない)の思惟です。いわば、自己本位にふるまう人間の行動や、独善的な人間の行為を、思惟によって明らかにして、これを否定することです。このように正思惟とは、自我的立場を否定して、無我こそ自己の真実であると見きわめることです。この立場の転換に至る為に、次の「正語」と「正業」が説かれ、正思惟の中に示される行動への意志が実行されるのです。

 三、正語とは、妄語(いつわり)、綺語(まやかし)、両舌(二枚舌)、悪口を離れることと言われます。

 四、正業とは、殺生をせず、与奪せず、愛欲を離れ、又愛欲による邪行をしないことを云います。この三と四とは正思惟されたものの実践です。妄語・綺語・悪口・両舌を離れること、これは人格の破壊を斥けるものであり、殺生・偸盗・邪婬を離れることは人格の尊重であるとされます。

  五、正命とは、「邪命を捨てて、正命によって命を営む」とか「如法に衣服、飲食、臥具、湯薬を求めて」とか云われます。如法な生活、それが正命であると云います。如法とは自然の摂理に従って、という意味でしょう。自然に叶う正しい生活であり、それは、常に十二因縁の無明を滅する方向への営みであるといわれます。それは或る意味で人間の日常性に根差している価値追求の生活を否定するものでもあります。この点、「正命」は、このようにすべき生活として求められつつあるもの、と云われます。

 六、正精進とは、五の「正命」の生活が、只ひたすらな努力の中にのみ得られるという事、このひたむきな努力、それが「正精進」であると言われます。不退の決意で、常に心を摂して、努力することだと云われます。

 七、正念とは、主として過去の因縁であると云われる「五蘊」の中の色、つまり身体的なものに対する否定であり、このような立場から「身にありて身を凝視し、正しく解知し、精神を集中し、明瞭な心、専一心をもって、如実に身体(色)を知ること」と説かれるのが「正念」であると言います。現にあるものとしてでなく、あるべきものとしての「正命」が実現されるのは、身体における日常的なものが克服されることによります。それが「身の観察であり、精神を集中して如実に知る」ことですが、その如実に知る、ことが真に身体的なものの克服とはなりえないで、やはりイデア的(知的論理)であることを免れません。これを身体的なものとして、生活自身において克服する(実行・実践)もの、それが次の「正定」であるわけです。

 八、正定とは、「心は不乱に住し、堅固摂持し、三昧一心に寂止す」と説かれています。これは心身一致の禅定において、正しい智慧を完成することであり、この「正定」によってはじめて、「正見」が得られると言います。

 このようにして、八正道は八聖道として人間完成への道となり、これを人間道の実践として、別に中道であると説かれています。以上の八正道の「正見」こそ真実の智慧の実践であり、それを実現してゆく具体的な道が「正思惟」以下の七つと言われるのです。 

 「四聖諦」とは、苦・集・滅・道の四っつの聖なる諦(たい=明きらめること、真理)と言うことです。             

 

 過去の原因が、現在の結果となり、その結果が、現在の原因につながり、其の現在因が、未来の結果となり、繰り返して、其の結果が、過去の原因につながるという、果てしのない因果が巡る循環・縁起の世界を凝視するのです。そして、十二因縁の実相を明らかにしているのです。 ここで、更に十二因縁説と人間生涯の時機の配分で考えますと大概ですが、次のようです。

 無明、行は、胎児形成以前の人間共通の業(欲業行為)のようなものです。識、名色、六入、触、受は、胎児と幼児期に相当します。愛、は青年期に相当し、取、有は壮年期です。そして生、老死は、老年期から未来への時期になります。特に、生と老死は輪廻・転生という人間生死(苦楽の境涯ですが、どちらかというと仏教では一切皆苦の生き様を云います)の果てしない繰り返しを暗示しています。

 そして、無明と行は、過去の因(勿論現在にもつながりますが)ですから、生前の永い間にわたり、繰り返されて来、又これからも(輪廻転生して)繰り返す事になる人間や生き物の邪な性愛等、無明・無知をも意味します。誰でも自分で生まれたいと願って、生まれるものはありません。生んでくれと云って生まれたわけでもないでしょう。生むほうも、必ずしも生む目的があっての、性行為でもないでしょう。生まれるということは、父母や其の又父母、先代の無明・無知(邪な)の性愛や情欲(仏教的に正確に表現すれば先述した「五蘊盛苦」の欲業)と、その行為に縁って、生まれることも多いのです。それが偽らざる姿というのです。勿論、純粋な生物としての自然な性愛行為を否定しているわけではないでしょう。そうではなくて、そのような性愛がともすれば、生命の神聖・神秘や不可思議さを知らない「無明」故の情欲などに流される無知から、苦が始まる因縁を象徴的に暗示しているのでしょう。俗に言えば、できちゃった結婚のカップル等が、すぐに「怨憎会苦」の離縁になったりして、苦悩し始めるような例もそのひとつです。

 現在の果は、先ほどの説明分で了解がつくと思います。

 そして、現在の因となる、愛、取、有は、最もよく人間の実存の姿として、思い当たることでしょう、つまり、人間は、物心がつくに従って、できる限り苦を厭い、楽を追い求め、ものにも人にも、執着し、自我を張り、業という欲得や我欲・妄執を知らぬ間に、増長していく人間個々の赤裸々な実態です。  川柳に「泣きながらいいものを取る形見分け」と言うのがあります。親と死に別れた悲しさの中にも、物欲、我欲が曝露されている歌ですね。それが、結局は、迷妄の苦しみに転嫁し、闇路を行くことの日々となります。そして現在から未来の果として生・老死の輪廻、繰り返しになっていくことを説いています。

 だから、其の輪廻・転生・繰り返しから離脱することが、仏法の大きな眼目でありました。その為に、一番初めの因縁、「無明」を無くせば、結局その離脱へつながるのだと、悟ったのです。即ち過去にも現在にも未来にも潜在し続けている、人の心の無明・無知を、そしてそれに縁る、それからの因縁過程を、よくよく仏の智慧で自覚し、開明させようとしている教えなのです。         

 以上が、十二縁起と、四聖諦の概要でした。しかし、そのような重要な教えを、般若心経では、又しても空だとして絶対否定するのです。大変、難解な事になりましたね。   

 

⑪無智亦無得 以無所得故 

(この故に空の中には)智も無く、又得も無い。無所得を以ての故に。 

 

 此処で初めて、空の帰結とも云うべき、其の文言が出てきたようです。つまり、空には、智もなく、一切得るところもないとし、是までの否定は、当にその事を云っているようです。何も所得する事なきが故に、空なのであると確言するのです。「般若・空の教え」は、この文言で結語されているのではないでしょうか。智も無くの智は、「般若波羅蜜多という教え」を実体化して、是が空なのである、と言う「分別の智」であり、それを否定(無)する誠に重い結語なのだと思われます。何故でしょうか、今まで、そのように説いて来た仏の智慧を分別し、実体化する、其処に在るのだと。そして、その分別智を得ることが目的になる、それは、とりもなおさず、執着、囚われになると云っているのです。即ち、本来所得するものでは無いのだからと、云っているのです。本来無一物、無所得なのだと教えている言葉にとれます。

 「樵夫とサトリ」という話しがあります。ある木こりが、山で木を切っていました。そこえ、一羽のサトリという鳥が近づいて来ました。樵夫はひそかに、そのサトリを捕まえようと思いました。すると、サトリが云いました。「やあい、お前は俺様を捕まえようと思っているな、捕まってたまるものか」と云いました。木こりは、思いました。此のサトリはなかなか油断のならない鳥だな、と。そして、一層捕らえてみたいと思いました。すると、サトリが云います。「油断のならないトリだと?そうは簡単に捕らえられないよ」と云いました。木こりは、知らぬふりして、相手の隙を考えていました。すると「隙はないよ」と云いました。木こりは思います。このサトリはとても自分の手に負えるトリではないな、諦めよう、と。すると、サトリが云います。「やあい、お前はとうとう諦めたな」と云いました。仕方がないので、木こりは、其処にサトリのいることなど気にも掛けず、無心に斧で木を切りはじめました。その時です、振り上げた斧の頭が、柄から離れて、サトリの頭に命中してしまいました。サトリは、木こりの無心までは、読めませんでした。無心こそが、サトリ(悟り・覚り)への道だという、面白い話しですね。サトリが其処にあるから(サトリの実体化)、得ようとするなら、その執着が迷いになって、逆にサトリは得られないというのでしょう。     

 少し難しいのですが、禅の公案に「不昧因果」という話しがあります。「無門関」という禅の公案集の中にあります。

 百丈懐海(ひゅくじょうえかい)という高僧がおられました。百丈和尚が説法をされる時、いつもひとりの老人が熱心にその説法を聞いておられたそうです。ただ、百丈和尚の説法が終わると、その老人はいつの間にか居なくなってしまったそうです。

 ある日、百丈和尚の説法が終わっても、その老人がいつまでも立ち去らないので、百丈和尚は、何か用かと老人に尋ねました。すると老人は、「実は、私は人間ではありません。五百年前は、この寺の住職をしておりましたが、ある誤りを犯したために狐にさせられてしまったのです。」それは、私が住職をしている折、ある修行者から、『悟りを開けば、因果の法則から脱することができますか』と問われた時、『不落因果(ふらくいんが)。因果の法則から脱することができる』と答えてしまったのです。その答が誤っていたために、私は狐にされてしまいました。」

「百丈和尚様、どうぞ私に教えてください。」

『悟りを開いても、因果の法則から脱することはできないのでしょうか』

 そこで、百丈和尚は、「不昧因果(ふまいいんが)。因果を昧(くらま)さない。」と答えられました。

 老人は、百丈和尚の言を聞き、直ちに悟りを得て、やっと成仏できたそうです。

 以上です。一寸ややこしいですね。

 悟りを開けば、先ほどの十二因縁因果から離脱できるのだ(因果の法則から脱する)、として、老人は修行者に答えました。しかし、確かに因縁因果の法則は真理ですが、その「真理」も「空」(悟り)も分別の智ではないのです。悟りを開いた者は、因果に落ちない、などと公言する、つまり私は悟りを得た者であるという人間に、悟りは無い、と厳しく直言しているようですね。「悟り」も其の「因縁因果の真理」も実体化してしまって、つまり空ならざるものにして、昧まされてはいけない、と言っているようです。悟りにこだわれるような悟り(此処では空)は、無いというのです。

 此処までを、纏めますと、有名な「五蘊皆空」に始まり、「色不異空」「空不異色」「色即是空」「空即是色」、「諸法空相」、「不生不滅、不垢不浄の六不」、そして「人間存在の認識論でもある十八界」、「縁起の十二因縁説」、「四聖諦」の『空・無』を般若心経は、取り上げてきました。そしてこの⑪段に至って、これらの事を認識する主体としての智も、認識させられる客体としての理も、共にその実相は『空・無』であり、無所得なることを述べています。是が「智・境無所得」といわれる「般若心経」の認識論の正念場なのではないでしょうか。

 だから繰り返します。本来無一物、無所得なのだから空の中には智も無く、得も無いと言うのです。

 

⑫菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切 顛倒夢想 究竟涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提

 菩薩は、此の岸から彼の岸へ渡すための行いを実践する仏の智慧に依るが故に、心に障りがなく、障りが無き故に、恐怖の有ることも無く、一切の心の転倒や妄想を離れて、究極の安心界へ入るのである。過去・現在・未来の諸々の仏は、この般若波羅蜜多に依るが故に、無上の正しい覚りを得たのである。

 

  こと此処に至って、般若心経の趣旨の説示が、終局に近づいてきましたね。前節で無所得、本来無一物こそ、大切な空の教えと言いました。つまり、「心経」の心とは、仏の心であって、広く深い般若の心ですが、これを詮じつめれば、執らわれなき心、「無所得の心」であることを見て来ました。しかし、この「無所得」ということが、実は虚無を意味するのではなくて、完全な無所得に徹することによって、逆に得られる無限の所得でもあるのだ、と言うことを説いているようです。それがこの⑫段の、阿耨多羅三藐三菩提(仏の位を証する、無上の正等覚という覚り)を得るということだと思われます。哲学的に解釈してはいけないのですが、逆説の論理、前ほどに述べた「即非」の論理を見ているようです。般若心経の奥深いところ、その魅力的な所だと思わずにいられません。

 禅の言葉に、「無一物中無尽蔵」(むいちぶつちゅうむじんぞう)というのがあります。ことに茶道を嗜む人はよく茶室の掛け軸に書かれているのを見ていることでしょう。無一物の中にこそ、無尽蔵の働きや、智慧があると言うことです。それは何も拘りが無いから、融通無碍・自由自在の境地を得るということでもありますね。

 ここで菩提薩埵は、菩薩のことです。その菩薩は、般若波羅蜜多(此の岸から彼の岸へ渡すための行いを実践する仏の智慧)によって、障りも、迷いも、怖れも一切無く、本当の安心の境地に入ることができるのだというのです。涅槃とは、先述した因縁界からの輪廻も離脱して、本当の仏の安心・寂静の境地のことを云います。三世の諸仏もこの般若波羅蜜多で無上正等覚という覚りを得たと述べているのは、過去現在未来という、人間の分別した時間を超えて、永遠の時の流れの中で、不生不滅(生死を超えて)の仏達が、完成された智慧、即ち涅槃の境地でもある、阿耨多羅三藐三菩提という「無上の正しい覚り」を得ているのだというのです。悠久・久遠の真理を、今、其処に、此処に、仏達がその事を証明しているのだと言っているようです。

 此処で改めてこの節のキーワードになっている「般若波羅蜜多」について、更に述べておきたいと思います。

 波羅蜜多は先述したように、「向こう岸に到達させること」と言う意味でした。従って般若波羅蜜多はその実践をする仏の智慧として、「人間が本来具えている仏性(仏の性質、清浄心)を様々な修行によって、開発し、究極の状態に完成・到達させること」という意味があります。従って、別に云えば般若波羅蜜多は仏の智慧の完成であります。「空」を説く意味の中にはその事が有るのです。本来、人間にある良心とか、善性を最も高いところの状態まで持ってくることです。それを「行智」とも云います。行智と言われる以上は、実践に結びつかなければ「般若」(仏の智慧の実践)ではなく、「般若波羅蜜多」が説かれるときは、心身全体での修練が問われます。この実践方法が五つあるのです。それは、

一、布施波羅蜜(ほどこし)

二、持戒波羅蜜(身を正しく持す戒め)

三、忍辱波羅蜜(忍耐すること)

四、精進波羅蜜(正しく努力すること)

五、禅定波羅蜜(精神安定の為の修練、坐禅       など)    

そしてこの「五つの内容の完成」(=五度)と、仏の智慧の実践(=般若)としての「智慧波羅蜜」とを足して、六波羅蜜(=六度)と言います。

 従って、「般若心経」に出てくる「般若波羅蜜多」は、「五度の行」と「智慧波羅蜜」の完成のことですから、「行・智」と言われることが頷けますね。ここで「多」の字が省略されているのはパーラミ(param=彼岸)とイタ(itaのiが動詞の到着する、taが状態を表す、ここでは到着する「こと」)の、合成です。「智慧波羅蜜」は初めから状態である意味から、多が省略されていると思われます。 

 智慧波羅蜜は、「空」の実相を卓見すると同時に、五度の行とによって、「仏性」という自性(元々それ自体の性質)の清浄心を見出して行くことなのでしょう。本来、般若の思想の根本には、先にも述べたように、凡ての人には仏となる可能性が有る、「一切衆生悉有仏性」(一切の人は悉く仏の性質が有る)、又は、「一切衆生心・本来清浄」(本来、一切の人は仏のような清浄な心を持っている)とする、仏教本来の人間観や根本的立場が生きているのです。所謂凡夫にも、普段は、煩悩や迷悉で覆い隠されているので、自分でも気が付かないのですが、仏性や清浄心の有ることを教え、それを見性(けんしょう=真に己の良心を徹見すること)することで、彼の岸の大安心の境地に導くという、救いの手をさしのべているのです。

 確かに人間一般、凡夫・衆生は、「今日は覚り、明日は迷いぬ秋の暮れ」という歌があるように、常に生死流転の迷妄と苦しみがつきまとっています。林芙美子は「放浪記」のなかで、「花の命は短くて、苦しきことのみ多かりき」と歌っていますね。そんな無常なやり場のない心の中にも、この「般若心経」の教えは、「本来自性清浄心」(本来は、仏のような浄い良心がある)があるのだから、「あなたも、仏と同じように安心して生きることが出来るのですよ」と、大きな希望と安心を示唆して、智慧の救いを与えてくれていると云うのです。

 この節⑫の冒頭に、菩薩は、「依般若波羅蜜多故」、般若の波羅蜜多に依るが故に、とあるのは、その事が説かれているのだと思われます。菩薩は、此処では仏になる前の「一人の人間」ですから、其の般若波羅蜜多に依るが故に、、、結局仏の位の証しである阿耨多羅三藐三菩提を得て、成仏できるのだと云っているからです。

 つまり、無所得の得という、執らわれることなき無心、本来有する仏のような清浄心をもって、仏と同じ境地にたてるのです、と説かれているのでしょう。

 説明が前後しましたが、最後に「六波羅蜜」について、補足します。          ・布施とは、サンスクリット語で「ダーナ」といい「見返りを求めない心」という意味です。要するに、何の報酬も求めない純粋な心で施しをするということです。ダーナは音写ですから、「檀那」のことですね。檀家というのは、寺の檀那衆ということです。檀那さんも檀家さんも、本当の意味は、無償の心の施主ということでしょう。

「布施」の字は、「布」を「施」すと書きます。インドでは、修行僧が「サーラ」という布をまとうため、一般の信者は布を差し出していました。その習慣が伝わり、文字通り中国の漢字に写され、日本に伝わりました。

 この布施には、三種類あり、物質、金品的なものを施す「財施」、労働的な施しをする「身施」、精神的な施しをする「法施」とがあります。詳しく言いますと、身体と口と心(身・口・意の三業です)で、相手に対して行為、言動、思考を通してするあらゆる対応の中に、見返りを望まない実践が本当の布施行と説かれています。布施とは、報酬を求めない心、あるいは見返りを望まない行為、また、喜んで捨てる、すなわち「喜捨」と説かれています。でも「苦労して硬貨を探すお賽銭」という川柳があります。いざ「お賽銭」を投げる時、財布の中の一円硬貨ばかり探す姿のことですね。布施は、あげるのではなくて、させて貰うことです。こんなにさせて貰えるという、自分の今の幸せに感謝して行うのですから、千円札でも万円札でも高が大きい程、有り難い筈なのですが、見返りが期待出来ないために、札ではなく、硬貨ばかり探してしまいます。

 ・「持戒」についてですが、普通に読みますと「戒(かい)を持つ」ということです。簡単に言えば、戒の字は「いましめる」と言う事ですので、自分自身の心の中にいつも「いましめ」の気持ちを忘れないということでしょう

 ・「忍辱」について、仏教用語で、恥に耐え、ひたすら我慢をするという大変崇高な意味があります。忍とは、しのぶと言う字であり「辱」と言う字は、侮辱とか屈辱と書く時に使われる漢字ですね。普通「ニク」とは言わず「ジョク」と使われているこの字には、ほかにいろいろな意味がありますね。それは「かたじけない」「もったいない」「ありがたく受ける」などの意味があり、近頃では、死語になりつつあるようです。生きて行く上で、心を平安に保ち、あまり怒らない方がよろしいのでは、ということでしょうか。しかし、現実は思うようにいかず、腹の立つ事が、大変多いことも事実です。そんな時、我慢をしなければならない場合もありますが、いろいろな問題にぶつかる現実社会に対しては、決して腹を立ててはならないということでもないようです。なぜなら、六度の「行」は、その問題をじっくり考え、この件に対しては、一応意見として述べよう、この問題については、それ程腹を立てることもないであろうと、見極める力を持つように努めることが大切であるという教えがあるからです。

 ・「精進」とは、必ずしも結果の良し悪しや、あるいは、損・得、等ばかりに拘らないで、正しく努力する事ですね。極端に走らず、中庸を大切にして精励すること、これを仏教では、中道として説いています。先述したように、釈迦が、苦行をされていた時、死の一歩手前で、スジャータと言う村娘から、一杯の乳粥をもらい、それを飲んで、悟りを開いたことです。要するに荒行も極端であり、太子としての生活も恵まれすぎ、人生の上には、極端にあってはいけない、努力が大切なのだと言う教えです。お風呂は、熱くもなく、ぬるくもない「湯加減」が大切ですね。偏った努力ではなく、平常な精神こそが本当の「精進」と言えるようです。 

 ・「禅定」とは、精神を統一させるという意味ですが、一般的には、その方法として座禅をまず奨めています。そしてその「行」を基本に、精神の集中を図り、また精神を開放すると説いています。しかし、一般には、座禅を組み、その為の時間を費やす事などはなかなかできませんから、日常茶飯の中で、自己を見つめるとか、それなりの精神集中の機会を工夫してくださいと言われます。

 ・最後の「智慧」波羅蜜ですが、波羅蜜については、先述したように「到彼岸」と言い、彼の岸、いわゆるあちらの岸に到るという意味で「あちら」とは、「こちら側」である、我々の迷いの世界に対して、悟りの世界を意味します。しかし、ここで注意しなければならないのは、必ずしも「来世」とか「あの世」とかと言う事ではありません。そういう意味ではなく、「六波羅蜜」は「迷いの世界」から「悟りの世界」へ導かれるため、五つの実践行を積み、そこから正しい仏の智慧を完成するということです。此処で、それでは「智慧波羅蜜」とは何かについてですが、五つの完成を目指す為には、この智慧が大切である事、従って、その智慧を深く磨き実践することなのでしょう。

 釈迦が伝道の旅をしている時代のことでした。

 ある村に、一人の女性がやっと子宝に恵まれて、男子を出産しました。女性は母親になった喜び一杯で、それはそれは大そうな可愛がりようでした。

 ところが、この子がやっと歩けるような年になった時、突然病気で死んでしまいます。母親は死んだ子供を抱え、気が狂わんばかりに、村中をさまよい歩き出したのでした。

 「誰かこの子を生き返らせて下さい」と何度も叫びながら、救いを求めているのです。村人達は、その必死の姿を見、声を聞くのですが、何ともし難く、ただ気の毒にと思うだけです。

 そこへ釈迦が通りかかり、その母親に声をかけました。「私がその子を生き返らせてあげましょう。しかし条件があります。それは、誰も死人を出した事のない家から、ケシの実を貰ってきなさい」ということでした。

 母親は、この子が生き返るなれば、どんなことでも出来ると、家から家を訪ね歩くのでした。ある家では、最近、夫が死んだという女性に会ったり、又ある家では、同じように子供が死んだと涙ながらに話をする母親に会い、どうしても条件の整う家は見つかりません。

 そうこうして、歩いている内に、母親の心には、少しずつ平静さが戻ってきます。そのようして子供を抱えて歩き回った結果、母親の心に変化が見えてきます。

 それは、どの人も皆悲しみや苦しみに耐え、自分ばかりがこの様な境遇ではなかったのだと気づくのです。

 母親は再び、釈迦のもとへ帰ってきました。そしてお釈迦様が静かに尋ねます。「どうですか、ケシの実を貰ってきましたか」と。母親は「もうケシの実も何もいりません。この子を静かに埋葬します」と涙をこぼしながら答えるのでした。

 仏教の説く「智慧波羅蜜」の話として有名ですから、聴いたことがあると思います。

 人間は皆智慧を持っているのですが、お釈迦さまのようにそれを正しく導き出せないのが事実ですね。現実には我々も、愛執の上で、この母親の姿とそうは違いません。知識としては豊富でも、本当の智慧のところに従うことがなかなかできません。

 仏教は、或る意味では智慧の教えであり、その教えが役に立つとか立たないとか言う様な、差別的な対象ではないと言う事と同時に、物事をありのままに見て、「あたりまえ」の事を見抜ける力を養うことが、この「智慧波羅蜜」の行なのでしょう。此処には対機説法(相手に合わせて説く)という智慧も示されています。前に述べた達磨と慧可とのやりとりとは、随分ニュアンスが違いますね。相手によってその一番正しい教示の仕方をする、「慈悲の智慧」も隠されていますね。

 

⑬故知般若波羅蜜多 是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 能除一切苦 真実不虚                  

 ゆえに知るべし。般若波羅蜜多は、是れ大神呪なり。是れ大明呪なり。是れ無上呪なり。是れ無等々呪なり。能く一切の苦を除き、真実にして虚ではない。 

 

  般若心経は、冒頭に「観自在菩薩は、深「般若波羅蜜多」を行ずる時、五蘊皆空なりと照見して、一切苦厄を度したまう」から始まりました。このことを同じく、この⑬の節で最後のしめくくりとして用いていると思います。そして、この「般若波羅蜜多」を、故に知るべし、とありますから、何と言っても、この「般若波羅蜜多」が真髄の文言といっていいと思われます。「般若波羅蜜多」によって、此の心経に於ける「空観」を明かし、「無所得の所得」を説き、そして、「一切衆生涅槃の救い」(此の節では、能く一切の苦を除く)が根拠づけられてきたからです。

 其の「空観」、「空」の思想は、ものの実体(実在の本体)は、縁起の繋がり、つまり、「モノ」は「もの」ではなくて、仮の縁による和合、乃至は仮象的な「コト」であると説かれてきました。そして不滅の「もの」とか、「自我」とかこそが、絶対的な価値としてこだわる人間の無知、無明を見ました。そして其の無明・無知が愛執とか執着とか我愛・我欲という煩悩・苦悩のもとになっていることから、その謬見が空観によって、徹底否定されると同時に、心の持ち方において、如法の智慧へ転換することが無上涅槃への道と教えられました。この法を、深く心身全体で感得・会得するとき、自然にわき上がる法悦を、此の節以降で、大いに讃嘆し、讃歌となっているのです。

 初めに四つの「呪」です。「呪」は「真言」、又「陀羅尼」ともいい、意訳すると、「総持」と言われます。総持とは、一字の中によく無量の数を統べ収め、一法の中によく、一切の法を摂持する意味といわれます。 

 余談ですが、私が子供の頃、越中富山の薬売りが、田舎まで廻ってきて、玄関の上がりかまちに腰をおろして、やおら背負っている、大きな唐草模様の風呂敷包みの中から、一杯に、薬を広げ並べて見せていたことを思い出します。各戸では、薬箱を常備していて、古い薬は新しいものと交換し、減っている薬などは、補充してくれていましたね。そして最後に、子供には、紙風船とか、回しコマ等、「おまけ」を呉れるのがとても楽しみでした。

 その薬の中に、「陀羅尼丸」(だらにすけ)という、瓶に入った錠剤の薬が有りました。たしかあれは、下痢止め、整腸、鎮痛等、万能薬という効能書きが付いていたようですね。「陀羅尼」の名前は、万能の功徳を秘めていると意味で、薬にも使われていたのでしょうか。 

 此処では「般若波羅蜜多」は、人智を越える、不可思議の、般若の智慧に通じていることから、そのまま、陀羅尼であり、其の功徳を四つの呪、又は真言で表しているようです。

一に、是れ大神呪だと。大神呪とは、魔を降伏させる大威神力をもつ真言です。

二に、是れ大明呪だと。大明呪とは、般若の慧光が、我々の無知・無明を照らし、それを破邪して、余すところが無い、という意味の真言と云われます。

三に、是れ、無上呪だと。無上呪とは、宇宙の真理を表すこと、この上もない、という意味の真言です。

四に、最後の「無等等呪」は、比類の無い、較べるものも無い最高の真言、と云われます。

 此処でも此の「呪」や「真言」については、その言葉の背景や、別の深い意味が説かれているようです。その事を補足させて貰いましょう。

 「呪」は単にまじないとしての文言ではなくて、それは「般若の智慧の不思議さに対する畏怖・讃仰の文言」ではないかと云うことです。そして般若の実践が、般若波羅蜜多ということでした。

 そしてこの般若の実践こそ、端的に言うと、「空」とか「中道」とかいうような、大乗思想に於ける「教相」と「事相」の概念(教理的な形相と事象的・体験的な実相の二つの概念)を導き出した大いなる叡智の源であったと想われます。

 

 実は此処まで書いてきて、振り返って見ますと、色々煩雑を嫌って、一途に省略してしまい、このままでは、実に言葉足らずの説明に終わっていることに気が付き、深く反省しております。その為に、ここで少し回り道いたします。そのことを了承下さい。

 京都三十三間堂の近くに養源院というお寺があり、そこに平塚景堂という住職が居られます。「禅文化研究」という季刊誌の最新号が偶々届いて、それを見ていて、「机上の空論」というタイトルの、氏の小論を読みました。ここで大要を紹介させて貰います。 

【】内は私の補足メモ、又は取意書きです。太字で強調も一部いたしました。

 

  今、目の前にアルバ社の目覚まし時計がある。これはどこをどう見ても実在する「物」である。しかし、この時計は天地創造以前から在ったのではない。ある日ある所で目覚まし時計として作られた物である。素材はおおむね金属と樹脂である。言い換えれば、この目覚まし時計が壊れてゴミになった時、時計は元来の素材であるただの金属と樹脂の集合体に戻っている。では、実在と思っていた目覚まし時計は何処へ消え失せたのだろうか。

  その前に、もう一度、目覚まし時計は何時生じたかを考えよう。それは、時計工場で、素材の金属と樹脂が設計にのっとって、組み立てられた時生じたのである。それまでは素材は素材でしかなかった。組み立てられて秒針が動き出して、時を刻んだとき始めて目覚まし時計は生じたのである。しかも、目覚まし時計の原因たる金属と樹脂の素材は、目覚まし時計そのものではない。とすると、目覚まし時計という実在は、素材としての実在ではなく、時を刻むという機能が生きている間だけの実在である。

 しかし機能を実在というのは【考えてみれば】可笑しい。実在してあるのはあくまでも、素材としての金属と樹脂だ。従って目覚まし時計という機能は、組み立て以前には存在しえず、壊れて以後も存在しない。【故に、目覚まし時計という実在(機能ではない)】は、以前も、現在も、以後も無い。あるのは【現在の】機能があるばかりだ。機能は実体(実在としての本体)ではない。時を刻むという機能【働き】は実体ではない。

 では、素材の金属や樹脂は実在としての実体なのか。話を簡略化するために、素材の金属を鉄としよう。鉄という金属は実体なのか。鉄は元素である。Feで表わされる。原子番号26である。原子番号26とは、鉄の原子核には二十六個の陽子があって、その原子核の周囲に同数の電子があるということだ。鉄はなんと単体ではなかった。陽子と中性子と電子の組み合わせだった。(陽子と中性子は必ずしも同数ではない)

 鉄とは、陽子と中性子とからなる原子核の周りを電子が回る【運動】という「構造」をもった複合体なのだった。是ではまるで、目覚まし時計と全く同じではないか。素材としての陽子、中性子、電子が二十六という単位で組み合わされて、【電子が運動して】、初めて鉄という機能が現れるのである。あの重い、硬い鉄がなんと実体ではなくて、機能だったとは!こうして実在とは、これらの原因(素材)と結果(組み合わせ【と運動】)の無限の連鎖【機能と働き】そのものなのである。原因も、結果も実体がないと言うことなのである。(実体があれば、【機能ではなくなる】、つまり連鎖は終わってしまう。)

 ものは、実体として生じないし、また実体として滅しない。

【仮にものとして、鉄で云えば、このように、実体としてのものに生じていないし、鉄が、機能から離れてものという実体に戻ることもない。】

 是を不生不滅という。生滅に実体があれば、生滅の連鎖が止まってしまうのである。それは【連鎖・機能・働きなるものが止まるということは】現実にそぐわない。【宇宙に存在するものは、エネルギー連鎖、無限に起こる縁起事象ばかりだというのでしょう。】ものの生滅の連鎖を縁起という。ものは縁起という機能【働き】そのものである。実体という不動にして固定された性格のものではない。ナーガールジュナ(龍樹)は「中論」で次のように云っている。   

 『縁起せるところのもの、それが空であるとわれわれは名づける。

 それが何ものかを因として、概念設定することでもあり、またそれが中道である。』

【中道について少し補足します。縁起によってものは確固・不動・不変の実体ではないと言う概念が、空です。別に云えば、「空諦」です。空という真理です。そして、一方ものとして我々に見えるものは仮の現象とか働き、此処では無限連鎖の概念です。つまり縁起そのものですね。これは別に云うと「仮諦」です。実体として実在しないけれど、何も無いものではない現象として真理です。しかし、ものは只、空諦と仮諦、それだけでは未だ概念として不十分であると説きます。空諦と仮諦だけではない「中諦」を説きます。ものの実在に関わる真理は、空と仮との円融した存在、又は空と中の円融した存在、又は仮と中の円融した存在といわれ、円融三諦とも云いますが、そのような意味の「中」を、「中道」と云っているのです。】

 空とは「何もないカラッポ」ということではない。生滅というダイナミズム【まさしく縁起ですね】のことである。それが、実在という立場からは不生不滅として、はたらく。不生不滅とは空の姿、無相の相を云う。

 盤珪禅師が「不生で凡てがととのいまする」と云ったのはここである。

【盤珪さんは、確然確固という貴高い自己として生じたもの、そんな「己」は断じてない(空)、ということを直覚して云っているのだと思います。だから此処ではあえて、不滅は使っていませんね。】

ここが実体験として腹に納まれば、凡てがととのうという安心、執着からの自己解放を得るのだ。

【不変・確固の実体的自己はないから、自我・我欲などの欲業・執着など何もないということでしょう。別に云えば無我なる自由自在の解脱、ということだと思われます。但し、よく誤解される、釈迦の「天上天下唯我独尊」ということがありますね。是は因縁によって生じた自己という存在が、過去にも未来にもない空前絶後、只一度の妙縁なのであるから尊い、ということですね。確固・不変の実体的自己として、尊いと言うのではありませんね。】    

 「不生不滅の縁起を説いた仏陀に礼拝する」とナーガールジュナは賛嘆するのである。

 空は机上の空論であってはならない。あたりまえだが、切実なる現実世界の話なのだ。

 現代物理学の世界でも、空の問題が最前線を走ってきた。物理学とはまさに物の理の学問、それは物質の究極の世界像の提示と証明である。竹内薫という人が書いた「世界が変わる現代物理学」という本を読んで、科学もようやく仏教に追いつきかけたかと思った。二千年以上も前の仏教にようやく追いつくとは、人間の物質への執着【ものの不変不動なる本体・実体への執着】のすさまじさを今更ながらに思う。

 竹内氏は、「現代物理学の思想性は、量子重力理論という最前線の研究において、最も鮮明なかたちであらわれます。そこではすべてのモノが消え去り、すべてはコトになるのです」という。モノとは無論、実体のある物質とその実在性である。ではコトとは何か。「意味のネットワークの全体的つながりこそが本質であることに気がついたときに見える世界」だという。「意味のネットワークの全体的なつながり」とは縁起のことだ。「本質」とは空のことである。物質の法則理論である物理学が、実体としてのモノの法則であるニュートン力学から、機能としてのコトの法則である量子力学へと深化したのである。そこでは、物質の本質としての空性が、複素数、つまり実数と虚数の複合的記述によって語られるのである。竹内氏は後書きでこう言う。「もしかしたら、人間の知の歴史は、世界の基本構造が(実は)モノではなくコトであることに気がつく過程だったかもしれません」と。

【複素数Zとは、二乗すればマイナス1になるような虚数単位Jを新たな数として導入し、二つの実数XとYを用いてZ=X+JYの形で表現されます。単位(素)が二つであるから複素数というのです。】

 仏教の根幹は体験的覚知、即ち悟りである。それは本来「中論」のような空の思弁ではなくて、自己心中の宇宙の発見と、生存の限りない純化である。

 

  以上です。如何ですか。「空」について、大変に客観的、自然科学的実証性にもとづいて、分かりやすい説明だと、感心しました。しかも、私が述べたかったことが、巡り合わせの妙というか、偶然手元に資料として届いたのでした。

 「空」については、現代物理学の観点からの考察だけでは、説明のつかない事であろうとは思います。しかしそれにしても、最先端の量子力学が進展するに従って、もしかしたら、世界の基本構造が、「もの」ではなくて、「こと」であったことに気がつく過程だったのかもしれないという指摘は、大変象徴的な意味をもつものと思われます。

 二千年以上も前に、つまり、現代の実証的な学問の未発達時代に、「もの」ではなくて、「こと」であるという「縁起と法」即ち「心としての空(人空)や、諸法としての空(法空)」について、「仏教の根幹である仏の智慧」が既に説かれているのです。何と言うことでしょうか。如何なるもとに、思惟・洞察されたのかという大いなる驚顎です。釈尊による十二縁起の順観、逆観、という瞑想・正覚・体験覚知のことです。此処では「般若心経」の「般若破羅蜜多」のことなのですが、それは、史実を越えて、やはり魔訶不思議と言わざるを得ません。それこそ人間永遠の魂の輪廻・暴流のなかにあって「唯識」で云わ

れる「あらやしき阿羅耶識」(後述)に忽然として、たち現れた未曾有の真理の概念、そのようなものへの神秘的な直感と確信、畏怖であったのではないかと私は思うのです。偉大な宗教的感性・機根(器量)による畏怖すべき霊感であり、西洋キリスト教神学的に云えば神の啓示を受けた、とでも云うのでしょうか。

 ここで、「唯識に云う阿羅耶識」について、少し触れておきます。

 「心」こそが、「物」そのものより、世界内における存在の最大の価値だと主張するのが、「唯物論」に対する「唯心論」ですね。人間は心が凡てを支配しており、物の存在も意識が無ければ見ても見れず、聞いても聞けず、凡ては無に等しい。極端にいえば死すれば、つまり心失えば世界の存在は一切が無に等しい、という価値観をも含む一論です。そして少しニュアンスは異なりますが「唯識」は、唯、識あるのみという、宗教的な唯心思想にやや似ています。心を大切にするその思想の中に、阿羅耶識が出てきます。先述した六識(眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識)

の他に、唯識学では、第七「まなしき末那識」という人間に必ず潜在する自我や我欲の意識と、第八「阿羅耶識」というものを定義します。それは、人類世界の発生以来、永い間の経験、体験、知見されたものなど凡てが蓄えられた蔵識とも云い又自意識としてはわからないのですが、絶えず循環して流れる水のような形態の底流意識であり、蔵識又は覆在意識とも云われます。人類の精神的遺伝子として働く意識とでもいいましょうか。本心としての善・悪とか清・濁とかもこの阿羅耶識に影響されるといいます。そして一般衆生の凡夫は、通常、この阿羅耶識が煩悩や無明の雲に覆われ、或いは汚染されているのですが、修練や鍛錬、修行などにより、本来覆蔵されている

仏の心に浄化・げんじょう現成されると云います。 

 機根によって、レベル差は色々あるでしょうが宗教的感性と言うものがあって、それを霊性とも言っているようですが、人間の心の世界には、無視しえない宗教体験があるようですね。自己の是までの人生経験・思惟の範疇を越えて、例えば禅定などと言われる無念無想の意識を経て、確然とした深い思想概念や超常現象が現れるというような事です。或いはそのようなことが阿羅耶識に基づくのではないかと思われす。一般的に、よく、「第六感」とかなんとか云いますが、あれは第六意識としての奇妙な予感などを云うようですね。この阿羅耶識による働きとは、とても意味が異なりますし次元もレベルも違います。

 そして、「体験的覚知とは「中論」のような思弁ではなくて自己心中の宇宙の発見、生存の限りなき純化である。」と最後に石塚氏は云っています。この「中論」を大成したと云

われるりゅうじゅ龍樹(西暦百五十年から二百五十年頃のインド仏教僧)は、インドで当時はじまった大乗仏教運動を体系化したと云われ、ことに大乗仏教の基盤となる『大般若経』で強調された「空を、無自性であるから「空」(サンスクリット語では、シューニャ、数字のゼロの意味もある)であると論じ、釈迦の縁起を説明して、後の大乗系仏教全般に決定的影響を与えたといわれます。これによって日本では「八宗(南都六宗と天台宗・真言宗)の祖」の「龍樹菩薩」として仰がれている人物です。ですから、「中論」は、釈尊以降の増高思想ですが、極めて仏教哲学的で深淵な哲理でもあり、本来、「悟り」としての体験的覚知というには、やや離れた別の意味の思弁性の濃いものだと、言っていますね。だから仏教本来の体験覚知は、そのような思弁ではなく、自己の内観による宇宙的な「仏心」の発見と、「生存の限りない純化」だと、平塚氏は述べているようです。 

 このところが、私の最大の関心事なのです。此の般若心経では、体験覚知は、般若波羅蜜多そのものであります。「その覚知は、内観による宇宙的仏心の発見、生存の限りない純化」、つまり言葉や、文字などでは表せないものでしょう。禅では、そのことを「不立文字」とか「教化別伝」(教弁の他につたえるものがある。)とか云っています。でも敢えて云えば純化とは、心の清浄、執着心の放下、自由自在の境地を云っているのではないでしょうか。しかし又してもそう云えば、云うほど的を得ていない、更なる深い仏の智慧の実践だと思われます。

 ですから般若心経のここでは「般若波羅蜜多」を「呪」として、しかも先述した四つの呪として、畏怖・讃仰しているのだと思われます。俗にいう「呪文」として理解するのではなくて、むしろ「真言」、一旦、言葉や文字の表意を離れて尚かつ表現せざるを得ないとして云う真実なる呪、として、考察しなければいけないのではないでしょうか。

 以て廻って要領を得ませんが⑬の最後の文句、真実不虚はその事を述べているのだとつくづく思う次第です。般若心経の目指しているものは、どこまでも仏の説く真実の世界の開示です。それは、本来性の世界でありますが、見る目を持たぬものには絶対に見えない世界であり、人間の言葉や、文字などで表すことの出来ない仏の智慧の世界だと云いました。しかし、この人間が生きる現実界は、その般若(仏の智慧)の霊性界の中にあるというのです。それを忘れてはならないと。現実界の中ばかりからでは、霊性の世界は見えない。しかし、ひとたび霊性の世界を覚知すれば、現実界はよりはっきり輪郭して見ることが出来ると言います。「般若心経」の「真実不虚」の世界を何としても見ることが、仏教を知ることになります。そしてこの真実界=霊性界を見るために、一切の分別智を空にしなければならない。ものを分ける、へだて区別する心を放擲してこそ、霊性界は自らを顕わしてくれるというのです。

 ですから大切なことはこの「般若波羅蜜多」をいかにして得るかということになります。

 

⑭故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰 羯諦羯諦波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶  

 故に般若波羅蜜多の呪を説く。即ち呪を説いて曰く。行ける者よ、行ける者よ、彼の岸に行ける者よ、彼の岸に全く行ける者よ、さとりよ、幸あれ。

 

  般若心経の最後の節になりました。この呪は仏の智慧の完成者を祝福するような呪であるとともに、功徳の呪と言ってよいでしょう。しかし、分別智での功徳ではありませんね。それは極めて霊性的な不可思議の祝福です。現代人はとかく自己の知性によって凡てを分かるとする錯覚がありますが、実は、世界の真実性は、白日の下の明々白々の分明の部分と、闇の部分とが、表・裏としてあります。例えば科学や技術は、人間の知性による産物ですが、どうしても知性だけで証されない世界の成り立ちがありますね。早い話、生き物という生命一つについても、どのように生命世界が成り立ってきたかを今では、生物学や生物史から、分かるようになってきても、何故にそれが成り立ったのか、つまりその根拠と理由・必然性は、永遠の不明分、不可思議としてあることは、明らかでしょう。又ある意味で大生命と言ってよい天体宇宙にしても、その構造、成り立ちは、近代天文学で、優れて明らかにされてきても、何故にそのように成り立ってきたのか、その根拠・必然性は同じように永遠の謎でしょう。そしてその謎という不思議の天体宇宙の中に、厳然として地球があり、生命があります。そして現実界の我々はその事に依存して生かされているのです。まさしく現実界も不思議な真実界の中に含まれてあるのでしょう。この不思議な真実界こそ霊性界と呼んでいるようです。分別を越えてある世界という所以です。玄奘がこのギャーテイ、ギャーテイ以下の呪を、敢えて翻訳しなかったのは、まさに分別智を超えた「般若心経」の真相が、そこにえがかれているからと言われます。だからこの呪、羯諦羯諦。波羅羯諦。波羅僧羯諦。菩提薩婆訶。は知性で解き明かすことの出来ない霊性界からの声と考えてよいと言われます。これを敢えて「行ける者よ、行ける者よ、彼の岸に行ける者よ、彼の岸に全く行ける者よ、さとりよ、幸あれ。」としたのは、サンスクリット文の意訳として、仏教学者の故中村元博士の訳に従いました。この遥かなる声に耳を傾けてみることも、人間に生まれた我々の不思議な縁起・境遇といっていいのだと思います。ですから現実界の己の声を素直な気持ちで、唱和することができたら、安心と寂静の境地を少しでも近くに得られるような気がいたします。

 しかし、この事実はあくまでも、「自己心中に宇宙的仏心の発見」、「生存の限りない純化」という、自分の心を究明・純化・鍛錬実践する問題なのである、と云うことを忘れてはならないのだとしみじみ思うのです。そしてそれが現在の私の宗教観でもあります。

 最後になりましたが、この己事究明(己の真実存在の探求)の終着的心境を、浄土真宗の学僧で哲学者の清沢満之は、次のように述べています。

 「自己とは他なし、絶対無限の妙有に乗託して、任運に法爾に其の境遇に落在せるもの、即ち是なり」と、云っています。

 言い換えますと、「己の真なる存在とは、無限宇宙的無分別智の世界の絶妙な働きである所縁と、その所生に、凡てを委らね、自然体に対応すべきもの、それ以外に自己の存在は何も無い」と云うようです。

 良寛和尚さんは、任運・法爾に「裏を見せ表を見せて散るもみじ」とその己心の融通無碍、自由自在の境地を歌っていますね。 

 

  あとがき

 松山市の出身に「俳聖」と言われる、正岡子規がいます。正岡子規は若くして、当時、不治の病といわれた結肺核の病魔に襲われながらも、短歌・俳句革新運動等ひとかたならぬ業績を残し、新聞「日本」社員としても優れた文学活動をしながら、日清戦役にも従軍するなど、精力的に生きた比類無き俊才であったことはよく知られているとおりです。

 且って、私が三十六歳の時、子規の絶筆、糸瓜三句である

 「をとといの糸瓜の水もとらざりき」   「糸瓜咲いて痰のつまりし仏かな」    「痰一斗糸瓜の水も間に合わず」 

を新聞か何かで見て、大変感動したことを覚えています。紹介された記事の中で、色紙の中央に書かれた、「糸瓜咲いて痰のつまりし仏かな」には、鬼気迫るような想いが致しました。結核を患い、永い闘病生活の末に、痰に苦しみながら、仰臥のまま妹の律に手助けされて、力を振り絞って筆を取り、墨汁を継ぎ足し、継ぎ足ししながら書かれたという三句の色紙写真が出ていて、こんな事が人間に出来る業なのかと、驚愕しました。しかも、子規はその時、自分と同じ年齢の三十六歳という若さでの終焉でした。その思いがあって、講談社の「正岡子規全集」全二十五巻を早速買い求め、読み耽ったことでした。そして、その全集の中の「病床六尺」の一節に、〈余は今まで禅宗のいわゆる悟りと言う事を誤解していた。悟りという事は、如何なる場合にも、平気で死ぬる事かと思っていたのは間違いで、悟りという事は、如何なる場合にも平気で生きて居る事、であった。〉という文章があり、大変印象深く脳裏に焼き付けられました。

 そんな若き子規が、多岐に渉って勉強していることの一つに、日本仏教のこと、特に禅仏教に、その造詣が深いことを知り、さもありなんと思ったものです。死苦の真っ直中に、糸瓜の花のもと、痰詰まりして仏になってしまった己の姿を、これほどまでに写実的に描けるものでしょうか。そして前後の二句は、如何に子規が、死を前にして苦しかったのかを、真っ正直に表現しています。糸瓜の水が、痰切りの薬として効能があるとされていたので、臨終間際までそれへの執念です。ですから前後二句との対象性は、更にその驚きを禁じ得ません。

 そして何時か、自分も、あやかって爪の垢ほどでもいい、仏教の勉学をしてみたいと、密かに憧れの気持ちを持ったことでした。そんなことが機縁で、遅ればせながらも、サラリーマン生活の傍ら、日本通信教育連盟の講座「仏教」で、勉学したり、仏教誌「大法輪」を購読したり、ラジオの「宗教の時間」を聴取したり、教育テレビジョン番組の「心の時代」を録画・視聴などして、長い間、仏教学の一端に触れて来ました。そして、定年後は、意を決して、京都の花園大学に社会人入学し、四年間、郷里を離れて遊学しました。花園大学は、禅宗(臨済宗妙心寺派)の大学ですが、特に私は、基礎から学びたいと希望して、全仏教学コースを学ばせて貰いました。大学という若い人の中で勉強するとはいえ、仏教学はどちらかと言えば、人生経験の多い社会人ほど、よく理解が出来ると思えましたので、引け目はありませんでした。又、一般社会人の聴講生なども実際に大勢いましたから、楽しく勉強が出来ました。そして平成十四年三月に無事卒業する事が出来ました。しかし、仏教学は、大学で修学したといったところで、そう簡単に、解義習得・会得出来るような生やさしい学問ではないことも、しみじみ想いましたし、ここはやはり一生研鑽すべき大事の学業であることも実感した次第です。卒業後一時は、通信課程大学で京都仏教大学の大学院で、禅学とは切っても切れない関係にある「浄土教学」も囓ってみました。中国で大成されたとも言える「禅仏教」は、奥の深い仏教哲学でもあり、最終的にはそこに目標を置きたいと願っておりますが、まさしく日暮れて尚道遠し、の感があります。

 そんななか、今回、是までの勉学過程の一里塚として、又有る知人に依頼されたこともあり、有意の人の為にもなるかと想いながら、この拙い「般若心経・私の読み方」の一文を書いてみました。花園大学でも、「般若心経論」の講義について聴講したことがあり、その頃のことも思い出しながら書きました。その講義の老担当教授が、ある時しみじみ、「私も四十年このかた、空・仏教について学業してきたが、この頃、『空』の何たるかが、ほんの少しだけ分かったような気がする」と独り言のように漏らしたことが印象に残っています。そして、人それぞれにそんな「空・論」も有るのだなあと、今更に回想して懐かしく思う次第です。      

    平成十八年 三月

                            土居 嵩

 参考にした文献一覧          

・「般若心経講話」 鎌田茂雄著  講談社学術文庫  

・「般若心経」   金岡秀友校注 講談社学術文庫

・「般若心教の読み方」 ひろさちや著 日本実業出版社  

・声を出して覚える「般若心経」 大栗道栄著 中教出版社

・季刊誌「禅文化」2005年 NO195    

 

 

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