十大弟子

                                 仏像案内       寺院案内     


十大弟子とは正しくは「釈尊の十大弟子」と呼ばれる様である、維摩経 弟子品などに説かれている、教団の規模が大きくなると優れた弟子すなわち阿羅漢達が現れ始める、覚りを開いたとされる阿羅漢の中で特に著名な存在で 釈尊の高弟で女性を除き、実在したか、若しくはモデルとされた10人を言い、中国文化のフィルターを通して日本に伝えられた。 
釈尊には八万四千人の弟子が居たと言う説がある、十大弟子とは宋代の梵漢辞典である「翻訳名義集(ほんやくみょうぎしゅう)
1143年 宋代の梵漢辞典 7巻 南宋の法雲編)では定まっていないが、諸説を集合すると以下の様になる。 (十名のmashā  śrāvaka(シュラーヴァカ) 詳細は下記にある)

* 舎利弗(しゃりほつ)
  智慧第一  釈尊より早く亡くなる。
*
目犍連(もっけんれん)  神通第一  釈尊より早く亡くなる。  
* 大迦葉(だいかしょう)  頭陀第一  釈尊の涅槃に立ち会えていないが、荼毘臥すのは大迦葉の到着を待って行われた。
*(しゅ)菩提(ぼだい) 解空第一  
*
富楼那弥多羅尼子(ふるなみたにし) 説法第一  
* 迦旃延(かせんねん)  論議第一   
*
阿那律(あなりつ)   天眼第一
*
優波離(うばり)   持律第一
*
羅睺羅(らごら)   密行第一
* 阿難陀(あなんだ)
、 多聞第一 十名に満願子・羅云・難越・()羅など十数人以上になるとされる。


三迦葉と呼ばれる *()()(びん)()()(しょう)  (ウルヴィルヴァー・カーシャパ Uruvilvā Kāśyapa ) *()(だい)迦葉(ナディー・カーシャパ Nadī Kāśyapa  *()()迦葉(ガヤー・カーシャパ Gayā Kāśyapa ) は加えられていない。

因みに法華経序品には十大弟子と共に以下の阿羅漢の記述がある、一部重複するが *阿若憍(あにゃくきょう)陳如(じんにょ)(アージュニャータ カウンデニュア) *優楼頻螺(うるびんら)迦葉(ウルヴィルバ カシャーバ) *伽耶(がや)迦葉(ガヤー カシャーバ) *那提(なだい)迦葉(ナデイー カシャーバ) *阿泥樓駄(あぬるだ)アニルッダ) *劫賓那(こうひんな)(カッピナ) *憍梵(きょうぼん)波提(はだい)(ガバーン パテイ) *離婆(りは)()(レーバタ) *畢陵伽婆蹉(ひつりょうかばしゃ)(ビリンダ ヴァッチャ) *薄拘(はく)()(バックラ) *魔訶拘絺(まかくち)()(マハー カウシュテラ) *孫陀羅難陀(そんだらなんだ)(スンダラナンダ)達の記述がある。

またアングッタラニーカヤAguttara Nikāya・増支部)と言う初期経典に依れば釈尊の弟子として *代表的男性出家者41人、*代表的女性出家者13人、*代表的男性在家信者10人、*代表的女性在家信者10人が挙げられている、10名に限定されたのは上座部(小乗)の解釈である、植木雅俊氏に依れば釈尊在世中の初期仏教には女性出家者、即ち女性の智慧第一、ケーマー(差摩 Ksemaaや説法第一のダンマデンナー等々の女性達もサンガに居たと言われる、古来より女性哲学者(思想家を含む)は中国、日本は無論の事、西欧にも殆ど存在しなかったがインドには多数の女性思想家を生み出すエトスが有る様だ。  
十大弟子の他にも十六羅漢とか五百羅漢などの阿羅漢が存在している、釈尊の修行中の仲間で覚者となり最初に説法した「五比丘」や「三迦葉」即ち優楼頻螺(うるびんら)迦葉(うるびんら・かしょう、
Uruvela-Kassapa) 那提(なだい)迦葉Nadi-Kassapa ナディー・カッサパ) ・伽耶(がや)迦葉ガヤー・カーシャパ(Gayā Kāśyapaの兄弟等が挙げられる。           
また経典(増一阿含経・8に依っては100人の羅漢が居たと言う、閑話休題、仏教に於ける最初の尼僧はマハー、パジャーパテイーmahāpajapatīと言い釈尊の母の妹で育ての親と言われている、また阿弥陀経には釈尊の法を聞く為の衆所(しゅしょ)知識者(abhijñānābhijñāta)1250人中に十大弟子に次いで記述されている菩薩の他に*諸行無常に詳しい「憍梵波提(きょうぼんはだい)Gavampati*雄弁な「賓頭盧頗羅堕(びんずるはらだ)Piṇḍola Bhāradvāja, ピンドーラ・バーラドヴァージャ*毒蛇から釈尊を守護した「迦留陀夷(かるだい)Kālodāyīカーロダーイー)*弟子達の指導に優れた「摩訶劫賓那(まかこうひんな)マハー・カルピナ Mahā-kalpina*無病長寿の「薄拘羅(はっくら)Dvākula *天眼に優れた「阿ヌ楼駄(あぬるだ)アニルッダ Aniruddha*舎利弗の外叔父で問答第一の摩訶倶絺羅(まかくちら)マハー・カウシュティラ (Mahā-kauşţhila)、達の名前がある因みに衆所知識者とは仏智に精通している人を意味する、多くの経典には釈尊が1250人に対して法を説いているが、人数の根拠としては迦葉三兄弟に夫々500人・300人・200人の弟子がいた、さらにサンジャの弟子であった舎利弗と連がサンジャの弟子250人全員を引き連れて釈尊に下ったと言う勘定になる、因みに法華経序品には十大弟子と共に以下の阿羅漢の記述がある、一部重複するが *阿若憍(あにゃくきょう)陳如(じんにょ)(アージュニャータ カウンデニュア) *楼頻螺(うるびんら)迦葉(ウルヴィルバ カシャーバ) *伽耶(がや)迦葉(ガヤー カシャーバ) *那提(なだい)迦葉(ナデイー カシャーバ) *阿泥樓駄(あぬるだ)アニルッダ) *劫賓那(こうひんな)(カッピナ) *憍梵(きょうぼん)波提(はだい)(ガバーン パテイ) *離婆(りは)()レーバ *畢陵伽婆蹉(ひつりょうかばしゃ)(ビリンダ ヴァッチャ) *薄拘(はく)()(バックラ) *魔訶拘絺(まかくち)()(マハー カウシュテラ) *孫陀羅難陀(そんだらなんだ)(スンダラナンダ)達の記述がある。
維摩経に於いては舎利弗・目犍連・大迦葉など十大弟子は小乗
hīnayāna ヒーナヤーナ)に分類され、在家の維摩居士にその思想を悉く論破する姿を記述されている、北伝仏教すなわち大乗仏教では法華経の影響を受けて自己の覚りのみを目指す為に阿羅漢は声聞扱いを受けて菩薩よりランクは低い、要するに阿羅漢果は大乗仏教の解釈では得られても仏果は得られないとされる、大乗仏教から・菩薩・縁覚・声聞の順にランク付けされるが、縁覚とは辟支仏(びしゃくぶつ)とも言い梵語のプラエーカプッタ(梵語のpratyekabuddhapālipaccekabuddhaの音訳で独覚辟支仏(びゃくしぶつ)とも訳され師を持たず己のみの覚りを言う、声聞とは梵語のシュラーヴśrāvakayānaの訳で聞く人を意味し修行中の出家すなわち仏弟子を言う、十大弟子は大乗仏教でランクは低いが、当時ライバル関係にあったジャイナ教に於いては佛教の祖は釈尊ではなく舎利弗śāriputra・シャーリプトラ)とされている。
法華経(第六巻)授記品(じゅきほん)には四大声聞に記述があり十大弟子の内で将来成仏出来る四人を挙げている、*摩訶迦葉 *須菩提 *迦旋施 *連の四人であるが、「授学無学人記品」(第九巻)には羅睺羅と阿難陀も覚者成れるとの記述が観られる
しかし原始仏教時代の教団内に於ける呼び名について文学博士・田上太秀氏に拠れば釈迦も阿羅漢
(アルハット arhat)と呼ばれたとされ、また釈迦も弟子の内でも優れた人には阿羅漢と呼んだという、また優れた弟子達には仏陀(buddha)とも呼んだと言う、しかし仏滅後は久遠実成、神格化が進行し釈迦を阿羅漢、弟子を仏陀とは呼ばれなくなったとされる。(仏像散策・東京書籍)
古代仏教は貴賎の差別を否定したが釈迦の教団内に於ける十大弟子のカースト(1)はバラモン・クシャトリアで八名を占められており目連の様にビアイシャの出身でも富豪出身者で占められていた、他方賎民には文盲が多い事や経済的に喜捨を受ける層が貧しく、経済力が加味された可能性がある、法華経には出自がシュードラŚūdra・奴隷)で十大弟子の内八番目の優波離(うばり)に関する記述はない、因みに初期仏教は交易の要衝・北西インド地方に於いて権益と交易網を確保して財を為した富豪達の喜捨により僧伽(さんが)(教団)は維持され、そのルートを経て伝播したと言える、後の佛教の衰退は富裕層のみに重点をく事により、多数を占める土着の賎民の支持を失っていた事に原因がある。

日本に於ける十大弟子の彫刻では興福寺に残る六尊や、快慶の作で大報恩寺千本釈迦堂 ・極楽寺(神奈川) ・清凉寺の尊像が著名である。

特に興福寺の六尊は釈迦三尊像・八部衆四天王梵天帝釈天と共に西金堂に安置されていたもので、西金堂は光明皇后の母親・橘美千代の供養の為に建立されたとされているが、母の一周忌の為ならなら法華寺の方が適当と考えられ、本来は藤原一門以外のライバル抹殺に対する怨霊の鎮魂を目的としたのではないか。
しかし興福寺の六尊は傑作であり、十大弟子か疑問視する説もあるが、特に表情が素晴らしく釈迦の説法を聞いた瞬間の感動であろうか見事に写実性を表現された傑作と言へる、また大報恩寺に於ける快慶の十尊も感銘に値する。
中国に於いては敦煌莫高窟6.25・韓国では慶州石窟庵に壁画として残る。

サンチー・サトウダーラ第二塔からは釈迦如来の十大弟子の内「舎利弗」「目犍連」の舎利が発見された。
ちなみに釈迦の本物の舎利は1898年ピプラワーの遺跡から発見された舎利
śarīraが容器の古代文字の銘文から釈迦の遺骨と認定された、ピプラワー遺跡piprahwaからの容器が本物説が定説化されているが、碑文の読み取りに異説があり、釈尊の身内の舎利との説である、また1971年~1074年にかけて再発掘が行われ疑問点が増えたと言われる。
ピプラワー遺跡の舎利は後に英国からタイ国に渡り 1900年タイ国のチュラロンコン国王
(ラーマ五世)から分骨して日本に贈呈され名古屋市の覚王山・日泰寺の奉安塔(舎利塔)に安置されている、奉安塔の設計は当時の伊東忠太・東大教授(18671121日・慶応~1954年・昭和29 年)の手による、また伊東忠太の代表作は・築地本願寺・平安神宮・明治神宮・橿原神宮などがある。
山号の覚王山は覚者の王即ち釈迦如来を意味しておりタイ国の関連から日泰寺とされた、日泰寺は日本に於ける十三宗五十六派が共同で受け入れ現在十九宗で三年毎に住職を勤めている。
胎蔵曼荼羅
の釈迦院に数尊取り入れられ密号を付けられている、また20世紀に活躍した版画家・棟方志功の「十大弟子と二菩薩
(普賢菩薩、文殊菩薩)」は著名である。
法華経では個々のレベルに適合した三の説き方があるとされる、即ち
法説、譬喩、因縁の三周説法がある、舎利弗はで魔訶迦葉 須菩提 大迦旃延 目犍連の四名はで膨大な期間修行して授記されている、因縁の範疇か五百弟子受記品では富楼那を初めとした阿羅漢達である、さらに授学無学人記品では羅睺羅と阿難陀が二千人の声聞達と共に受記している、因みに仏から授ける事を記と言い授かる方を記と記述される。
十大弟子の名称は異説もあるが、通常は維摩経に説かれる内、出家順の十尊を挙げられる、因みに智慧第一、神通第一など十大弟子の冒頭に付けられる第一は中国唐時代に於ける羅漢信仰からとの記述がある。
釈迦涅槃図(ねはんず)と言う仏滅時の絵画があるが、涅槃図には十大弟子の上足(じょうそく)である *舎利弗、*目犍連、*大迦葉の三人が描かれていない、理由は*舎利弗、*目犍連、は釈尊より早く死亡している、*大迦葉は遠方に居て釈尊の臨終に間に合わなく火葬の場所に漸く参加出来た為である。



舎利弗(しゃりほつ) 
婆羅門
(バラモン)の出身で八大仏跡の一つナーランダ近くで生まれたとされる、梵語ではśāriputra(シャーリプトラ)とされパーリ語(pāli)śāriputta(サーリプッタ)と言い、優波低沙(うばてしゃ)舎利子とも呼ばれている、因みに般若心経では仏の対話相手として登場し舎利子と記述されている、因みに舎利と最初に訳したのは鳩摩羅什である、またナーランダNālandāとは地名であるが「蓮のある場所 」を意味している、また蓮は知恵の象徴でもある
putta
の音訳が弗で意訳が子で釈迦より先に入滅するが、十大弟子の上足で目連や250人の弟子集団と共に六師外道
(注3の一人であるサンジャ・ベーラッテイブッタの教団から釈尊に帰依する、「智慧猛利にして諸疑を決了する」と言い、智慧第一と言われ衆生教化に務める、舎利弗は釈尊に帰依してから半月で覚りに到達、すなわち阿羅漢になったと言い、祇園精舎の建設を指揮したとされる、諸経典特に妙法蓮華教般若心経阿弥陀経のなかでは釈迦の説法の相手すなわち対告(たいごうしゃ)として多く登場しており、仏教の後継者として「法王子」の記述もある。
法華経
(第二巻)譬喩品(ひゆぼん)(第三)では羅漢の道を捨て一乗の菩薩を進む事により、無限の遠い未来に華光如来(かこうにょらい)(紅蓮に輝く如来)となり離垢と言う浄土に住むという、離垢での一番弟子は堅満(けんまん)菩薩と言う、釈尊の実子・羅睺羅の後見も務めた。
因みに地域及び時代は概ね同じくし基盤も同じくし、外国人から同一宗教とか双子の宗教とか言われ仏教とライバル関係にあったジャイナ教の経典、「聖仙の言葉」すなわちイシパーシャイムに於いては仏教の祖は釈尊ではなく舎利弗であると言う記述もある、教義の理論化に優れ釈尊からは尊敬を込めて善友・仏陀などと呼びかけられたと言う、仏教に於ける舎利弗の影響はキリスト教に於けるイエスとパウロとの法系に近いかもしれない、因みにパウロとは新約聖書の著作に関わりを持ちキリスト教発展の礎を構築した。
釈尊からも尊敬され当時ライバル関係にあったジャイナ教では佛教教祖説も云われる舎利弗であるが、維摩経では大乗仏教をオーソライズさせる為に利用されている、小乗仏教
(劣る、hīnayānaの代表としてピエロ的に扱われている。
舎利子の舎利はサンチー・サト
ダーラの第二塔で目犍連の舎利と共に発見されている、Pāli語の
律蔵大品(マハーヴァッガ、大いなる章と言う資料に依れば目連と共にサンジャ・ベーラッテイブッタの教団から釈尊に帰依する状況が記述されていると言う。   密号 般若金剛、巧智金剛。 
舎利弗の死後、数百年後に登場した法華経 譬喩品 (ひゆほん)第三に拠れば舎利弗は「華光如来」に成るとされる、華光如来の寿命は十二小劫 という無限に近い、そこの住民の寿命も八小劫をあるとされる、華光如来の入滅の後、正法は三十二小劫、像法三十二小劫続くと言われる、因みに提婆達多品第十二にも登場している         塵尾 
舎利弗が書いたと伝承される経集にスッタニパータSutta Nipāta がある、スッタニパータとはPāḷi語で書かれた経典である、釈尊の教えを略無作為に集合した教えとされる、主に南伝仏教圏(上座部仏教圏)に於ける経典である、Pāḷi語でスッタSuttaは経を言い、ニパータ」Nipātaは集合を意味し和訳で教集となる、日本等の北伝仏教圏では義足経等の例外を除いて用いられる。


目犍連(もっけんれん) 
梵語では
mahā maudgalyāyana(マハーマウドガリヤーヤナ)とされパーリ語でMahā moggallānaマハーモッガラーナ)と言い倶律陀(くりた)とも記述されるが通常は略して目連と呼ばれている。
「神足軽く諸方に飛到」即ち神通第一と言われている、当初は隣村出身で竹馬の友の舎利弗と共に不可知・懐疑論者のサンジャヤ・ベーラッティプッタ(散若夷毘羅梨沸)のサンガに所属していたが、舎利弗と共に釈迦の弟子となり二人は教団の上足として釈尊を補佐した、僅か七日間で阿羅漢に成ったとされる、目連を慕う入信者を多く獲得する事から修行中に外道所謂バラモンに殺害される。 

彼が餓鬼道に落ちた母を救うために行った供養が中国を経て日本にも伝わる盂蘭盆会(うらぼんえ)の起源とも言われる、此の伝承は竺法護(じくほうご)Dharmaraka 239年~316年)訳の「盂蘭盆経」に記述され715日には東アジアでも行われている、但し経典は梵語(saskta)パーリ(pāli)及びチベット語訳も存在しない、竺法護訳との伝承も疑問で偽経説が強い、但し近年訳経史を研究する岡部和雄氏等から偽経と断定は困難との説が見られる、因みに盂蘭盆会とはソグド語の魂urvan)(注6)、梵語のウッランパナavalambanaが転訛し音訳とされullambana・逆さ吊)の音訳説が言われており倒縣(とうけん)との漢訳がある、物事の裏表とは関係ない、因みに盂蘭盆会は夏安居(げあんご)の最終日が充てられているが、儀式の原型は道教との説が強い、また道教の中元節と同日に行われ関連が指摘されている、一説には古代イラン語ウルバン(urvan 死霊)が語源とか、ゾロアスター教Dîn-e ZardoštFravaš(フラワシ)との関連も考えられる、また日本の神道系に仏教将来以前から祖先の霊を供養する「祖霊祭(たままつり)」があった、因みに中元節とは道教の三元の中内に於ける祭事で上元(正月15日、賜福(しふく)、中元715日、赦罪(しゃざい)、下元1015日、厄祓い)で、夏に贈り物をする「お中元」は三元節から来ている。
観無量寿経では釈尊に従い
阿難陀と共に、息子の阿闍世に幽閉された韋提希夫人の前に現れている。
お盆の嚆矢と言われる「盂蘭盆経」は
禅宗が依経としている「父母恩重経(ぶもおんじゅうぎょう)」や「地蔵菩薩発心因縁十王経」「延命十句観音経」等と共に中国で作られた偽経説が確実である、しかも盂蘭盆の旧暦7月15日(中元)は道教の祭日であり中元と共に合致させてある。  密号 妙用金剛。  
法華経授記品(じゅきぼん)第六に拠れば目犍蓮は多摩羅栴檀香(たまらばつせんだんこう)如来に成ると言う、また没特伽羅子(マーウドガルヤーナ)との記述も見かける、また舎利弗と共に二大弟子との記述も見かける。     

 

大迦葉(だいかしょう) 
梵語では
mahākāśyapa(マハーカシャバ)とされパーリ語でMahākassapa(マハーカッサパ)と言う、畢鉢羅耶那(びばらやーな) ・頭陀(ずだ・苦行・修行の規律に厳格)第一とされ王舎城付近の婆羅門(バラモン)の出身で釈尊に弟子入りした時点で三十二相(八十種好)の内七相を備えていたと言われる、教団内に同名の弟子が居た為に大を付て呼ばれた。
釈尊の涅槃には立ち会えなかったが、舎利弗の没後と思われるが教団の上足を勤め、仏滅後に教団を統率しラージャグリハ近郊の王舎城七葉窟に於いて記憶力の優れた阿難陀や優波離達を従えて500人の羅漢と共に釈梼の教義を編集すなわち第一結集の主軸を務める、また釈尊の教義・奥義を直伝する「付法蔵」の第一祖となる、釈梼の事実上の後継者で禅宗では創設者として崇めている、著名な寓話では霊鷲山に於いて釈尊が説法中に華を捻った趣旨を只一人理解した、即ち
拈華微笑(ねんげみしょう)したとして「正法眼蔵」「涅槃妙心」「実相無相」「微妙(みみょう)法門」「不立(ふりゅう)文字(もんじ)」「教外別伝」の真理を授けられたとされる、但しこの寓話はインドやチベット等では語られていない。   

千本釈迦堂の大迦葉が手にする軍配状の品は、中国に於いて、皇帝が孝経(儒教)の講説の時に手にする品を(しゅ)()と言い、塵尾の影響を受けた様である。
釈迦入滅後20年生存したとされる、晩年は教団の運営を阿難陀に託して鶏足山で禅定に入り、そのまま生涯を終える。  密号 離塵金剛。 
法華経授記品(じゅきぼん)第六に拠れば摩訶迦葉は光徳国で「光明如来」成るとされる、光明如来の寿命は12万年と言われる、如来入滅後に正法は20万年と言う、但し魔訶迦葉が安住の地に到達するまでには膨大な時間と修行を必要とされる十大弟子の№2、とも言える迦葉でも未来世に於いて三百万憶の如来に仕えて超長期間修行の後に漸く授記されると言う、因みに宇井伯寿氏(注7は即身成仏した人の例は無いと言う。
臨済宗に於いて勤行で「逓代伝法(ていだいでんぽう)仏祖の名号」として釈迦牟尼仏(大恩教主)、大迦葉、阿難、達磨、宗祖(義玄)と共に諷誦(ふじゅ)されている。

禅宗の公安集・無門関(むもんかん)に依れば、釈尊は迦葉に微妙の法門即ち後継者として付嘱(ふしょく)したとされる、無門関では摩訶迦葉だけが微笑拈華微笑してうなずく、釈尊は迦葉をほめ印可を与えた、自分の正法眼蔵 涅槃妙心、 実相無相、 微妙の法門を、不立文字、教外別伝して残りなく迦葉に付嘱すると宣言するのである。(無門関・四十八則とは宋代に無門慧開と言う禅僧によって編集された禅の公案集
大迦葉を崇める著名な寓話では霊鷲山に於いて釈尊が説法中に華を捻った趣旨を只一人理解した、即ち
拈華微笑(ねんげみしょう)したという、因みに拈華微笑の物語は偽経である「大梵天王門仏決疑経」の記述である。

 

(しゅ)菩提(ぼだい) 
梵語で
subhūtiスブーティ)、カースト(注1第三位のヴァイシュヤ出身であるが舎衛国の長者の出身で解空第一とか、人と争わない事から無諍(むじょう)第一とも言われる。
難解な般若の空論を解いたとされ般若経に於いては主役的立場に居る、「増一阿含経・第二十八巻」や空を説いた初期の「八千頌般若経」に於いては釈尊が須菩提に説く形で成立している、その他の大乗経典にしばしば登場する、祇園精舎は須菩提の伯父の須達多
Sudatta長者・給孤独(ぎつこどく)長者の寄進からなる、祇園精舎が完成の日に出家したとされる、維摩経や般若経典に多く記述されている。八千頌般若経はBC1世紀頃の梵語のaṣṭasāhasrikā-prajñāpāramitā-sūtraで支婁迦讖と鳩摩羅什の漢訳がある。
安倍文殊院於いて国宝に指定される渡海文殊菩薩の脇侍の一尊に通常は仏陀波利三蔵であるが須菩提とされている。    密号 無相金剛 
法華経授記品(じゅきぼん)第六に拠れば須菩提は「名相如来」に成るとされる、有宝という時代に宝生国の出来事とされる。

般若経系で般若心経に次いでポピュラーな経典「金剛般若波羅蜜経」Vajracchedikā-prajñāpāramitā Sūtra, ヴァジュラッチェーディカー・プラジュニャーパーラミター・スートラに於いて釈尊との問答で準主役的役割をしている、金剛般若教は禅宗系に於いて読誦され、天台・真言・三論・法相宗等でも愛用されている。
 

富楼那弥多羅尼子(ふるなみたにし) 
梵語では
pūra  amaitrāyan ī  putraプールナマイトラーヤニープトラ)
正式には富楼那・弥多羅尼・弗多羅
プルナ・マイトラヤニー・プトラという、弁舌爽やかで説法第一とされバラモン長者の出身外道に帰依するが釈迦成道と共に弟子となる、ヴェーダ聖典にも通じており釈尊の説法の咀嚼に優れ多くの国の言葉が話せた、叔父に釈尊の初転法輪を聞いて十大弟子の内で最古参の弟子となる。
ヴェーダ聖典即ち「四善定五神通」を会得していたが山に入り苦行の道に入る、、因みに生年月日は釈尊と同一と言われる。弟子入りする以前から舎利弗とは親交があったとされる。
法華経、「五百弟子受記品(じゅきほん)第八」には釈迦牟尼如来から五百人の阿羅漢達の前で、透徹(とうてつ)した智慧すなわち四無礙智をマスターしていると賞嘆された、因みに
四無礙(しむげ)()とは 四無礙弁(げべん)とも言い、 法無礙智 義無礙智 辞無礙智 楽説無礙智、を言う、教義及び内容、表現力、理解力に精通している事を言う、また賢劫だけでなく無量劫、から過去七佛にも仕え説法第一人者であったと言う。 

覚者となった阿若喬陳如(あなきょうじんにょ)を持つは「法名如来」に成ると言う。


迦旃延(かせんねん) 
梵語ではmah
ā kātāyana(マハーカーテイヤヤハ)とされ、パーリ語(pāli)Mahākaccāna(マハーカッチャーナ)と言い、那羅陀とも言う。
鹿野苑で得度、理論家で論議第一でとされバラモン長者の出身とも
クシャトリアとも言われる、辺地では5人の師しかいなくても授戒する許可を仏から得た、釈迦が転輪聖王か覚者となる事を予言したアシタ仙の弟子でもあった。
釈尊と年齢に開きがあり紀元前後の生誕説もある、部派仏教の一派を率いて阿毘達磨発智論を著したと言う。

法華経第六授記品(じゅきぼん)に拠れば迦旃延は「閻浮那提(えんぶなだい)金光(こんこう)如来」に成るとされる。

難解な教義を理解しやすく咀嚼したが、哲学的論議に長けていた。  密号 弁才金剛 

 

阿那律(あなりつ) 
梵語では
aniruddha(アニルッダ)、天眼第一で学識に優れており、出自に諸説が在るが釈尊の従兄弟とされる。阿難陀とともに出家した。仏の前で居眠りして叱責をうけ、「常坐不臥(じゅざふが)」すなわち横になって眠らぬ誓いをたて視力を失ったが真理を見る眼を獲得した。 

通夜の興り、長阿含(じょうあごん)第二経Dīrgha Āgama・遊行経に依れば釈尊の涅槃時に動揺する弟子達に対して一晩通しで法を説いたと言う伝承から「通夜」が始められたとされる。 

 

優波離(うばり) 
梵語では
upāli(ウパーリ)、持律第一で出身は釈迦族の理髪師、シュードラ(奴隷階層)を出自とするがカースト制度を否定する釈尊により、出家した順序にしたがい貴族出身の比丘の兄弟子とされた、教団内のトラブルの解決に優れていた、優波離の出自が四番目のシュードラ即ち奴隷階層の為か十大弟子の中で一人だけ法華経等に名前の記述は無い。
大迦葉を中心とした第一結集に阿難陀と共に参加したと言われている、彼の記憶に基づいて律蔵が編纂されたとされる。  密号 厂羅(かんら)金剛。 
 


 
羅睺羅(らごら)  梵語ではrāhula(ラーフラ)と言い、羅云とも言われる、戒行、密行第一とされる。
釈尊の出家以前にヤショーダラー妃の間にできた実子であるが、名前は魔人ラーフ
rāhuから採られた様で、太陽信仰の流れを汲む釈迦族では太陽を遮る日蝕、月蝕を意味し家系の消滅を狙った名前と言う説もある。
釈尊の帰郷時に出家して12歳で最初の沙弥
(少年僧)となる、羅睺羅の師は舎利弗であり20歳で受けた具足戒も舎利弗からである。 
法華経、「授学無学人記品(じゅがくむがくにんきほん)」第九に拠れば羅睺羅は「(とう)七宝(しっぽう)()如来」に成ると言う。 (蹈七宝華如来との記述も見られる)

 


阿難陀(あなんだ) 
梵語では
ānanda(アーナンダ)、多聞第一、即ち釈尊の説法による多くの経典での対告者となる、出自は釈迦族で釈梼の従兄弟とされる。
出家して以来釈梼の入滅まで25年間釈尊の秘書的存在で84千の法門を護持していた。第一結集に貢献し阿難の記憶に基づいて経典が編纂された、中国に於ける釈迦三尊像には大迦葉と共に脇持として多く存在する、また女性の出家すなわち比丘尼達の僧伽(サンガ)教団)成立や優婆夷(うばい)(女性在家信者)(upāsaka)の参加に貢献する、即ち阿難陀は釈尊の仏教に普遍性を加え更に発展に足掛りを構築した、因みに男性在家信者を優婆塞(うばそく)(upāsaka)
と言い「仏の四衆」(注5成立に貢献する、即ち釈尊の養母の入門に尽力し比丘尼教団成立の礎を築く。
禅宗に於いては大迦葉に次ぐ存在である、多くの経典の冒頭に書かれている「如是我聞」の我とは阿難陀の事と言われる、浄土真宗の根本経典・無量寿経も釈尊から阿難陀が拝した経典とされている。
一説には阿難陀が阿羅漢に加えられたのは500人目で第一結集の直前であったとの記述がある、大迦葉を中心とした第一結集に参加したと言われている。
増一阿含経や観無量寿経等に於いて悪名高い提婆達多
(デーバダッタ Devadatta・調達とも)は阿難陀の兄との説がある、阿難陀が登場する仏典は「七夢十善経」「犢子経」「賢愚経」「羅旬踰経」等がある。   密号 集法金剛 

法華経、「授学無学人記品」第九に拠れば阿難と羅睺羅は如来に成れる確約を得る、阿難陀は山海慧自在通王(さんかいえじざいつうおう)如来となる、六億二千万尊の仏を供養し、二十阿僧祇(あそうぎ)(ガンジス川の砂の数×20の幾千万億の菩薩を教化して、阿耨多羅三藐三菩提すなわち覚りを得る、時代は妙音偏満(みょうおんへんまん)といい、国は常立勝旛 (じょうりゅうしょうばん)と言いう。
釈尊が説法中の質問に答えなかった箇所には「無記」と書かれていると言う。 




主な十大弟子像      国宝  ●重要文化財  

興福寺 脱活乾漆 彩色 146.0154.8㎝ 天平時代 6尊       

大報恩寺(千本釈迦堂) 木造彩色 玉眼 94.498.0㎝ 鎌倉時代 快慶作  

   
清凉寺  木造彩色 78,8㎝~81,2㎝ 鎌倉時代 奝然(ちょうねん)が宋より持ち帰ったとされる。  


●極楽寺 木造 玉眼 83.388.0㎝ 鎌倉時代  (神奈川県鎌倉市極楽寺三丁目6-7)    


1、バラモン (brāhmaṇa) BC20001500年頃インドに移り住んだアーリア人が現住民のドラピタ人等を制圧し興した宗教で、インドに於ける階級制度(カースト)の最高位にあり梵語のbrāhmaaの音訳で中国では婆羅門と記述された、因みにヴェーダ聖典を読むことを許されている階層は婆羅門だけに限られる様である。 
カーストとはラテン語の castusが語源でありBC10世紀以前からインドに存在する身分制度で「家柄・血統」と訳され、一族のすべては生涯変更される事はない、但しインドに於いてはバルナ(var
a)と呼ばれている、バルナとは本来は色彩を意味しているが法的には建前として存在しない事になっている。
釈迦はカーストについては梵我一如(永遠の至福・万物の絶対永遠性)と共に否定したが、佛教の影響力の衰えと、ヒンヅー教の興隆により復活した、20世紀後半ヒンヅーから佛教徒に改宗したアンベードカル法相により憲法に於いてアチュート廃止が条文化されたが現在も確実に生きている、アチュートが轢逃事故の被害や殺害されてもマスコミは扱わないケースが多い、また放火、殺害されても主犯は無罪とか軽微な罰金で釈放されている。
佛教はインドで生まれ諸国に広まったが、カーストの厚い壁に阻まれてインドでは消滅に近い状態まで衰えた、しかしアンベードカル哲学に学んだ佐々井秀嶺に率いられたアチュートを中心に広まる可能性を秘めている。


カースト  ラテン語の castusが語源でありBC10世紀以前からインドに存在する身分制度で「家柄・血統」と訳され、一族のすべては生涯変更される事はない。
インドに於いてはカーストと輪廻転生は車の両輪でありインド思想社会を構成していたと言える、どのカーストに生を受けるかは前世・前々世からの業により決められておりキリスト教の様な予定説は存在しない。
釈迦はカーストについては梵我一如(永遠の至福・万物の絶対永遠性)と共に否定したが、佛教の影響力の衰えと、ヒンヅー教の興隆により復活し現在にも生きている、因みに釈尊のカーストはクシャトリアとされるがヒンズー教の文献ではシュードラの記述がある様だ、また初期の仏教はバラモンは出自ではなく「行動」によると主張した、
ヴァルナ・ジャーティ制(varna)基本的には四階級と言われるが、事実上は五階級に分類され、さらに夫々が細かく分類される、インドに移り住んだ遊牧民であるアーリア人が13、を占め4、をドラピタなどの先住民が位置している。
1 ブラーフマナ・バラモン(婆羅門)司祭と訳され聖職に付き式典の祭主を勤める。  brāhmaa  婆羅門 
2 クシャトリアと呼ばれ王族・貴族・武士などを指す。               ksatriya   刹帝利   
3 ビアイシャと言い平民を指す。                            viaśya    吠舎       
4 シュードラと言い賎民を言い卑しいとされる職業に就く。            Śūdra  旃陀羅 
5 アチュートとかダリット(Dalit)と言いヴァルナを持たないカーストの枠内に入れない不可蝕賎民を言う、梵語でCaṇḍ āla,とも言い漢字で旃陀羅(せんだら)と書く、英語で(Broken People)アンタッチャブルUntouchable)とも言う。

日蓮は己の出自を旃陀羅と言った。
カースト制度に対するインド人の執着は法華経にも現れている、即ち十大弟子の一人である優波離の出自がシュードラ即ち奴隷階層である為に名前の記述がない。
十大弟子の出自を挙げると以下のようになる、 *バラモン 舎利弗、摩訶目犍連、摩訶迦葉、摩訶迦旃延、富楼那弥多羅尼子  *クシャトリア 阿難、羅睺羅、阿那律  *ヴァイシャ 須菩提  *シュードラ 優波離。

ヒンドゥー教徒でありながら寺院や公共施設に入る事を許されない、インド人口の25%近い数を占めると言う、梵語でCaṇḍ āla,と言い漢字で旃陀羅(せんだら)と書く、日蓮は出自を旃陀羅と言った。 
この司祭階層の主宰する祭式をバラモン教と呼ばれたが、佛教やジャナ教が台頭すると衰えを見せるがカースト制度は維持された。西暦2〜3世紀頃非アーリア的な神々や信仰形態を取り入れ大衆の支持を得ることに成功し宗教的融合を果たしてヒンドゥー教の成立をみた。当初バラモンは第4バルナのシュードラを差別・除外していたが、農民大衆をシュードラとみる傾向が一般化した為にシュードラ差別を改めて彼らのために祭式を挙行するようになった。
バラモンと佛教の関係 釈迦如来は梵我一如の宇宙哲学を否定し無常、人間的論理を駆使して佛教を成立させるが後に興った大乗思想はバラモン思想を華厳等の教派として一体化する。
インドに於いてはカーストと輪廻転生は車の両輪でありインド思想社会を構成していたと言える、どのカーストに生を受けるかは前世・前々世からの業により決められておりキリスト教の様な予定説は存在しない。 


2仏果と阿羅漢果 難解であるが一言で言えば、仏果=大乗の覚り 阿羅漢果=小乗の覚り。

3、六師外道 仏教から見た異教徒達でBC五世紀以前にガンジス河流域付近で活動した六人の自由思想家たちでバラモンを否定する代表的な六人でジャイナ教の祖や、舎利弗・目連が釈迦に帰依する以前に所属したサンジャ・ベーラッテイブッダの提唱する教団等を言う。
仏教側から仏教徒以外を異端として外道と呼ばれ、仏教徒を内道と呼称された。
· Ajita Kesakambalin (アジタ ケーサカンバリン、阿耆多翅舎欽婆羅) 人は地水火風の四元素で構成されると言う唯物論者。
· Pakudha Kaccayana (パクダ カッチャーナ、迦羅鳩駄迦旃延) -(地水火風苦楽及び命の七要素説。
· Purana Kassapa (プーラナ カサッツパ、不蘭那(不蘭)迦葉) 善も悪のないと言う道徳否定論者。
· Makkhali Gosala (マッカリ ゴーサーラ、末迦梨瞿舎利) 裸形托鉢教団、決定論者。
· Sanjaya Belatthiputta (サンジャヤ ベーラッテーブッダ刪闍耶毘羅胝子) 懐疑論者。
· Nigantha Nataputta (ニガンダ ナータブッダ尼乾陀若提子、本名ヴァルダマーナ) ジャイナ教の祖 相対論者。 

4、インド八大仏跡とは・サールナート  ・ブッダガヤ  ・ラージギル(ナーランダ) ・ヴァイシャーリ ・クシナガラ ・ルンビニ ・サヘトマヘト ・サーンカシャを言う。

5、仏の四衆 部派仏教に於ける」仏の四衆とは ・比丘 ・比丘尼 ・優婆塞(upāsaka) ・優婆夷(upāsikā)

6、ソグド語 旧イラン系の原語でウズベキシタンやタジキスタン方面の言語。

注7、宇井(はく)(じゅ) 1882年〜1963年(昭和38年) 
 愛知県生まれ、曹洞宗の僧侶でインド哲学者、文学博士、仏教学者12歳で曹洞宗の東漸寺で出家、東京帝国大学印度哲学科卒、英国オックスフォード大学、ドイツテュービンゲン大学に留学帰国後に1930年東京帝国大学教授、1941年駒沢大学学長、1953年 文化勲章を受章・東北帝国大学でも教鞭をとる。

8、北伝に於ける原始仏教の(じょう)阿含経・中阿含経・増一阿含経・(ぞう)阿含経を四阿含経と言う。

    

 

 
        仏像案内      寺院案内


最終加筆日 20041211 2005827日 2006115日 2009116日 2014年2月21日十大弟子の如来名 2016年9月4日富楼那 2017年2月11日盂蘭盆会 3月21日 3月30日 4月24日 2018年1月11日 6月20日 2020年4月13日 5月20日 2021年6月23日補筆  


   

inserted by FC2 system