役行者とも言われる、634〜不詳 出生は現在の奈良県御所市(葛城山千原)と言われる、金峯山寺の寺伝では634年〜不詳とされるが、出生年は509年〜699年の間諸説があるが、伝承が先行して不祥な部分が多い、1799年朝廷から神変大菩醍という諡号が贈られた、役の行者とも言われる様に修験道の伝説的な開祖である。
修験道の本尊は金剛蔵王権現
生駒山・熊野山で修行、孔雀明王の呪術を修得し大和の葛木山と呼ばれた処を中心に活動した呪術者とされる、畿内各地に伝承が語られ続日本紀(六国史の一編)・日本霊異記・今昔物語・本朝神仙記など多くの資料に登場するが修験者の伝承が全てである為に詳細及び実在したかに付いては不明な点が多い、実在していても活動伝承は広範囲であり小角複数説や弟子達による勧請も考えられる。
山岳修験者達の象徴的な存在で、伝承では反権力的な呪術者で、空中を駆け巡る等の呪術を持つと言う。
在家仏教者であるが僧衣に袈裟をまとい長い髭を生やして錫杖を持ち五鬼を従えると言う。
役の行者を扱った書籍は多くあり、
修験道を含む修験者すなわち山伏の存在はインドや中国には存在しない形態である、日本古来の存在と思惟されるが、定かとは言えないが古代ユダヤ教の大祭司の姿との共通点を述べる人もいる。
修験道は日本に於いて宗教弾圧を受けた唯一とも言える組織である、佛教僧にさして遜色のない十七万人(当時の日本の総人口は三千三百人程度)と言う修験者を擁しながら明治五年の「修験道廃止令」により略消滅させられた、因みに信長の叡山焼き討ちは僧兵の武力に対してであり、焼き討ち後坂本等の天台寺院復旧を認めており、佛教を敵視したものではないが、修験道は国家神道を育成するための犠牲になった。
注1、 六国史 日本書記(720頃) 続日本記(697〜791) 日本後期(792〜833) 続日本後期(833〜850) 日本文徳天皇実録(850〜858) 日本三代実録(858〜887)
注2、 日本霊異記 9世紀初め頃に薬師寺の景戒に依る、正式には
注3、 今昔物語 著者不祥 1120〜1449年頃、 インド(天竺)、中国(震旦)、日本に於ける説話集。