飛鳥寺は法興寺・
わが国最初の本格寺院として寺院建設に於ける初期の伽藍配置とされる、この伽藍は百済の王興寺(ワンフンサ)がモデルともいわれ百済の聖明王から送られた僧侶や寺工等の技術者の手になる伽藍である、因みに飛鳥寺は高句麗の
更に厩戸皇子と聖徳太子は別人であり蘇我馬子もしくは長男の善徳が歴史上語られている聖徳太子のモデルとの説も否定できない、また入鹿と善徳の同一人物説もある。
飛鳥寺には四天王寺とよく似た伝承がある、「
飛鳥時代の政治の中心的な場所であり大化改新の中核である中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足(藤原)の出会いの場所として著名で、6万㎡の広大な境内において蹴鞠や宴が行われた、壬申の乱に於いても天智側の拠点の一つにもなった。
創建は馬子に拠るもので蘇我一族の私寺として藤原京の四大寺に数えられていた、この名刹は元興寺の時代に平城京遷都による主要伽藍の移築や1196年の火災などで衰退し、現在に於いては安居院に丈六で日本最古の仏像とされる釈迦如来像を安置されている。
日本書紀に依れば552年百済から献上された仏像を観た欽明天皇をして「相貌端厳」と評したとされるが、補修された飛鳥寺の釈迦如来に相貌端厳は似合うのだろうか、因みに
飛鳥大仏として著名な如来像は、伝承に於いては「
日本最古の釈迦如来とされる尊像は長い間野晒し状態に置かれたが江戸時代に仮堂が出来て今日に至っている、日本最初の丈六鋳造佛であるが1196年の火災による損傷が大きく当初の部分は顔の上部(鼻・両眼とその周辺)・螺髪の一部と右手の指三本のみである、北魏様式を踏襲している様で、後世の補修は比較的忠実に行はれたとされるが稚拙である。
日本書紀によると止利佛師の作とされるが元興寺縁起の関連から
漠然とこの地に立って崇仏戦争すなわち物部守屋と蘇我馬子の戦いを思うに、日本人の文化的遺伝子を持つ者として崇仏論と廃仏論の衝突で壮絶な戦が起こるのであろうかという疑問である、渡来系を含めた覇権争いであり、崇・廃仏論は後日オーソライズ化された建前でしないのだろうか。
蘇我馬子の長男・善徳(蘇我入鹿と同一人物とか蘇我蝦夷の兄とも言われる)は法興寺すなわち飛鳥寺の初代寺司であり、大山説等で日本書紀などに記述される聖徳太子の原型とも言われている。
余談であるが飛鳥の語源は古代朝鮮語のアンスク即ち安住の地を意味すると言われている。
*朝日新聞2012年9月21日夕刊から、早稲田大学文学学術院・大橋一章教授の「飛鳥大仏はほぼ飛鳥時代のまま残されていた」が発表された、事実なら大発見であろう、更に大阪大学などから調査が発表された、但し久野健氏の説との差は山の峰を挟んだ対極の位置、即ちコンフリクト(conflict)の関係にある、法隆寺釈迦三尊との比較すると通肩と言う大衣の着衣法(先に完成したとされる飛鳥寺の通肩が正しく、後に造像された法隆寺の装着は間違いである)
伝承化記事の多い日本書紀には飛鳥寺の場合は
飛鳥大佛が近く国宝指定を受けるとの記述を見るが、現在に於いては1973年の奈良国立文化財研究所の発表や久野説を支持したい。
元愛知県立芸術大学名誉教授・山崎隆之氏も大橋説に対して否定論者である。
住職
注1,
安居院とは元興寺の塔頭の一つで夏安居に由来する、安居とは発祥はインドで雨期などに托鉢行脚が出来ない時期に寂静な庵、すなわち阿蘭若に於いて行う座禅を主とする修行を言い、夏安居・雨安居とも言われる、因みに飛鳥寺の敷地は現在の二十倍ほど、即ち南北320m、東西210mの境内に七堂伽藍を所持していたとされる。
注2、 藤原京四大寺とは・飛鳥寺
・大官大寺 ・川原寺 ・薬師寺を言う。
●釈迦如来 坐像 銅像 275,2cm 飛鳥時代
2020年4月19日 NHKブラタモリより転写
2010年2月3日 久野氏の指摘部分更新 2011年4月12日清岩里寺の搭 2012年6月11日基壇 2013年12月12日 2021年9月20日加筆