飛鳥寺(安居院)

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飛鳥寺は興寺・本元興寺(もとがんごうじ)とも呼ばれ平城京への遷都までは元興寺であった処で日本仏教史の幕を開いた象徴的な寺である、飛鳥時代に蘇我馬子の発願による寺とされ、馬子の長男善徳(ぜんとこ)を寺司に据えて聖徳太子の師と言われている高句麗僧、慧慈(えじ)と百済僧、慧聰(えそう)を置いた、日本書紀の「仏法の初め、(これ)より(おこ)れり」は、ここ飛鳥寺であろう。
わが国最初の本格寺院として寺院建設に於ける初期の伽藍配置とされる、この伽藍は百済の王興寺
(ワンフンサ)がモデルともいわれ百済の聖明王から送られた僧侶や寺工等の技術者の手になる伽藍である、因みに飛鳥寺は高句麗の清岩里(せいがんり)廃寺跡と同様式の伽藍配置(中央の八角基盤が搭であれば)である、この時代以前は仏舎利を安置する塔が崇拝の中心であり、塔を中央にして中金堂・東金堂・西金堂を回廊で囲む配置を持っていた、因みにこの時代では講堂に対する重要度を低かった様で四天王寺法隆寺でも講堂は回廊の外に位置していた
更に厩戸皇子と聖徳太子は別人であり蘇我馬子もしくは長男の善徳が歴史上語られている聖徳太子のモデルとの説も否定できない、また入鹿と善徳の同一人物説もある。
飛鳥寺には四天王寺とよく似た伝承がある、「丁未(ていび)の乱」即ち物部守屋と蘇我馬子との戦いに於いて馬子が聖徳太子と共に戦勝のあかつきには寺を建てる祈願をして成就の後に建立されたと言う、因みに直木考次郎氏(飛鳥寺と法隆寺-吉川弘文館)は蘇我、物部の争いを崇仏vs廃仏に結びつけたのは日本書紀の編纂者の作為で物部守屋も仏教を受け入れていたと言う
飛鳥時代
の政治の中心的な場所であり大化改新の中核である中大兄皇子
(天智天皇)と中臣鎌足(藤原)の出会いの場所として著名で、6万㎡の広大な境内において蹴鞠や宴が行われた、壬申の乱に於いても天智側の拠点の一つにもなった。
創建は馬子に拠るもので蘇我一族の私寺として藤原京の四大寺に数えられていた、この名刹は元興寺の時代に平城京遷都による主要伽藍の移築や1196年の火災などで衰退し、現在に於いては安居院に丈六で日本最古の仏像とされる釈迦如来像を安置されている。
日本書紀に依れば552年百済から献上された仏像を観た欽明天皇をして「相貌端厳」と評したとされるが、補修された飛鳥寺の釈迦如来に相貌端厳は似合うのだろうか、因みに端厳(たんげん)とは姿形が整っていて威厳のあることを言う。
飛鳥大仏として著名な如来像は、伝承に於いては「丁未の乱」に勝利出来たら寺を建立する事を祈願したと伝えられる、
興寺中金堂の本尊と推定できる、日本書紀に拠れば止利佛師609年本堂内に安置する折りに入り口を解体することなく納入し下賜された記録があり現在の釈迦如来像と推定される、この釈迦如来像は一つの光背に脇侍を従えた一光三尊像であった事が確認されている、また本尊は解明された中金堂の基壇凝灰岩(ぎょうかいがん)から移動していない為創建時の尊像と言える。
日本最古の釈迦如来とされる尊像は長い間野晒し状態に置かれたが江戸時代に仮堂が出来て今日に至っている、日本最初の丈六鋳造佛であるが1196年の火災による損傷が大きく当初の部分は顔の上部
(鼻・両眼とその周辺)・螺髪の一部と右手の指三本のみである、北魏様式を踏襲している様で、後世の補修は比較的忠実に行はれたとされるが稚拙である。
日本書紀によると止利佛師の作とされるが元興寺縁起の関連から鞍部首名加羅爾(くらつくりのおびとなからに)や四部首・などの記述が見られる、久野健氏の著書「仏像の歴史」(山川出版社)で主張される別人説に説得力がある、
久野健の指摘を要約すると、鼻から上と右手指三本と左足程度が原型と観られる、その他の部位は12世紀晩年の火災の残片から型枠を起こして造像された、僧祗支(そうぎし)の上に着ける大衣(だいえ)に相違がある、先に造像されたとされる飛鳥寺大仏の大衣の装着が正確で法隆寺の釈迦三尊の装着は正しくない、法隆寺の仏師は正統な大衣に着け方を承知していなかったと言える、さらに久野氏は指と耳の形状の相違を写真で指摘されている、また指の関節の弧線が飛鳥寺は一本で法隆寺は二本であり、作者の相違を挙げられている。

漠然とこの地に立って崇仏戦争すなわち物部守屋と蘇我馬子の戦いを思うに、日本人の文化的遺伝子を持つ者として崇仏論と廃仏論の衝突で壮絶な戦が起こるのであろうかという疑問である、渡来系を含めた覇権争いであり、崇・廃仏論は後日オーソライズ化された建前でしないのだろうか。
蘇我馬子の長男・善徳(ぜんとこ)(蘇我入鹿と同一人物とか蘇我蝦夷の兄とも言われる)は法興寺すなわち飛鳥寺の初代寺司であり、大山説等で日本書紀などに記述される聖徳太子の原型とも言われている。
余談であるが飛鳥の語源は古代朝鮮語のアンスク即ち安住の地を意味すると言われている。


*朝日新聞2012921日夕刊から、早稲田大学文学学術院・大橋一章教授の「飛鳥大仏はほぼ飛鳥時代のまま残されていた」が発表された、事実なら大発見であろう、更に大阪大学などから調査が発表された、但し久野健氏の説との差は山の峰を挟んだ対極の位置、即ちコンフリクトconflict)の関係にある、法隆寺釈迦三尊との比較すると通肩と言う大衣の着衣法(先に完成したとされる飛鳥寺の通肩が正しく、後に造像された法隆寺の装着は間違いである)、手ひらの関節(皺の数に相違)、指の形状(貴人と労働者の指程)、耳などの形状等々同一の作者はむろん同じ造仏師集団の作とは考えられない相違点が観られる、根拠とされた銅の成分の一致に対しては溶解落下した銅で鋳直せば同一成分になる為に理由として説得力に乏しい。  
伝承化記事の多い日本書紀には飛鳥寺の場合は
(くら)部首名(つくりのおびとな)加羅(から)()などの記述が見られるが、飛鳥寺を詳細に記述した「元興寺縁起」に止利記述は無い、大橋一章説が正しいと仮定すれば当寺の釈迦如来は
止利の作ではない可能性が確定的と言える。
飛鳥大佛が近く国宝指定を受けるとの記述を見るが、現在に於いては1973年の奈良国立文化財研究所の発表や久野説を支持したい。
 
仏像の歴史 久野健 山川出版社 参照

元愛知県立芸術大学名誉教授・山崎隆之氏も大橋説に対して否定論者である。   

 住職 植島寶照(うえしまほうしょう)   真言宗豊山派(ぶざんは)   奈良県高市群明日香村大字飛鳥682   ℡ 0744542126 



1,  安居院とは元興寺の塔頭の一つで夏安居(げあんご)に由来する、安居とは発祥はインドで雨期などに托鉢行脚が出来ない時期に寂静な庵、すなわち阿蘭若(あらんにゃ)に於いて行う座禅を主とする修行を言い、夏安居・雨安居(うあんご)とも言われる、因みに飛鳥寺の敷地は現在の二十倍ほど、即ち南北320m、東西210mの境内に七堂伽藍を所持していたとされる。   

2、 藤原京四大寺とは・飛鳥寺 ・大官大寺 ・川原寺 ・薬師寺を言う。


釈迦如来 坐像  銅像  275,2cm   飛鳥時代 

       
    
   2020年4月19日 NHKブラタモリより転写




 



2010
23日 久野氏の指摘部分更新 2011412日清岩里寺の搭 2012611日基壇 2013年12月12日 2021年9月20日加筆  


  

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