釈迦如来               

                                              釈迦の教え    仏像案内     寺院案内      如来

梵語名 śākyamuni(シャーキャムニ、梵語)sakyai語)の音訳で、śākya族の聖者(尊者・muniの意訳即ち「尊者」である、釈迦族の釈+尊=釈尊とも呼ばれている、仏教学面から正確には「釈迦牟尼世尊」と言うが、略して「釈尊」と呼ばれる、また世尊とも言われる、人種的には諸説がありモンゴル系かアーリヤ系の何れかで現在のネパール領内のカピラヴァストウkapilavastuの出身でカーストはクシャトリア(13参照とされる、没年はBC483年、BC383年、BC543年等諸説が交錯する、是は主に南伝と北伝に相違があり南伝の方が早い様である。bc23)
細分化した訳を言えば、牟尼(むに)とは「聖者」、寂黙(じゃくもく)の聖者」すなわち修行をする聖者に対する尊称である、またカピラヴァストウは征服民族のアーリヤ系(英aryan,arierと征服された非アーリヤ系とが旨く混淆した地域と言われている、因みにインドśākya族等では「ゴータマ(姓)とは最上の牛、シッダールタ(名)は目的成就を意味する」Gotama Siddhatthaと云う意味合いとされる、またシッダsiddha)=成就、ーアッタattha=目的、即ち目的を適えたとなる 
因みに釈迦とは種族の名称で釈迦属śākya・梵語)の聖者を釈迦牟尼と言う、別姓としてゴーダマgotama個人名をシッダsiddhattha) siddha=成就した、attha=目的を合成し願いを叶えたとなり漢訳で悉達多(しつだった)太子となる、ゴータマ、i語でGautama Siddhārthaはゴー(gau=牛、タマtama=最も優れたを意味する、閑話休題、ブッダ(仏陀)とは「真理に目覚めた人」を意味し固有名詞ではない、佛教だけでなくジャイナ教等でもブッダと呼称されている。 

人間の真理を五濁悪世の娑婆に於いて説いたのが釈尊である、釈迦如来は仏教の初祖であり地域や時代を超えて総ての仏教宗派に於いて信仰を集める存在である、因みに瞿曇悉達多(クドン・シッダッタ)と漢訳される、因みに瞿曇とは釈尊が出家する前の本姓である、因みに娑婆とは梵語sasktaサハーの音訳であり、意訳では忍土(にんど)とか忍界と訳される。 
シャカムニとは釈迦族の聖者を意味し唯一実在が確実視される如来であるが、史書なきインド
(11参照)と言われる様に古代以来より、インド国民の行動様式の特殊性から正確な時期は定かではないが上記の紀元前4~5世紀と考えられる、釈尊の生涯に於ける行動に付いては、この時代の資料は存在せずバーリ語
i語)の正典より引用されたものとされている、さらに正典の出自も定かではなく様々に言われているが、宗祖である釈尊はデフォルメされた伝承に満ちているようだ、釈尊は時代や地域により変化し始める、即ち実在した釈迦族の聖者、から法華経の言う久遠の釈迦牟尼となり、華厳経などから毘盧遮那仏となる、更に密教では大日経(大毘盧遮那成佛神変加持経)から大日如来となる。
これは仏教に限らない、総ての宗教に言える事で初期のキリスト教に於いて強い勢力であったアリウス派では「イエスは神ではなく預言者」、としているが現在は三位一体神である。  
釈迦の伝承では「四門出遊(しもん-しゅつゆう)」等が著名で東門にて老人を見て老いの苦しみを知り、南門に於いて病人を見て病苦を知る、さらに西門では死の苦しみを知り北門で崇高な僧を見て出家を決断する等が伝えられている。
釈迦の伝承では「四門出遊(しもん-しゅつゆう)」等が著名で東門にて老人を見て老いの苦しみを知り、南門に於いて病人を見て病苦を知る、さらに西門では死の苦しみを知り北門で崇高な僧を見て出家を決断する等が伝えられている。
釈尊は出家して沙門となり、当時の宗教指導者アーラーラ・カーラーマ仙人を訪ね指導を受けるが、無所有処(むしょうしょ)すなわち総てのものはそこに存在しない三昧の境地を授かるが、飽きたらず仙人の下を離れる、無所有処は仏像成立以前は最高の境地とされた、しかし佛教は無色界四層に分類し、最高を「非想(ひそう)非非想(ひひそう)(しょ)」とし無所有処」は第三天とした、四層とは「空無辺処」「識無辺処」「無所有処」「非想非非想処」を言う、非想非非想処は佛教では全ての世界、宇宙の中でも上の世界、即ち有頂天とされる。 
実在の釈迦如来は釈牟尼すなわちGotama(ゴーダマ)族の聖者や最高の牛を意味し、釈牟尼世尊とも呼ばれるが通常は略称で釈尊と呼ばれている、閑話休題「しゃかむにぶつ」(釈迦牟尼佛)は呉音であるが、漢音で呼ばれる処がある即ち「せーきゃーぼーじーふ」となる。
Kapilavastu
(カピラバストゥ)国のśuddhodana(シュッドーダナ、浄飯(じょぼん)王)とmāyā(麻耶)との子で名前は悉達多・Siddhārtha(シッダルタ)と言う,但し前述のように人種系としてアーリヤ系かモンゴル系か定かではない、ただし悉達多時代に記述は「中阿含経・柔軟経(にゅうなんきょう)」には出家する以前に父親の悦頭檀王から与えられた環境が著されている、因みにシッタルタ(悉達多)は成就させる意味合いがあるとされる。 
この時代中央アジアからインドに侵攻し支配したアーリア人の興したバラモン教が硬直化し、支配層に対するアンチテーゼ
Antitheseから改革運動が盛んであったと推察される、釈尊は群雄割拠した宗教革命推進指導者の独りであったと考えられる。 

は出家の際に妻と子供(後の十大弟子の一人Rāhulaを残してマガダ国に行き沙門生活を送る、六年程苦行を行うが苦行荒行の無意味さを体感する、因みに苦行は元来バラモンの哲学であり、その中核である梵我一如も否定する、6年後35歳で覚りを開き仏陀となる、45年間の布教活動の後80歳で逝去したとされるが、没年は定かでなくBC383年~543年説など様々である。      

釈迦の四大聖地と呼ばれる場所に
1、生誕の処をルンビニ    Lumbini 
2
、成道の処をブッダガヤ   buddh gayā    
3
、初転法輪の処をサールナート m
agadāva    鹿野苑
4
、涅槃
(滅度)の処をクシナガラが挙げられ他に    kuśinagara    
祇樹(ぎじゅ)(ぎつ)孤独(こどく)園精舎すなわち祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)(サヘート
(Saheth祇園精舎跡)・マヘート(Maheth)舎衛城跡)
竹林精舎(ちくりんしょうじゃ)(ラージギール)    Venuvana-vihāra
・広巌城
(ヴエイーサーリー)等も聖地とされている。  
 19に八大聖地記述

その他重複するが「天竺五精舎(天竺五山)」と言う呼び名があり、竹林精舎、()樹給(じゅぎつ)孤独(こどく)(おん)精舎(祇園精舎)(あん)羅樹(らじゅ)(おん)精舎、大林精舎、(りょう)(じゅ)精舎が言われている、因みに天竺五精舎は日本に於ける臨済宗の京都五山、鎌倉五山の源である


菩提すなわち覚りを得て覚者となった釈尊は鹿野苑、菩提樹の下で比丘時代の仲間5名(五比丘)を相手に初説法を行う、次いで釈迦の十大弟子には入れられていないが、当時の宗教界の巨匠・迦葉兄弟(十大弟子の大迦葉とは別人で三迦葉と言う)の率いる大教団ゾロアスター教団や舎利弗及び目連の学派も傘下に入り1250人の弟子を有したと言う、この教団に貴賎の差別は存在しなかったが弟子達のカーストはバラモン・クシャトリア(13で多く占められ財政的に恵まれた人材が多く祇園精舎・竹林精舎等の寄進は活発と言えた、ちなみに祇園精舎(正式には祇樹給孤独園精舎)の寄進者は十大弟子の一人須菩提の伯父須達長者である、因みに優波離はカーストがシュードラ即ち奴隷階層の為か十大弟子の中で優波離だけ法華経に名前の記述は無い、即ち法華経の一分も釈迦の哲学から逸脱している。     
成道の後数年後に故郷に帰り阿難・優波離・息子の
羅睺羅(らごら)など十大弟子のメンバーを含め500人の弟子を獲得したと言う。   
釈尊は29歳で出家し35歳で如来となり80歳で無余涅槃(むよねはん)即ち永遠の覚りに就いたとされる、故郷へ向かう途中に食中毒で倒れクシナガラで沙羅双樹の間に横たわり生涯を終えた。       
遺体は荼毘にされた、仏舎利(シャリーラ、śarīra)は後に各地のストゥーパに分散して祀られたと言う、しかし1898年ビブラワー遺跡から英国人(ウイリアム・ペッペ)に依り発見された舎利は容器の銘文から釈迦の遺骨説(注6,仏舎利)が決定的である、因みにビブラワーとは釈尊が出家以前に過ごしたカピラ城のあった処でインドとネパールの国境付近を言う、
脱線するが荼毘とはパーリ語pāḷi語)jhāpetiからの音訳ジャ-ペーダから梵焼、荼毘となった。

仏滅後に仏陀の遺言を纏める会議即ち合誦(ごうじゅ)が行はれ、第一回は500人の結集でラージャグリハ郊外の七葉窟で行われた他、インドに於いて4度開かれたと言う、さらに仏滅後200年頃はマウリア朝のアショカ王Aśokaの元で千人結集、更に入滅後500年にクシャン朝のカニシュカ王Kanishkaの元で500人結集が行はれて経・律・論の論議がなされ経典作成が行われたとされる。 
釈迦の仏教の根幹は中道と言える、四諦とそれに伴う八正道
 釈迦の教え・十二因縁(注7であろう、中道とは梵語でmadhyamā pratipad(マドヤマー・プラティパド)と言い苦行と欲楽に偏らず八正道を行う事で覚りを完成させる事であるが、有無・断常・一異に極度の対立概念を止めることにある、竜樹は「中論」に於いて縁起と空を中道とした。
仏教の教祖である釈迦と他の世界宗教の教祖との相違を挙げると釈迦は悠久からの真理の覚りであり、神からの啓示や天使の取次ぎから成立した宗教ではない。
要するに初期の仏教は神に対してサルベージを求めるキリスト教イスラム教と違い自らを切り開く哲学である、涅槃経に言う絶対不変は存在せず仮の姿であり滅びる、真理
(仏法)を求めよと言う。
釈迦如来の滅度後、暫く造像は禁止されたが後世になり「仏足跡」や
の説いた法を車輪にたとえた「法輪」を崇拝する時代を経て、いろいろな釈迦像が制作された、釈迦の教義は大衆の心の悩みを解決する事にあって、バラモンの持つ加持祈祷・儀式至上主義や階級制度の否定にあるが後に大乗仏教の興隆で釈迦の仏教とは異質な教義となる。
釈迦の
教団では僧の階級はカーストによる出自とは無関係で、出家後の年数で決められたとされる。
外形的な行為では成就出来ないとして自己の内面から行う変革が求められた、その基本となる教義が四諦・八正道や十二因縁
(注7などとされる。
最初の説法は鹿野苑
(mngadāva ムリガダーバ)5人の比丘(びく)に対して行われた、マガダ国の王舎城とコーサラ国のシュラーバスの舎衛城・園精舎・竹林精舎を中心に45年教化活動しKuśinagara(クシナガラ) に於いて沙羅双樹の下で入滅した、弟子たちは悲しみの中で釈尊の伝導使命が終わる「化縁(けえん)完了」による「任意捨命(しゃみょう)」と考えたと言う、因みに捨命とは 覚りのために命を捨てる。 

因みに舎衛城とは梵語でŚrāvastī(シュラーヴァスティー)pali語でSāvatthī(サーヴァッティー)と言い、仏教布教の拠点と言われ大智度論では釈尊は25年間居住したとされた處とされる、鄥陀衍那王刻壇(うだやなおうこくだん)の仏像、すなわち優填思慕像であるが、大唐西域記の他に玄奘が漢訳した「大般若経」を初め「増一阿含経」「大乗造像功徳経」「作仏形像経」「作仏形像経」等から微妙な相違で記述されている。
日本に於ける釈迦如来像は、日本書紀に拠れば仏教公伝即ち538年百済の聖明王から金銅釈像が請来したとされる、国内では遺品は多く存在するが飛鳥寺法隆寺等の本尊が飛鳥時代の作とされる、釈迦如来像は独尊で造像される事が多いが、大乗仏教の興隆と共に下化衆生に努める菩薩が必要となり、脇侍に文殊菩薩普賢菩薩を従えたり十大弟子八部衆の眷属を従える場合がある。
また法隆寺本堂の釈迦三尊像と興福寺中金堂は薬王菩薩・薬上菩薩を脇侍としている、これらの多くは偏袒右肩で施無畏・与願印や説法印を結び結跏趺坐するが、平安時代以後は室生寺清凉寺
(優王思慕像)に代表される立像も現れる、但し禅宗系寺院では法界定印の像が多く安置されている。施無畏、与願像の源流は伝承ではブッダが麻耶夫人の説法に天に出掛けたまま帰らない為にカウシャンビー国のウダヤナ(優填王)牛頭栴檀(ごすせんだん)で刻んだ釈迦像とされ仏像発生の起源とされる伝承像である、その模刻像すなわち瑞像(注10東大寺の僧・奝然(ちょうねん)が持ち帰り清凉寺に安置され更にその模刻像は日本に於いて100尊を超える(10 

玄奘の「大唐西域記」に拠れば、この釈迦如来像を見ており模刻像を持ち帰り、それを奝然が更に模刻した瑞像とされている。
釈迦が興した仏教には大別して二つの流れがあり上座部
(小乗)の応身仏としての釈迦如来と法華経などにより神格化された久遠実情(注12すなわち大乗の釈迦如来とがある、この神格化は転輪聖王(てんりんじょうおう)をイメージしたとされる、転輪聖王(注24とは転輪王とも言い古代インドの伝説上の英雄神である、転輪聖王は理想的かつ完璧な王としての充分条件を備えている。
法華経11章・見宝塔品」を源流とした文化財には南無妙法蓮華経の墨書に多宝如来と併坐して描かれた書や長谷寺の国宝「法華説法図
」(千仏多宝塔板)などがある、二仏併坐の代表例として鑑真と共に請来伝承を持ち、創建時の東大寺戒壇院に置かれたとされる像があり奈良国立博物館(銅像 釈迦如来25,0cm、多宝如来24,2cmに寄託されている、なお模刻像は現在戒壇院に安置されている。(多宝如来は三尊様式と他の如来‐古寺散策 13参照)
釈尊を仏陀(覚者)すなわちbuddha(ブッダ)とも呼ぶが、中国に於いて「浮図・ふと」と音訳され、日本に伝わり「ほと」に変わり末尾に「け」が加わり「ほとけ」になったと言われる、また仏(ぶつ)buddhaからdhaが抜けたと言われている(高崎直道著より、仏教入門、東大出版会)
大乗仏教の興りに伴い多くの如来群が派生するが、歴史的に観れば全ての如来は釈迦如来から派生した尊格である、姿形として持物や冠等の装飾品を身に着けず坐像・立像に誕生仏・苦行像・降魔成道・涅槃像
(注9が作られたが、日本では大乗仏教による久遠実状の釈迦が信仰された為に修行中の像は極めて少なく、成道後の姿を表す施無畏(不安の除去)・与願(願いの成就)印が多い、これを通仏相(つうゆうそう)と呼ばれ平安初期以前の薬師如来もこの形をとる、また釈迦の五印(注2と言われる印相(ムドラー・Mudra・梵 注)に・定印 ・降魔印 ・施無畏印 ・与願印 ・説法印(転法輪)が言われる。

印相に付いて述べれば、印相の原型は言語以前からの可能性があるが、形態化したのはバラモンが嚆矢と言える、神と人との交流の手段として祭祀に利用される音曲や舞踏に於いて手が重要な役割を担っている、印相は仏教に於いては釈迦五印が古い。
日本に於いて釈尊の印相
(注25は施無畏、与願印の像が大部分を占めるが、インド等では誕生仏、初転法輪、千仏化現、三道宝階降下、説法印像、苦行像、降魔成道図、涅槃図など釈迦八相像と言い多様に作られている、宝冠仏も多く造像され812世紀インドに於ける最後の仏教美術を生んだとされるパーラ朝の作品が残されている、代表作にボストン美術館所蔵の宝冠をいただき瓔珞(ようらく)を着けた釈迦八相像がある、転法輪印は日本では希少であるがインドに於いては転法輪如来として、エローラ10窟、バルコニー・ニューデリー国立博物館などにあり、金剛頂経に於ける大日如来の結ぶ智拳印の源と言われている。
釈迦如来を初めとして如来像は坐像と立像があるが金堂に本尊として安置された像が坐像で結跏趺坐をしている、一方釈迦の説法をしながらの遊行姿を基本とするのが立像であり、薬師如来など他の如来にも踏襲されている。

仏教に於いては智慧と行の均衡を重要視される、日本の釈迦三尊は一生補処
(注21)とも言える・慈悲行の普賢菩薩 ・智慧の文殊菩薩を脇侍とする例が多いが、他国に於いては敦煌壁画があるが日本独自の配置に近く、中国などは釈迦の眷属として十大弟子の阿難陀・大迦葉を従えている三尊像が多く存在している、又当時生前の釈迦の身長は八尺との伝承もあり、八尺や丈六の像が常識的あるのに対して法隆寺金堂の釈迦は87,5cmと同時代の像と比較して小さい、また脇侍に薬上菩薩・薬王菩薩を従えている、この様式は文化財指定では法隆寺以外に現存例は無く薬王薬上二菩薩経に拠れば主尊は薬師如来とした方が説得力に於いて優るのではないかと思はれる。
この釈迦如来の源流と言える像は
雲崗第十六窟の如来立像や龍門石窟賓陽中洞の本尊等著名な石窟寺院(注14に見ることが出来る。
この像の背面に推古三〇年の造像銘が刻まれている中に聖徳太子と妃の病平癒を願ってとあるようだがこの像を作った仏師は薬師如来の制作を目指していたが、制作中に太子夫妻が死亡したので名称変更したのではないか。
法隆寺は阿弥陀如来と思しき尊像を阿閦如来とする等一時期密教化した時代があり、その名残が感じられるが密教に於ける釈迦如来の影響力は比較的低い、大日如来を唯一の「普門総徳の尊」
(注17とするのに対して、変化尊か実動部隊的な処遇の「一門別徳の尊」でしかない、曼茶羅には胎蔵界曼荼羅の釈迦院があるが文殊院や虚空蔵院と同程度の空間しか与えられていない、また金剛界曼荼羅には存在しない、東寺では不空成就如来(金剛界・成身会の北尊)を釈迦と同尊と解釈しているがその根拠は明確ではない、また密号では不空成就如来は成就金剛・悉地(しつじ)金剛であり釈尊の寂静(じゃくじょう)金剛とは相違がある、但し小峰彌彦氏(曼荼羅の見方・大法輪閣)に依れば金剛界曼荼羅を感得した金剛界如来の菩薩時代の呼称がが「一切義成就如来」と言い梵語では釈尊の成道前の名・シッダールダを同じ意味を持つ名と言われる(一切義成就如来の梵語名・sarvā rasidhi sarvā サルバアルタシッデイ アルタ=義  シッデイ=成就で シッデイとアルタをシッダールタとなる)。                                sarva tathāgata    
釈迦如来は密教名すなわち密号を寂静金剛と言う、密号とは密教に於ける結縁灌頂に使用される呼称を言い金剛号・灌頂号等と呼ばれる、因みに悉地(しつじ)とは梵語Siddhiの音訳で真言の秘法を成就した悟りの境地を言う。
釈迦如来の特徴として浄土を持たない、全ての如来菩薩などが自身の浄土を持つのに対して、実在した覚者である釈尊は自土仏であり娑婆すなわち五濁悪世(ごじょくあくせい)穢土(えど)に留まり衆生の救済(悲華経)に努めるためとされる、自土仏が出たので脱線するが、釈迦如来は娑婆世界(自土)の教主であり経典に詠まれる「仏」「仏説」とは、密教を除けば釈尊の事である、
釈尊は呪術に対して厳しく厳禁し神通力の使用も制限した、但し釈尊は超能力を持ち呪法にも精通している様な解釈される伝記、伝説に事欠かない。

また異形として宝冠・瓔珞(ようらく)などをつけた釈迦如来は宝冠釈迦如来と言う、埼玉県(金剛院・金錫寺)・鎌倉の円覚寺や建長寺 ・京都の東福寺(三門二階) ・安国寺などに数点存在する、円覚寺などは創建時は盧那仏であった様であるが、華厳経に記述される那仏と釈迦如来の同尊とされる拠り所からきている、武村牧男氏(華厳五教章を読む 春秋社)に依れば華厳経は釈迦の”自ら内に証した世界”即ち「自内証」を説いた経典と言う、要するに釈尊の自内証が毘盧遮那仏と言う事になる、因みに自内証とは如来(仏)の覚りの境地を言う、この形態は禅宗系寺院に観られる、因みに道元の正法眼蔵(三十七品菩提分法には「寂黙凝然(じゃくもくぎょうぜん)はこれ真実なり」とある。
2001
1月現在、我が国に国宝七尊を含む122尊の重要文化財指定の尊像が存在する、像の主な分布として奈良県28(18箇所)京都府23 滋賀県16尊となる。
また絵画に於いても阿弥陀如来画に次いで多く指定されており国宝2点、神護寺・独尊の釈迦如来像即ち赤釈迦は平安後期の傑作と言える、・京都国立博物館の釈迦金棺出現図・金剛峯寺の仏涅槃図を含む45点が文化財指定されている。
但し仏涅槃図19点を加えると
(国宝・金剛峯寺)阿弥陀如来図より多くなる。

「過去現在因果経」(求那跋陀羅訳、四巻)と言う経典があり、釈尊の前世に於ける善行から現世で覚者と成るまでの伝記を説いた経典である。

関連する写本に絵画を挿入した作品があり、京都市北区紫野十二坊町 上品蓮台寺所蔵の絵因果経紙本著色 巻子装 26,41036,3奈良時代)は国宝に指定されている。
多くの人々に知られ宗派に関らず釈尊に関する祭会には、48日の花祭りは日本に於いては釈尊の誕生日としておりこれを「降誕会(ごうたんえ)」と言う、また入滅の日を「涅槃会」と言い215日に定めている、また覚者となった日を「成道会」と言い128日としている,因みに成仏道会の採用は道元による曹洞宗が嚆矢とされる、禅宗系では釈尊の成道記念して12月には昼夜8日間,座禅する「臘八接心(ろうはちせっしん)」も行われる。

明治大正期の仏教史学者・村上専精(せんしょう)(注18の「仏教統一論」
(P339の最後尾を紹介する「‐‐密教家にありて、釈迦・大日の同体論あれば、大日といえども釈迦に外ならずというべく、又浄土教家にありて弥陀・釈迦の同体論有れば、弥陀といえども釈迦に外ならずというべし。然れば仏陀の名号その数極めて多しといえども、釈迦一仏以外に出でずというも、敢えて何の不可これあらんや。蓋し密教家にありて釈迦・大日の同体説を唄うるや、大日中心の一仏説を(りつ)せんが為なり、又浄土教家にありて弥陀・釈迦同体説を唄うるや、弥陀中心の一仏説を立せんが為なり。然るに今や密教家としてこれを論ぜんとするにあらず、‐‐‐‐‐歴史的にこれを観れば、大日も弥陀も共に釈迦に対する発展形なり‐‐‐‐‐」と総ての仏は釈迦如来一仏と記述している。 

佛教の祖は釈迦如来であるが、理趣経関連の「般若理趣分」「実相般若経」「七巻理趣経」と進むに従い釈迦から毘盧遮那への進行の変化が記されている。

現在インドに於ける釈尊の位置付けであるが、ヒンドウー教社会では釈尊もヴィシュヌ神Viṣṇuの化身すなわち交替神の一尊扱いの様である。 
    
 応身仏
(注3      真言 ノウマクサンマンダ ボダナンバク   

 



 1   2    3    4

1岐阜大仏 釈迦如来  像高13.7m(東大寺14.86毘盧遮那仏)(鎌倉大仏11.387m、阿弥陀如来)木竹芯乾漆造(紙張貫像とも言える)、著色、施無畏不安の除去)与願(願いを叶える)印。黄檗宗金鳳山正法寺(岐阜市大仏町)  38年を要して1832年(正保3年)完成

2願興寺 釈迦如来 重要文化財 逆転法輪印(法華経を説く印) 像高 0.76m  鎌倉時代 

3、真長寺 釈迦如来 重要文化財  施無畏与願印  漆箔  283,0㎝ 藤原時代    岐阜市三輪  

4,大仏寺(羽島市)釈迦如来 定印(釈尊が覚り時の印形) 青銅製 4,9m  江戸時代  


*現在に於ける日本最大の仏像は牛久大仏と呼ばれる阿弥陀如来像で、総高120m、総重量4000t、螺髪のサイズ1m200㎏ 鉄骨銅板化粧で平成411月完成した、東本願寺(茨城県牛久市久野)。
*鎌倉大仏に付いて1896年(明治29年)に英国籍から日本国籍を取得したラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)即ち”小泉八雲”は「東洋的微笑」と評した。



1、釈迦八相、  釈迦の生涯を八段階の事蹟に分けて「八相成道」若しくは「釈迦八相」と言う。
経典により相違があるが・下天(降兜率)・託胎(入胎)・誕生(出胎)・出家・降魔(誘惑に勝つ)・成道(悟り)・転法輪 (説法)・涅槃(入滅)などインドではこれらの像が制作された。
釈迦本来は教えの中で(上座部)は与願・加持祈祷などは否定していた、これらは仏伝の釈迦とされるが日本では施無畏・与願印を結ぶ久遠実状の釈迦が大半を占める。例外的に深大寺の倚像・観心寺の半跏像・願興寺の転法輪像が存在するが中国などでは多様な像が多い。 
転法輪とは仏の説法を言い、教義即ち法の輪宝を転がす事を言う、ちなみに大法螺も本来は転法輪と意味を同じくする。
釈尊と毘盧遮那仏の関連に付いて華厳経六十華厳に釈迦如来の発展形すなわち同格異尊として登場し、梵網経に於いて独立した別尊として扱われる様に為る。
日本では大乗佛教
Mahāyānaであり釈迦八相であるが上座部(theravāda)では菩薩、明王等の姿は無いが、ラオス、ビエンチャンの博物館では四十五種にもなる姿がある。   


注2、 釈迦五印(基本五印) 釈迦の示す基本印で ・施無畏印(指を上に手のひらを見せる)不安の除去 ・与願印(指を下に手の平を受けるか見せる)願いを適える ・定印(瞑想中) ・降魔印(手の甲を下に人差し指を下に向ける)誘惑を退散させる ・説法印(転法輪とも呼ばれ・両手を胸の前に置き手首を捻る印、鹿野園に於いて初説法を行った印相)がある、印相(ムドラー・Mudra・梵)と言う

3 応身仏とは衆生を導く為に顕した仏身で成道と入滅を行い、釈迦如来をさす、因みに注3~注5を「仏の三身」と言う,仏の三身とは 「法身・報身・応身」を言う、しかし「大釈同異」と言われるように大日如来と釈迦如来別体説と大釈同体説がある様に解釈は分かれる。


仏身観・仏の三身trikaya「法身・報身・応身」を言う、しかし「大釈同異」と言われるように大日如来と釈迦如来別体説と大釈同体説がある様に解釈は分かれる。
十地経論・巻3に依れば三身論が言われ以下の様になる、この三層の構造は日本に於いて大日如来の宇宙佛・遍満佛としてのパワーと頼富元宏氏は言う。
但し仏の三身と言う解釈は日本独自のもので、インドに於いては、総てが釈迦如来であり毘盧遮那も大日如来等は別尊には扱われていない、要するに大日も阿弥陀も釈尊と同一の尊格である。

    法身仏
dharna-kāya)とは 宇宙の真理そのもので悠久の過去から未来まで仏の王者とも言える、毘盧舎那仏大日如来を言い真理を擬人化した仏を言う。

    報身仏sabhoga-kāyaとは 菩薩が修行と善行の報いにより到達する姿を仏身で顕したもので阿弥陀如来薬師如来などを言、概ね他土仏が範疇に入る。 
    応身仏nirmāna-kāya)とは衆生を導く為に顕した仏身で成道と入滅を行う如来で、釈迦如来を言い、釈尊は現在劫すなわち賢劫の自土仏である。  


4、報身仏とは修行の結果成道し永遠の仏となる、阿弥陀如来薬師如来などを言う。

5、法身仏とは宇宙の真理そのもので悠久の過去から未来まで仏の王者とも言え、毘盧舎那仏大日如来を言う。
中期密教では法身所説すなわち説いた仏による覚りのランクが付けられている、要するに法身仏である大日如来の教えは最高位にあり他の如来教えは下位と言う。  

6、仏舎利 śarīra  1898年インド北部のピプラワー
Piprahwaの塔遺跡からウイリアム・ペッペと言う英国人に依り発見された舎利śarīraは容器の古代文字銘文から、釈迦如来の遺骨と定説化され後にタイ国(シャム)に分骨された、 我が国は1900年タイ国のチュラロンコン国王(ラマ五世)から贈呈され、1904年から名古屋市の覚王山・日泰寺(当初は日(せん)寺)の奉安塔(舎利塔)に安置されている、奉安塔の設計は当時の伊東忠太東大教授18671121日(慶応)~1954年(昭和29 年)手による、銘文には「釈迦族の聖者を祠る」と言う意味であったと言う、因みに伊東忠太の代表作は・築地本願寺・平安神宮・橿原神宮・明治神宮などがある
山号の覚王山は覚者の王、即ち釈迦如来を意味しておりタイ国の関連から日泰寺とされた、日泰寺は日本に於ける十三宗五十六派が共同で受け入れ現在十九宗で三年毎に住職を勤めている、他に同じ容器から発見された舎利はニューデリー国立博物館にある。 

本来仏舎利を納める卒塔婆すなわち塔は、インドに於いては古来から二種類が存在している、1、釈尊の遺骨を収納する「真身舎利塔」と経典を法舎利として供養する「法身舎利塔」とがある、但し真身舎利には量的に限度がある為に宝石、香木、等で代用された。
*ピプラワーの遺跡であるが1972年に再発掘が行われ1898年発掘の更に下部から舎利容器等が発掘されて定説は混沌としてきた。   

注7、十二因縁(じゅうにいんねん)
(dvādaśāga-pratītyasamutpāda)過去・現在・未来の三世の輪廻を示す因果を言い、十二縁起とも言われる釈迦が覚ったとされる因果法則で、無明(むみょう)から老死に至るまでの順観すなわち苦悩を滅ぼす為の条件を系列化・四諦からの解脱方法を言う。
因縁と縁起の区分であるが、鳩摩羅什訳に於いては十二因縁と訳され、玄奘訳では十二縁起と訳されている。
1、無明  
2、行(ぎょう)(以上過去の因)  
3、識(しき)  
4、名色(みょうしき)  
5、六処  
6、触(そく)  
7、受(以上現在の果)  
8、愛  
9、取  
10、有(う)(以上現在の因)  
11、生  
12、老死(以上未来の果)

8、如来には如来十号と言い多くの呼称がある、 如来  応供(おうぐ)  正等覚(しょうとうかく)  明行足(みょうぎょうそく)  善逝(ぜんぜい)  世間解  無上仕(むじょうし)  調御丈夫(ちょうごじょうぶ)  天人師  世尊 などを言い、詳細は仏像編注3、を参照願います。 世尊の別称と言える佛教用語に薄迦梵(ばかぼん)がある、梵語バガヴァットbhagavatの音訳で神秘性を持たせる時に用いられる、最初期には浮屠(ふと)と漢訳されたこともある。

9、釈迦如来は施無畏・与願印が多いが釈迦五印と言い説法印・禅宗系に多い定印・降魔印が加わる、定印釈迦如来の重文指定に法隆寺清凉寺・慈眼寺などに約十尊存在する。(いずれも坐像)また説法印(転法輪)は極楽寺(鎌倉)坐像 ・願興寺(岐阜県・御嵩町)が重文指定であり、願興寺の場合は逆転法輪であり法華経を説いているとされる。

10、清凉寺式の像はコーシャンビーの国王である鄥陀衍那王彫壇(うだやなおうこくだん)」・優填王思慕像(うてんおうしぼぞう)」とも言う、この伝承は「作仏形像(さぶつぎょうぞう)経」「造立形像福報経」「大乗造像功徳経」「増一阿含経」等に部分掲載されているが、伝説上の信仰対象として「瑞像(ずいぞう)」の範疇に属し仏像製作の起源との説もある、また瑞像は模刻が繰り返され清凉寺(注3、参照)の像も奝然請来の模刻像である、また教王護国寺毘沙門天も瑞像と言われる。清凉寺の釈迦如来は伝説上仏像製作の起源と成った像の模刻である。
因みに牛頭栴檀(ごすせんだん)とは牛頭山に於いて採取された香木を言う。
   

優填王(うてんのう)Udayana思慕像、 瑞像古代インドの国王Udayana 優填(うてん)王)が初めて釈迦像を栴檀(せんだん)即ち香木を用いて造立したとの伝説上の仏像を言う、伝承では覚者と成った釈迦如来が母堂である麻耶夫人の説法に三か月間天界に赴き娑婆を開けた為に思慕した優填王の為に目犍連が工人を伴い天空で釈尊を写刻して造像させたとされる、清凉寺に蔵する釈迦像はそれを模したものとされる。
因みに螺髪に付いて「方広大荘厳経」に依れば螺髪は右遶(うじょう)で色は青紺であると言う、是はインドに於ける礼法であり貴に対しては三度の右遶(右曲がり)が礼として仏教に引き継がれている。


11 史書なきインド  インド哲学は古来よりエジプトと並び最高峰にある、因明(いんみょう)すなわち論理性に卓越した国民性を生みだしたが,劫単位の長いスパンで時間を計るエトスと輪廻転生の信仰から歴史に学ぶ中国とは対照的に、歴史的に考察する思想が育つ事は困難であった。  

 


12久遠実成の釈迦 Mgadāva (鹿野苑ムリガダーバ)で初説法した実在の釈迦ではなく法華経を論拠とし方便を駆使し神格化された釈迦で、本来の姿(本地)を具体的(迹)な姿すなわち釈迦如来を言う,表現を変えれば宇宙の真理を実在した事のある釈迦如来に投影(変換)された。
即ち法華経如来寿量品第十六に説かれており久遠の過去に釈尊は覚りを得ており実在の釈迦如来は仮の姿と言う。

13カースト  ラテン語の castus (カストウス)が語源であり純血、血統を意味する、BC10世紀以前からインドに存在する身分制度で「家柄・血統」と訳され、一族のすべては生涯変更される事はない。
インドに於いては
カーストと輪廻転生は車の両輪でありインド思想社会を構成していたと言える、どのカーストに生を受けるかは前世・前々世からの業により決められておりキリスト教の様な予定説は存在しない。
釈迦は
カーストについては梵我一如(永遠の至福・万物の絶対永遠性)と共に否定したが、仏教の影響力の衰えと、ヒンヅー教の興隆により復活し現在にも生きている。
基本的には四階級と言われるが、事実上は五階級に分類され、さらに夫々が細かく分類される
、制圧民族のアーリア人は上位3位までを占め4位にドラピタ人など先住民が位置した。  
1 ブラーフマナ・バラモン(婆羅門)司祭と訳され聖職に付き式典の祭主を勤める。  brāhmaa   
2 クシャトリアと呼ばれ王族・貴族・武士などを指す。                    ksatriya      
3 ビアイシャと言い平民を指す。                                 viaśya            
4 シュードラと言い賎民を言い卑しいとされる職業に就き13に奉仕する。       śūdra  
5 アチュートとかダリット(Dalit)と言いカーストの枠内に入れない不可蝕賎民で職業に就く事も出来ない階層を言い、約一億人に上ると言う。


14、石窟寺院 山は精霊の住む場所であり、そこに彫られた石窟はガルバ(子宮)と呼ばれ戒律を遵守し石窟瞑想の世界に於いて覚りを目指す格好の場所である、石窟寺院は人里から隔離されているが交通の要路近くに彫られており、水・寒暖に優しいところが選ばれている、代表的な石窟寺院にインドではアジャンター・エローラ・アフガンのバーミヤン・中国の敦煌・雲崗・龍門・朝鮮の石窟庵等が挙げられる。

15、釈迦在世当寺の教団内に於ける呼び名について文学博士・田上太秀氏に拠れば釈迦も阿羅漢(アルハット arhat)と呼ばれたとされ、また釈迦も弟子の内でも優れた人には阿羅漢と呼んだという、また優れた弟子達には仏陀(buddha)とも呼んだと言う、しかし仏滅後は神格化が進行し釈迦を阿羅漢、弟子を仏陀とは呼ばれなくなったとされる。(仏像散策・東京書籍)


16、末法思想と三時観  中国の僧で天台智顗(ちぎ)の師である、慧思(     えし)515577年)による歴史観でもある、三時思想とも言い阿含経に拠れば釈迦如来の入滅後に弥勒佛の現れるまでの空白期間を示す正法・像法・末法を言う、当初は正法・像法が言われたが六世紀頃にインドで三時観となる、釈尊入滅後に於ける佛教流布期間を三期間の分類したもので正法は釈尊の教えが正しく伝わり、像法に於いてはやや形骸化するが教えの形は守られる、末法に到り経典は残るが漸衰滅亡すると言う、閑話休題、五木寛之は像法をコピーの時代と言う。

三時思想に付いて六世紀中国に於いて三階教と言う宗派があって行基に影響を与えたとの説もある、三階教とは六世紀末中国の北斉で起った宗派で行基に影響を与えた、三時観の分類を利用して、現在は三階即ち末法であるとして「大方広十輪経」「大集経」「明三階仏法」「略明法界衆生機浅深法」を依経として既成宗派と対抗した宗派である
「大集経」などに依れば個々の期間は五百年・千年など諸説があるがしだいに「大悲心経」を依経とした千年説が広がる、これは中国に佛教が伝来時には末法にならない為に調整したとも考えられる、また一時観を千年とした根拠は、中国に於いては釈尊の生誕はBC948年としている、これは孔子よりも先に生誕した様に記録したかったとされる、
三時観は日本に伝わり最澄が重要視し「守護国界章」を著している、定かではないが「末法燈明記」も最澄の著作と言われている、因みに末法燈明記に依れば正法五百年、像法千年、末法一万年とされている、これは「大集月蔵分」「法滅尽品」「摩訶麻耶経」等も同様である。
天台宗の「法華玄義」巻五のと「十地経論」巻三に「教行証」「大乗法苑義林章」等に依れば、佛法とは・証・行・教を言い正法とは三時が揃う事を言い、像法は証が失われ末法は証と行が失われる教のみが残る事を云う、証とは絶対知の感得を言い行は絶対知の感得の為の修行を言われる、また教は絶対知を感得する案内書すなわち経典を指す。
末法を法滅と言い経典も無く壊滅的な時代を言い末法の後、すなわち「法滅期」となる解釈もある、
経道滅尽(きょうどうめつじん)(saddharma-vipralopa)すなわち法滅とは仏法の滅びる事をいう、正法・像法・末法の三時を過ぎると仏法は滅尽すると「大方等大集経」の第55券である月藏分の分布閻浮提品に書記述されている、因みに観無量寿経に記述には経道滅尽になっても観無量寿経は百年存続するとされる。 
但し涅槃経には末法の中から再び、仏法が再生すると説かれている、因みに
涅槃とはニルヴァーナnirvāaと言いニルは「外へ」、ヴァーナは「吹き消す」を意味する     

仏陀とは梵語でbuddha即ち、目覚めた人、目覚めの意味を持つ、「朝睡眠から目覚めても仏陀になる」と言える。



17、 密教に於いては大日如来の変化や実動部隊として各尊(如来・菩薩等)が存在するが、大日如来を「普門総徳の尊」と言いその他の尊格を「一門別徳の尊」と言う。

18、村上専精(せんしょう) (18511929年) 仏教史学者、近代仏教学の草分け的存在で東京帝国大学インド哲学の初代教授、「仏教統一論」を著し富永仲基(1715年~1746年)の大乗秘仏説を事実上肯定し真宗大谷派の僧籍を剥奪された、その他の著作に「大乗仏説論批判」「仏教三大宗摘要」「日本佛教一貫論」「日本仏教史綱」等々.

19、八大聖地 
釈尊の八大聖地とされる場所がありはガンジス川流域の通商路に沿ったバラモンの拠点近くに存在した。

1、 ルンビニ、―――生誕地。                                                              
2
、ブッダガヤ、―――覚りの地。  
3
、サールナート、―――初転法輪地。  
4
、ラージギル、―――初布教の地。  
5
、サヘート・マヘート、―――教団本部の地、祇園精舎・舎衛城。  
6
、サンカーシャ、―――昇天の地、亡母の為に説法。  
7
、バイシャリー、―――最後の旅、最終安居地。  
8
、クシナガラ、―――涅槃即ち入滅の地.

20、 娑羅双樹 
 通常日本では「夏椿」を娑羅双樹と呼んでいるが釈尊入滅の時頭上に咲いていた、佛教本来の娑羅双樹は「ふたばがき科」(二葉柿科Dipterocarpaceae)の植物である。

平家物語の冒頭にある、「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 娑羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす」と書かれている娑羅双樹の木はインドやミャンマー等に育つ樹木で日本では温室しか維持出来ない。

注21、一生補処(いっしょうふしょ) 
(梵語eka-jāti-pratibaddha・異本eka-jāti-pratibaddha)とは略して「補処の菩薩」とも言い、菩薩の最高位の等覚(とうがく)にあり現在は因位にあるが、次回に娑婆に下生(げしょう)したら如来(覚者)となる事が約束されている菩薩、即ち弥勒菩薩を言う、因みに仏の位置を「仏処」「果位」とも言う、脇侍を務める普賢、文殊、観音、勢至、日光、月光の脇侍菩薩も一生補処の菩薩と言える。    因位(いん)(菩薩)⇔果位(かい)(如来)



                                                  娑羅双樹 スリランカ 仏歯寺(ダラダー・マーリガーワ寺院) 


22、世尊を意味する婆伽梵と言う熟語がある、梵語のバガバーン(hagavat)の事でリグ・ベーダ聖典にも表れる、因みに佛教的解釈では世は人々を言い、尊は師及び尊を意味する、また立川武蔵氏はバガは祭礼後お供えの御下がり、を言う、従ってバーンは所持する者で「恵みを与えるもの」即ち神を意味すると言う、こるがバガバテーとすれば女神になると言う、漫画の天才バカボンはバガバーンがモデルと言われている、またbhaga (幸運、繁栄) vat (を有するもの) の結合したものとの解釈がある。


注23、年号であるが、西暦を AD○○年と記述される、ADとはAnno Domini(アンノドミニ)の略である、イエス生誕からのカウントであるが、「神の後」とも訳されている、因みにキリスト生誕以前をBC即ちBefore Christ と記述される、因みに近年ではキリスト生誕はAD1年ではなく、BC47年説が有力視されている、新約聖書ではイエスの生誕日に関する記述は見つけられない。


注24、転輪聖王とは世界を法に於いて統括する古代からの理想的とされる王(英雄)の姿を言う、梵語ではチャクラヴァルティラージャンcakravartiraajan)orチャクラヴァルティンcakravartin)という、Cakraは「輪」、vartinは「動かすもの」を意味する。

注25、 
印相とはバラモンをルーツとした表示である、梵語ムドラーmudraa)の漢訳で「印」「印契」等とも言う、長期に渡り熟成された印相の数は数千とも数万とも言われる。
印を最初に示した経典は「()()曼荼羅(じゅ)経」と言い十六種の印相が説かれている。
合掌印の起源は五千年以上の歴史を有する、インドの風習で最古に属する印相でアンジャリ プラーナヤマAñjali Pra
āyama)と言い、降伏帰順・武器を所持しない証、帰依崇拝から挨拶になった、現在でも印度での挨拶は合掌からである




主な釈迦如来像   表内は国宝    ●印国指定重文  (鏡像・絵画を除く)             

寺      名  

仕                様  

 時    代      

 法隆寺 金堂  

 坐像 銅造 三尊 中86,4 左90,7 右92 ,4  

 飛鳥時代      

 法隆寺 上御堂  

 木造 坐像 三尊 中227,9 左155,7 右153,9 

 藤原時代  

 東大寺   (誕生仏)  

 立像  銅像             47,0  

 天平時代  

 室生寺   (弥勒堂)  

 立像 木造(榧・かや)彩色      105,8  

 平安時代  

 室生寺   (金堂)  

 立像 木造彩色 薬師如来説が有力  237,7㎝      

 平安時代  

 清凉寺  

 立像 木造(桜材)         160,0  

 宋 時代  

 蟹満寺   (京都府)  

 坐像 銅像  印形に特徴      240,3  

 白鳳時代  

        

       

       

 金剛峯寺   

 仏龕 木造 白檀 菩薩・羅漢と共に   23,1  

 唐 時代  

  神護寺  絹本着色   159.4×85.5cm  平安時代
  京都国立博物館  釈迦金棺出現図 絹本著色 160.0×229.5cm   平安時代 
*法隆寺金堂の釈迦三尊像の脇侍は後部は制作されず板が埋め込まれ、他に類例の見当たらない構造である

●深大寺(東京都調布市)(倚)像 銅像 60,6㎝ 白鳳時代
安居院(飛鳥寺)坐像 銅像 275,2㎝ 飛鳥時代   
興福寺(金堂)坐像 木造漆箔 227,0㎝ 平安時代   
法隆寺 銅像鍍金 二尊 釈迦16,7㎝ 文殊13,6㎝ 飛鳥時代 普賢菩薩欠落  

東大寺 木造 29,2㎝ 鎌倉時代 善円作   

岡寺 涅槃像 木造 171,1㎝ 鎌倉時代 
戒光寺(京都 泉湧寺山内) 木造彩色 玉眼 542,4cm 鎌倉時代   「京の大仏」としてPR。  
 

●照源寺(広島県)涅槃像 木造漆箔 玉眼 146,0㎝ 鎌倉時代  

●観音寺(香川県)涅槃像 木造 76,7㎝ 鎌倉時代 

●斑鳩寺(兵庫) 木造漆箔 203,5㎝ 室町時代   

称名寺(奈良) 木造漆箔 87,9㎝ 藤原時代  

●真長寺(岐阜市三輪) 坐像 桂材寄木造 漆箔 光背二重円光 283,0㎝ 藤原時代      

●極楽寺 立像 木造 素地 158.5㎝ 鎌倉時代  (鎌倉市極楽寺3-6-7)  

●極楽寺 坐像(転法輪) 木造 古色玉眼 90.5㎝ 鎌倉時代 (鎌倉市極楽寺3-6-7)

石山寺 坐像 銅像鍍金 14,1㎝ 天平時代  

西大寺 立像 木造 167,0㎝ 鎌倉時代   

西大寺 坐像 木造漆箔 平安時代  

法輪寺 坐像 木造 86,5㎝ 藤原時代   

●常覚寺(奈良) 立像 木造漆箔 156,0㎝ 平安時代  

二尊院 立像 木造漆箔 78,8㎝ 鎌倉時代
●遺迎院 坐像 木造漆箔 玉眼 98.2cm 鎌倉時代   阿弥陀如来と共に快慶作 京都市北区鷹ヶ峯光悦町9
●平等寺(京都 因幡堂、いなばどう) 立像 木造彩色 玉眼 76.7cm  鎌倉時代  
()定寺(じょうじ) 立像 木造粉溜金泥 玉眼 50,6㎝ 鎌倉時代   
大報恩寺 坐像 木造粉溜 89,3伝行快作 鎌倉時代   

大報恩寺 誕生釈迦立像 銅像 53,3㎝ 鎌倉時代   

●地蔵院(宇治) 銅像 鍍金 26,4㎝ 平安時代  

●世尊院(長野)銅像涅槃 53,2㎝ 鎌倉時代  

観心寺(大阪)木造漆箔 81,8㎝ 平安時代     

観心寺(大阪)銅像鍍金 19,5㎝ 白鳳時代         

●考恩寺(大阪)木造彩色 89,0㎝平安時代  

●保福寺(滋賀)木造 漆箔 143,3㎝ 平安時代          

●金勝寺(滋賀)木造漆箔 218,8㎝ 平安時代  

常楽寺(滋賀)木造漆箔 139,1㎝ 平安時代           

聖衆来迎寺(滋賀) 坐像 木造漆箔 玉眼 69,4㎝ 鎌倉時代      

●円福寺(滋賀)木造漆箔 玉眼 56,3㎝ 鎌倉時代 伝快慶作   

●極楽寺(神奈川転法輪)木造玉眼 90,5㎝ 鎌倉時代      
●称名寺(横浜市金沢区金沢町212) 木造素地 切金文様 160.6㎝ 清凉寺模刻像  鎌倉時代 
●真福寺(横浜市緑区荏田町465)木造素地 161.8㎝  清凉寺模刻像  鎌倉時代 

●国分寺(愛知)木造漆箔 玉眼 宝冠 103,0㎝ 鎌倉時代  60,6㎝ 室町時代  

●富貴寺(奈良) 坐像 木造漆箔  84,3㎝ 平安時代  

●永明院(京都) 宝冠 木造金泥 玉眼 53,5㎝ 鎌倉時代  性慶作  

●国分寺(稲沢市) 宝冠 木造金泥 玉眼 103,0㎝ 鎌倉時代   
東福寺・仏殿(京都市)木造 脇侍 迦葉  阿難陀十大弟子 鎌倉時代   2008年指定 

●慈眼寺  木造割剝造り 金箔 玉眼  51.8cm  鎌倉時代  伊丹市鴻池6丁目
●陽泉寺  木造漆箔 彩色 玉眼 87.9cm 鎌倉時代     福島市下鳥渡

耕三寺  木造漆伯 230.5㎝ 平安時代 (興福寺旧蔵)    広島県尾道市瀬戸田町瀬戸田553-2

耕三寺  木造漆伯 134.4㎝ 平安時代 (三重神宮寺旧蔵)    

その他 重文指定の誕生釈迦立像  
 

愛知県・● 正眼寺 8,2㎝ 飛鳥時代      

滋賀県・● 善水寺 23,2㎝ 奈良時代      

奈良県・● 覚真寺 13,9㎝ 奈良時代がある、  


清凉寺摸刻
の釈迦如来で重文指定作品  (奝然(ちょうねん)模刻)
増一阿含経」「大唐西域記」等に、優填王思慕像とも言い頭部は螺髪ではなく縄状の渦巻きで像内に五臓六腑が内臓されており唐の医学水準の高さが覗える、戒律を重要視する奈良仏教の復興活動中で多く造像され、広範囲に分布しており全国で100余尊が存在している,ただし清凉寺像から直接模刻が確実な像は1249年叡尊が願主として造仏師・善慶に担当させた西大寺像のみである。
優填王思慕像とは祇園精舎に於いて信仰に不熱心な人々を懲らしめの意味で天に登った釈迦如来を慕った優填王が栴檀(せんだん)(びゃくだん)で造像したと言う伝承の像。   

奈良県      ●西大寺 167,0㎝   ●唐招提寺 166,6㎝    ●大善寺 168,1㎝  室町時代  

神奈川県    ●極楽寺 158,5㎝   ●真福寺 161,8㎝      ●称名寺 160,6㎝   

京都府      ●西明寺 51,5㎝    ●平等寺 76,7㎝      ●常楽院 97,0㎝    ●三室戸寺 154,0cm  

滋賀県     ●延暦 79,3㎝    ●西明寺 134,8㎝寺    ●荘厳寺 132,0㎝   

愛媛県     ●宝蔵寺 163,6㎝   

大阪府     ●延命寺 156,5㎝     
東京都     ●大円寺 163,9㎝   鎌倉時代の作品等々がある。 


三尊を形成する釈迦如来
 

       上記○法隆寺の二組の他 

願興寺(岐阜県・御嵩町・転法輪)坐像  木造 中尊 70,1㎝ 鎌倉時代 覚俊作   脇侍の配置が逆配置(普賢左・文殊右)   

●長瀧寺(岐阜県) 木造漆箔 玉眼 中尊 138,2㎝ 平安時代 

●常信寺(滋賀県) 木造漆箔   中尊 88,5㎝ 平安時代  

●牛伏寺(長野県) 木造漆箔彩色 中尊 45,5㎝ 鎌倉時代 

●承天寺(福岡県) 木造漆箔  中尊 87,6㎝ 鎌倉時代 

●円教寺(兵庫県) 木造漆箔  中尊 140,9㎝ 脇侍155.0㎝ 平安時代   姫路市書写字書写山  西国三十三所二十七番札所
●安国寺(京都府) 木造彩色  中尊159,5cm 普賢菩薩 81,7cm 文殊菩薩 81,6cm 南北朝時代  宝冠釈迦如来  京都府綾部市安国寺町
東福寺・仏殿   木造     脇侍 迦葉  阿難陀
十大弟子鎌倉時代

  承天閣美術館(相国寺) 絹本着色  210.0cm111.3cm  三尊図の一幅  伊藤若冲 




*各地に日本三大仏と言われる像がある、東大寺は不変であるが、以下は地方によりバラツキがある、・東大寺・高徳院(鎌倉)・飛鳥寺(奈良安居院)・太平寺(河内)・関寺(近江)・方広寺(京都)・正法寺(岐阜市) が三大仏を呼称している。  
    

      
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最終加筆日 20041110日  2005年3月15日  426日 102日十二因縁、注11、 200635日瑞像 2008519日降誕会他 加筆 200719日一部 2007321日 宝冠仏 69日 2008927日 エローラの転法輪印 20081215日 2009117 217日 一切義成就如来  201035日仏陀の語源  1020日転輪聖王 2011年3月4日注10一部 2012年2月11日写真他 2012年7月14日仏教統一論 8月18日注19  2013年1月2日注20 3月16日注10 5月26日 2014年2月20日優波離の出自 3月30日Gotama Siddhattha 4月22日非想非非想処 5月30日仏の三身 6月16日絵因果経 2015年7月3日増一阿含経関連加筆  2016年1月10日リンク 3月17日スペル調整 2017年2月8日娑婆解説 3月17日  
       

      
  

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