正式名称としては
金閣寺(
応仁の乱で消滅した天台宗の古刹、東山浄土寺(注3)の跡地に室町幕府八代将軍足利義政が
応仁の乱の原因を作るなど政治家としての義政はともかく風流人としては素晴らしいセンスの持ち主であり和様の真髄を極めた東山文化の象徴を
慈照寺は風流人義正が卓越したセンスを発揮した月見の為に築いた巧妙な装置を備えた白亜の殿堂であった様である。
2007年から行われた復旧工事に於いて銀閣の壁などから銀色に輝く部分が発見された、また柱梁から亀甲や唐草紋らしい跡が見つかる。
白木のままとも思惟された銀閣壁面の銀色はすぐに変色する銀箔ではなく黒漆‐白土‐明礬に順に塗装された、これが月光を浴びて銀色に光り輝いたと推定されている。(NHKワンダーより)
銀閣は東向きに建てられ1489年の暦から、中秋の名月が東の月待山から上る様子、さらに池に移り移動する様が計算されていた。
東山文化が凝結されている慈照寺には義政が望んだ浄土がここにあるのかも知れない、また銀閣に来た五木寛之氏は「銀閣寺には雨が似合う」と言う、因みに義政は完成を待たずに銀閣の施工中1490年生涯を閉じる。
京都には京都五閣とも言われる名建築がある、京都三名閣と言われる鹿苑寺の金閣 ・慈照寺の銀閣 ・本願寺の飛雲閣に ・大徳寺の呑湖閣 ・東福寺の伝衣閣を加えた名閣を言う。
義政の遺言により鹿苑寺すなわち金閣寺を模して禅寺として名称は院号を採用して慈照寺とされた。
完成時は十二棟の堂宇が存在したが十棟は失はれて西芳寺の瑠璃殿を参考にしたとされる国宝の銀閣・東求堂と浄土庭園様の善阿弥一族(泉石の名手)の作とされる名庭園を残している。
注1 、 東求堂(持佛堂)にある同仁斎は床の間・付け書院は非対称美の究極の姿であり茶室(四畳半)の原点とされている。
注2、 東求堂の仏間には阿弥陀如来立像(65,0cm)が安置され本堂(方丈)には何れも公開されていないが観音菩薩坐像(洞中観音・54,0cm)が置かれている。
注3、 浄土寺 円珍が居宅した天台宗の古刹で第25世天台座主も関連するが応仁の乱で消滅する。
注4、 金閣寺 銀閣寺の本山は足利義満が創建した相国寺であるが、相国とは中国に於いては宰相 太政大臣 左大臣の別称であり足利義満とダブらせている、また相国寺には義満の位牌があり「鹿苑院太上天皇尊」と書かれている。
臨済宗 相国寺派 所在地 京都市左京区銀閣寺町2 ℡ 075-771-5725
慈照寺の文化財 表内は国宝
名 称 |
適 用 |
時 代 |
観音堂 (銀 閣) |
下層・心空殿 上層・潮音閣(観音像)宝形造 柿葺 1489年 |
室町時代 |
東求堂 (持仏堂) |
住居建築として最古で非対称美を完成した傑作 入母屋造 杮葺き |
室町時代 |