徳一      

   生没年不詳 749824年頃)                仏像案内     寺院案内     高僧  

 

平安時代初頭の法相宗南都六宗のエリート学問僧で藤原仲麻呂の子とされている、興隆する天台宗真言宗に対抗する南都佛教側の尖兵で、勝常寺・筑波の中善寺・会津の恵日寺(慧日寺)を創建するなど東国の民衆から慕われた、古い文献に依れば徳一は徳溢、徳逸の記述がある様で白岩孝一氏は”とくいつ”とルビ付けされている。
興福寺
修円(しゅえん)に学んだと言う説もあるが推定年齢で徳一は20歳近く年長と考えられ20代前半に会津方面に居を構えている、修円は空海や最澄と並ぶ秀才とも言われ室生寺の形態を整えた法相学者であるが
密教に造詣が深く、むしろ空海最澄と懇意であり疑問視される。
最澄が会津滞在中の徳一に対して、三一権(さんいちごんじつ)論争を挑む、徳一の言う「五性(ごしょ)(姓)各別」とは要約すれば人間が成仏出来るか否かはその人の素質により五段に分類すると
1、菩薩定性、 成仏が決まっている人。
2、緑覚定性、 小乗仏教の緑覚の人。(菩薩より下位で緑覚より上位)
3、声聞定性、 小乗仏教の声聞の人。
4、不定性、  可能性を種々持つが菩薩・緑覚・声聞のどこに行くか不明な人。(成仏の可能性) 
5、無定性   仏性を持たないとされる人。
これと逆の解釈が最澄の”一切偕成(いっさいかいじょう)で全ての人が成仏できるとする天台宗(最澄)と論争することになる、声聞とは仏(釈尊)の声(法)を聞いた人を意味する。
要するに衆生は総て救済される否かの論争であるが正木晃氏は無名の民衆の救済に尽くした徳一が否を唱え、民衆救済を行わなかった最澄が是と唱えた事に困惑の態である。

徳一は三乗論のフォローを空海に依頼したと言う説もあるが、空海としては「秘密曼荼羅十住心論」「即身成仏義」空海注2、解説で解決しており三一権実論争に加わるのを避けたのではないか、但し秘密曼荼羅十住心論すなわち「秘蔵宝鑰」に反論出来たのは当時の日本佛教界では徳一のみと言われている、即身成仏義等々を批判した「真言宗未決文(しんごんしゅうみけつもん)」を著している
徳一には筑波山や磐梯山等を斗藪(とそう)していた様で空海にも斗藪歴がある様子で面識があった可能性も否定できない、因みに斗藪とはインド初期佛教時代の頭陀行が嚆矢で欲望を捨て清浄心での山林修行を言い、藪を払う意味の漢訳と言われる。
三一権実論争とはインドに於いて大乗仏教の興起と共にはじまった論争であるが、唐に持ち込まれ天台宗と法相宗の間において繰り返し行われた論議を日本に持ち込まれたもので、どちらが釈尊の教えた「真実か権(仮の姿・方便方便upāya・ウパーヤ」であるかを論争するものである。

一乗とは即ち一つの乗り物 Vs 三乗は *声聞乗Śrāvakayāna・シュラーヴァカヤーナ 阿羅漢になる為の教え) *縁覚(独覚)paccekabuddha・プラティエーカ・ブッダ 辟支仏(びゃくしぶつ)目指す) *菩薩乗(仏に成る)をいう、徳一が仏性抄(ぶっしょうしょう)を唱えて最澄を批判、最澄は照権実鏡(しようごんじつきよう)をもって反論、この大論争は矜持(きょうじ)・プライドprideの衝突であり最澄が延暦寺へ帰山後も長期間続いた。 

法華経では衆生等のレベルに合わせて「三周説法」を言う、三周の説法とは、迹門正宗分に於ける広開三顕一(こうかいさんけんいち)説相(せつそう)で、法説(ほつせつ)(しゅう)(理論)()(せつ)(しゅう)(例え話)因縁(いんねん)(せつ)(しゅう)(理由原因)を言う、従って一乗が真実で三乗が比喩即ち權と言う。
三一権実論争は817年~838年まで継続したが徳一は弟子を持たず一応終止符がうたれる、しかし最澄・徳一の死後一世紀半の後、即ち963年村上天皇の要請で行われた「応和宗論」に於いて法華経の解釈論を交えて再燃した。
後日源信は「一乗要決」に於いて三一権実論争に於いて三乗説を方便即ち権と論破し一乗説を真実の教えとした、但し
両論はコンフリクトconflict関係にあるが正邪すなわち権:実の判定は不可能である
徳一は三乗論のフォローを空海に依頼したと言う説もあるが「真言宗未決」と言う即身成仏に対する批判書をを著している、空海としても「秘密曼荼羅十住心論」
空海注2、解説で解決しており三一権実論争に加わるのを避けたのではないか。
徳一の著書に三乗真実、五性各別を説明する「仏性抄」「中辺義鏡」「慧日羽足(うそく)」等を著してとされるが、現存するのは「真言宗未決」のみである、本来なら教義の対立点は空海の方が多いはずである、即ち空海は真言陀羅尼を念誦して観修により即身成仏を言うのに対して徳一の五性格別は対極の論理である。
日本宗教史上最高の傑作といわれる、空海の「秘密曼荼羅十住心論」などの九顕一密に反論出来たのは徳一だけで他宗は事実上空海の軍門に下ったと言われている。
最澄の論敵を攻撃する激しさには驚かされる、即ち徳一に対して
「守護国界章」に於いて、北轅者(ほくえんしゃ)」「麁食者(そじきしゃ)「謗法者(ほうぼうしゃ)」「悪法師」等と罵る、峻烈を極め真摯な宗教家の論争とは考えられない、明らかなヘイトスピーチhate speechである、因みに北轅者とは北方の囚人を意味し、麁食者とは人間の食物を食していない者、謗法とは誹謗(ひぼう)正法(しょうぼう)(注3の略語で正法を無視すると言う仏教用語である、さらに言えば最澄の顕戒論は日本以外の宗教家から観れば我田引水であろう、最澄は徳一を「北轅者、麁食者、謗法者などの蔑称で呼び徳一で呼ぶ事は無かった、原因として南都六宗即ち仏教勢力の多くは朝廷に従わない寺院が多かった為に、最澄最大のバックボーンである桓武帝の意向を加味したとの指摘もあるが旧勢力の南都佛教と新興の密教から天台を護るための焦りもあろう。

徳一も「真言宗未決文」の即身成仏疑の項で「あの天台・真言二宗の学僧達は、自分の宗の拠所たる経論を充分に研究せず、勝手に別の宗をたてて即身成仏と言っているのは、様々の論に背き、後学の者を誤らすものである、智慧ある者は謬ってそれを拠所として学んではならない」と述べている。 (徳一と法相唯識・水谷孝一・長崎出版)



1、五性(五姓)格別

1、菩薩定性  自利利他の菩薩行を行じる最も勝れた人達。
2、独覚定性  
辟支仏(びゃくしぶつ)独りで覚りを開く素質を有するが、自利行のみで利他が出来ない(縁覚)。辟支仏は梵語pratyekabuddha、パーリ語paccekabuddhaの音訳 小乗仏教

3、声聞定性  仏の教えを聞き修行する真摯なだけの人、小乗仏教。
4、三乗不定性 素質が固定しない不安定。

5、無性有情(agotra)  佛法を学ぶ素質も気概もない人  五姓格別の対極に総てが成仏可能と言う”一切衆生悉有仏性”がある、最澄は姓格別には5、の無性有情に成仏が出来ない為に権大乗すなわち一切階成の前段階と批判する(注2に詳細)

 

2三一権実論争  「三乗一乗権実諍論」「法華権実論争」とも言う、唐の天台宗と法相宗の間において繰り返し行はれた論議を日本に持ち込まれたもので、どちらが「真実か権(仮の姿・方便)」であるかを論議するもので、一乗とは(一つの乗り物)対三乗(声門乗・縁覚乗・菩薩乗)で、徳一が仏性抄(ぶつしようしよう)を唱えて最澄を批判、最澄は照権実鏡(しようごんじつきよう)をもって反論、この論駁(ろんばく)の応酬は最澄延暦寺へ帰山後も長期間続いた、端的に言えば法相の依経とする()(じん)(みっ)(きょう)Sadhi-nirmocana Sūtra, サンディ・ニルモーチャナ・スートラ)と天台の法華経の内、いずれを釈尊の真実の教えかの論争である。   *分類するとサンディ」(sadhi) が「結合・連結」「ニルモーチャナ」(nirmocana)が「解放」(「解脱」)「スートラ」(sūtra) が「経」となる。
因みに菩薩乗とは如来に近い修行者、縁覚乗とは辟支(びゃくし)・独覚とも訳され独自に悟る哲学者、声門乗とは聞く人であり、法を聞いて覚りに向かう者を言う。
徳一とは(生没年不詳、749~824)平安時代初頭の法相宗のエリート学問僧で藤原仲麻呂の子とされている、興隆する天台宗真言宗に対抗する南都佛教側の尖兵で、筑波に中善寺・会津の恵日寺(慧日寺)等を創建する。
興福寺の(しゅ)(えん)に学んだと言う説もあるが推定年齢で徳一は20歳近く年長と考えられ20代前半に会津方面に居を構えている、修円は空海や最澄と並ぶ秀才とも言われ室生寺の形態を整えた法相学者であるが密教に造詣が深く、むしろ
空海や最澄と懇意であり疑問視される。
最澄が会津滞在中の徳一を訪れ、三一権実(さんいちごんじつ)論争を行う、徳一の言う、五性各別とは要約すれば人間が成仏出来るか否かはその人の素質により五段に分類し1、菩薩定性、2、緑覚定性、3、声門定性、4、不定性、5、無定性とされる、これと逆の解釈が悉皆成仏・一切偕成(いっさいかいじょう)で全ての人が成仏できるとする天台宗(最澄)と論争することになる。
三一権実論争は817年~838年まで継続したが徳一は弟子を持たず一応終止符がうたれる、しかし最澄・徳一の死後一世紀半の後、即ち963年村上天皇の要請で行われた「応和宗論」に於いて法華経の解釈論を交えて再燃した。

後日源信は「一乗要決」に於いて三一権実論争に於いて三乗説を方便即ち権と論破し一乗説を真実の教えとした。
徳一は三乗論のフォローを空海に依頼したと言う説もあるが真言宗未決を著しており、空海としても「秘密曼荼羅十住心論」(空海注2、解説)で解決しており三一権実論争に加わるのを避けたのではないか。
徳一の著書に三乗真実、五性各別を説明する「仏性抄」「中辺義鏡」「慧日羽足(うそく)」等を著してとされるが、現存するのは「真言宗未決」のみである。

最澄は会三帰一を称える、法華経を最高と経典とした天台宗創始の学説である、対して徳一の法相宗は解深密経等々を依経として五性各別を説く、本来衆生にはレベル格差があり総てが成仏可能ではない、三乗とは声聞・縁覚・菩薩の為に説いた三乗教(総てに相当する)を言い、一乗とは唯一仏になる教義を言う、智顗の法華経を最高経典した事例の他に著名な教判に華厳一乗、玄奘による唯識すなわち解深密経の三時教判、が知られている

因みに悉有仏性とは、総ての衆生が仏になれる可能性すなわち「一切衆生 悉有仏性 如来常住 無有変易」は、「大涅槃経」の師子吼菩薩品に説かれている。


3誹謗(ひぼう)正法(しょうぼう)とは仏教用語で、中国天台僧・
(たん)(ねん)711年~782年)の十四誹謗の説に依拠して、「如何なる高僧でも凡夫である以上完璧はありえない、憍慢(きょうまん)懈怠(けたい)(けい)()浅識(せんしき)不解(ふげ)不信(ふしん)顰蹙(ひんじゅく)疑惑(ぎわく)誹謗(ひぼう)軽善(きょうぜん)(ぞう)(ぜん)(しつ)(ぜん)な等がある。 

 

 

20121018日即身成仏対五性格別 201321731 2014826日コンフリクト加筆 201516日真言未決文の即身成仏疑 201619日 57日 2017613日 2021年4月30日加筆 

 

 



         
 

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