南都六宗              

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    倶舎(くしゃ)(説一切有部、法相寓宗 ・成実(じょうじつ)三論の寓宗) ・(りつ)(四分律) ・三論(さんろん)(中論・十二門論・百論) 法相(ほっそう)唯識) 華厳(けごん)(華厳経)  *赤字は現存している宗派

奈良仏教・奈良六宗、等とも言われ中国大陸や朝鮮半島からもたらされた教義の研究を目的として八世紀前半に成立したものである、基本的には(はか)も無ければ門徒もいないのが南都六宗である、因みに南都とは平城京の事で794年(延暦13年)の遷都以降に平安京側からの呼称である、また寓集(ぐうしゅう)とは独立宗派でなく附属した宗旨を言う。
従って冒頭の六宗も同様で、主に大小乗一切経律論疏を研鑽する修多羅(すたら)衆、・摂論(しょうろん)(法相宗)、・法性衆(法隆寺の唯識)を呼称する学衆も存在した、学衆達の研究グループ派)が、東大寺が創建された八世紀前半頃に宗派と呼ばれるようになる、この時代唐の仏教界に於いては華厳教学と天台教学が興隆していたが804年(延暦23年)最澄の入唐まで六世紀に成立した天台教学は形態化した姿で日本に伝わっていなかった。 
この時代は宗派という意識ではなく教義の研究者のグループでありの文字が使用されていた、玄奘の「成唯識論(じょうゆいしきろん)」の学説研究の法相宗
摂論(じょうろん)衆)・倶舎論ベースで仏教の存在分析論研究の抑舎宗Jù shĕ zōng、倶舎宗)、 隋の吉蔵が確立した・中論、・十二門論、・百論の三論をベースで中観派学説の三論宗、上座部theravāda)的ではあるが大乗Mahāyāna)をも統括する成実論の成実宗 ・戒律の律宗が成立し遅れて・宇宙論を説く華厳経を軸にした華厳宗が興るが、抑舎・成実は法相と三論に吸収され、三論宗も大安寺元興寺を礎として十二論・中論・百論の三論の内、中論・即ち空を主に論じ法相宗に迫る、年分度者(注17は法相三論共に五名で拮抗し覇権を競うが三論宗が敗れて衰退する、現在は法相・華厳・律の三宗が残る、要するに華厳宗を除く五宗は「三蔵」即ち経・律・論の内に於いて律・論を基本ソフトとして成立している、中でも法相宗 ・抑舎宗 ・三論宗 ・成実宗は空・無など「存在の有無を検証」する学派であり、律宗は「戒律」、華厳宗は「宇宙世界の構造」を説いている、因みに・倶舎宗・成実宗・律宗は上座部(小乗)色が強く・法相宗・三論宗は初期の大乗仏教の範疇に入るとの記述を見る、しかし少なくとも律宗は権大乗に分類すべきかもしれない、少し時代を経て・華厳宗は大乗の範疇に入る。 
南都仏教の諸寺は兼学の伝統を持ち宗派としての呼称は特に行ってこなかったが、明治五年の太政官布告で法隆寺興福寺薬師寺唐招提寺真言宗東大寺浄土宗に組み入れられるが昭和二十五年に法隆寺は聖徳宗に東大寺は華厳宗に、唐招提寺は律宗、さらに興福寺・薬師寺は法相宗となり、法相宗の館長は二寺で三年毎の輪番制となる。
これ等の受容した教学は日本に於いて直ちに理解されたのではなく、渡来僧が多勢居住した大安寺等の三論を除けば9世紀の初め頃まで中国のコピーで、低レベルな理解であったとも言われている、受容された仏教は翻訳や文化の相違や解釈に時間を要した教義
(経典)よりも、呪を伴う祭祀や視覚的インパクトを与えた仏像群に集まった。
日本に於いて南都佛教すなわち法相宗・律宗・華厳宗は檀家を持たず葬儀を行わない、自宗僧侶の葬儀に於いても他宗の僧侶が導師を務める、一例を挙げれば19833月遷化した清水寺貫主大西良慶和上の本葬の導師は生前親交が深かった曹洞宗の永平寺第78世貫首で曹洞宗管長・宮崎奕保師が曹洞宗のシステムの法り秉炬(ひんこ)導師を勤められた、因みに遷化とは通常は高僧の死亡である、但し遷化とは遷移化滅(せんいけめつ)の略である。

            

法相宗 
唯識・慈恩宗また瑜伽行唯識学派、(ビジュニャプティ・マートラ・バーダ vijjaptimātravāda ・ヨーガーチャーラyogaacaaraなどとも言い、日本に於いては三論宗に次いで古い宗派である、奈良時代派の初期は法性衆と呼ばれていた、法相宗の法とは「存在総て」、相とは姿形を含む「一切の存在」と解釈される、また法性宗の記述も見られるが、性は「内側に宿る」を意味すると言う、開祖 道昭、 主経典 成唯識論。
四世紀の前半インド哲学が生み出した教義で弥勒・無著・世親・無性・護法・戒賢・親光・玄奘等により成立した教義である、
玄奘三蔵がインドのナ-ランダ寺で学園の最高指導者で瑜伽行唯識派の碩学、戒賢(かいけん、シーラバドラ、Śīlabhadraに学び漢訳して開いた宗派で成唯識論に「唯識三十頌」・「解深密経」や弥勒(注16の「瑜伽師地論」を論拠としており、玄奘三蔵が開きその一番弟子で玄奘の翻訳作業にも参画した慈恩大師窺基(きき)が完成させた宗派ともいえる、中国の十三宗注20)の一宗で中観派龍樹の全ては空の思想)に影響を受けながらその欠陥を補っている、「万物唯識(ただ識あるのみ)」と言い、「識」即ち「心」以外は何物も存在しないと説く非常に難解な哲学である、唯識を現代語に置き換えれば「深層心理学」と岡野守也氏は言う(唯識のすすめ・NHK出版)
  *瑜伽行派とは(ちゅう)(がん)学派と並びインド大乗仏教二大学派を形成せていた、梵語名yogācāra(ヨーガーチャーラ)と言い、詳しくは瑜伽行唯識学派と言い略して唯識学派と言う、中国に請来したのは主に玄奘であり法相宗と呼称される。

唯識哲学は前後期に分類出来る、即ち初期に「唯識三十(じゅ)中心弥勒、無着、世親等が挙げられ、「成唯識論」の護法、玄奘、慈恩達から法相宗への後期がある。
人間は事例や智を学び蓄積する、その甚深な状態を阿頼耶識と呼ばれる、世親は言う「唯識の理趣は無辺にして結択の品類差別は度り難く甚深なり。仏に非ずんば、誰が能く具に広く結択せん。」すなわち「唯識の道理は無限であって、決定すべき種類は測り難く非常に深遠である。ブッダでなければ誰が細かく広く決定する事ができようか」。
(唯識ということ・兵頭一夫・春秋社 から)
巷間 「唯識三年倶舎八年」と言われている、すなわち倶舎宗を八年修めた後に唯識を三年修めなければ理解不能と言われる、唯識の碩学で二十世紀の怪僧と言われた元薬師寺の橋本凝胤師は言う、空海のが唐から将来した思想は佛教では無い、新興宗教と言う、最澄はものをしらない人であるとまで言った
(橋本凝胤に付いては薬師寺3参照)
唯識を咀嚼すれば唯
(唯一)(こころ)「総てが己の心」であり、眼に映る事例すなわち肉体・物質・自然環境に不滅な事例は無い、(ただ)「心」のみにあり総てが無である。
識は八識で構成され表層識と深層識がある、表層識には「意識」に「眼識」「耳識」「鼻識」「舌識」「身識(触覚)」の六識があり、深層識には「末那識(まなしき)」「阿頼耶識 (あらやしき)」がある、因みに末那識とは自我・煩悩・拘りの源を言い、阿頼耶識は梵語を
アーラヤビジュナālaya-vijñāna)と言い、心底に巨大な蔵を持ち行為が蓄積される。
「手を打てば 鯉は餌と聞き 鳥はにげ 女中は茶と聞く 猿沢の池」、唯識を修める僧侶に詠われた道歌(どうか)で「一水四見(いっすいしけん)」の喩えを読んだもので興福寺の貫主、多川俊映師の著作にある歌である、難解な成唯識論の解釈が分れて如何に理解され難いかを詠んだと考えられる。(唯識十章・春秋社)

玄奘三蔵達の手で組織化され、広められた
中国に於いては皇帝・高宗の信仰と援助があり大いに栄えたが、インド直輸入の教義が難解で中国の行動様式の相違からギャップが生じて衰退し、8世紀初期には華厳宗に主流的な地位を譲る事になる。
唯心論、即ち「五性(姓)各別」(注2を論ずるインド哲学を駆使した教義でもある、大乗と小乗の中間的思想で権大乗と言われている。
日本に於いては658年頃道昭が玄奘と窺基から教えを受け帰国後、飛鳥元興寺でこれを広めたと言われる、その後福寺において義淵・玄肪・賢憬・修円・徳一・等逸材が輩出する、特に唐に於いて智周
(法相第三祖)に学んだ玄肪は興福寺でこれを広め法相宗は黄金時代を迎える、藤原一門の菩提寺が興福寺であることから、創建以来五摂家の強力な後ろ盾があり今日でも南都六宗で一番の隆盛を極めているのは当宗である、下述する三論宗は渡来僧によって招来されたのに対して法相宗は留学僧すなわち道昭等が唐に於いて学んできた宗派である

興福寺・北円堂に安置されている、国宝像の無著、世親は唯識宗の開祖とされている。
関連の深い経典に()(じん)(みつ)(きょう)Sadhi-nirmocana Sūtra, サンディ・ニルモーチャナ・スートラ)がある、瑜伽地論と共に唯識哲学の根幹ともいえる経典で「摂大乗論』「成唯識論」に繫がる、解脱に連携する経を意味し「サンディ」(sadhi) が結合、連結を意味し、「ニルモーチャナ」(nirmocana)が解脱(解放)、スートラ(sūtra) が経を意味する。
唯識の構造を明示した書に玄奘の弟子で事実上唯識思想の祖である窺基(きき)による「大乗法(だいじょうほう)(おん)()(りん)(じょう)(7)が著名である、他に窺基の著作は「唯識述記」(20) 、「(じょう)唯識論(ゆいしきろん)枢要(すうよう)(4) 、「瑜伽論(ゆがろん)略纂(りゃくさん)(16) などがある。

法相宗の宗名は()(じん)(みつ)(きょう)Sadhi-nirmocanasūtraの「一切“法相”品」から採用された。


経典 ・成唯識論 ・般若経・般若心経金光明最勝王経他 


主な寺院として
大本山○興福寺・奈良市登大路町  
大本山○薬師寺、奈良市西の京町  
大本山○法隆寺
1950年・聖徳宗として独立)奈良県生駒郡斑鳩町 現在聖徳宗には末寺として△中宮寺 ・△法輪寺 ・△法起寺がある(何れも奈良県生駒郡斑鳩町)等二十九ヶ寺。
 大本山○北法相宗として1965年独立した清水寺 京都市東山区清水などがある、信徒数約100万人。

 

三論宗とはインドに於ける中観派の流れを汲み日本に於いて最初に伝来した衆派である、別名を「空宗」とも言い大乗仏教(注18)の基本ソフト的な哲学である、2-3世紀竜樹とその弟子が書いたとされる三論玄義 
(1)中論 (2)十二門論 (3)百論の三論を中核として成立した宗派で「空観の究極理論」を体系化したもので在家の衆生は我・執着を捨てず、出家は無に拘る為に中論(中頌)すなわち中観派学説を提唱したものである、初伝は高句麗僧・慧灌(えかん)より伝えられた。
三論哲学は奈良仏教の源流である、飛鳥でも元興寺大安寺を拠点として研究が競われた、ただし三論学派が宗派と認定されたのは天平勝宝年間に東大寺に於いてとされる、但し中国に於いては三論宗と言う宗派の存在記録はない、部派の教義を網羅し三論宗の基礎的研究宗派に空・無など「存在の有無を検証」する成実宗がある、成実論を研究する処から「論宗」とも言われた。
三論宗は倶舎宗と共に上座部仏教の理論を発展大乗化した宗派で法相宗に影響を与えたが後に吸収される、空の理論体系を言う宗派である。
王の命により来日し元興寺に住んだ高句麗僧・慧灌、慧灌の孫弟子・智蔵、更に智蔵の弟子で善無畏から雑密も学んだ・道慈の入唐三人僧から伝えられた、三論の教義は難解であるが要諦は、邪説を打破して道理を明示す「破邪顕正(はじゃけんしょう)」、仏界と俗界の諦を言う(仏法を真諦、王法を俗諦)真俗二諦(しんぞくにたい)」、・不生・不滅・不常・不断・不一・不異・不来・不出を否定し囚われの無い道を説く「八不(はっぷ)中道」にあるとされ東大寺に於いては明治末期まで研究された、
俗二諦とは真諦 paramārtha-satya俗諦 saṃvṛti-satya)のことを言う、倶舎論など通常は、一般常識とみられる真実を俗諦といい、仏法があると説くことを真諦としている、真宗系では仏法を真諦と言い、王法いわゆる世間的道徳を俗諦と区別している、また総てが空と説く事を知ることを真諦とし、言語や思想で表すことを俗諦と大乗仏教ではいう。

九世紀初期すなわち光仁年間当時の日本佛教界に於ける重大事は三論宗 と法相宗が覇権を争っていた、両宗の間で議論を「空有論諍(くううろんじょう)」と言う、最澄と徳一の三一権実論争に移る 開祖 慧灌 主経典 ・三論 ・十二門論 ・百論 


 


倶舎宗 法相に於ける基礎研究が主体であった、宇宙の構造論を纏めた哲学で薩婆多宗(さつばたしゅう)とも言われる、玄奘三蔵の弟子道昭(どうしょう)629700年)が請来した中国13宗の一宗、仏の世界の存在を分析する学派である、法相宗に従属して兼学された為に寓宗に分類される、因みに寓宗とは独立した組織を持たないで他宗に付属している宗派を言う。
インドに於ける世親
(ヴァスバンドウ)の著作で正式名称を「阿毘達磨倶舎論(アビダルマコーシャ,abhidharmakośabhā
ya略称では「倶舎論」を論拠とする学派で説一切有部を根幹としている、因みに阿毘達磨(あびだつま)とは:pāiiAbhidamma、梵語 Abhidharmaの音訳でAbhiは優れたを意味し、dharmaとは釈尊の教え、真理、本質を意味する
倶舎論は須弥山思想を説いており曼荼羅誕生の触媒の役割をしている、十方世界観、三千大千世界観を盛り上げる、「増一阿含経」から発展させた須弥山を金輪(こんりん)・水輪・風輪で支え風と水で熱すなわち火輪が起り、虚空を空輪として五輪(五大)とされると言う世界観を持つが、成実宗と共に独立経団としての成立は見られない。    
仏教哲学の基礎・基本問題を整理し、迷いの世界解明をする宗派で法相宗に影響を与えたが後に法相宗
(唯識)に吸収される、しかし世親の作とされ、難解であるが倶舍論は玄奘により漢訳され、近い哲学を持つ唯識論と共にアビダルマ abhidharma 阿琵達磨(あびだつま)即ち仏教学、特に上座部の仕様書としての根幹をなす哲学と言える。
倶舎論は根本真理すなわち「三法印」を言う、著名な熟語に「諸行無常」「諸法無我」がある、諸法無我は十八巻にあり、諸法すなわち総ての存在は不変な実体(我)は無い、総ての出来事は因縁に在ると言う、因みに「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」を三法印と言う、「五位七十五法・五位百法」等々難解な倶舎論に付いて薬師寺の元管主・故高田好胤師はジョークを交えて頭の中がクシャクシャ
(倶舍倶舍)になると言われたとか、閑話休題、道元の伝記とも言える建撕記からか、倶舎論を道元は九歳の時に読破したと言う記述がある(京都宗祖の旅、百瀬明治、淡交社)。 
天才世親の著作とされる論書に「倶舎論」「唯識二十論」「唯識三十頌」「仏性論」「無量寿経優婆提舎願生偈
(浄土論・往生論)」等がある、日本では江戸時代に泉涌寺の
佐伯旭雅(きょくが)18281891年)による「冠導阿毘達磨倶舎論」など復権した事がある、倶舎論には有為転変が説かれている、「有為とは因縁即ち相互間の関りを具現した状態で固定された実態は無く、留まる事は無い、一切が無常である」、倶舎倶舎。
倶舎論には四道(しどう)と言う気が遠くなる様な四段階の修行課程がある、
即ち *加行(けぎょう)預流(よる) *無間(むけん)一来(いちらい) *解脱(げだつ)不還(ふげん) *勝進(しょうしん)一来(いちらい))(聖者)がありこれが完成して阿羅漢となる
因みに「倶舎論」には「正法念処経(しようぼうねんしよきよう)」と共に地獄が詳しく説かれており往生要集は両経を参考に著されている様である、また倶舎論の三界説は華厳経、梵網経にも影響を与えた様である、因みに三界とは *欲界(carnal world 婬、食)、*色界(ethereal world 物欲)、*無色界(spiritual world 禅定世界)を言う。 開祖 道昭  


華厳宗 華厳第三祖で事実上の祖は唐の智儼(ちごん)602668年)で弟子の「法蔵643712年)」による最高経典を「五教十宗判」(注19教相判釈(きょうそうはんじゃく)している、「一入一切・一切入一・一即一切・一切即一を説き、時事無礙法界(じじむげほっかい)重重無尽(じゅうじゅうむじん)の縁起を説く」(注21、要するに天台宗と共に中国に於いて発生した宗派と言える、また三千大千世界を説いている三千大千世界Trisāhasramahāsāhasralokadhātuとは「三千世界」「三千界」「大千世界」等とも言い、十億個の須弥山世界が集まった空間(十万億土)を言う、世界が千ヶ所で小千世界、 小千世界が千ヶ所で中千世界、 中千世界が千ヶ所で大千世界となる、三の世界からなるので三千大千世界と言う。  
四世紀インドに於いて密教の先鞭的な思想を含んだ華厳経が作られるが宗派としての成立は無かった、宗派の起こりは唐(中国)である、国に於いて華厳経を最高経典と解釈して七世紀中に成立した、杜準(とじゅん)557640年)、智儼602668年)法蔵(ほうぞう)643712年)(ちょう)(かん)738839年)(けい)(ほう)宗密(しゅうみつ)780841年)と相承さらたが智儼の影響が大きい、中国では天台宗と共に最大教派であった、この世は縁起の理法で成立すると言い、仏会を宇宙的に説く教団である。
華厳宗の華厳とは美しく飾る、を意味する、すなわち雑華巌飾(ぞうげごんじき)を言う、華厳とは「雑華(ぞうげ)をもって仏を荘厳する」と言い雑華とは花総てを意味する、また
「華は花と菩薩の実践(行動)を言い厳は飾る」とも言う、唯識との違い華厳哲学は自己と他者の関りを探求する、教義は高度かつ難解であり理解するには高い学識が必要と言われる。
華厳宗は異説もあるが大安寺に寄宿して東大寺大仏開眼の呪願師を務めた道璿
702760年・どうせん)が良弁689773年)に伝えたとされる、総てに仏性を有すると言う。 
一知半解の知識で試験問題に華厳宗を50字以内に纏めろと出題されたら冒頭に記述した「一入一切 一切入一 一即一切 一切即一を解き、事事無礙法界と重重無尽の縁起を解く」が回答であろう。
(事事礙法界とは無 一切の物が空であるという理が姿を消し、一切の物事が妨げあわずに共存する、重重無尽とは重ね重ねが無限に続くことの「自己相似集合」)
正式名称を大方(だいほう)広仏(こうぶつ)華厳経(けごんきょう)」すなわち華厳経を典拠とした宗派で5世紀頃中国に於いてインド周辺に於いて流布していた十地品などを中心に集成されたとされる、杜準(とじゅん)智儼(ちごん)法蔵(ほうぞう)澄観(ちょうかん)圭峰宗密(けいほうしゅうみつ)の五祖により成立された、土着信仰を混交した教派で後に天台・戒・禅をも加えて完成された、法相宗や天台宗等に遅れて成立した為に既存宗派の凌駕を意識している。      梵網経
経典の漢訳は三点あり仏陀跋陀羅(ぶっだばっだら)418年頃)実又難陀(しくさーなんだ)699年頃)般若三蔵(はんにゃさんぞう)(798年頃)がある、因みに大乗仏教に於ける象徴的経典すなわち華厳経は神変加持思想などを含め密教の代表経典とも言える「大日経」すなわち「大毘廬遮那成仏神変加持経」に多大な影響を残した大乗仏教経典である。
本尊の呼称であるが華厳経・最終会・入法界品の旧訳の六十華厳では廬舎那であり、新訳の華厳経八十華厳では盧舎那と記述されている。   
日本には大安寺の伽藍構築を行った道慈や東大寺の開眼導師として聖武天皇から招かれ
菩提遷那(ぼだいせんな)(注12と共に大安寺に寄宿した唐僧道璿(13により請来された、日本に於ける初祖は大安寺の僧・審祥(注14に学んだ東大寺初代別当、良弁(ろうべん)とされている、しかし審祥は金鐘寺時代から頻繁に講説しており審祥の影響は無視出来ない。
華厳宗の教相判釈に於いて華厳哲学の基に佛教思想を説明した著作」(華厳一乗教義文斉章)があり、竹村牧男著、華厳五教章(春秋社)に依れば*小乗教*大乗始教(唯識・中観)*終教(如来蔵)*頓教(禅)*円教(華厳)に分類されている、著作は第二祖の智儼か第三祖の法蔵か定かでない。
東大寺や各国分寺創建を触発した宗派で奈良時代には東大寺大安寺薬師寺西大寺に於いて専門の学僧を置き研鑽されたが、平安時代に皇系が天智系に変わり天台宗真言宗の後塵を配し隆昌を見るには至らなかった、その後再興が数回に於いて計画されたが叶わず19世紀末に東大寺の復権まで消滅に近い状態であった、但し空海の真言宗や親鸞浄土真宗に影響を与えている。
成実宗・倶舎宗は上座部仏教の理論を発展大乗化し、その影響を受けた法相宗・三論宗などが識や空の理論を重要視した事に対して華厳経を奉ずる宗派で法界縁起すなわち凡てを超越した仏の存在を言う、この存在を五陰と言い・色(物)・受(感覚)・想(想像)・行(意思)・識(認識)を言う。
華厳宗の要諦は二つに絞られる、「事事無礙(じじむげ)」すなわち諸事は互いに異なるのでは無く融合している、排除しあうのでは無く滞りなく溶け合うとされる、「無尽縁起(むじんえんぎ)」があり一即多・多即一と言われ、極めて微塵の中に総て(宇宙)が存在し、瞬時の中に永遠があるとされる。
存在論の中に四の法界縁起がある、法界縁起とは堀池氏の論を借りれば対立差別の「事法界」超差別の「理法界」理と事融合の「理事無礙法界」融合調和「事事無礙法界」をもって覚の世界を構成していると言う、覚りを開いた仏の心境を表わし歴史上実在した釈迦を超越した宇宙の構造
(三千大千世界)を説き一即多、全てに仏性があると説く(一乗主義)(東大寺史へのいざない・堀池春峰著参照)、因みに法界とは真理の世界をいう。
華厳宗の教相判釈に法蔵による「華厳一乗教義分斉章」「華厳一乗分記」通称「華厳五教章」が言われる、即ち ・小乗教 ・大乗始教
(唯識 中観・三乗教) ・大乗終教(如来蔵・三乗教) ・大乗頓経(禅・三乗教) ・大乗円教(華厳・一乗教)と順序付けている。
これが重々無尽のコスモロジーと言う事であろう、華厳宗の大本山に
東大寺がある。
華厳宗中興の祖と言えば明恵である、明恵は
法然の撰述した「選択本願念仏集」が著名であるが、「摧邪輪(ざいじゃろん)」を著して邪論であるとして批判した
但し東大寺は明治維新廃仏毀釈等もあり1873年浄土宗知恩院派の末寺になっていたが1886年華厳宗大本山として独立した。
他に末寺として、新薬師寺 奈良市高畑町    文殊院 桜井市大字阿倍  帯解寺 奈良市帯解今市など60ヶ寺がある。
中国で成立した華厳宗の祖は事実上法蔵であるが、祖統説があり・杜順・智儼・法蔵・澄観・圭峰宗密と相乗された、朝鮮では華厳哲学がメイン思想である、日本に於いては法華経がメインであるが、東大寺建立など興隆した、法蔵の孫弟子(しん)(じょう)(出自不詳 大安寺住)を経て良弁が嚆矢である。  

本尊 毘盧遮那仏    信徒数四万五千人。 開祖 良弁  経典 華厳経・他     


 

律 宗 仏教発祥の地インドに於いては「戒」は土着信仰であり僧侶の必須事項である、エトスである為に宗派を強調する必要は無く律系の宗派が存在した歴史は無い、中国に渡り仏教の頽廃を憂いて律の宗派が興った、また気候風土・エトス(行動様式)の相違から律蔵として必要不可欠となり各宗派独自の戒律を説いた宗派で、上座部theravāda)的と指摘する人もいる。
律宗は中国に於いて随時代に興る、 戒律は僧侶の必須事項でありインドに於いては存在した歴史は無い、しかし中国に於いて初唐時代の学僧・道宣
(南山大師)が興した南山律宗とその師に当たる法礪(ほうれい)の相部宗の流れの中で道宣(注15の孫弟子・鑑真により四分律を主体に日本に齎された、因みに消滅したが玄奘 弟子である懐素が東塔宗と言う律が存在した
大乗仏教が広がり空理空論の律宗に於いては三蔵
(経蔵・律蔵・論蔵)の内、律蔵を最重要視し一切の諸行を律蔵とする。
律とは教団の戒律を意味し仏典とは別に律蔵として成立させたもので、その後中国にお於いて大乗経典全てを律蔵に加えての研究機関として成立した、これを鑑真和上により日本にもたらされて出家受戒が成立する。  
道宣が創立し
鑑真が請来した律宗は戒律の中でも四分律で法華経と摂大乗論をベースにしたもので多くの著作を残している、その他の律には「十誦律」「摩訶僧祇律」「五分律」「根本説一切有部律」「pāli律」等が著名である。  
戒律即ち「具足戒」の基本は四分律で420年羅什が漢訳したもので比丘250戒、比丘尼348戒を必要とする、これは小乗色的な内容も存在するが、大乗の範疇に入り「分通大乗」とも呼称される、鑑真は律宗のみではなく天台の碩学でもあり、日本で最初の天台教学の請来者とされている、天台智顗の一乗思想の共鳴者であった様で、入唐以前に鑑真請来の天台教学を学んだであろう最澄が具足戒を放棄したのはアイロニーを感じる。
妙法如律「戒の堤によって禅定の池ができ、はじめて覚りの智慧の水がたたえられる、戒の堤なしには定水静かなことなく覚りの智慧が発することはない」。
(日本仏教宗派のすべて、大法輪閣)
四分律とは経典ではないが僧侶が守るべき戒が記されており、原典はバーリ語で記述されている、日本律宗の根本教義で、東晋時代に於いて前述の」「摩訶僧梢律(まかそうぎりつ)」等の律部経典が中国に請来された。
その内「四分律宗」が興隆するが三派に分裂する、「四分律行事鈔」などを著した道宣により南山律宗が開かれた。
厳しい戒の順に
波羅夷(はらい)法」4  1淫戒(いんかい) 2、盗戒  3殺人戒(せつにんかい) 4大妄語(だおもうご)戒  
僧残法(ぞうざんほう)13  故出精戒(こしゅつしょうかい)  摩触女人戒  与女人麁語戒(よにょにんそごかい) など  
不定(ふじょう)法」2   
尼薩耆波逸提(にさぎはいつだい)法」30戒  
波逸提(はいつだい)法 」90戒  
波羅提舎尼(はらだいだいしゃに)法」40戒  
衆学(しゅがく)法」100戒  
滅諍(めつじょう)法」7  合計250戒がある。    法楽寺様の 四分戒律相より抜粋         

開祖 鑑真 主経典 四分律 
総本山、唐招提寺、奈良市五条町   法金剛院 京都市右京区花園扇野 等116ヶ寺であるが当時は西大寺に於いても研鑽された。   信徒数約13万5千人。


成実宗 (Satyasiddhi-śāstra, Tattvasiddhi-śāstra) 412年 三論宗の付宗的で独立した宗派ではない寓宗である、論拠となる成実論は34世紀頃のインドの訶梨跋摩(かりばつま)に依るとされる、鳩摩羅什が漢訳した成実論が中国律宗が嚆矢で経典よりも論を重要視する、隋の時代に小乗仏教と批判され衰退するが、法の基軸的な教えで日本では各宗派に大きな影響を与えている。 開祖 百済僧道蔵  主経典 成実論  

六宗成立以前には・修多羅(しゅたら)衆・摂論(しょうろん)衆・別三論衆・法性衆などの衆団も存在していた、閑話休題、南都佛教の寺には寺名(東大寺)の前に付けられる”山号”は存在しない。



1, 南都六宗とは上記・三論宗・成実宗三論の寓宗)・法相宗・倶舎(くしゃ)(法相の寓・華厳宗・律宗・を言う、又八宗とは上記に天台宗・真言宗・を加えたもので十宗は更に禅宗・浄土宗加えることによる。
   宗とは教義としては確立しているが、修派としては他宗派に付随している宗派を言う。   


2, 五性各別(ごしょうかくべつ)(五姓各別)・人間が成仏出来るか否かはその人の素質による、これと逆の解釈が一切(いっさい)偕成(かいじょう)で全ての人が成仏できるとする天台宗(最澄)等と後に論争することになる。   最澄が大安寺に於いて南都六宗の僧達と論争をはじめ、その後東国へ行き会津滞在中の法相宗のエリート学僧・徳一との間で三一権実論争(さんいちごんじつろんそう)を始めた。
三一権実論争とは 唐の天台宗と法相宗の間において繰り返し行はれた論議を日本に持ち込まれたもので、徳一が仏性抄(ぶつしようしよう)を書いて最澄を攻撃したのに対して最澄照権実鏡(しょうごんじつきょう)や梵網経を基にして出家僧の受けなければならない戒律を小乗の具足戒(二百五十戒)から大乗の菩醍戒(十重四八軽戒)に変へる顕戒論(けんかいろん)などを顕し反論する、この大論争は最澄が延暦寺へ帰山後も長期間続いた。 
徳一とは(生没年不詳749824?)平安時代初頭の法相宗のエリート学問僧で藤原仲麻呂の子とされている、興隆する天台宗真言宗に対抗する南都仏教側の尖兵で、筑波に中善寺・会津の恵日寺(慧日寺)を創建する。
興福寺の修円(しゅえん)に学んだと言う説もあるが推定年齢で徳一は20歳近く年長と考えられ20代前半に会津方面に居を構えている、修円は空海や最澄と並ぶ秀才とも言われ室生寺の形態を整えた法相学者であるが密教に造詣が深く、むしろ空海や最澄と懇意であり疑問視される。
最澄が会津滞在中の徳一を訪れ、三一権実論争を行う、徳一の言う、五性各別とは要約すれば人間が成仏出来るか否かはその人の素質により五段に分類し1、菩薩定性、2、緑覚定性、3、声門定性、4、不定性、5、無定性とされる、これと逆の解釈が一切偕成で全ての人が成仏できるとする天台宗(最澄)と論争することになる。
三一権実論争は817年~838年まで継続したが徳一は弟子を持たず一時期終止符がうたれる、しかし最澄・徳一の死後一世紀半の後、即ち963年村上天皇の要請で行われた「応和宗論」について天台宗・法相宗の精鋭20人が参集して法華経・方便品の「若有聞法者無一不成仏(にゃくうもんぼうむいつふじょうぶつ)」等の解釈論を交えて再燃した。
また源信は「一乗要決」に於いて三一権実論争に於いて三乗説を方便即ち権と論じて一乗説を真実の教えと主張した。
徳一は三乗論のフォローを空海に依頼したと言う説もあるが、空海としては三昧耶戒を説く「秘密曼荼羅十住心論」「
弁顕密二教論」 「即身成仏義」(空海注2、解説)で解決しており三一権実論争に加わるのを避けたのではないか、空海に付いては元興寺の泰信は得度の師であり、留学以前から南都の各寺と親交があり、帰国後は東大寺、大安寺の別当に就任している。
徳一の著書に三乗真実、五性各別を説明する「仏性抄」「中辺義鏡」「慧()羽足(うそく)」等を著してとされるが、現存するのは「真言宗未決」のみである。

最澄は会三帰一を称える、法華経を最高と経典とした天台宗創始の学説である、対して徳一の法相宗は解深密経等々を依経として五性各別を説く、本来衆生にはレベル格差があり総てが成仏可能ではない、三乗とは声聞・縁覚・菩薩の為に説いた三乗教(総てに相当する)を言い、一乗とは唯一仏になる教義を言う。

 
3、最澄の一乗に対して徳一の三乗とは 声門乗(仏の声を聞く)  縁覚乗(単独で修行を積む)  菩薩乗(覚りを目指す)を言う。   

 
4、 中論・十二門論・百論・(四百論・百字論などもある)とも大乗経典の書で竜樹とその弟子による作とされる、空の哲学を論理化したもので特に中論は三論宗の中核をなしている。  


5竜樹 (竜猛)


6、南都七大寺 天皇の発願により造営された寺で全てが官給の為国の監督を受けた官寺で七堂伽藍(西大寺など例外も在る)を備えた大寺を言う、大安寺(大官大寺)・薬師寺元興寺(法興寺)・興福寺法隆寺東大寺西大寺・の事を言いほとんどが六宗兼学の道場であった。因みに南都七大寺とは平安時代に入り京都すなわち北都側からの呼称であり奈良時代には四大寺の一寺であった、四大寺とは大安寺・元興寺興福寺薬師寺を言い、後に東大寺を加え五大寺と言われた。
八世紀後半に四天王寺・唐招提寺・東寺・西寺(現在は無い)などを加えて十五大寺と言う呼び方もされた。
七堂伽藍とは金堂・塔・講堂・経蔵・鐘楼・僧房・食堂を言うが七は悉くに通ずる、
また禅宗特に曹洞宗に於いては仏殿・法堂・山門・僧堂・庫院(くいん)・浴室・東司を言う。


7, 受戒 僧侶として戒律の履行を誓う儀式で代表的な大乗戒として三聚浄戒 1,攝律儀戒 2,攝善宝戒 3,攝衆儀戒(鑑真が開いた戒壇を東大寺戒壇堂が引き継いだもの)がある。

8, 奈良時代の項と重複記述してあります。


9、高宗 628683 唐三代の皇帝、9男であるが兄達の抗争から皇帝となる、晩年には皇后の武則天に実権を奪われる。 


10窺基(きき)(632年~682年)唐の僧で正式名を基と言い、慈恩大師の称号を持つ、法相教学の完成者で彼の名から慈恩宗とも呼ばれる、著書に成唯識論述記成唯識論枢要 がある。 

   


11 三蔵 梵語名を tripiakaと言い、仏教経典を経蔵(説教)・律蔵(組織を維持するための規則)・論蔵(前二蔵の注釈)に仕分したもので一切経・大蔵経の原点とされる。 経典(スートラ) 律(ヴィナヤ) 論(アビダルマ)。 

12菩提遷那(ぼだいせんな) (704760)インドのバラモン僧正、文殊菩薩に心酔し唐・五台山大華厳寺に入る、華厳経に精通し密呪を得意とした、736年聖武天皇の招きで来日し大安寺に住み75249日、東大寺・毘盧遮那仏の開眼導師を勤める、光明子や藤原仲麻呂との接点が多い。 仏哲 菩提遷那の弟子で大仏開眼供養の雅楽や舞を指導した。  


13道璿(どうせん)唐大福先寺の北宗禅僧で聖武天皇の招きで菩提遷那と共に来日、日本に華厳経を請来し梵網経疏を著す、大安寺に西禅院を興し居住する、菩提遷那と東大寺・毘盧遮那仏の開眼導師を勤める。生誕、没年とも菩提遷那と同時期。

14審祥(しんじょう) 新羅の僧か日本からの留学僧か定かでは無いが大安寺の僧とされる、東大寺開眼供養で咒願師(じゅがんし)華厳宗は審祥が初祖で
良弁は第二祖とも言われる

15道宣(どうせん)  596667   律宗の祖で南山律師と呼ばれる隋僧、20歳で具足戒を受け智首を師とし律学を習得し後に玄奘と共に経典翻訳に携わり、中国仏教界に君臨する、唐招提寺の鑑真は孫弟子にあたる。
著作に「四分律行事鈔」「律五大部」「大唐内典録」「集古今仏道論衝」などがある。

16西暦2~3世紀頃に弥勒による「瑜伽師地論」が法相の原点の1典とされる、弥勒菩薩と同一人物とされている、因みに法相の重要経典である「解深密経」は弥勒菩薩が在世中に説いた経典ともいわれている。

17年分度者(ねんぶんどしゃ)  得度を受けられる僧侶の数を朝廷が統括するもので全27条からなる僧尼令(そうにりょう)は、
私度僧が多く輩出した事により僧尼の質と人数の制限を目的に創られた、718年(養老2年)に始まり当初は10名、即ち三論・法相各5名から、806年には三論・法相各3人・華厳、天台、律各2名となる、・734(天平6)804(延暦23)806(大同1)に条件が加えられた、835年には真言3名が加わる、律令制度の崩壊で形骸化する。
また得度とは仏門に入る、救いの道に入る、娑婆から彼岸に行く、などにも使われる。

注18、 
大乗佛教及び部派佛教を梵語Sanskritでスタビラ・バーダSthaviravāda、パーリ語pāliでテーラ・バーダTheravādaという

19五教十宗  華厳宗に於いて五教十宗をトップに教判した教説である、華厳教学の大成者である法蔵643712年)に依るもので小乗教・大乗始教・大乗終教・(とん)(ぎょう)円教の五教を言う、華厳宗で五教に理論内容から十に分類した、1我法俱有宗(がほうぐうしゅう) 2、法有我無宗 3法無去来宗(ほうむこらいしゅう) 4、現通仮実宗 5、俗妄真実宗 6諸法但名宗(しょほうたんみょうしゅう) 7、一切皆空宗 8、真徳不空宗 9、相想俱絶宗 10、円明具徳宗 が言われる。  

20、 中国十三宗 *三論宗 *成実宗 *法相宗 *()毘曇(びどん)宗(倶舎) *華厳宗 *律宗 *天台宗 *浄土宗 *密宗 *禅宗 *涅槃宗(天台) *()地論(じろん)宗(華厳) *()摂論(しょうろん)宗となるが時代にずれがあり異論が在るかもしれない。

日本に於ける十三宗(中国十三宗は注6)とは*法相宗 *華厳宗 *律宗 *天台宗 *真言宗 *融通念仏宗 *浄土宗 *浄土真宗 *時宗 *臨済宗 *曹洞宗 *黄檗宗 *日蓮宗を言う。


注21、 *事事無礙法界とは現象界の一切の事象が互いに作用し合い、融即していることをいう、法界とは真理の境地をいう。   
     *重重無尽とは
あらゆる物事が相互に無限の関係をもって互いに作用し合っていること、この関係を一と十の数で示し、一の中に十があり,十の中にもまた十が含まれるとする、十十無尽ともいう。ブリタニカ国際大百科事典より)
 

 


  
  

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最終加筆日 2004年10月5日 2005年3月9日  822日  1029日 注11加筆 1129日最澄入唐 2006630日法相・華厳一部  200854日注14  78日三論の一部 200987日 201053日 2015年1月8日 2017年4月19日 5月13日 2018年2月27日 2019年5月17日 9月3日 2020年4月9日加筆
   

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