仏像案内 寺院案内 仏教宗派 戒律
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奈良仏教・奈良六宗、等とも言われ中国大陸や朝鮮半島からもたらされた教義の研究を目的として八世紀前半に成立したものである、基本的には
従って冒頭の六宗も同様で、主に大小乗一切経律論疏を研鑽する・
この時代は宗派という意識ではなく教義の研究者のグループであり衆の文字が使用されていた、玄奘の「
南都仏教の諸寺は兼学の伝統を持ち宗派としての呼称は特に行ってこなかったが、明治五年の太政官布告で法隆寺・興福寺・薬師寺・唐招提寺が真言宗に東大寺は浄土宗に組み入れられるが昭和二十五年に法隆寺は聖徳宗に東大寺は華厳宗に、唐招提寺は律宗、さらに興福寺・薬師寺は法相宗となり、法相宗の館長は二寺で三年毎の輪番制となる。
これ等の受容した教学は日本に於いて直ちに理解されたのではなく、渡来僧が多勢居住した大安寺等の三論を除けば9世紀の初め頃まで中国のコピーで、低レベルな理解であったとも言われている、受容された仏教は翻訳や文化の相違や解釈に時間を要した教義(経典)よりも、呪を伴う祭祀や視覚的インパクトを与えた仏像群に集まった。
日本に於いて南都佛教すなわち法相宗・律宗・華厳宗は檀家を持たず葬儀を行わない、自宗僧侶の葬儀に於いても他宗の僧侶が導師を務める、一例を挙げれば1983年3月遷化した清水寺貫主大西良慶和上の本葬の導師は生前親交が深かった曹洞宗の永平寺第78世貫首で曹洞宗管長・宮崎奕保師が曹洞宗のシステムの法り
法相宗 唯識宗・慈恩宗また瑜伽行唯識学派、(ビジュニャプティ・マートラ・バーダ vijjapti‐mātra‐vāda ・ヨーガーチャーラyogaacaara)などとも言い、日本に於いては三論宗に次いで古い宗派である、奈良時代派の初期は法性衆と呼ばれていた、法相宗の法とは「存在総て」、相とは姿形を含む「一切の存在」と解釈される、また法性宗の記述も見られるが、性は「内側に宿る」を意味すると言う、開祖
道昭、 主経典 成唯識論。
四世紀の前半インド哲学が生み出した教義で弥勒・無著・世親・無性・護法・戒賢・親光・玄奘等により成立した教義である、玄奘三蔵がインドのナ-ランダ寺で学園の最高指導者で瑜伽行唯識派の碩学、戒賢(かいけん、シーラバドラ、Śīlabhadra)に学び漢訳して開いた宗派で成唯識論に「唯識三十頌」・「解深密経」や弥勒(注16)の「瑜伽師地論」を論拠としており、玄奘三蔵が開きその一番弟子で玄奘の翻訳作業にも参画した慈恩大師
*瑜伽行派とは
唯識哲学は前後期に分類出来る、即ち初期に「唯識三十
人間は事例や智を学び蓄積する、その甚深な状態を阿頼耶識と呼ばれる、世親は言う「唯識の理趣は無辺にして結択の品類差別は度り難く甚深なり。仏に非ずんば、誰が能く具に広く結択せん。」すなわち「唯識の道理は無限であって、決定すべき種類は測り難く非常に深遠である。ブッダでなければ誰が細かく広く決定する事ができようか」。(唯識ということ・兵頭一夫・春秋社 から)
巷間 「唯識三年倶舎八年」と言われている、すなわち倶舎宗を八年修めた後に唯識を三年修めなければ理解不能と言われる、唯識の碩学で二十世紀の怪僧と言われた元薬師寺の橋本凝胤師は言う、空海のが唐から将来した思想は佛教では無い、新興宗教と言う、最澄はものをしらない人であるとまで言った(橋本凝胤に付いては薬師寺注3参照)
唯識を咀嚼すれば唯(唯一)識(こころ)「総てが己の心」であり、眼に映る事例すなわち肉体・物質・自然環境に不滅な事例は無い、
識は八識で構成され表層識と深層識がある、表層識には「意識」に「眼識」「耳識」「鼻識」「舌識」「身識(触覚)」の六識があり、深層識には「
「手を打てば 鯉は餌と聞き 鳥はにげ 女中は茶と聞く 猿沢の池」、唯識を修める僧侶に詠われた
玄奘三蔵達の手で組織化され、広められた中国に於いては皇帝・高宗の信仰と援助があり大いに栄えたが、インド直輸入の教義が難解で中国の行動様式の相違からギャップが生じて衰退し、8世紀初期には華厳宗に主流的な地位を譲る事になる。
唯心論、即ち「五性(姓)各別」(注2)を論ずるインド哲学を駆使した教義でもある、大乗と小乗の中間的思想で権大乗と言われている。
日本に於いては658年頃道昭が玄奘と窺基から教えを受け帰国後、飛鳥元興寺でこれを広めたと言われる、その後興福寺において義淵・玄肪・賢憬・修円・徳一・等逸材が輩出する、特に唐に於いて智周(法相第三祖)に学んだ玄肪は興福寺でこれを広め法相宗は黄金時代を迎える、藤原一門の菩提寺が興福寺であることから、創建以来五摂家の強力な後ろ盾があり今日でも南都六宗で一番の隆盛を極めているのは当宗である、下述する三論宗は渡来僧によって招来されたのに対して法相宗は留学僧すなわち道昭等が唐に於いて学んできた宗派である。
興福寺・北円堂に安置されている、国宝像の無著、世親は唯識宗の開祖とされている。
関連の深い経典に「
唯識の構造を明示した書に玄奘の弟子で事実上唯識思想の祖である
法相宗の宗名は
経典 ・成唯識論 ・般若経・般若心経・金光明最勝王経・
主な寺院として
大本山○興福寺・奈良市登大路町
大本山○薬師寺、奈良市西の京町
大本山○法隆寺(1950年・聖徳宗として独立)奈良県生駒郡斑鳩町 現在聖徳宗には末寺として△中宮寺
・△法輪寺
・△法起寺がある(何れも奈良県生駒郡斑鳩町)等二十九ヶ寺。
大本山○北法相宗として1965年独立した清水寺 京都市東山区清水などがある、信徒数約100万人。
三論宗とはインドに於ける中観派の流れを汲み日本に於いて最初に伝来した衆派である、別名を「空宗」とも言い大乗仏教(注18)の基本ソフト的な哲学である、2-3世紀竜樹とその弟子が書いたとされる三論玄義 (1)中論 (2)十二門論 (3)百論の三論を中核として成立した宗派で「空観の究極理論」を体系化したもので在家の衆生は我・執着を捨てず、出家は無に拘る為に中論(中頌)すなわち中観派学説を提唱したものである、初伝は高句麗僧・
三論哲学は奈良仏教の源流である、飛鳥でも元興寺や大安寺を拠点として研究が競われた、ただし三論学派が宗派と認定されたのは天平勝宝年間に東大寺に於いてとされる、但し中国に於いては三論宗と言う宗派の存在記録はない、部派の教義を網羅し三論宗の基礎的研究宗派に空・無など「存在の有無を検証」する成実宗がある、成実論を研究する処から「論宗」とも言われた。
三論宗は倶舎宗と共に上座部仏教の理論を発展大乗化した宗派で法相宗に影響を与えたが後に吸収される、空の理論体系を言う宗派である。
王の命により来日し元興寺に住んだ高句麗僧・慧灌、慧灌の孫弟子・智蔵、更に智蔵の弟子で善無畏から雑密も学んだ・道慈の入唐三人僧から伝えられた、三論の教義は難解であるが要諦は、邪説を打破して道理を明示す「破邪顕正」、仏界と俗界の諦を言う(仏法を真諦、王法を俗諦)「真俗二諦」、・不生・不滅・不常・不断・不一・不異・不来・不出を否定し囚われの無い道を説く「八不中道」にあるとされ東大寺に於いては明治末期まで研究された、真俗二諦とは真諦 (paramārtha-satya)と俗諦 (saṃvṛti-satya)のことを言う、倶舎論など通常は、一般常識とみられる真実を俗諦といい、仏法があると説くことを真諦としている、真宗系では仏法を真諦と言い、王法いわゆる世間的道徳を俗諦と区別している、また総てが空と説く事を知ることを真諦とし、言語や思想で表すことを俗諦と大乗仏教ではいう。
九世紀初期すなわち光仁年間、当時の日本佛教界に於ける重大事は三論宗 と法相宗が覇権を争っていた、両宗の間で議論を「
倶舎宗 法相に於ける基礎研究が主体であった、宇宙の構造論を纏めた哲学で
インドに於ける世親(ヴァスバンドウ)の著作で正式名称を「阿毘達磨倶舎論(アビダルマコーシャ,abhidharmakośabhāṣya)略称では「倶舎論」を論拠とする学派で説一切有部を根幹としている、因みに
倶舎論は須弥山思想を説いており曼荼羅誕生の触媒の役割をしている、十方世界観、三千大千世界観を盛り上げる、「増一阿含経」から発展させた須弥山を金輪・水輪・風輪で支え風と水で熱すなわち火輪が起り、虚空を空輪として五輪(五大)とされると言う世界観を持つが、成実宗と共に独立経団としての成立は見られない。
仏教哲学の基礎・基本問題を整理し、迷いの世界解明をする宗派で法相宗に影響を与えたが後に法相宗(唯識)
倶舎論は根本真理すなわち「三法印」を言う、著名な熟語に「諸行無常」「諸法無我」がある、諸法無我は十八巻にあり、諸法すなわち総ての存在は不変な実体(我)は無い、総ての出来事は因縁に在ると言う、因みに「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」を三法印と言う、「五位七十五法・五位百法」等々難解な倶舎論に付いて薬師寺の元管主・故高田好胤師はジョークを交えて頭の中がクシャクシャ(倶舍倶舍)になると言われたとか、閑話休題、道元の伝記とも言える建撕記からか、倶舎論を道元は九歳の時に読破したと言う記述がある(京都宗祖の旅、百瀬明治、淡交社)。
天才世親の著作とされる論書に「倶舎論」「唯識二十論」「唯識三十頌」「仏性論」「無量寿経優婆提舎願生偈(浄土論・往生論)」等がある、日本では江戸時代に泉涌寺の佐伯
倶舎論には
因みに「倶舎論」には「
華厳宗 華厳第三祖で事実上の祖は唐の
四世紀インドに於いて密教の先鞭的な思想を含んだ華厳経が作られるが宗派としての成立は無かった、宗派の起こりは唐(中国)である、国に於いて華厳経を最高経典と解釈して七世紀中に成立した、
華厳宗の華厳とは美しく飾る、を意味する、すなわち
華厳宗は異説もあるが大安寺に寄宿して東大寺大仏開眼の呪願師を務めた道璿(702~760年・どうせん)が良弁(689~773年)に伝えたとされる、総てに仏性を有すると言う。
一知半解の知識で試験問題に華厳宗を50字以内に纏めろと出題されたら冒頭に記述した「一入一切 一切入一 一即一切 一切即一を解き、事事無礙法界と重重無尽の縁起を解く」が回答であろう。(事事礙法界とは無 一切の物が空であるという理が姿を消し、一切の物事が妨げあわずに共存する、重重無尽とは重ね重ねが無限に続くことの「自己相似集合」)。
正式名称を「
経典の漢訳は三点あり
本尊の呼称であるが華厳経・最終会・入法界品の旧訳の六十華厳では廬舎那であり、新訳の華厳経八十華厳では毘盧舎那と記述されている。
日本には大安寺の伽藍構築を行った道慈や東大寺の開眼導師として聖武天皇から招かれ
華厳宗の教相判釈に於いて華厳哲学の基に佛教思想を説明した著作」(華厳一乗教義文斉章)があり、竹村牧男著、華厳五教章(春秋社)に依れば*小乗教*大乗始教(唯識・中観)*終教(如来蔵)*頓教(禅)*円教(華厳)に分類されている、著作は第二祖の智儼か第三祖の法蔵か定かでない。
東大寺や各国分寺創建を触発した宗派で奈良時代には東大寺・大安寺・薬師寺・西大寺に於いて専門の学僧を置き研鑽されたが、平安時代に皇系が天智系に変わり天台宗や真言宗の後塵を配し隆昌を見るには至らなかった、その後再興が数回に於いて計画されたが叶わず19世紀末に東大寺の復権まで消滅に近い状態であった、但し空海の真言宗や親鸞の浄土真宗に影響を与えている。
成実宗・倶舎宗は上座部仏教の理論を発展大乗化し、その影響を受けた法相宗・三論宗などが識や空の理論を重要視した事に対して華厳経を奉ずる宗派で法界縁起すなわち凡てを超越した仏の存在を言う、この存在を五陰と言い・色(物)・受(感覚)・想(想像)・行(意思)・識(認識)を言う。
華厳宗の要諦は二つに絞られる、「
存在論の中に四の法界縁起がある、法界縁起とは堀池氏の論を借りれば対立差別の「事法界」超差別の「理法界」理と事融合の「理事無礙法界」融合調和「事事無礙法界」をもって覚の世界を構成していると言う、覚りを開いた仏の心境を表わし歴史上実在した釈迦を超越した宇宙の構造(三千大千世界)を説き一即多、全てに仏性があると説く(一乗主義)(東大寺史へのいざない・堀池春峰著参照)、因みに法界とは真理の世界をいう。
華厳宗の教相判釈に法蔵による「華厳一乗教義分斉章」「華厳一乗分記」通称「華厳五教章」が言われる、即ち ・小乗教 ・大乗始教(唯識 中観・三乗教) ・大乗終教(如来蔵・三乗教) ・大乗頓経(禅・三乗教) ・大乗円教(華厳・一乗教)と順序付けている。
これが重々無尽のコスモロジーと言う事であろう、華厳宗の大本山に東大寺がある。
華厳宗中興の祖と言えば明恵である、明恵は法然の撰述した「選択本願念仏集」が著名であるが、「
但し東大寺は明治維新廃仏毀釈等もあり1873年浄土宗知恩院派の末寺になっていたが1886年華厳宗大本山として独立した。
他に末寺として、新薬師寺 奈良市高畑町 文殊院 桜井市大字阿倍 帯解寺 奈良市帯解今市など60ヶ寺がある。
中国で成立した華厳宗の祖は事実上法蔵であるが、祖統説があり・杜順・智儼・法蔵・澄観・圭峰宗密と相乗された、朝鮮では華厳哲学がメイン思想である、日本に於いては法華経がメインであるが、東大寺建立など興隆した、法蔵の孫弟子
本尊 毘盧遮那仏 信徒数四万五千人。 開祖 良弁 経典 華厳経・他
律 宗 仏教発祥の地インドに於いては「戒」は土着信仰であり僧侶の必須事項である、エトスである為に宗派を強調する必要は無く律系の宗派が存在した歴史は無い、中国に渡り仏教の頽廃を憂いて律の宗派が興った、また気候風土・エトス(行動様式)の相違から律蔵として必要不可欠となり各宗派独自の戒律を説いた宗派で、上座部(theravāda)的と指摘する人もいる。
律宗は中国に於いて随時代に興る、 戒律は僧侶の必須事項でありインドに於いては存在した歴史は無い、しかし中国に於いて初唐時代の学僧・道宣(南山大師)が興した南山律宗とその師に当たる
大乗仏教が広がり空理空論の律宗に於いては三蔵(経蔵・律蔵・論蔵)の内、律蔵を最重要視し一切の諸行を律蔵とする。
律とは教団の戒律を意味し仏典とは別に律蔵として成立させたもので、その後中国にお於いて大乗経典全てを律蔵に加えての研究機関として成立した、これを鑑真和上により日本にもたらされて出家受戒が成立する。
道宣が創立し鑑真が請来した律宗は戒律の中でも四分律で法華経と摂大乗論をベースにしたもので多くの著作を残している、その他の律には「十誦律」「摩訶僧祇律」「五分律」「根本説一切有部律」「pāli律」等が著名である。
戒律即ち「具足戒」の基本は四分律で420年羅什が漢訳したもので比丘250戒、比丘尼348戒を必要とする、これは小乗色的な内容も存在するが、大乗の範疇に入り「分通大乗」とも呼称される、鑑真は律宗のみではなく天台の碩学でもあり、日本で最初の天台教学の請来者とされている、天台智顗の一乗思想の共鳴者であった様で、入唐以前に鑑真請来の天台教学を学んだであろう最澄が具足戒を放棄したのはアイロニーを感じる。
妙法如律「戒の堤によって禅定の池ができ、はじめて覚りの智慧の水がたたえられる、戒の堤なしには定水静かなことなく覚りの智慧が発することはない」。(日本仏教宗派のすべて、大法輪閣)
四分律とは経典ではないが僧侶が守るべき戒が記されており、原典はバーリ語で記述されている、日本律宗の根本教義で、東晋時代に於いて前述の」「
その内「四分律宗」が興隆するが三派に分裂する、「四分律行事鈔」などを著した道宣により南山律宗が開かれた。
厳しい戒の順に
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開祖 鑑真 主経典 四分律
○総本山、唐招提寺、奈良市五条町 法金剛院 京都市右京区花園扇野 等116ヶ寺であるが当時は西大寺に於いても研鑽された。 信徒数約13万5千人。
成実宗 (Satyasiddhi-śāstra, Tattvasiddhi-śāstra) 412年 三論宗の付宗的で独立した宗派ではない寓宗である、論拠となる成実論は3~4世紀頃のインドの訶梨跋摩に依るとされる、鳩摩羅什が漢訳した成実論が中国律宗が嚆矢で経典よりも論を重要視する、隋の時代に小乗仏教と批判され衰退するが、法の基軸的な教えで日本では各宗派に大きな影響を与えている。 開祖 百済僧道蔵 主経典 成実論
六宗成立以前には・修多羅衆・摂論衆・別三論衆・法性衆などの衆団も存在していた、閑話休題、南都佛教の寺には寺名(東大寺)の前に付けられる”山号”は存在しない。
注1, 南都六宗とは上記・三論宗・成実宗(三論宗の寓宗)・法相宗・
寓宗とは教義としては確立しているが、修派としては他宗派に付随している宗派を言う。
注2, 五性各別(五姓
三一権実論争とは 唐の天台宗と法相宗の間において繰り返し行はれた論議を日本に持ち込まれたもので、徳一が仏性抄を書いて最澄を攻撃したのに対して最澄は照権実鏡や梵網経を基にして出家僧の受けなければならない戒律を小乗の具足戒(二百五十戒)から大乗の菩醍戒(十重四八軽戒)に変へる顕戒論などを顕し反論する、この大論争は最澄が延暦寺へ帰山後も長期間続いた。
徳一とは(生没年不詳749~824?)平安時代初頭の法相宗のエリート学問僧で藤原仲麻呂の子とされている、興隆する天台宗・真言宗に対抗する南都仏教側の尖兵で、筑波に中善寺・会津の恵日寺(慧日寺)を創建する。
興福寺の修円に学んだと言う説もあるが推定年齢で徳一は20歳近く年長と考えられ20代前半に会津方面に居を構えている、修円は空海や最澄と並ぶ秀才とも言われ室生寺の形態を整えた法相学者であるが密教に造詣が深く、むしろ空海や最澄と懇意であり疑問視される。
最澄が会津滞在中の徳一を訪れ、三一権実論争を行う、徳一の言う、五性各別とは要約すれば人間が成仏出来るか否かはその人の素質により五段に分類し1、菩薩定性、2、緑覚定性、3、声門定性、4、不定性、5、無定性とされる、これと逆の解釈が一切偕成で全ての人が成仏できるとする天台宗(最澄)と論争することになる。
三一権実論争は817年~838年まで継続したが徳一は弟子を持たず一時期終止符がうたれる、しかし最澄・徳一の死後一世紀半の後、即ち963年村上天皇の要請で行われた「応和宗論」について天台宗・法相宗の精鋭20人が参集して法華経・方便品の「若有聞法者無一不成仏」等の解釈論を交えて再燃した。
また源信は「一乗要決」に於いて三一権実論争に於いて三乗説を方便即ち権と論じて一乗説を真実の教えと主張した。
徳一は三乗論のフォローを空海に依頼したと言う説もあるが、空海としては三昧耶戒を説く「秘密曼荼羅十住心論」「弁顕密二教論」 「即身成仏義」(空海注2、解説)で解決しており三一権実論争に加わるのを避けたのではないか、空海に付いては元興寺の泰信は得度の師であり、留学以前から南都の各寺と親交があり、帰国後は東大寺、大安寺の別当に就任している。
徳一の著書に三乗真実、五性各別を説明する「仏性抄」「中辺義鏡」「慧日羽足」等を著してとされるが、現存するのは「真言宗未決」のみである。
最澄は会三帰一を称える、法華経を最高と経典とした天台宗創始の学説である、
注3、最澄の一乗に対して徳一の三乗とは 声門乗(仏の声を聞く) 縁覚乗(単独で修行を積む) 菩薩乗(覚りを目指す)を言う。
注4、 中論・十二門論・百論・(四百論・百字論などもある)とも大乗経典の書で竜樹とその弟子による作とされる、空の哲学を論理化したもので特に中論は三論宗の中核をなしている。
注5、竜樹 (竜猛)
注6、南都七大寺 天皇の発願により造営された寺で全てが官給の為国の監督を受けた官寺で七堂伽藍(西大寺など例外も在る)を備えた大寺を言う、大安寺(大官大寺)・薬師寺・元興寺(法興寺)・興福寺・法隆寺・東大寺・西大寺・の事を言いほとんどが六宗兼学の道場であった。因みに南都七大寺とは平安時代に入り京都すなわち北都側からの呼称であり奈良時代には四大寺の一寺であった、四大寺とは大安寺・元興寺・興福寺・薬師寺を言い、後に東大寺を加え五大寺と言われた。
八世紀後半に四天王寺・唐招提寺・東寺・西寺(現在は無い)などを加えて十五大寺と言う呼び方もされた。
七堂伽藍とは金堂・塔・講堂・経蔵・鐘楼・僧房・食堂を言うが七は悉くに通ずる、また禅宗特に曹洞宗に於いては仏殿・法堂・山門・僧堂・庫院・浴室・東司を言う。
注7,
受戒 僧侶として戒律の履行を誓う儀式で代表的な大乗戒として三聚浄戒 1,攝律儀戒 2,攝善宝戒 3,攝衆儀戒(鑑真が開いた戒壇を東大寺戒壇堂が引き継いだもの)がある。
注8, 奈良時代の項と重複記述してあります。
注9、高宗 628~683 唐三代の皇帝、9男であるが兄達の抗争から皇帝となる、晩年には皇后の武則天に実権を奪われる。
注10、窺基(きき)(632年~682年)唐の僧で正式名を基と言い、慈恩大師の称号を持つ、法相教学の完成者で彼の名から慈恩宗とも呼ばれる、著書に成唯識論述記 ・成唯識論枢要 がある。
注11 三蔵 梵語名を tripipakaと言い、仏教経典を経蔵(説教)・律蔵(組織を維持するための規則)・論蔵(前二蔵の注釈)に仕分したもので一切経・大蔵経の原点とされる。 経典(スートラ) 律(ヴィナヤ) 論(アビダルマ)。
注12、菩提遷那 (704~760)インドのバラモン僧正、文殊菩薩に心酔し唐・五台山大華厳寺に入る、華厳経に精通し密呪を得意とした、736年聖武天皇の招きで来日し大安寺に住み752年4月9日、東大寺・毘盧遮那仏の開眼導師を勤める、光明子や藤原仲麻呂との接点が多い。 仏哲 菩提遷那の弟子で大仏開眼供養の雅楽や舞を指導した。
注13、道璿唐大福先寺の北宗禅僧で聖武天皇の招きで菩提遷那と共に来日、日本に華厳経を請来し梵網経疏を著す、大安寺に西禅院を興し居住する、菩提遷那と東大寺・毘盧遮那仏の開眼導師を勤める。生誕、没年とも菩提遷那と同時期。
注14、審祥 新羅の僧か日本からの留学僧か定かでは無いが大安寺の僧とされる、東大寺開眼供養で咒願師華厳宗は審祥が初祖で良弁は第二祖とも言われる。
注15、道宣
596‐667 律宗の祖で南山律師と呼ばれる隋僧、20歳で具足戒を受け智首を師とし律学を習得し後に玄奘と共に経典翻訳に携わり、中国仏教界に君臨する、唐招提寺の鑑真は孫弟子にあたる。
著作に「四分律行事鈔」「律五大部」「大唐内典録」「集古今仏道論衝」などがある。
注16、西暦2~3世紀頃に弥勒による「瑜伽師地論」が法相の原点の1典とされる、弥勒菩薩と同一人物とされている、因みに法相の重要経典である「解深密経」は弥勒菩薩が在世中に説いた経典ともいわれている。
注17、年分度者 得度を受けられる僧侶の数を朝廷が統括するもので全27条からなる僧尼令は、私度僧が多く輩出した事により僧尼の質と人数の制限を目的に創られた、718年(養老2年)に始まり当初は10名、即ち三論・法相各5名から、806年には三論・法相各3人・華厳、天台、律各2名となる、・734年(天平6年)・804年(延暦23年)・806年(大同1年)に条件が加えられた、835年には真言3名が加わる、律令制度の崩壊で形骸化する。
また得度とは仏門に入る、救いの道に入る、娑婆から彼岸に行く、などにも使われる。
注18、 大乗佛教及び部派佛教を梵語(Sanskrit)でスタビラ・バーダSthavira‐vāda、パーリ語(pāli)でテーラ・バーダThera‐vādaという
注19、
注20、 中国十三宗 *三論宗 *成実宗 *法相宗
日本に於ける十三宗(中国十三宗は注6)とは*法相宗 *華厳宗 *律宗 *天台宗 *真言宗 *融通念仏宗 *浄土宗 *浄土真宗 *時宗 *臨済宗 *曹洞宗 *黄檗宗 *日蓮宗を言う。
注21、
*事事無礙法界とは現象界の一切の事象が互いに作用し合い、融即していることをいう、法界とは真理の境地をいう。
*重重無尽とはあらゆる物事が相互に無限の関係をもって互いに作用し合っていること、この関係を一と十の数で示し、一の中に十があり,十の中にもまた十が含まれるとする、十十無尽ともいう。(ブリタニカ国際大百科事典より)
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最終加筆日 2004年10月5日 2005年3月9日 8月22日 10月29日 注11加筆 11月29日最澄入唐 2006年6月30日法相・華厳一部 2008年5月4日注14 7月8日三論の一部 2009年8月7日 2010年5月3日 2015年1月8日 2017年4月19日 5月13日 2018年2月27日 2019年5月17日 9月3日 2020年4月9日加筆