会津盆地の中央に位置する、周囲に磐梯山・
徳一は
山号を瑠璃光山と言い、創建当初は七堂伽藍と百余りの末寺を持ち会津地方約二百郷に君臨していた、十二の僧坊を備えていたと伝えられるが伽藍配置や創建時の寺名は定かでは無い。
東北地方の古刹として名高く優れた仏像を持ち、国宝、重文を合わせて九尊が安置されている、国宝の薬師如来は特に著名で平安初期彫刻を代表する尊像で三尊像である、材質も稀有な春楡が使用されている様である、その他の尊像の両手に先端部は桂が使われ、その他の躯体部には欅が使用されている、中尊は衣に刻まれた襞は深さを有し豊かな量感を誇る、因みに薬師如来の持つ薬壷は後補である、脇侍は大衣を通肩に纏う点に特徴があり腰を捻り、片腕を
その他の仏像も創建当寺の作と言われて三十数尊が安置されている、これらの尊像に徳一の関与を指摘する声もある、勝常寺には徳一とされる座像が保存されている。
東北地方には一木彫、鉈彫像の仏像が非常に多く造像されている、勝常寺には所持する仏像の多くを占め、平安時代初期の尊像が十二尊があると言う。
伊勢氏侵攻による兵火で堂宇を失うが室町時代に再興され現在は薬師堂(元講堂)、本坊(客殿)、庫裏、中門等で構成されている。
当寺に現存する最古の薬師堂は1398年の再建で和様・唐様を折衷した様式で重要文化財の指定を受けている。
木像の中でも一木造が多い東北地方は薬師信仰に篤い処で、会津五薬師と言われる寺があるが、薬師像が現存するのは・勝常寺と上宇内薬師堂(183.0cm欅)だけとなっている、会津五薬師とは中央に勝常寺、東方に慧日寺、西方に上宇内薬師堂、北方に北山薬師、南方に野寺薬師で、上宇内薬師堂の尊像は重文指定を受けている、慧日寺には徳一の墓(石塔)がある。
毎年四月二十八日には薬師如来例祭が行われ、供養として念仏踊りが行われる。
真言宗
薬師三尊像
○ 薬師如来 木造漆箔
141.8cm
○月光菩薩 木造漆箔 169.4cm 左手を下げる(明治36年以前の寺伝では逆)
○日光菩薩 木造漆箔 173.9cm 平安時代
春楡 右手を下げる
● 十一面観音 立像 木造彩色 225.7cm 平安時代 桂一木造
● 聖観音 立像 木造素地 167.1cm 平安時代 欅
● 地蔵菩薩 立像 木造漆箔 184.2cm 平安時代 欅
● 地蔵菩薩 立像 木造素地 174.2cm 平安時代
● 四天王 立像 木造素地 120.6㎝~132.7cm 平安時代
● 伝虚空蔵菩薩立像 木造素地 147.5cm
平安時代 春楡一木造
● 薬師堂 単層銅板葺 桁行5間、梁間5間 寄棟造 室町時代
徳一 坐像 86.9cm
○印国宝 ●印重要文化財
拝観は前日までに予約希望 ℡ 0241-27-4566 4月11日~11月15日まで、 火曜休日
注1、中央薬師と呼ばれる所以は会津五薬師があり 東・慧日寺 西・日光寺 南・火玉堂 北・大正寺 の中央に位置することからである。
注2、三一権実論争と徳一 三一権実論争(三乗一乗権実諍論・法華権実論争)の三とは菩薩乗・緑覚乗・声門乗を言い、一とは唯一無二を言い一乗(一仏乗)を言う、総てに人に仏性がある「悉有仏性」と言う。
端的に言えば法相の依経とする
唐の天台宗と法相宗の間に於いて繰り返し行はれた論議を日本に持ち込まれたもので、どちらが「真実か権(仮の姿・方便)」であるかを論議するもので、直道成仏、一乗すなわち一つの乗り物(一仏乗)対三乗(声門乗・縁覚乗・菩薩乗)で、徳一が仏性抄・歴劫成仏を唱えて最澄を批判、最澄は照権実鏡をもって反論、この大論争は最澄が延暦寺へ帰山後も長期間続いた
徳一とは(生没年不詳749~824?年)平安時代初頭の法相宗のエリート学問僧で藤原仲麻呂の子とされている、興隆する天台宗・真言宗に対抗する南都佛教側の尖兵で、筑波に中善寺・会津の恵日寺(慧日寺)を創建する、徳一には徳溢、徳逸などの記述が古い文書に存在するらしい。
興福寺の修円(しゅえん)に学んだと言う説もあるが推定年齢で徳一は20歳近く年長と考えられ20代前半に会津方面に居を構えている、修円は空海や最澄と並ぶ秀才とも言われ室生寺の形態を整えた法相学者であるが密教に造詣が深く、むしろ空海や最澄と懇意であり疑問視される。
最澄が会津滞在中の徳一を訪れ、三一権実論争を行う、徳一の言う、五性(姓)各別とは要約すれば人間が成仏出来るか否かはその人の素質により五段に分類し1、菩薩定姓(自利利他の菩薩行を行じる最も勝れた人達) 2、独覚定姓(独りで覚りを開く素質を有するが、自利行のみで利他が出来ない人達)辟支・独覚とも訳され独自に悟る哲学者、 3、声聞定姓(仏の教えを聞き修行する真摯なだけの人達) 4、三乗不定定姓(素質が固定しない不安定人達) 5、無性有情(佛法を学ぶ素質も気概もない人達)、これと逆の解釈が一切偕成で全ての人が成仏できるとする天台宗(最澄)と論争することになる。
三一権実論争は817年~838年まで継続したが徳一は弟子を持たず終止符がうたれる、後日源信は「一乗要決」に於いて三一権実論争に於いて三乗説を方便即ち権と論破し一乗説を真実の教えとした。
最澄は「守護国界章」に於いて、徳一を「北轅者、麁食者、謗法者などの蔑称で呼び徳一と呼称する事は無かった、原因として南都六宗即ち仏教勢力の多くは朝廷に従わない寺院が多かった為に、最澄最大のバックボーンである桓武帝の意向を加味したとの指摘もあるが旧勢力の南都佛教と新興の密教から天台を護るための焦りもあろう。
徳一は三乗論のフォローを空海に依頼したと言う説もあるが、空海としては「秘密曼荼羅十住心論」「弁顕密二教論」 「即身成仏義」(空海注4)で解決しており三一権実論争に加わるのを避けたのではないか。
徳一の著書に三乗真実、五性各別を説明する「仏性抄」「中辺義鏡」「慧日羽足」等を著してとされるが、現存するのは空海に送った批判書「真言宗未決文」のみである。
最澄は会三帰一を称える、法華経を最高と経典とした天台宗創始の学説である、対して徳一の法相宗は解深密経等々を依経として五性各別を説く、本来衆生にはレベル格差があり総てが成仏可能ではない、三乗とは声聞・縁覚・菩薩の為に説いた三乗教(総てに相当する)を言い、一乗とは唯一仏になる教義を言う。
注3、即身成仏義 世界を構成する六大無礙すなわち地・水・火・風・空に識を加える六大無礙をもって一切諸法の原理とする、六大は佛と人と共通云々と言う難解な書。