栄西は約五年間二度に亘り唐に学び帰国後博多の聖福寺や鎌倉の寿福寺で活動していたが、栄西の目的は京都への進出であり機会を作り将軍・源頼家を後ろ立てとして入洛した。
創建当初から比叡山や栄西を敵視する慈円に遠慮して真言・止観(天台)・禅の三院併設の道場とし比叡山のサテライト的な行動を取ったが慈円の嫉妬心を回避出来なかった、重源没後に東大寺
栄西は日本に於ける禅宗系宗派の総祖師と言える程の功績を残したが、既成宗教界のドンである慈円の愚管抄などで攻撃された、栄西は「興禅護国論」(注4)に於いて最澄の法脈も禅に繋がる事を強調するが、九条兼実の実弟・慈円を元とする既成勢力の反発は継続された。
境内は南に面して三門・佛殿・法堂など直線上に並べた禅宗伽藍が存在したが1552年細川晴元の兵火により壊滅、1992年秀吉の援助で安国寺恵瓊が安国寺や東福寺から仏殿などを移築復旧したが、廃仏毀釈で多くを失い五万四千坪の寺域は50%以下となり最盛期の伽藍には及ぶべくも無い、方丈であるが禅宗の住持職(住職)の居室を言い、維摩居士の居室が方一丈(一丈四方、約3m)であった故事による。
当寺所有の国宝で俵屋宗達の作品、風神・雷神絵は京都国立博物館に寄託されており複製画がある。
現在は十四院・七十余の末寺を持つ臨済宗建仁寺派の大本山である。
栄西禅師と言えば「興禅護国論」が著名であるが「喫茶養生記」を著し宋国からお茶の種を日本に請来した僧であり、建仁寺には瀟洒な茶室・東陽坊がある、茶道宗家の家元やその直門による、献茶式・茶会が行われる。
花町祇園に隣接し観光京都の中心に位置しており、東へ徒歩で十分程の場所に観光客等に「八坂の塔」で親しまれる法観寺や南に位置する六道珍皇寺は建仁寺の末である。
京都は多くの観光客を集め「山紫水明の都」「王城の地」「千年の都」など美しく修辞されるが「魔界の都」でもあり、六道珍皇寺もその一寺である。
注1, 五山文学 中国に於ける禅林文学の影響を受けたもので京都・鎌倉の五山の僧を中心とした漢文学で七言詩・五言詩などが多く理智・構築の文学が好まれ江戸時代の儒学者(林羅山等)に影響を与えた。
五山とはインドの「天竺五精舎」を模した制度である、因みに精舎を梵語でvihāra(ビハーラ)と言う、因みに「天竺五精舎(天竺五山)」とは、竹林精舎、祇樹給孤独園精舎(祇園精舎)、菴羅樹園精舎、大林精舎、霊鷲精舎が言われている。
注2、 京都・鎌倉 五山 南禅寺が五山の上とされるのは足利義満が創建した相国寺を五山に組み込む為に格上げしたとされる。
注3、 臨済宗には本山を「ずら」呼びする風習があり・大徳寺の「茶ずら」・妙心寺の「算盤ずら」・東福寺の「伽藍ずら」・建仁寺の「学問ずら」・相国寺の「声明ずら」などと呼ばれていた。
注4、 興禅護国論
寺 挌 |
五山の上 |
① |
② |
③ |
④ |
⑤ |
京都五山 |
天竜寺 |
相国寺 |
建仁寺 |
満寿寺 |
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鎌倉五山 |
|
円覚寺 |
寿福寺 |
浄智寺 |
浄妙寺 |
所在地 京都市東山区大和大路通り四条下る 臨済宗建仁寺派 075-561-6363
建仁寺の文化財 表内は国宝 ●印重要文化財
名 称 |
適 用 |
時 代 |
風神・雷神図 |
絹本金地著色 二曲屏風 俵屋宗達筆 達筆の代表作 |
江戸時代 |
●方丈 単層 入母屋造 本瓦葺 1599年恵瓊が安国寺より移築した典型的な禅宗様
●勅使門(矢ノ根門)四脚門 切妻造 銅板葺
●竹林七賢図(方丈の襖絵が1934年の台風の後軸なる)紙本墨画 掛幅装 十六幅 四幅各197,0:187,0cm 八幅各187,0:167,0cm 四幅各198,0:87,0cm 桃山時代 海北友松作
●花鳥図(方丈の襖絵が1934年の台風の後軸になる)8幅の内7幅 紙本墨画 掛幅装 平均188,0:100,0cm 桃山時代 海北友松作
●琴棋書画図 拾幅 紙本淡彩 掛幅装 桃山時代
●十六羅漢像 絹本著色 掛幅装 16幅 各143,6:59,7cm 桃山時代
●雲竜図 8幅 紙本墨画 掛幅装 186,0:133,0cm 198,0:187,0cm 桃山時代
他五山文学者の一山一寧の墨書等。
方丈の琴棋書画図・花鳥図・竹林七賢図