法観寺 八坂の塔       
             
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通称名を「八坂の塔」と呼ばれており、山号を霊応山と言う、建仁寺清水寺と八坂神社など著名寺社の近くに位置し、京都のランドマークlandmarkとも言える五重塔で知られる寺で、観光京都に於いて採り上げられるPR誌やTV画面に登場する機会は東寺の五重塔を凌ぐ八坂の塔を所持するのは法観寺である。
伝承に依れば付近は高麗系渡来人・八坂造
(みやつこ)の居住地説等、諸説あり如意輪観音の将来と聖徳太子の時代とのギャップは大きいが、太子が如意輪観音のお告げを受けて建立した寺とされる、当初は「八坂寺」と呼ばれ四天王寺様式の七堂伽藍を備えていた、平安京遷都以前に存在した古刹であり飛鳥時代に創建されたと言う伝承もある、但しこの時代には密教仏である如意輪観音信仰はまだ存在していない、如意輪観音は奈良時代8世紀)以降の信仰とされる、世紀後半には聖徳太子の運命に似た悲運の皇子、早良親王(崇道天皇)の鎮魂とオーバーラップして興隆した太子信仰からの伝承とも考えられる、如意輪観音は密教仏と考えるのが妥当で聖徳太子の時代に如意輪観音信仰は考えにくい、これに対して住職さん曰く「太子を呼称した人は一人とは限定できない」。
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世紀初期に制定された寺格を定める延喜式
(注1に於いては盂蘭盆会供養料を支給される官寺として栄えた、また寺の最盛期は清水寺が所属する法相宗と強い敵対関係にあった八坂神社(注2と共に天台宗の寺であったらしいが、真言僧の関与も言われている。   

法観寺・八坂の塔は建立以来三度の戦火や火災に遭い1440年足利義教の再建とされる、塔高46mで五重塔としては・教王護国寺54,8m ・興福寺50,1mに次ぐ高さで・醍醐寺380m 仁和寺36,0m 法隆寺34,1mを凌いでいる、因みに屋外に於ける最小の五重塔は室生寺16,1mである、また堂内に置かれる国宝・五重塔(小塔)元興寺5.5m海竜王寺4.01mがある、蛇足ながら応仁の乱で焼失した法勝寺の塔は室町時代の「院家雑雑跡文」に依れば、約81m・八角九重塔であった、多武峰の談山神社(たんざんじんじゃ)の塔は唐の清涼山宝池院を模したとせれる十三重(檜皮葺)で約17.00mである、参考にはならないが越前大仏の清大寺の五重塔は鉄筋コンクリート造で75mである。 (注7参照)
八坂の由来に付いては定かでないが、後付けの説明に・祇園坂・長楽寺坂・下河原坂・法観寺坂・霊山寺坂・山井坂・清水坂・産寧坂(三寧)を言われている。 
多方面から眺望出来る法観寺五重塔は禅宗系すなわち臨済宗寺院には稀有な代表的仏である五智如来像が安置されている。  
五智如来とは金剛頂経を典拠とした密教仏で密教経典の主役如来群である、金剛界曼荼羅にも画かれている大日如来
(智拳印)  阿閦如来 宝生如来 阿弥陀如来 不空成就如来を言う、塔の心柱が礎石まで降りている為に西面に置かれた大日如来の上部に雲に乗る阿弥陀如来を配置しており変則的ではあるが、塔内はまさしく羯磨曼荼羅の世界であり密教寺院に居る思いがする。
権力抗争で恐れられた「南都北嶺」(注5)間の代理戦争すなわち比叡山の流れをくむ祇園社、八坂神社と興福寺の末寺である清水寺の抗争の余波等で罹災し荒廃した寺に1240年建仁寺の8世・済翁証救が再興し寺名も法観寺となる。  
境内には本尊薬師三尊像
(薬師堂)・聖徳太子像(太子堂)・ 茶を喫しながら塔の風鐸の音が聴けた二畳台目の瀟洒な聴鐸庵(茶室)がある、また八坂の塔から坂を西に下り東大路を渡ると臨済宗・大本山の建仁寺があり祇園と隣接している。

また京都は十三仏信仰が篤く十三仏霊場に加盟していたが、2014年7月退会した。
応仁の乱で消滅したが八坂東院と呼ばれた雲居寺 が近くの下河原町に存在し、そこには奈良の大仏に対して京の半仏と呼ばれた阿弥陀如来像が存在したと言われる。 


閑話休題、八坂と言えば日本三大祭り(注4の一祭である祇園祭である
ユダヤ教のラビであるマービン・トケイヤー師は祇園祭を見て、日本語では意味不祥である冒頭の掛け声、「エンヤラヤー」を聞き古代ヘブライ語の「エヤニ・アーレル・ヤーANYAHLLYH)」即ち「私は神(ヤウエ)を賛美する」と聞こえたと言う、また氏は川守英二の研究を採りあげ、エッサはAshAで持ち上げるぞ、を意味する、またワッショイはヴァー・イェシュ・イャーVA Yshaā YHは来る救い神を意味すると言い、そこには日本の祭りで意味不明の掛け声の解説が為されている、因みにキリスト教に於いて主を賛美すると言う、ハレルヤ(Alleluja、ラテン語)、アレルヤ、アリルイヤ等は語源は同一である。

やや無理が感じられるが、八坂をヘブライ語の神ヤハウェ (Yahweh)またエルサレム南東部の丘にあるシオンZion)( iyyôn 注6)と祇園が酷似していると言う指摘があり、祇園祭のルーツはシオンの祭りにあると言う人も居る。 



宗派 臨済宗 建仁寺派           所在地 京都市東山区清水八坂上町388      ℡ 075-551-2417         


●八坂塔絵図  紙本著色     室町時代

●五重塔  木造 三間 本瓦葺  4600m    室町時代 
 

1、 延喜式(えんぎしき)  律令の施工細則に於ける補助法令三代各式の一つ、弘仁格式 貞観格式 延喜格式 があり平安中期に編纂された格式(きゃくしき)である。

2、 八坂神社は1868年に神仏分離令の発布時に命名された神社名であり、以前は祇園社・祇園感神院別当寺
(かんしんいん)と言い天台宗に所属し延暦寺との絆は強かった、従って京都では八坂神社を「祇園さん」と呼ばれている。

3、法観寺境内の発掘調査で白鳳時代のせん仏が発見された、弥勒仏等でH 9cm×w 5cmで金箔も一部にみられる。

注4、 
日本三大祭りとは・祇園祭(京都市 八坂神社) ・天神祭(大阪市大阪天満宮) ・ 神田祭(東京都神田明神).が言われている、因みに八坂神社の呼称は明治元年からで以前は「祇園社」であった。
   京都三大祭りとは・祇園祭(八坂神社) ・賀茂御祖神社(下賀茂神社)、賀茂別雷神社(上賀茂神社) ・時代祭り(平安神宮)を言う、中でも祇園祭は神道、仏法、儒教、道教、セム的一神教を取り込んだ混成文化の典型と言える祭りである、因みに八坂とは後からの銘々であるが *祇園坂 *長楽寺坂 *下河原坂 *法観寺坂 *霊山坂 *山井坂 *清水坂 *三寧坂を言う。

注5、南都北嶺 南都の代表は興福寺であり北嶺は比叡山を言う、覇権を争い禁裏から庶民までに恐れられた。 


6、古代へブル語の発音で旧約聖書を朗読する時の発音であるティベリア式発音で iyyôn と言う。

注7、 鎌倉時代に存在した東大寺東塔院七重塔の高さは70mを超えていたと言われる
 



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