桓武天皇が遷都した長岡京の内に位置している、
衰退していた当寺は鎌倉時代には天台宗に属し澄豪(注2)が顕徳寺を再興して宝菩提院として穴太流や西山流の呪法を興し栄えた、しかし応仁の乱や天台宗所属の為に比叡山を敵視した信長の攻撃を受け堂宇は灰燼に帰す、1962年日向市より勝持寺に文化財が移される、現在の願徳寺は1973年に現在地に再建され1996年に伝如意輪観音や薬師如来像が返却された。
寶菩提院の国宝・菩薩半跏像(伝如意輪観音)は渡来系の風貌を持ち榧の一木で素木・彩色などは行なわれず檀像様に仕上げられた平安時代初期(貞観時代)を代表される傑作で
天台宗 所在地 京都市西京区大原野南春日町1223 - 2 075−331-3823
○菩薩半跏像 坐像 木造 素地 白毫は水晶 眼に黒曜石 88,2cm 平安時代 伝如意輪観音
●薬師如来像 坐像 木造 素地 110,3cm 鎌倉時代
○印国宝 ●印重要文化財
他に聖徳太子2歳像や二童子を従えた青不動絵の展示がある。
注1、檀像 阿含経を典拠に最初に彫られた釈迦如来像が檀像(牛頭栴檀)と言う、法隆寺の九面観音・金剛峯寺の諸尊仏龕・仁和寺の薬師如来等がある。
白檀(栴檀)紫檀・等の木材で彫られた像を檀像と呼ばれる、優填王が造像させた最初の釈迦如来像が檀像であるとされる、木目が微密で薫香を発し珍重された、インドや東南アジアに於いて産出される白檀で造像された檀像は5世紀後半中国に請来されるが中国に於いて白檀など香木は産出されず、清凉寺に請来された釈迦如来像の様に中国桜で代用された、さらに日本に於いてはカヤや檜材が使用され小像が多かった檀像は比較的大きく造像出来る様になる。
白檀はH10m、幹は60p程度に成長しその中心部の赤味部分のみが仏像などに使用される、硬質で光沢に優れ薬効成分も含む、最高質の栴檀を牛頭栴檀と言い牛頭山(インドのマラヤ山)産出の栴檀の下部(根に近い)が薫香が強く特に珍重される。
華厳経第四十二巻依れば牛頭栴檀は離垢山から生えると言い、その香を塗ると火の中でも身を焼く事は無いと言う(牛頭梅檀香 従離垢山生 若以塗身 火不能燒)。
注2、澄豪1259〜1350 号は法円と言い天台僧で藤原顕成の子供、宝菩提院を拠点に天台密教の秘法を駆使し天台宗の灌頂を盛んにし西山上人と呼ばれた、著作に「総持抄」などがある。 師は阿娑縛抄を著した穴太流の承澄。
2007年1月5日 2017年5月4日更新