広隆寺

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 山号を蜂岡寺と言い603年の創建とされ聖徳太子ゆかりの寺で太子創建七ヶ寺の一寺とも言われる、異論もあるが日本書紀に依れば603年・飛鳥寺四天王寺・飛鳥の坂田寺(注2に次いで日本で四番目に創建された記述がある京都随一の古刹である,「上宮聖徳太子伝補闕記」に拠れば斑鳩寺被災之後、衆人不得定寺地、故百済入師卒衆人、合造葛野蜂岡寺、ーーーとあり、創建時期は再建法隆寺とは概ね同時期と推定できる。
渡来人・秦河勝(はたのかわかつ)が聖徳太子より百済の仏像を拝領しての建立と伝えられる、定かではないが蜂岡寺は創建時には数キロはなれた葛野郡(北野廃寺跡)に存在し平安遷都の際に現在地の秦寺と合併にして広隆寺としたとされる、因みに広隆寺の広隆とは秦河勝の実名と言われる。
広隆寺は古来より多くの呼称で呼ばれ蜂岡寺・秦公寺・川勝寺、または太秦の太子堂、等とも言われる、日本書紀に依れば飛鳥時代以後蜂岡寺と秦公寺の二寺が個別に記述されており併合された説が本命かも知れない、林南壽氏に依れば現在の広隆寺には蜂岡寺
(泣き弥勒・宝髻と秦公寺(宝冠弥勒)の本尊と二尊の旧本尊があると言われる。(林南壽著・広隆寺の研究・中央公論出版)
秦氏と広隆寺の関連に関して真偽の程は不詳であるが、江戸時代中期の儒学者・太田錦城(きんじょう)(1765年〜1825年)は「寺と言う名称であるが仏教の寺ではなく景教の寺と述べている、因みに景教とはキリスト教・ネストリウス派の中国名とも言える宗派でユダヤに於ける失われた十部族の一属と言う人も存在する

鎌倉時代に書かれた「聖徳太子伝私記」(法隆寺僧・顕真)には太子建立の寺が列記されており蜂岡寺とウツマサ寺(秦寺・太秦公寺)が記述されている、因みに私記には熊凝(くまごり)寺の記述があるが、熊凝精舎とは大安寺の源で太子建立とされる日本最初の僧伽藍摩である、但し蜂岡寺・秦寺は広隆寺の別名説も依然存在する。 
創建以来幾度も火災に遭い、また応仁の乱の被害も受けており創建当初の堂卯は存在しない、因みに
創建時に於ける金堂の本尊は「霊験薬師仏」と言い施錠出来る内殿に安置されていたと言い、秘仏の草分けかも知れない


1165年落慶の講堂
(重文)と鎌倉時代の国宝・桂宮院本堂(八角堂)は罹災を免れたが、江戸時代に新しく建造された楼門・上宮王院本堂と昭和の霊宝舘で構成されている、因みに八角形の堂宇は円堂とも言い死者の冥福を祈願する性格を持つとされる。 

広隆寺は当初三論真言兼学の寺であったが、平安時代の広隆寺中興の祖・道昌
(注4が別当の頃に本尊が弥勒菩薩から変更されており、現世利益の薬師如来信仰(注3の興隆を覗わせる、鎌倉時代には八角円堂を軸とした太子信仰が高揚しその中心的存在の寺として栄えた、傘下に10寺以上の塔頭を擁していたが廃仏毀釈で多くを失う、因みに本尊の変更は蜂岡寺派と秦公寺派の確執を消す為とも言われている。
定かではないが、出自が景教とも言われる秦河勝一族の氏寺的な性格を言われる広隆寺の弥勒信仰は、ゾロアスター教に始まり古代ローマで信仰されたミトラ教、ユダヤ教キリスト教のメシア思想の影響を受けたと思惟される様に阿弥陀の浄土信仰を凌いでいた。 

角円堂であるが国宝に指定されており八角形の建築は法隆寺夢殿 ・興福寺北円堂 ・栄山寺他にも優れた堂宇が存在するが広隆寺の場合は屋根勾配が緩く基壇は無く腰廻りは木造で周囲に濡縁が施されている、ちなみに八角形の三重塔があり長野県上田市別所温泉にある安楽寺の塔が国宝指定を受けている。
広隆寺周辺には古い伝承が飛び交っている、大酒(おおさけ)神社の牛祭に於けるユダヤ教の関連や、トライアングルの鳥居がある木島(このしま)坐天照魂神社にますあまてるみたまじんじゃ)と景教すなわちマリア崇拝を否定してエフェソス宗教会議(431年)で異端とされ中国などに逃れたキリスト教・ネストリウス派の関連が言われ、関連情報として当寺の十二神将とローマ帝国の将軍像が似ているとか僅かな情報で推理と空想の世界に遊ぶ事が出来る。 
広隆寺の本尊は864年広隆寺の僧・道昌
(修験者で空海の弟子・秦の一族)の進言を聞き入れた清和天皇による勅命で願徳寺より移された薬師如来で秘仏である、因みに願徳寺には新像の薬師如来が納めたれたとされる。(京都発見・梅原武・新潮社)
日本に存在する最古の仏像とも言える国宝第1号で、ドイツ人哲学者で精神科医でもあり彫刻研究の碩学、カール・ヤスパース
Karl Theodor Jaspers1883年〜1969226日)に、完全無缺すなわち、ローマの彫刻やギリシャの彫刻と比較しても「最も清浄な最も円満な最も永遠な姿の象徴」と絶賛された古拙の微笑(アルカイックスマイルArchaic smileを持つ弥勒菩薩を始め多くの第一級の仏像群が霊宝舘に所蔵展示されている。
仏像など文化財の宝庫である広隆寺に於いても二尊の弥勒菩薩
(宝冠弥勒・泣き弥勒)は特に著名である、特に宝冠弥勒は国宝第一号で、造像地が諸説交錯していたが材質が赤松(注5の一木で造像されており当時日本で多く使われた楠木ではない為と、宝冠の姿形が王冠形であり韓国の国宝83号等朝鮮以外に類例がないとされる、さらに一木造で赤松の木裏を正面にして彫られており日本には見られない手法である、従って朝鮮からの請来が確実説が強い、もう一尊の通称泣き弥勒宝髻(ほうけい)弥勒)の材質は日本に多い楠木であり、腕など矧付(はぎつ)けが施されている、但し金子啓明氏
(興福寺国宝館館長)は宝冠弥勒の腰佩(ようはい)(帯などに朝鮮半島には無い楠木が使用されていると言う、また宝髻弥勒は宝冠が失われた状態と言う。
半跏思惟像に付いてはガンダーラ彫刻にもあるが弥勒仏と認定された像は存在しない、インドでは本来はヨーガyogaに於ける行法にあり、気を注入する姿勢asanaと言われる。
そのほか京都には平安遷都以前から多くの寺があり、広隆寺のほかに
北白川廃寺・珍皇寺・法観寺・北野廃寺・樫原廃寺などの存在が記録される。


1、 聖徳太子創建七ヶ寺 法隆寺  ・法起寺(池後寺) ・中宮寺 ・橘寺 ・葛城寺 ・四天王寺 ・広隆寺(峰丘寺)を言う。

2坂田寺(さかたでら)  明日香村に存在したとされ飛鳥の有力尼寺で止利仏師の氏寺と言われる、興福寺の傘下であったが現在は浄土宗の金剛寺が法灯を受け継いでいる。

3、興福寺資材交替実録帳(896年)に依れば霊験薬師仏とあり本尊は薬師如来に変更されていた、ただし金堂内殿には金色阿弥陀三尊と共に金色弥勒菩薩として二尊が記述されている、但し当初の本尊・霊験薬師像は存在しない。

4道昌(どうしょう) 798~875年 行基の再来と言われた僧で俗名は秦を名乗り讃岐の出身、元興寺三論を学び818東大寺で受戒、828真言宗の潅頂を受ける、後に興福寺に移るが、836年広隆寺の別当。 

5、朝鮮半島では降雨量と湿度が少ない為に檜が生育しにくい、しかし赤松は質の良い巨木が育つ地域が有る、韓国では仏像彫刻や建築用材としても赤松は最高の木材であり金剛松と呼ばれていると言う。



真言宗 御室派 別格本山      所在地    京都市右京区太秦蜂岡町32      п@075-861-1461

                                 
広隆寺の文化財  表内は国宝   印重要文化財  

     名           称 

             適                    用 

   時      代 

 弥勒菩薩半跏像 

 霊宝舘 木造(赤松)漆箔 84,2cm 宝冠弥勒 一木造 

 朝鮮三国時代

 弥勒菩薩半跏像 

 霊宝舘 木造漆箔(楠) 66,4cm 泣き弥勒 宝髻弥勒 

 白鳳時代 

 千手観音立像  

 霊宝舘 木造   266,0cm 

 平安時代 

 不空羂索観音立像 

 霊宝舘 木造彩色 313,6cm 

 平安時代 

 十二神将立像(十尊)

 霊宝舘 木造彩色 114,2~123,0cm 

 藤原時代 

 阿弥陀如来坐像 

 講 堂 木造漆箔 263,6cm  説法印 

 平安時代 

 桂宮院(けいきういん)本堂

 八角円堂 桧皮葺 4,5,10,11月、日、祝日公開 

 鎌倉時代 

 広隆寺縁起資財帳 

 広隆寺資財交替実録帳 

 

講堂  

地蔵菩薩坐像 木造彩色 182,4cm 平安時代          

虚空蔵菩薩坐像 木造彩色 233,3cm 平安時代   

 霊宝舘  

聖観音立像 木造彩色 147,9cm 平安時代         

地蔵菩薩立像 木造 90,9cm 平安時代   

●千手観音坐像 木造漆箔 256,0cm 藤原時代       

日光菩薩立像 木造彩色 漆箔 175,0cm 藤原時代 
 

月光菩薩立像 木造彩色 漆箔 174,0cm 藤原時代   

薬師如来立像 木造彩色 97,6cm 平安時代  1122日開扉  

●阿弥陀如来立像 木造漆箔 132,7cm 藤原時代           

●大日如来坐像 木造漆箔 95,5cm 平安時代    

大日如来坐像 木造漆箔 74,5cm 藤原時代             

菩薩立像 木造彩色 99,3cm 平安時代   
 

五髷文殊坐像 木造 99,4cm 藤原時代                    

●弥勒菩薩坐像 塑像彩色 83,7cm 平安時代    

多門天立像 木造彩色 130,5cm 藤原時代               

毘沙門天立像 木造 135,0cm 鎌倉時代   
 

四天王立像(多門天闕落)木造彩色 121,9?125,4 cm   

●吉祥天立像 木造彩色 164,6 cm 藤原時代    

吉祥天立像 木造彩色 142,2 cm 平安時代               

●吉祥天立像 木造彩色 106,8 cm    

●吉祥天立像 木造彩色 168,0 cm 平安時代               

不動明王坐像 木造彩色 74,4 cm 平安時代    

蔵王権現立像 木造彩色 96,4 cm 藤原時代             

●蔵王権現立像 木造彩色 100,4 cm 鎌倉時代    

桂宮院  

如意輪観音坐像 木造漆箔 71,5cm 藤原時代4,5,1011月日曜祭日開扉 上宮王院(1122日開扉)    

●聖徳太子半跏像  木造彩色 57,9cm 鎌倉時代   1122日開扉    

講堂 

●講堂(赤堂)桁行き五間 梁間四間 寄棟造 本瓦葺 藤原時代(1165年)    

●三千佛図 絹本著色 掛幅装 321,530,8cm 鎌倉時代    

●十二天像 絹本著色 掛幅装 各144,541,8cm 鎌倉時代    

●准胝佛母像 絹本著色 掛幅装 108,154,8cm 鎌倉時代    

●能恵法師絵巻 紙本著色 巻子装 31,2701,5cm 鎌倉時代      

●その他 神像等   

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