高野山 金剛峯寺

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真言密教の教義研究及び根本道場である高野山金剛峯寺は日本に於ける密教の本丸である、「佛教では山に登ると言うことが覚りの世界への意味合い」があると仏教学者(インド哲学)宮坂宥勝氏は言う。

金剛峯寺の銘々由来は空海が請来した最初の経典で、覚りを開く為の方法を説き広義の金剛頂経の範疇に入るとされる経典で、真言宗に於ける五部秘経の一経に数えられる経典、「金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経」 (中国密教の祖で付法八祖(注11の五祖である金剛智訳)から採られている。

因みに金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経(こんごうぶろうかくいっさいゆがゆぎきょう)は空海が最重要視した経典とも言われる、また金(密教)(いただき)をも意味するとされる、因みに空海は「峯」と「頂」を同じ意味すなわち金剛の最高位と解釈して居たとされる。 
空海がこの地を”坐禅観法”の場として選択した理由として一説には高野山は海抜千メートル近い高地に東西5.5km、南北2.2kmにおよぶ広大で平坦な地形を有し、八葉に開いた蓮華に似ている事から胎蔵生曼荼羅の中台八葉院に擬えて選ばれたと言う、この地を平家物語に「京里をはなれて無人声(むにんじょう)、清嵐(こずえ)をならして夕日(ゆじつ)の影しずか也。八葉の嶺(やつ)、まことに心もすみぬべし。花の色は林霧(りんむ)の底にほころび、(れい)()尾上(おのへ)にひびけり。川原に松おひ、(かき)(こけ)むして星霜(せいざう)久しく覚えたり」と書かれている、即ち現世の浄土として貴族や武家等を中心に信仰を集めた場所と言える、高野山は比叡山と比べて表面上であるが聖俗混在している、百二十ケ寺に迫る塔頭寺院を有する高野山の総人口は二千数百人の内、僧侶は約一割である、また役場、消防署、郵便局、宿坊(52坊)を含む金融機関、学校は大学まであり、各種の商店までがある、高野山には真言宗で唯一大本山を呼称できる寶壽院があり、併設されている専修学院のトップ(学院長兼務)は門主と呼ばれる、因みにここで四度加行(注14)が行われる。
高野山の創建以降の伽藍は小規模ながら高いプレステージを誇っていたが十世紀に入り東寺の末寺となり座主も東寺の座主が兼務していた、11世紀後半頃から、白河上皇や鳥羽上皇等々、覚鑁も送り込まれる等、御室系の参詣を契機に隆盛を取り戻した。

高野山は空海以前から先祖の霊が集まる場所で険しく、空海曰く”続遍照発揮性霊集補闕抄第九”に記述される「四面高嶺にして人蹊(じんしょう)蹤絶(みちたえ)えたり」、すなわち「山中他界信仰」の処として知悉(ちしつ)の場所であった、要するに空海が入山以前から山岳信仰の聖地であった、また空海も「壇上明神」即ち天照の妹とも言われる丹生明神(にうみょうじん)狩場(かりば)明神等を重用した、この内の東に奥の院があり空海が、凡そ三十万基の墓と共に入定状態で弥勒仏の登場を待ち続けていると言う、因みに狩場明神とは空海に高野を案内したと言う伝承の明神である、厳しい女人禁制の高野山に於いては丹生明神は良いのだろうか。 

高野山は瑜伽すなわち密教、冥想の世界に入り寂静状態で心の統一を行う為の修行に最適な地として選択された、空海の戦略の一つか真言密教に於いて都市型と山岳型の二面性が言われるが、金剛峯寺は二大聖地・壇上伽藍 ・奥之院をメインとして山岳型の頂点として機能している、因みに壇上伽藍とは 伽藍の結界とも言える・中門 高村光雲作の仏像を持つ・金堂 日本最初の多宝塔で両部を包む・根本大塔 ・東塔 ・西塔 ・不動堂 ・三昧堂 ・大会堂 ・愛染堂 ・御影堂 ・准胝堂 ・孔雀堂 等で構成されている。    
高野山は「一山境内地」と呼ばれ子院・塔頭を含めた総称が金剛峯寺であったが、現在は本坊が金剛峯寺と言われている、真言宗の根本道場であり空海の三大霊跡
(注6の一寺である、金剛峯寺を中心として各宗派を含めて標高千㍍近い高地に117ヶ寺、52の宿坊(寺院)が存在する仏教都市空間の中核を為している、豊臣秀吉が高野山総攻撃を計画した折に直談判して中止させた木食応其の興した寺など複数の寺名を呼称していたが、1869年に高野山全体が金剛峯寺の境内となる、後に応其に心酔した秀吉の援助で再建された堂宇は当初には「青巌寺(せいがんじ)」と呼称されたが明治に入り現在の金剛峯寺とされた。
空海が嵯峨天皇より勅許を受けて816年建立された寺で、道程が険しく七堂伽藍の完成まで空海の没後、弟子の真然により20年程をようした、当初の金堂は819年の創建であるが現在の金堂は1932年に建立されたものである、854年には定額寺(注7の認定を遅れて受けているが、さらに伽藍が整備されたのは50年近く後であった。
高野山全体の総門として大門があり、空海の入定信仰をイメージする高野山の扁額の下に柱聯が掲げられている、即ち「不闕日日之影向」
(日々の影向(ようごう)(かか)さずして)、「検地處々遺跡」處々(しょしょ)遺跡(ゆいぜき)を検知する)の二枚が象徴している。 
完成された金剛峯寺は
両部曼荼羅の世界を表現したもので、空海の構想は「性霊集(しょうりょうしゅう)(注8」に基に構成された「壇上伽藍」すなわち・中門・根本大塔(多宝塔)・西塔(多宝塔)・東塔(多宝塔)・経蔵・食堂・僧坊・鐘楼・穀屋で「両壇遶堂(りょうだんにょうどう)次第」の言う羯磨曼荼羅である。
高野山金剛峯寺の象徴は龍樹が感得したと言う伝承の「南天の鉄塔」を意識した多宝塔
(根本大塔・西塔・東塔)にあり、根本大塔の東西に配置され両部の五如来を伽藍の中心に置かれた、因みに南天とは南天竺の事で、この鉄塔に於いて大日如来金剛薩埵~龍樹の経路で両部の大経すなわち曼荼羅いわゆる密教が完成されたと言う伝承の塔である、またインドに於いては白大理石を白鉄とも呼ばれた様で白大理石で覆われた卒塔婆を鉄塔と呼ばれた。
現在は金剛峯寺の主要伽藍は、法界定印の大日如来像と柱に金剛界の四如来を置き、両部の大経を象徴したとも言える根本大塔・高野一山の総本堂的な金堂の他、御影堂・五智如来を安置する西塔・孔雀堂・金剛三昧院、等々で構成されている、根本大塔は日本に於ける最初の多宝搭であるが、焼失を重ね現在の搭は1937
(昭和12年)の建立である。

金剛峯寺の壇上伽藍は創建以来罹災を重ねるが、国宝の不動堂は1198(建久9年)創建で鎌倉時代の様式を持ち最古の建築物である、因みに間口三間、桁行四間の檜皮葺で堂内は素朴で折上小組格天井とされ、本尊が不動明王であった事から名ずけられた、また運慶による著名な八大童子像は不動堂に安置されていた。
金剛三昧院の多宝塔(注1313世紀初頭の塔であり石山寺についで古いがその他の伽藍は江戸時代の建築が大半を占める、高野山は創建以来幾度も火災に遭うが特に1926年の火災では多くの寺宝を失う。

両部の五仏であるが高野山の二大聖地の一である壇上伽藍内では両部不二すなわち、究極の真理の具現が、根本大塔では胎蔵界大日如来に金剛界四仏阿閦如来  宝生如来 無量寿如来 不空成就如来を配置している、しかし西塔では金剛界大日如来に胎蔵界四仏宝幢(ほうどう)如来 開敷華王(かいふけおう)如来 無量寿如来 天鼓雷音(てんくらいおん)如来)を配している。
金堂は1926年火災で消滅し1932年の再建である、新しい本尊の阿閦如来
(薬師)と脇侍は高村光雲(七尊)の手になるが、秘仏で公開されない、因みに消失した金堂の本尊は薬師如来とも阿閦如来であったとも言われているが秘仏であり資料は無い、また根本大塔内の壁画は堂本印象作と言われている。
奥の院は空海入定(にゅうじょう)の場所とされ、現在も生きて瞑想し大日如来の印を結んでいると言い、奥の院を兜率天すなわち弥勒浄土と考え五十六億七千万年後に慈尊すなわち弥勒菩薩と共に下生するとも言われる。
山川健一
(空海の向こう側へ・ソフトバンク新書説が興味深い、仮説であるが空海は高野山に「密教浄土」を構築したという、即身成仏すれば浄土が無ければならない、浄土は彼岸すなわち他土であるが即身の場合は穢土(自土)すなわち娑婆に浄土が必要となると言う、浄土に擬せられた場所として熊野・吉野山等があり高野山と、「霊場トライアングル・熊野古道」を形成している、なるほど高野山には著名人から庶民に至るまで多くの人々が密教浄土に眠っている。


当初は紀伊国の司が俗別当として運営されていたが9世紀後半伽藍が完成した時期に空海の弟子真然は自分の弟子の寿長を初代座主に就任させ以後真然直系の高野山に常住する僧が別当に就任することになる、教団の組織は学侶・行人・聖の階級を定め学侶が運営に従事する、しかし教団は教義より人事面に力点を置くようになり硬直化する。 

当初別当は東寺と兼務が続いたが、その後に根来寺に移った覚鑁1134年東寺長者の金剛峯寺兼務を排して金剛峯寺と大伝法院の座主に就任した、覚鑁の人事を含めた性急な改革は反発を呼び後に根来寺に逃れる事になる。
 

1868年明治政府は学侶、行人、聖の三派を解体し1869年青巌寺と興山寺を廃止して金剛峯寺として一山の総称から寺務所としての金剛峯寺が単独寺院として成立した。
高野山は空海が描いた東寺のショーウインドウ的役割と共に純粋な真言宗の研修道場即ち真言密教の根本道場とした伽藍配置であり、二基の多宝塔を東西に置き胎蔵、金剛界すなわち両部の五仏を安置して伽藍の中心としている。 
伽藍配置は南都六宗と異なりメインは金堂では無く、「毘盧遮那法界体性塔(びるしゃなほっかいたいしょうとう)」と名ずけられる二基の塔を両部曼荼に見立て大日如来を中心とした「金胎理智不二」(両部不二)の世界を高野山に表現し、現状は新しいが創建当初の形態・精神を比較的忠実に再建されているが、江戸時代の火災などで創建当初の堂宇はなきに等しい。
高野山は鎌倉時代には真言宗の中心地としての地位が堅固になり、霊宝館等には7万点以上の文化財が存在し、その内国宝23点・重要文化財180点以上が存在する。                     
仏像彫刻では伝来の諸尊佛龕や運慶快慶等の八大童子立像・孔雀明王像・阿弥陀三尊像
(光台院) ・阿弥陀如来立像(遍照光院)などがある。
また絵画に於いても愛染曼荼羅図
(金剛峯寺) ・五大虚空蔵菩醍図(西南院) ・信仰成就阿弥陀三尊図(蓮華三昧院) ・大日如来図(竜泉院)さらに1086(応徳3年)の「佛涅槃図」
(絹本著色 掛幅装 267.6x271.2cmは梅原猛氏をして涅槃図の最高傑作という、涅槃経を元に描かれた画で、涅槃会の本尊とされた作品である、現存する最古の悲しみの群像を画いた涅槃図で、耽美な姿態、優雅な色調を備えた平安仏画の最高傑作の一画とされる、涅槃経には釈尊の北枕、右脇を下に、足は南に、顔は西、背は東、等の詳細の記述がある。 
書籍に於いても国宝指定に書の芸術と言える聾瞽指帰
 ・金銀一切経(中尊寺経4298・法華経 巻第六など日本の8%とも言う多くの指定文化財を残している。 

また700坪を超える広大な石庭・蟠龍庭(ばんりゅうてい)も著名である、大主殿の襖絵も狩野探幽・山本探斎などが見事と言える。

また高野山の三大秘宝として以下の三点がある。 

飛行三鈷杵(ひこうさんこしょ)  空海が唐より日本に向かって投付けて高野山に落ちたと言う伝説の三鈷杵(今昔物語集第1125話に記述がある一説には金剛智~不空~恵果空海~真然~と相伝されたとも言われている(仁海記)。  

諸尊佛龕(しょぶつぶつがん)   金剛智・不空・恵果を経て空海に授けられ、密教の正統な継承者としての証とされる。木造(白檀・注123,1cm 唐請来  

聾瞽指帰(ろうこしいき)     797年空海24歳の作品とされる、戯曲風に著された佛教・道教・儒教を比較して佛教の優秀性を説き佛法に無知な人間に対する指導書であると共に仏門に生きる宣言書でもある、金剛峯寺に伝わる空海の真筆とされる。
真言密教には法華経に登場する多宝如来・釈迦如来の居られる塔と異なる多宝塔がシンボルとして存在するが京都の東寺
(教王護国寺)には多宝塔は存在せず羯磨曼荼羅を意識した金剛界曼荼羅の諸尊を現した五重塔が象徴的役割を担う、その対極に同じく金剛界を意識した高野山の多宝塔がその位置を占めている、真言宗の高僧で高野山の多宝塔を金剛界・教王護国寺の五重塔を胎蔵生曼荼羅を象徴としたと言われるが教王護国寺の塔内は金剛界であり,醍醐寺の場合は真言八祖、両部曼荼羅が描かれている。
高野山は日本に於ける「総菩提所」とも言われ宗派を超越した平安時代後半から現在に到る著名人達を含む二十万基に及ぶ墓がある。
重ねて言うが当寺には快慶作の著名な孔雀明王像があり東京国立博物館所蔵の「絹本著色148,8cm×98,8cm 鎌倉時代」の画像と共に「大孔雀明王画像壇場儀軌」に忠実な像である、また2011年の調査で無指定で修理中に執金剛神
149.0cm寄木造)が梵字などから快慶の作品と判明した、深沙大将142.0cm)も同様である。
高野山には多くの塔が存在しており、紀伊高野山大塔・東塔・西塔・金剛三昧院多宝塔・金輪塔・峯楼閣(ろうかく)瑜祇(ゆぎ)塔・光台院多宝塔・成福院三層塔等であるが、金剛三昧院の塔は国宝指定を受けている、また奥の院は空海の
カリスマ(独・Charisma所持を示す”空海の恩寵(おんちょう)”の場所として重要視されている、空海が信仰対象として本尊を凌駕している、末木文美士(ふみひこ)氏の解釈に依れば、空海は即身成仏しており死亡したのではなく「永遠の弘法大師」として存在していると言う解釈とされている、要するに法華経の釈尊を踏襲した様である。
「ろうそく祭り」と呼ばれる万燈万華の供養会は813日に多数の蝋燭による華が2km程に輝く、これは空海が真言宗を後世に残す願望を込めて創められたと言う。
これが誰でも仏になれると言う良源912985年)の天台本覚論に繋がると言われる 
高野山の法会は正月三ヶ日の修正会を始めとして21415日の釈尊の涅槃日を偲ぶ「常楽会」、321日の空海入定日の報恩「御影会」など年間に50を超えるとされる、また神仏習合が伝承や今昔物語等にもある、飛行三鈷杵の落下位置を教えた宇賀の狩人は地主神の狩場明神権現、と現在も生きており、高野明神を自坊に迎える「明神奉送迎(みょうじんほうそうげい)」と言う行事が行われている。
20111021日に霊宝館に置かれている執金剛神立像と深沙大将が快慶を示す墨書が発見され、書名から快慶の作品と発表された。
執金剛神立像
(増高149cmは髪を逆立て片足立ちの姿、深沙大将立像(142cmは首に髑髏飾り、両ひざに象面を付けている。

 

  

高野山真言宗総本山       所在地  和歌山県伊都郡高野町高野山132      ℡ 0736562011      世界文化遺産

注1、檀像 阿含経にもとずき最初に彫られた釈迦如来像が檀像(牛頭(ごす)栴檀(せんだん)と言う、金剛峯寺の諸尊仏龕・法隆寺の九面観音・仁和寺の薬師如来等がある。
これ等は瑞像とも呼ばれ材質として白檀(栴檀)紫檀・等の木材で彫られた像を檀像と呼ばれる、優てん王が造像させた最初の釈迦如来像が檀像であるとされる、木目が微密で薫香を発生し珍重された、インドや東南アジアに於いて産出される白檀で造像された檀像は5世紀後半中国に請来されるが中国に於いて白檀など香木は産出されず、清凉寺に請来された釈迦如来像の様に中国桜等で代用された、さらに日本に於いてはカヤや檜材が使用される小像が多かったが代用材檀像は比較的大きく造像出来る様になる。
白檀はH10m、幹は60㎝程度に成長しその中心部の赤味部分のみが仏像などに使用される、硬質で光沢に優れ薬効成分も含む、最高質の栴檀を牛頭栴檀と言い牛頭山(インドのマラヤ山)産出の栴檀の下部(根に近い)は薫香が強く特に珍重される、因みに国語大辞典をそのまま記述すると「瑞相を備えた仏像。特に、優填(うてん)王が初めて釈迦像を栴檀(せんだん)に用いて造立したとの伝説上の仏像をさす」と書かれている。


注2、 八大童子   矜羯羅童子(こんがらどうじ)94,5cm ・制吒迦(せいたか)童子96,1cm ・慧光(えこう)童子97,1cm ・慧喜(えき)童子99,5cm ・阿耨(あのく)()童子70,3cm ・持徳(しとく)童子98,5cm ・鳥倶婆伽(うぐばか)童子110,8cm ・清浄比丘(しょうじょうびく)童子96,8㎝を言う。   


注3、 血曼荼羅の由来は平清盛が胎蔵曼荼羅の大日如来宝冠の部分に自ら頭部の血液を顔料に混入したとの伝承からきている。

注4、三教指帰(さんごうしいき) 空海が仏門に入る為の宣言書であるが聾瞽指帰が原本であり空海とは別人の著作説がある

5真然(しんぜん) 804~892   空海の甥で高野山に於ける伽藍の完成者で高野山の経営の安定に努め、座主制を採用した、没後の事であるが「三十帖策子」の貸借をめぐり高野山と教王護国寺の紛争の原因を作る、874権律師、884年教王護国寺長者。

注6、弘法大師空海の三大霊跡に 
高野山(金剛峯寺) 教王護国寺 善通寺が挙げられる。  

注7、 定額寺 天皇の勅願により寺名を記す額を与えられ官寺に準ずる待遇が受けられる寺を言う,皇室の繁栄祈願を目的としており国の制約を受けるが多くの権限をもち収入面に於いて安定する。

8、 性霊集(しょうりょうしゅう)  正式には「遍照発揮性霊集」と言う、弟子の真済(注5)が編集し10巻に纏められたが紛失した、1079済暹(さいせん)が補間する、詩賦類・碑銘類・詩文類等々に分類される。

注9、真言宗の
五部秘経とは大日経・金剛頂経・蘇悉地(そしつじ)蘇悉地(そしつち)羯羅経(からきょう)・瑜祗経・要略念誦経と二論すなわち菩提心論・釈摩訶衍論(しゃくまかえんろん)を経典

注10、 高野山全体の総門で聖域と下界との結界を示す大門は・総高25.1mで知恩院の24mを凌ぎ東大寺南大門の25.46mと略肩を並べる、金剛力士(約5.500cm)は阿形は康意、吽形が運長と言う京仏師の作である、また大門の柱聯(ちゅうれん)には「不闕日日之影向」(日日の影向を(かか)さずして)「検知處々之遺跡」(処々の遺跡を検知す)があり空海の入定信仰が生きていると言えよう。

11真言八祖  「付法八祖」(金剛界系)と「伝持八祖」(胎蔵系)が言われている。 
八祖の本流として空海の広付法伝から金剛界系の「付法八祖」があり、大日如来から密教の説法を受けた金剛薩埵が伝えたと言う伝承があり大日如来金剛薩埵 ・龍猛・龍智・金剛智・不空・恵果・空海が言われる。   「秘密曼荼羅教付法伝」(広付法伝)
またこれも空海の「略付法伝」からとされ胎蔵系の
「伝持八祖」は実在しない大日如来と金剛薩埵を省き、善無畏・一行を加えている、伝持八祖の制定は御室派が嚆矢で金剛頂経を意識した付法八祖に対して大日経と恵果の位置付けを加味して設けられた、善無畏・一行を加えた事は付法八祖の場合は金剛頂系を表しており中期密教すなわち金胎不二の観点から疑問を生じており大日経系を加えたと言われている
「伝持八祖」の名前と持物は通常諸説あるが 「龍猛」(龍樹)三鈷杵 ・「竜智」梵経 ・「金剛智」念珠 ・「不空」印形 ・「善無畏」印形 ・「一行」印形 ・「恵果」童子・「空海」五鈷杵とされ真言祖師とも言う、また「住持の八祖」とも言われる
中でも龍樹(竜猛)は大乗仏教の祖であり中国八宗の祖・日本八宗の祖とされている、著作に中論・一二門論・大智度論大乗二〇頌論などがある、ちなみに八祖の宗派は法相宗・抑舎宗 ・三論宗 ・成実宗 ・律宗・華厳宗・天台宗・真言宗を言う。

12、 境内の参詣には古くから「両壇遶堂(りょうだんみょうどう)次第(しだい)」がある、境内の案内版は概ね両壇遶堂次第に沿っており参考になる。

13、多宝塔 インドに於いては古来より二種類の塔が存在している、 1、釈尊の遺骨を収納する「真舎利塔」と経典を法舎利として供養する「法舎利塔」とがある、但し真心舎利には量的に限度がある為に宝石、香木、等で代用された、多宝塔は法舎利塔の発展形と言えよう。

多宝塔は第十一法華経「見宝塔品」の記述で霊鷲山に於いて法華経を説法していると宝塔が湧出した、塔内に居た多宝如来が釈尊を讃嘆し招き入れて半座を空けて両如来が並座したとされる事からの銘々とされている。

14 、真言僧必須の灌頂儀礼、四度加行の十八道は正式には十八道念誦次第と言い、18種の真言を唱え18種の印を結ぶ、すなわち印明があるが流派により相違があるが、・荘厳行者法 ・普賢行願法 ・結界法 ・荘厳道場法 ・勧請法 ・結護法 ・供養法 ・念誦法 ・後供方便法 等と言われる(日本密教 春秋社参照)
灌頂儀礼 インドに於いて古代からおこなわれた成人儀礼や王族の立太子儀礼に於いて頭に水を灌ぎ権威を示す儀式で現在もヒンズー教や密教で行われている、灌頂には在家信者に対する結縁灌頂 ・密教僧を目指す学法灌頂(弟子灌頂) ・師の位に付く伝法灌頂などがある。伝法灌頂とは頭に水を灌ぐ意味合いを持つ、灌頂を受けた証明書には許可(こか)と言う證書が与えられる、因みに伝法灌頂に於いて曼荼羅の内で行われる伝法灌頂を入壇灌頂と言い、空海は神護寺に於いて最澄に授けている。



真言八祖像は四国八十八所26番札所の「金剛頂寺」に於いて重文指定を受けて存在している、木造板彫りで彩色が施されている、ちなみに金剛頂寺は空海の創建と伝えられ嵯峨天皇と清和天皇の勅願所であった。   金剛頂寺の真言八祖像 龍樹88,6cm ・龍智86,4cm ・金剛智85,8cm ・不空87,4cm ・善無畏85,5cm ・一行87,4cm ・恵果87,2cm ・空海87,3cm 鎌倉時代。




主な文化財  表内は国宝  印重要文化財       佛師

名    称 

適              用 

年  代 

八大童子立像 

(制・慧光童子他六尊)木造彩色 玉眼  鎌倉時代の写実彫刻の頂点を極める運慶・快慶作     阿耨達童子・持徳童子は南北朝時代 

鎌倉時代 

諸尊佛龕 

木造(白檀、注123,1cm        折畳むと上部は塔の伏鉢をイメージしており、真言密教の正統な継承者に与えられたとされ、 携帯でき枕本尊とも言われる。  請来された檀像彫刻として法隆寺の九面観音像と共に代表作。 

唐請来 

聾瞽指帰 

上巻 縦28,3cm 長さ1011,6cm 下巻 縦28,3cm  長さ1176,0  空海の真筆

平安時代 

佛涅槃図 

絹本著色 掛幅装  267,6×271,2cm     現存する最古の悲しみの群像を画いた涅槃図で仏画の最高傑作の一画  涅槃会の本尊 

平安時代

阿弥陀三尊図 

絹本著色 154,0㎝×135,0cm    蓮華三昧院 

鎌倉時代 

阿弥陀聖衆来迎図 

210,0cm横 中幅210,0cm  右幅105,2cm  左幅105,2cm  縦210,0cm横 中幅210,0cm  右幅105,2cm  左幅105,2cm 三幅   有志八幡講 

平安時代 

伝船中涌現(でんせんちゅうゆうげん)観音図

  絹本著色 79,4㎝×41,8cm 竜光院 

平安時代 

勤操(ごんぞう)僧正像

絹本著色 166,4㎝×136,4cm 普門院 

平安時代 

五大力菩薩像 

322,8cm金剛吼菩薩像 237,6cm竜王菩薩吼像 179,5cm無畏十力菩薩吼像  179,5cm  五幅のうち三幅現存 有志八幡講 

平安時代 

善女竜王像 

絹本著色 掛幅装  163,6×111,2cm    定智筆 

平安時代 

不動堂 

桁行5間 梁間4間  入母屋造  桧皮葺 

鎌倉時代 

多宝塔 

桧皮葺   金剛三昧院 

鎌倉時代 

金光明最勝王経 

紫紙金字         竜光院 

奈良時代    

金光明最勝王経 

細字  絹本著色    竜光院 

平安時代 

その他国宝     

金銀字一切経4296巻  宝簡集・続宝簡集・   沢千鳥螺鈿蒔絵小唐櫃 宝簡集・続宝簡集など多数 

     

*未指定で修理の為の調査中であった・執金剛神と・深沙大将の2尊から201110月に快慶作の墨書が発見された、執金剛(しゅこんごう)神 立像149cm  深沙(じんじゃ)大将 立像142cm
*「阿弥陀聖衆来迎図」(有志八幡講十八箇院蔵、国宝) であるが観想念仏の伝統を持つ最高傑作といえる。

孔雀明王 木造彩色 玉眼 像高 78,8cm 全体高 235,2cm  鎌倉時代   快慶作  

四天王立像 木造彩色 持国天132,4㎝ ・増長天135,1㎝ ・広目天135,2㎝ ・多門天138,2cm  藤原時代   快慶作 

阿弥陀如来坐像 木造漆箔 88,9cm  藤原時代  

大日如来坐像(観学院) 木造漆箔 92,1cm   藤原時代  

●大日如来坐像(西塔)木造漆箔 98,5cm   平安時代   

不動明王坐像(不動堂)木造彩色 87,0cm   藤原時代    

●不動明王立像(護摩)木造彩色 玉眼 86,5cm  鎌倉時代  
●恵果阿闍梨像 絹本著色 166,4cm×112,0cm   鎌倉時代  西生院 

●天弓愛染明王坐像 木造彩色 49,5cm          藤原時代 
●大門  棟札1枚  5間3戸 二重門            江戸時代 

●四天王立像 木造 持国天83,3 ・増長天83,3 ・広目天86,7 ・多門天82,2cm  藤原時代  

●大日如来・三尊(大会堂)木造漆箔 大日139,0 阿弥陀88,4 釈迦87,3cm  藤原時代     

両界曼茶羅(板彫り)金剛界27,0  胎蔵界26,9cm 唐請来  

胎蔵界曼茶羅(板彫り2枚)木造 19,2cm 唐請来   

●山王院本殿総社 桁行3間 梁間1間 流造 桧皮葺 室町時代  

●山王院丹生神社 桁行梁間1間 春日造 桧皮葺 室町時代  

●徳川家霊台家康霊屋 桁行梁間3間 宝形造 堂瓦葺 江戸時代  

愛染明王像 絹本著色 掛幅装 193,3×111,5cm  鎌倉時代  

●狩場明神・丹生明神像 絹本著色 掛幅装 83,3×40,4cm  83,3×41,0cm  鎌倉時代  

●山水屏風 絹本著色 六曲屏風 各扇142,8×40,6cm  鎌倉時代  

●大日如来像 絹本著色 掛幅装 131,2×52,8cm  鎌倉時代  

●両界曼荼羅図(血曼荼羅) 絹本著色 掛幅装 2幅 各424,2×394,0cm  平安時代   平清盛が自らの血液を混入して描かせ奉納した曼荼羅。
●両頭愛染曼荼羅図 絹本著色 掛幅装 132,4×115,2cm  鎌倉時代   愛染明王と不動明王が二頭で一尊に纏められた尊像で金剛界と胎蔵を金胎不二となる。

●如来像(薬師如来) 絹本著色 掛幅装 133,3×78,8cm  元時代    

●阿弥陀如来立像(遍照光院) 木造 切金文様 玉眼 81,5cm  鎌倉時代  快慶作    
●五部心観 紙本墨書 1巻 31,4cm×1360,0cm  平安時代  西南院
●経蔵  桁行3間 梁間3間  宝塔造  桧皮葺  桃山時代
●大門  桁行5間 梁間2間  重門  入母屋造 銅板瓦棒  江戸時代   
 
胎蔵界板彫り曼荼羅(金剛界蒔絵箱入)

板彫両部曼荼羅

 釈迦三尊像 絹本著色  狩野探幽 作       他多数
 



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最終加筆日20041012日  200523 623 10月10日不動堂他 2008125日 616日 一分  2009117日 奥の院  2010年9月14日密教浄土 2011年1月27日明神奉送迎ほか 5月21日飛行三鈷杵一部 2011年10月執金剛神が快慶作との判明の件 2012年3月20日狩場明神等 2015年6月21日 2016年7月30日 2017年9月16日 2019年8月5日 2022年3月24日 3月28日 4月19日加筆

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