如来           
     
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如来とは仏道に於いて誓願(せいがん)praidhāna プラニダーナを成就させた尊格の名称である、即ち仏教に於いて理想的な境地に在る事を意味する。
本来は如来即ち佛は色も形もない真実の智慧と慈悲を言うが、”人間の真理”即ち法を悟った人を佛と言う、因みに漢字の音読み
(ふつ)は、・・に非ずを意味し人に非ずから佛と記述された文字で中国では佛教請来以後の新しい文字と言われている
漢訳では仏陀、梵語のブッダ(Buddha)及びTathāgata(タターガタ)の意訳であり、ほぼ仏陀の同義語として用いられる、因みに如来以前の漢訳に音訳で「多陀阿伽陀(ただあかだ)」「多陀阿伽()(注1最後尾)などがある、因みに英語では覚醒すなわち、目覚めた人、The enlightened man 等となる。 (エンライテンド The awakened man 。 aueikunndo アウエイクンド。)
Tath
ā(真如、真理、そのように)gatā(来たれるもの) に於ける合成語と世界大百科事典等には記述されている、但しタターガタとタターガタと発音に二説がありニュアンスに相違が観られる同義語と言える、同意の熟語にブッダ(仏陀)等がある、ブドbudh・目覚める 覚醒)即ちめざめる、が変化してブッダとなった様である、漢訳や和訳の解釈では初期佛教に於いては如来とは呼ばれず仏陀の様で、如来の呼称は超人化が進行してからの呼称と解釈できる、釈尊śākya在世中の教団内での呼称は阿羅漢(アルハット arhat)と呼ばれていた様である、インド人が使うジョークがある、ブドに付いて「私は毎朝必ず仏陀に成る」と言うジョークがある、即ち”目が覚める”と言う記述を見た。      
如とは真理を意味する、真理を会得したの世界からのた者()、即ち覚りを開いた覚者、「正しく目覚めた人」のことを言い、如とは真理を覚得した者に通ずる、因みに覚りの知識をヴィジュニャーナvijñānaと言い、智慧をブラジュニャー prajñāと区別している、閑話休題、仏がこの世に出現することを出世と漢訳されるが、梵語ではローコッタラlokottraと言う。
如来とは智慧と慈悲の象徴である、佛教の百科事典とも言える「大智度論」
龍樹では如来の心の大慈悲を言い、親鸞は正信念仏偈に於いて「大悲無倦常照我(だいひむけんじょうしょうが)」と述べている。 
慈悲は三輪(さんりん)清浄(せいじょう)すなわち仏の言葉である、三輪清浄とは身業、口業、意業、の三輪の総てが清らかでなければならない。

6、に詳細記述するが当初は如来と言えば釈迦如来一尊を指していたが大乗仏教Mahāyānaが成立して、下記の様な如来に対する本質論に於いて三身(さんじん)trikayaが言われる様になる、主な如来は実在した応身仏で「釈迦如来」に法身仏の大日如来」「毘廬舎那如来」さらに報身仏の阿弥陀如来」「薬師如来」に未来仏として「弥勒如来」や密教仏に加えられた「阿閦如来」を含む曼荼羅金剛界胎蔵に画かれる如来群、胎蔵曼荼羅の五仏宝幢如来 開敷華王如来 無量寿如来 天鼓雷音如来)と金剛界曼荼羅の五智すなわち阿閦如来 宝生如来  無量寿如来(阿弥陀) 不空成就如来 がある、これ等両部の如来群を五智如来と呼ぶ事があるが、金剛界は智を表しているが、胎藏界はその影響を受けた呼び方であり本来は五仏と呼称すべきであろう、閑話休題、すなわち法身仏・報身仏・応身仏は三身即一又は一身即三身と言い本来は同一尊である。
阿弥陀如来が出現以前の錠光如来から世自在王如来までの53尊、また法華経
従地(じゅうじゆじ)涌出品(ゅじゅぽん)第十五章)にのみ現される「多宝如来13が挙げられる、但し歴史的に考察すれば大乗仏教の興りに伴い多くの如来群が生み出されるが、全ての如来は釈迦如来から派生した尊格である、因みに日蓮宗では法華経にのみ登場する多宝如来を「証明仏」と位置付ている。
経典や曼荼羅に多くの如来が登場するが、総ての如来は釈尊の尊格を求心力、遠心力的に変換した姿であ
ろう,
サルトル曰く「想像力とは存在しないものを考える能力」言い切った。
Jean-Paul Charles Aymard Sartre  ʒɑ̃pɔl ʃaʁl ɛmaːʁ saʁtʁ、1905年6月21日~1980年4月15日
仏身観・仏の三身(さんじん)trikaya「法身・報身・応身」を言う、しかし「大釈同異」と言われるように大日如来と釈迦如来別体説と大釈同体説がある様に解釈は分かれる。

十地経論・巻3に依れば三身論が言われ以下の様になる、この三層の構造は日本に於いて大日如来の宇宙仏・十方遍満仏としてのパワーと頼富元宏氏は言う。
*法身(ほっしん)dhara-kāyaとは 宇宙の真理すなわち仏法を擬人化したもので、悠久の過去から未来まで仏の王者とも言える、毘盧舎那仏大日如来を言う。
 
*報身(ほうじん)sabhoga-kāyaとは 菩薩が修行と善行の報いにより到達する姿を仏身で顕したもので阿弥陀如来薬師如来などを言、概ね他土仏が範疇に入る。     
*応身(おうじん)nirmāna-kāyaとは実在して衆生を導く為に顕した仏身で成道と入滅を行う如来で、釈迦如来を言い、釈尊は現在劫すなわち賢劫の自土仏である。
但し仏の三身と言う解釈は日本独自のもので、インドに於いては、総てが釈迦如来であり毘遮那も大日如来等は別尊には扱われていない、要するに大日も阿弥陀も釈尊と同一の尊格である、但し日本密教に於いては「法身諸説」と言い法身
(毘盧遮那 大日如来)と応身(釈迦如来)と尊格にランクを設けている。 

明治大正期の仏教史学者・村上専精(せんしょう)氏の「仏教統一論」(P339の最後尾には「‐‐密教家にありて、釈迦・大日の同体論あれば、大日といえども釈迦に外ならずというべく‐‐‐‐云々」とある。
密教側から観れば如来にもランクがある様で密教の如来を法身如来とし顕教の如来は応身如来と言い下位のランクされている。
理趣経関連の「般若理趣分」「実相般若経」「七巻理趣経」と進むに従い仏陀から毘盧遮那仏への進行の変化が記されている。
 
中期密教では法身所説すなわち説いた仏による覚りのランクが付けられている、要するに法身仏である大日如来の教えは最高位にあり他の如来教えは下位と言う、但し禅宗特に曹洞宗では佛法は単伝すなわち個人から個人への伝授であり釈尊も元来は人間であったと言う解釈である、即ち禅宗は久遠実成の釈尊や阿弥陀如来・大日如来・薬師如来等々の法身や報身ではなく応身仏に絞られる様である。


原始佛教の場合偶像崇拝は否定されており、仏像は大乗仏教の起こりから始まるが教義を大衆に受け入れさせる為には救いを具体的に表わす必要に迫られた事による、従って仏像は人々の宗教的要求をかなえた産物でもある。
仏像の姿形として如来は大日如来を除いて上座部仏教と大乗仏教と同じ形で顕れているが菩薩明王天部は大乗仏教・密教の像であり豪華な姿の在家貴族の姿形が多い、上座部仏教に於いて菩薩に相当する像は阿羅漢であるが糞帰衣と言う粗末な衣装である。
仏教は悠久の昔からの宇宙真理を釈迦牟尼が覚ったものであり
(宇宙他全てを創造したのは梵天)「多仏思想」即ち過去にも同じ覚りを開いた人物が存在したとする考察が行われた、これは法句経「七仏通誡偈」や大般涅槃経マハーパリニッパーナ経、Mahāparinirvāa Sūtraの教えから言われている。

七仏通誡偈の大意とは *諸悪莫作(しょあくまくさ)Sabba pāpassa akaranam・サッバ パーパッサ アカラナン)もろもろの悪を作すこと莫く。  *(しゅう)(ぜん)奉行(ぶぎょう)kusalassa upasampadā・クサラッサ ウパサンパダー)諸々の善を行い。  *自浄(じじょう)()()Sacitta pariyodapanam・サチッタ パリヨーダパナン)自ら其の意を浄くす。  *()(しょ)仏教、etam buddhāna sāsanam・エータン ブッダーナ サーサナン)是が諸々仏陀の教えなり。   (「衆善奉行」は天台宗では「諸善奉行」と言う)、 出光美術館や茶会等に於いて一休宗純による「諸悪莫作・衆善奉行」とした軸を見かける。

過去七仏   仏教の興隆には釈尊の悟ったダルマ(法)を普遍化する必要があり、過去にも修行により同様の覚者と考えて過去七仏が信仰された、過去七仏は以下の様になる、この思想が継承された発展形が大乗仏教の過去、現在、未来の三世に現れた如来達であり、更に初期の大乗仏教の賢劫経~密教では賢劫の千仏に繋がる、賢劫の千仏の名称であるが金剛界曼荼羅儀軌・一切金剛出現のみであったが、チベット語訳、コータン語訳が見つかった

毘婆尸仏(びばしぶつ) vipśyin ヴイオアシュイン 荘厳劫の仏(過去の劫)寿命  84千歳(阿含経) 
尸棄仏(しきぶつ)   
śikhin シキン 荘厳劫の仏 7万歳
毘舎浮仏(びしゃふぶつ) viśvabhū ブイシュアブー 荘厳劫の仏 6万歳
拘留孫仏(くるそんぶつ) krakucchanda  クラクッチャンタ 賢劫の仏( 現在の劫) 4万歳  
拘那含牟尼仏(くなごんむにぶつ)kanakamuni カナカニム 賢劫の仏  3万歳        
迦葉仏(かしょうぶつ)    k
āśyapa カーシュヤパ 賢劫の仏 2万歳までの、六仏に・釈迦牟尼仏(śākyamuni)を加えて「過去七仏」と言われる、七仏の七はインドに於ける古代神話の七仙に由来しておりジャイナ教にも同様の思想がある、また如来」や「大乗仏教で述べるが七仏の共通項として”七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ)”が著名である。   Kasyapa    
*
過去七佛で依経となる経典は「長阿含経」の内、大譬喩(だいひゆ)経「Mahāpadāna-sutta, マハーパダーナ・スッタ 大本(だいほん)(きょう)」や仏名(ぶつみょう)(きょう)」、「普曜経(Lalitavistara 方等本起経)」などに見られる、また「七仏経」「毘婆尸仏経」「七仏父母姓字経」等の単独経典がある。

過去七佛の寿命は大変長寿と考えられるが、佛教に永遠も無限も存在しない、大般涅槃経に依れば輪廻の最高位にある天界に於いても生、老、病、死の天人五衰を避ける事は出来ないし寿命も921600万年との説がある、最下層の地獄だる無間地獄の業火の中でも34924134400億年で輪廻して転生出来る様に必ず期限がある。

リチャード、ゴンブリッジに依れば仏陀は最も遅く出現した佛(如来)であると言う、インド哲学で東京帝国大学で教鞭を執った宇井白寿に依れば即身成仏者の例は見られないと言う、閑話休題、“佛”と言う文字は佛教東漸後に作られた文字である、中国五千年の歴史の内では新しい文字と言えよう、人偏に弗のコラボは「**に非ず」=弗を意味しており人であって人に非ずが佛である、但し多くのタームは梵語から道教のタームに訳さ(インド・スリランカ上座部仏教史・春秋社)れている為に中国人に馴染まれ佛教と道教、儒教の境界が困難視される。
また同じ前述の過去仏に 錠光如来と言う如来がある、梵語名
dipakara(ディーバンカラ)燃燈如来・定光如来等とも呼ばれる、無限劫の過去仏で前世の釈迦すなわち薔薇門僧の浄幢菩薩を現世で覚者になると予言した。  
燃燈仏は無限劫の過去仏に最初に出現した覚者で、康僧鎧に依れば錠光如来
(燃燈仏)から53番目に「世自在王如来」が顕れその弟子が阿弥陀如来(観自在王)と言う、但し無量寿経梵語本では81番目とされている。
世自在王如来の弟子となった法蔵菩薩は師から210億の仏の世界を示され五劫の間思惟した後に阿弥陀如来となった、因みに阿弥陀如来の師が「世自在王」である為か密教に於いて「観自在王如来」と呼ぶことがある。
又過去仏が作り出されると共に未来仏も考え出された、釈迦如来の後継者を仏嗣(ぶつし)と言い弥勒菩薩(仏嗣弥勒)である、現在、兜率天(とそつてん)において修行中であり五十六億七千万年後に弥勒仏(如来)と成ってこの世に現れると言う。
釈尊の教えはインドに於いて特に新規な哲学ではなく、同時代のライバルであるジャイナ教の開祖マハーヴィーラ
Mahāvīrbc580500年頃)等も近い哲学であった、即ち既成の思想の修整であると言えよう、その為に釈尊以前に多くの覚者が出現したと言う伝承が生まれた様である、法句経の「七仏通誡偈(つうかいげ)釈尊を含め以前に七人の覚者を讃える偈があり尊名の記述がある、また無量寿経には無限の過去に「錠光(じょうこう)如来燃燈(ねんとう)仏)」が出現する、その後錠光如来から五十四番目の覚者として阿弥陀如来が出現したとしている
時代の推移と共に信仰された如来には変遷がある、日本に於いては主に釈迦如来が請来されてから薬師如来に移り阿弥陀如来となるが、中国に於いては北魏の時代に釈迦の後継者と考えられた弥勒が信仰を集めたが唐の時代に阿弥陀信仰に移る、弥勒信仰は各地で阿弥陀信仰に時の経過と共に凌駕される、原因として釈迦は自土仏であり、弥勒も実在した可能性があり下生して自土仏となる、自土仏は元来普通の人間であり他土仏(阿弥陀・観音)よりも荘厳さを体感しにくい為との説がある、また釈迦は理智・哲学の仏で馴染み難くサルベージの理解が難解なのに対して弥勒は中間にあり、阿弥陀や薬師は利生(りしょう)(御利益)の仏で救済がダイレクトである、また弥勒の場合は長い時間軸にあり待てる余裕はないが、阿弥陀如来は空間軸にある為に来迎にはワープwarpするのか、時間と距離を超越してリアルタイムに現れる為であろう、阿弥陀如来の場合は奈良時代頃から浄土に於いて説法していたが、平安時代頃に観想するに適した定印を結ぶ姿になり、鎌倉時代には浄土信仰の興隆に合わせ来迎印を結ぶ、さらに立像になり来迎はスピードアップするが、後に阿弥陀信仰は尊像を奉る重要性が薄れて六字名号(南無阿弥陀仏)や十字名号帰命尽十方無碍光如来(きみょうじんじっぽうむげこうにょらい)を敬う時代になる、因みに阿弥陀如来と尽十方無碍光如来は同尊である。
台座に付いての記述を入れる、最初に挙げるのは *蓮華座(東大寺 廬舎那仏)、 *須弥坐、*荷葉坐(蓮華を伏せた) *瑟瑟坐(しつしつざ)、雲坐、 *鳥獣坐、 :洲浜坐、等々えある。

日本仏教の弥勒崇拝は仏教圏に於いては少数派で現世利益の薬師信仰や観音信仰や地蔵信仰の方が盛んであった、因みに弥勒が釈迦の後継者との解釈に付いて、弥勒の場合は前述の釈尊を含む過去七仏と同様に覚者となる56億7千万年後の仏であり仏教の本質から疑問が残る。
日本人は規模、品質、知名度等に三大
○○と集約を好んでいる、如来にも三如来があり、真偽には無関係と言えるが天竺伝来の三尊の如来が挙げられている、即ち善光寺阿弥陀如来清凉寺 釈迦如来因幡堂薬師如来が言われている。 
上座部には四向四果(しこうしか)と言い行のランクが設定されている、預流果から阿羅漢果までがある。

預流果(よるか)(こう)―――預流果―――、一来果(いちらいか)―――不還(ふげん)(こう)―――不還果―――阿羅漢向―――阿羅漢果
覚りの4段階+1を挙げると:「預流向」
第一段階:「預流果」と「一来向」のワンセット
第二段階:「一来果」と「不還向」のワンセット
第三段階:「不還果」と「阿羅漢向」
応供向)  最終段階:「阿羅漢果」となる。

 



      1        2        3
   

 安祥院丈六阿弥陀如来像(岐阜)法然の平成に於ける大師号にちなんで「(ほう)()大仏(だいぶつ) と銘々された丈六仏です。  佛像造顕所 勢山社 渡邊勢山作


2、 佐吉大仏(竹鼻大仏)羽島市竹鼻町209に大仏寺(代表永田章・058-391-5032)と言う、無宗派の寺がある。

   1759年(宝暦9年)建立された像高4.9m金銅製の釈迦如来像で一般的な施無畏与願印でなく定印を結んでいる。
   施主は旧竹鼻村の豪商・永田佐吉で江戸の造仏師 西村和泉守藤原政時16731681年)頃

3、  高岡大仏 阿弥陀如来 15.85m 1907年開眼、*東大寺・毘盧遮那仏 *大異山 高徳院 清浄泉寺・阿弥陀如来、と共に「日本三大大仏」と言われているが岐阜大仏(黄檗宗金鳳山正法寺・岐阜市大仏町)等も挙げられており定説はない。 

*国宝・重要文化財指定の如来像の①~③である、2001年頃の資料で古いが参考になろう。 

 尊 名

 国宝

重要文化財 

   備 考

釈迦如来 

  7

   122尊

 

阿弥陀如来 

 18尊

   351

浄瑠璃寺8尊含む 

薬師如来

 15

   249尊

 室生寺釈迦如来、興福寺仏頭含む  




、如来の呼称には多くの呼び名があるこれを如来十号と言う。 
1、如来 
―――覚りを開いた人  真理の体表者 
2、応供(おうぐ)―――供応・尊敬を受ける適格者   阿羅漢 
3、正等覚(しょうとうがく)
Samyak sabuddhaまたは正遍知――― 如来供応正等覚者とも言い正しい覚りを開いた人  
4、明行足(みょうぎょうそく)―――明は智慧 行は、行いを言い明行を兼ね備えた人 
5、善逝(ぜんぜい)―――迷いを断ち切り静寂心を会得した人 
6、世間解(せけんげ)
―――世間の事の理解者
7、無上仕(むじょうし)―――最も秀でた人 
8、調御丈夫(ちょうごじょうぶ)―――指導救済者 人間の調教師
9、天人師(てんにんし)―――天界人と人間を導く  
10
世尊(せそん)―――尊敬に値する、釈迦牟尼世尊の略
   他に注5参照 

*多羅三三菩提(梵語のanuttara-samyak-sambodhi・アヌッタラー・サンミャク・サンボーデーとは「無上正等覚」とも言う、総ての真理を正しく理解する最高の悟りすなわち仏智を言う、また*無上正覚 *無上菩提等とも言われている

* 五如来を自性輪身、五菩薩を正法輪身、 五大明王を教令輪身と呼ばれる様にある

華厳経「如来名号品」に依れば須弥山の大陸に於いて別の呼び方をされている。
・一切義成就(金剛頂経)(総ての目的の完成者) 
・円満月(満月の如き功徳の持つ者) 
・獅子吼(獅子が吠える如く法を説く者) 
・釈迦牟尼(釈迦族の賢者) 
・第七仙 (七番目の覚者)
・毘盧遮那(衆生を照らす者) 
()(どん)()(ゴーダマ族の者) 
・大沙門(偉大な修行者) 
・最勝(最も優れた者) 
・大導師(偉大な導師) である。
*維摩経・漢九には多陀阿伽度に記述がある。

2、如来の卓越した力量に「如来十力(じゅうりき)」がある。
1、処非処智力(しょひしょちりき)
―――道理非道理の峻別
2
業異熟智力(ごういじゅくちりき)
―――業の果報力を知る
3
静慮(じょうりょ)解脱等持等(とうじとう)()智力
―――解脱 三昧 集中を知る力
4
根上下智力(こんじょうげちりき)
―――素養を見抜く力
5
種種勝解(しゅじゅしょうげ)智力
―――衆生の願望を観る力
6
種種界(しゅじゅかい)智力
―――衆生の本性を観る力
7
遍趣行(へんしゅぎょう)智力
―――衆生の行き先(輪廻の位置、涅槃)
8
宿住随念(しゅくじゅうずいねん)智力
―――人の過去を知る力
9
死生(ししょう)智力
―――衆生の生死を知る力
10
漏尽(ろじん)智力
―――煩悩の無い境地を知る境地 

注3、如来蔵(にょらいぞう)と言う用語があるが、梵語のタターガタガルバ(tathāgatagarbha)の漢訳で凡夫にも仏性すなわち如来となる心を宿している事を言う、煩悩は迷いから発生するもので本来は清浄であると言う。
勝鬘経では「如来蔵」説を説いている、更に第七章では「聖諦」(phags pai hden pa チベット語)甚深微妙の義すなわち聖なる真理を説いている。 

4,  三十二相の要点説明を大智度論(巻4)から引用された、如来の躯体が持つ特徴三十二相と、その相が持つ微細な状態を示す八十種好(注5が言われる、佐和隆研/編・仏像図典、(吉河弘文舘)参照、但し32相の内、.10 (いん)蔵相(ぞうそう)  .13一一孔(いちいちこう)一毛生相(いちこうしょうそう)  .22四十歯相(しじゅうしそう)人間は32本 .24牙白相(げはくそう) .27大舌相(だいぜつそう等、彫刻にも絵画にも使用出来ない項目がある。 「相好を崩す」と言うタームは注4~5が語源と言われている。  

1、足下安平立相(そくかあんぺいりつそう)―――足の裏が扁平で大地に立つと、地面と足の間が密着する、 慈悲の平等。
2、足下二輪相(そっかにりんそう)―――足の裏に千幅輪が現れている、 衆生の迷いを静める。 
3
長指相(ちょうしそう)―――手足の指が長い、 寿命と敬愛。

4
足跟広平相(そくごんこうびようそう)―――踵は広く平ら、 未来の衆生の救済。
5
、 手足指縵網相(しゅそくまんもうそう)―――手足の指の間に水掻きの様な膜がある、 総ての衆生救済。  
6
、 手足(てあし)柔軟相(じゅうなんそう)――――手足柔軟で高貴の相、 誰とでも等しく接する。 
7
、 足趺高満相(そくふこうまんもうそう)―――足の甲が高く亀の甲のように盛り上がっている、 衆生に幸せを。  
8
、 ()()延膝相(えんしつそう)――――鹿の膝の様に繊く円い、 喜びを与え。 
9
、 正立手摩膝相(そうりつしゅまそくそう)―――直立した時の手は膝をなでるくらいの長さ、 哀れみの思いが深い。  
10. (いん)蔵相(ぞうそう)
 ―――陰相が隠されている、 多くの弟子をもつ。
11
身広長等相(しんこうちょうとうそう)―――身長は手を横に広げた長さに等しい、 無上の法王。 
12
毛上(もうじょう)向相(こうそう)―――体毛はすべて上を向いている、 喜びの心を起こさせる。
13
一一孔(いちいちこう)一毛生相(いちこうしょうそう)―――毛穴は一本宛の毛がはえている、 成仏の妨げを防御。 
14
金色相(こんじきそう)―――全身が金色に輝いている、 衆生を喜ばせた姿。  
15
丈光相(じょうこうそう)―――全身の周囲一丈の範囲光り輝いている、 丈光相から光背が出来た、 迷いを除去、願いを成就。 
16
(さい)薄皮相(はくしそう)―――身の皮は細薄で一切の塵や汚れは無い、 慈悲とご利益。 
17
七処(しちしょ)(りゅう)満相(まんそう)――――身の肉が円満で柔軟微妙である、 七聖戒 (信・戒・慚・愧・多開・智慧・捨離)を満たす 。
18両腋下(りょうえきか)(りゅう)満相(まんそう)―――腋の下も肉が付き凹。みがない、 看病。 
19
上身(じょうしん)獅子相―――上半身の威容姿端巌で獅子の如く、 高徳の相。 
20
大直身相(だいちょうしんそう)―――体が大きく端直無比、 安心感。
21
(かた)(えん)好相(ごうそう)――両肩が円満でなだらか、 柔軟の徳。
22
四十歯相(しじゅうしそう)――――40の歯が美しく並び鮮白で清潔、 悪口を言わない。 
23
()斉相(せいそう)―――歯の大きさが同じで隙間がない
、 清浄の相 。
24
牙白相(げはくそう)―――牙は鮮白で鋭利、 三毒である(とん)(じん)()を切る。 
25
獅子(けう)相――――両頬が膨らみ獅子のよう、 正しい生活方法。 
26
味中(みちゅう)(とく)上味相(じょうみそう)―――仏の口は何を食しても最上に味わう、 願いを満足。
27
大舌相(だいぜつそう)―――舌は軟薄で広長、 嘘をいわないこと。
28
梵声(ぼんじょう)相―――大きな声で美しい、 傍聴の喜びを与える。
29
真青眼相(しんせいがんそう)―――眼晴は青蓮華の如く紺青色である、 良く見通す。
30
牛眼睫相(ごげんしょうそう)―――牛王の如く睫毛がながい、 眼が清浄。  

31
頂髻相(ちょうけいそう)―――頭上の肉が隆起しており、その形は髷のよう、 覚者の証、智恵を象徴、明晰。  
32
白毫相(びゃくごうそう)―――眉間の白い毛が右回りにねじれて、光を発している、  生死の災いを消す。


5, 八十種好とは八十随形好とも言い、三十二相を詳細化され外見、内面、及び頭上から足下に及ぶ。   

1、無見頂相―――仏の頂上の肉髻が高く、見上げようとしても愈々高くなって見ることができない。
2
、鼻高不現孔―――鼻が高く、孔が正面からは見えない。
3
、眉如初月―――眉が細く三日月のよう。
4
、耳輪垂―――耳の外輪の部分が長く垂れている。
5
、身堅実如那羅延―――身体が筋肉質で、天上の力士のように隆々としている。
6
、骨際如鉤鎖―――骨が鎖のように際立っている。
7、身一時廻旋如象王―――身体を廻らすとき象が旋回するように一体となってする。
8、行時足去地四寸而現印文―――歩くとき足が地面を離れてから足跡が現れる。
9
、爪如赤銅色―――爪が赤銅色。
10
、膝骨堅而円好―――膝の骨が堅く円い。
11
、身清潔―――身体が清潔で汚れない。
12
、身柔軟―――身体が柔軟。
13
 身不曲―――背筋が伸びて、猫背にならない。
14
、指円而繊細―――が骨ばっていず、細い。
15
、指文蔵覆―――指紋が隠れていて見えない。
16
、脈深不現―――脈が深いところで打つので、外から見えない。
17
、踝不現―――踝が骨ばっていない。
18
、身潤沢―――身体が乾いていず光沢がある。
19
、身自持不逶―――身体がしゃんとして曲がっていない。
20
、身満足―――身体に欠けた所がない。
21
、容儀備足―――容貌と立ち居振る舞いが美しい。
22
、容儀満足―――容貌と立ち居振る舞いに欠点がない。
23
、住処安無能動者―――立ち姿が安定していて、動かすことが出来ない。
24
、威振一切―――威厳があり身振り一つであらゆる者を動かす。
25
、一切衆生見之而楽―――誰でも見れば楽しくなる。
26
、面不長大―――顔は長くも幅が広くもない。
27
、正容貌而―――色不撓右対称で歪みがない。
28
面具満足―――顔のすべての部分が満足である。
29
、唇如頻婆果之色―――唇が頻婆樹の果実のように赤い。
30
、言音深遠―――話すときの声が深くて遠くまで届く。
31
、臍深而円好―――臍の穴が深く、円くて好ましい。
32
、毛右旋―――身体中の毛が右に旋回している。
33
、手足満足―――:手足に欠けた部分がない。
34
、手足如意―――:手足が意のままに動く。
35
、手文明直―――手のひらの印文が明快で真っ直ぐ。
36
、手文長―――手のひらの印文が長い。
37
、手文不断―――手のひらの印文が途切れていない。
38
、一切悪心之衆生見者和悦―――どんな悪者も見れば和やかになる。
39
、面広而殊好―――顔は広々として好ましい。
40
、面淨満如月―――顔は満月のように浄らか。
41
、隨衆生之意和悦与語―――衆生の意のままに和やかに共に語る。
42
、自毛孔出香気―――毛孔より香気が出る。
43
、自口出無上香―――口より無上の香気が出る。
44
、儀容如師子―――立ち居振る舞いの威厳あること師子のよう。
45
、進止如象王―――歩くことも立ち止まることも象王のよう。
46
、行相如鵞王―――歩くときとは片足づつ交互に運び、鵞鳥のよう。
47
、頭如摩陀那果―――頭は摩陀那果のよう。
48
、一切之声分具足―――声にはあらゆる音が備わっている。
49
、四白利―――四本の牙が白く鋭い。
50
、舌色赤―――舌の色は赤い 。
51
、舌薄―――舌は薄い。
52
、毛紅色―――毛髪の色は紅色。
53
、毛軟淨―――毛髪は軟らかく浄らか。
54
、眼広長―――眼は広くて長い。
55
、死門之相具―――死門の相が具わる。死はこの世からあの世へ行く門、不死の相ではないということ。
56
、手足赤白如蓮華之色―――手足の色があるときは赤く、あるときは白い蓮華のようで濁っていない。
57
、臍不出―――出臍ではない。
58
、腹不現―――腹は常に隠されている。
59
、細腹―――腹は脹れていない。
60
、身不傾動―――身体は傾いていなくて、揺ぎない。
61
、身持重:身体に重量感がある。
62
、其身大―――身体が大きい。
63
、身長―――背が高い。
64
、四手足軟淨滑沢―――手足は柔軟で浄らか、滑らかで光沢がある。
65
、四辺光長一丈―――身体から放たれる光は長さが一丈ある。
66
、光照身而行―――光は身を照らして遠くに届く。
67
、等視衆生―――衆生を等しく視る。
68
、不軽衆生―――衆生を軽くみない。
69
、隨衆生之音声不増不減―――衆生の音声に随うも、声の大きさが増したり減ったりしない。
70
、説法不著―――法を説いても、執著することがない。
71
、隨衆生之語言而説法―――衆生の話す言葉の種類に随って、法を説く。
72
、発音応衆声―――声を発すれば、衆生を同じ声を出す。
73
、次第以因縁説法―――順に因縁を明らかにして説法する。
74
、一切衆生観相不能尽―――誰も相を観て、明らかにし尽くすことがない。
75
、観不厭足―――観相しても厭きることがない。
76
、髪長好―――毛髪が長く好ましい。
77
、髪不乱―――毛髪はまとまって乱れない。
78
、髪旋好―――毛髪は好ましく渦巻いている。
79
、髪色如青珠―――毛髪の色はサファイアのような青色。
80
、手足為有徳之相―――手足は力に満ちている。
 

5世尊を意味する婆伽梵(薄迦梵)と言う熟語がある、梵語のバガバーン(hagavat)の事でリグ・ベーダ聖典にも表れる、因みに佛教的解釈では世は人々を言い、尊は師及び尊いを意味する、また立川武蔵氏はバガは祭礼後お供えの御下がり、を言う、従ってバーンは所持する者で「恵みを与えるもの」即ち神を意味すると言う、こるがバガバテーとすれば女神になると言う、漫画の天才バカボンはバガバーンがモデルと言われている。
音訳の為に漢字の相違もある、bhagavat バガヴァットすなわち「薄伽梵(ばがぼん)(bhagavān)」とは如来一般を言う、また釈迦の事を意味し、世尊、薄伽婆(ばがば)呼び方もある

注6、
佛教に於ける祖である釈尊は伝承等でデフォルメ化されていく、釈尊は時代や地域により変化し始める、即ち実在した釈迦族の皇子で出家して覚りを開いた聖者、から法華経の言う久遠実成の釈迦牟尼となり、華厳経などから毘盧遮那仏となる、更に密教では大日経(大毘盧遮那成佛神変加持経)から大日如来となる。
これは仏教に限らない、総ての宗教に言える事で初期のキリスト教に於いて強い勢力であったアリウス派では「イエスは神ではなく預言者」、としていたが現在は三位一体神である。

7、如来の印相(ムドラー mudrā)であるが、仏の内面の意志を示したシグナルで 釈迦如来の印相は基本五印と言い基本印には ・施無畏印(指を上に手のひらを見せる)不安の除去 ・与願印(指を下に手の平を受けるか見せる)願いを適える ・定印(瞑想中) ・降魔印(手の甲を下に人差し指を下に向ける)誘惑を退散させる ・説法印(転法輪とも呼ばれ・両手を胸の前に置き手首を捻る印、鹿野園に於いて初説法を行った印相)がある。
その他の印相を挙げると無量寿経に依る浄土へ往生する方法として信仰心をランク付している、三輩九品往生段と言い、阿弥陀如来の九品来迎院(くぼんらいごういん)(往生印)がある、・上品上生印~・中品中生印~・下品下生印まで九品印があり稀に刀印がある、三輩九品往生段は *上品上生 至誠心 深心 回向発願心の三心と戒律を守り、経典を読誦し機根の秀者。*上品中生、*上品下生までは大乗の行者で上生と比較して機根が少し劣る。*中品上生以下中品下生までは小乗の行者で極楽に於いて無生法忍の悟りが得られる。 *下品上生以下の下品下生は悪行の内、救いがある者。 
大日如来の印相は・金剛界の智拳印と・胎蔵界法界定印がある、他に弥勒が如来像で・触地印(降魔印)や菩薩で・()惟手(ゆいしゅ)を見せる事がある。 
因みに光背には頭部にあるものを頭光(ずこう)、身体にあるものを身光(しんこう)があり、これを合わせたものを(きょ)身光(しんこう)すなわち二重光背という、起源はゾロアスター教のミスラ神の頭部からであろう。

日本に存在する大仏の内訳

名 称

材質 

  高さ

 制作年

 場所 適用

聚楽園大仏  阿弥陀如来

 RC造

 18.79m

 20世紀

 愛知県東海市

越前大仏   毘盧遮那仏

 銅像

 17.00m

 20世紀

福井県勝山市片瀬50

高岡大仏   阿弥陀如来

 銅像

 15.85m

 1907年 

 

 東大寺    毘盧遮那仏

 銅像

 14.86m

 

 

 岐阜大仏  釈迦如来

 木竹芯乾漆造

 13.70m

 江戸時代

 

 鎌倉大仏  阿弥陀如来

 銅像

 11.39m

 鎌倉時代

 

 桃巌寺   釈迦如来

 銅像

 10.00m

 20世紀 

名古屋市千種区四谷通二丁目十六番地  

 大仏寺   釈迦如来

 銅像

  4.90m

 江戸時代

 岐阜県羽島市竹鼻町 

 

 

 

 

 


 大仏寺(羽島市)釈迦如来 定印(釈尊が覚り時の印形) 青銅製 4,9m  江戸時代
  

  200966日 2010328日 201182日注2 2011125日三身 説加筆2012318日 86日注45 1030日単伝 2013115日 5月17日注1追加 2014年4月18日十方仏更新
   2015年1月7日注6 11月18日加筆   2015年11月22日写真入れ替え 2016年4月13日大智度論 9月25日注7 10月2日 2018年12月22日 2020年3月19日 12月5日 2021年3月28日加筆  2022年9月7日 



             
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