乙津寺(おっしんじ)

                      

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山号を瑞甲山(ずいこうざん)と言う、岐阜市は鵜飼の名所であり室町時代末に(かが)(しま)の乙津寺に宿泊していた室町時代の公卿・一条兼良(注2)が江口で鵜飼を見物した記録がある、長良川河口近くの鏡島の地に改宗以前は梅寺と呼ばれた乙津寺はある、現在は臨済宗妙心寺派の寺であるが、弘法大師堂が置かれている。

通称は「鏡島の弘法さん」として親しまれて毎月21日の弘法様の日には老若男女で賑わいを見せるが正式な寺名を知る人は少ない。
寺伝では738行基の開祖で813年嵯峨天皇の勅命を受けた空海が当地で宝鏡を竜神に向けた時、 水辺が桑畑に変じたことから鏡島と称したと言うが定かではない、おそらく行基か空海の勧請開山と解釈するのが妥当であろう、勧請開山とは師の法弟・法孫達による開山を師の開山とした寺を言う。
真言宗
の寺であったが南北朝時代に臨済宗妙心寺派となる。
当寺の重要文化財の尊像は三尊である、千手観音像・毘沙門天像の他に韋駄天像は独尊での重文指定は乙津寺と、20153月重文答申が為された岐阜県郡上市白鳥の長滝寺のみである。
当寺の韋駄天像は兜が別木で作られており京都蓮華王院の国宝・婆藪仙の頭巾・毘楼博又の兜と共に自由に取り外しが出来るなど精緻を極めた鎌倉彫刻の特徴を表わしている。
乙津寺は「東海三十六不動尊霊場」の三十一番札所でもある、愛知県には甚目寺をはじめ23ヶ寺・三重県は常福寺など7ヶ寺・岐阜県は円鏡寺など6ヶ寺で構成されている。  
乙津寺に依れば教王護国寺
(東寺)と平間寺(川崎大師)と共に日本三躰厄除弘法の一寺であると言う、また三田洞弘法(法華寺・高野山真言宗)、円鏡寺(高野山真言宗)と共に美濃三弘法の一寺である。

宗派が変更されたと言え、禅宗寺院に大師堂は奇異に感じられるが、同じ岐阜県美濃市前野に臨済宗妙心寺派の慧照院と言う寺があり、空海すなわち大師堂が奉られている、正しく仏教と言うより、日本教と言えよう。

臨済宗妙心寺派          所在地 岐阜市鏡島1328    TEL 058-252-2062      本尊 十一面観音  不動明王         

1行基(ぎょうき) 668749)奈良時代の法相僧で 唯識論の権威、父の高志氏は百済系渡来人。長安に於いて玄奘三蔵に学んだ飛鳥寺の道昭に師事する。(異説もある、新羅僧慧基に学ぶ等)
法興寺・薬師寺を経て山岳修行を行い、聖武天皇から菩薩号を授けられたと言う伝承が有る、彼の元に私度僧が多く集まり民間佛教の伝道と社会事業に尽力する、特に土木技術に精通し私度僧群と共に技術者集団を率いていたと考えられる。また行基により創建されたと言う寺は多くあり、彼の指導による仏像・橋梁・堤防・港など多く作られたと言いその名声から多くの伝承を残した。745年 大僧正 また歌の名手で有ったらしく行基の詠んだとされる歌が残っている。    玉葉集  「山どりのほろほろと鳴く声きけば父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ」 
行基が創建したと伝えられる寺院は多く存在するが、奈良県・霊山寺 長弓寺   京都府・宝積寺    大阪府・金剛寺  孝恩寺  家原寺 喜光寺  獅子窟寺    滋賀県・金剛輪寺 などと言はれる。  


2一条兼良(いちじょうかねら・かねよし) 14021481   15世紀の公卿で法号を覚恵と言い桃華老人・三関老人・東斎・後成恩寺殿とも呼ばれる、日本における天皇家に次ぐ名門五摂家に於いての関白・一条経嗣の次男に生まれるが、家督を継ぎ摂政・太政大臣・関白を歴任する、我が国に於ける無双に才人の評価がある、桃山時代の代表的文化人でもあり菅原道真にも勝る学才を持つと言われた、和漢の碩学として知られ著作も「四書童子訓」「日本書紀纂疏」「文明一統記」「樵談治要」「ふぢ河記(美濃旅行記)」など多い。(五摂家・興福寺 8、藤原摂関家参照)
  
           
                
主な重要文化財

千手観音 木造漆箔 樟 109,4cm 飜波式   平安時代 

毘沙門天立像 木造 160,6cm           平安時代 


韋駄天立像  木造 彩色 玉眼 78,8cm    鎌倉時代
                         
            韋駄天                     毘沙門天             千手観音

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2005623日 2013526日 2015年7月3日加筆


  

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