玄奘 602~664年3月7日
唐代初期にインドへ saṃskṛta語(梵語)原典の経典を含む唯識
俗姓は陳氏と言い河南省すなわち洛陽に近い陳留郡誠氏県に生まれ、十三歳で出家する、実兄は
乱の終息と共に国都である長安に戻り大覚寺で
しかし唐では仏教
629年(貞観3)涼州、瓜州から伊吾に赴き高昌国王の使者と会う、使者の懇請で高昌に行き、国王の歓迎をうけて天竺への旅費の援助を受けた。
クチャより天山山脈を越えて北路に行きアフガニスタンをへてインド北部を経て、マーガディー(Māgadhī マガダ語)の佛教教学の中核・ナーランダ寺(那爛陀・Nālandā )に到着した、ナーランダ寺で五年間に
玄奘の在印中に密教は流普していたが帰国後も取り上げる事は無かった、原因としては外道的解釈すなわち密教をエソテリック ブッデズム(Esoteric Buddhism)と訳せば秘儀・秘教すなわち呪であり、釈尊の教義から明らかに乖離する事になろう、これに付いて薬師寺の元管主で二十世紀最後の怪僧と言われた・橋本凝胤師は空海
但し米澤嘉康氏(初期密教・春秋社)に依れば玄奘は呪(密教)を完全否定した
天竺から将来した・仏舎利百五十粒、・仏像八尊、・経典五百二十典六百五十七部で、これらは弘福寺に安置された。
国禁を犯しながらも太宗には歓迎され弘福寺と後に大慈恩寺で訳経に従事する。
二十年間に訳出した経論は、「大般若波羅蜜多経」600巻をはじめ、唯識の根幹を説く「
訳風は創作とも言える鳩摩羅什と異なり忠実に逐語訳の特徴を持ち新訳と称され羅什の旧訳と区別されている。
門下生に窺基、円測、普光達の俊英が玄奘の訳経論に依拠した法相宗、抑舎宗を起こした、唯識すなわち法相宗は興福寺・薬師寺・清水寺などで受け継がれている、法相宗は中国では「安禄山の乱」や「会昌の廃仏」(注1)
墓所は西安南郊の興教寺にある。
薬師寺では平成3年(1991年)玄奘三蔵院伽藍を建立し平山郁夫画伯の作品等が置かれている。弁機が編述した旅行記「大唐西域記」12巻は、玄奘の伝記である「大唐大慈恩寺三蔵法師伝」10巻と共に評価は高い。
墓所は西安南郊の興教寺にある。
薬師寺では平成3年(1991年)玄奘三蔵院伽藍を建立し平山郁夫画伯の作品等が置かれている。
注1、 会昌の廃仏 (三武一宗の法難)、中国に於ける宗教弾圧は四回あり、①五世紀、北魏 太武帝(423~452年)による道教保護廃仏、 ②六世紀、北周 武帝(560~578年) 道教佛教の廃止、 ③九世紀、北周 武宗(840~846年) 会昌の廃仏、 ④十世紀、 後周 世宗(954~959年)、 と続いた、因みに三武一宗とは弾圧した皇帝の名から銘々された様である、また会昌の廃仏は元号から取られた。
中国に於ける仏教弾圧はカトリックとプロテスタントの教義上の対立ではなく、社会に与える影響からとの説がある、即ち仏教(僧侶)は暴力を否定する為に、兵役の拒否や免税の待遇をうけて仏教排撃の原因となった。
注2、 経典を翻訳する時に漢文に訳さないで、音訳すなわち梵語の音を漢字に写した訳がある、玄奘が嚆矢の様で「
*順古故 阿耨多羅三藐三菩提が順古故に相当する。
*秘密故・般若心経のクライマックス「羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶」が相当する。
*多含故 自在・熾盛・端厳・名称・吉祥・尊貴という六義(6つの義・意味)という複数の意味を含む婆伽婆・薄伽梵 ・魔訶など。
*此方無故 閻浮樹 乾闥婆 迦楼羅など。
*尊重故 般若 佛陀の様に意訳すると耽美さに欠ける場合に使われる。
2014年11月4日更新
日立世界大百科事典、礪波護参照