玄奘             60266437

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唐代初期にインドへ saṃskṛta語梵語)原典の経典を含む唯識所変(しょへん)(唯識学)を求法の旅に出た僧で鳩摩羅什と共に二大訳聖と言われている、中国伝統の白話小説(はくわしょうせつ:)・西遊記に於ける三蔵法師として著名な存在である、因みに三蔵とは経・律・論を修めた高僧を言う、梵語でtpaka(ティピタカ)と言いティ=3、ピタカ=籠を意味する、因みに二大訳聖と言う分類の他に、四大訳経家と言う挙げ方があり、・鳩摩羅什344413年) ・真諦(しんたい)499569年) ・玄奘 ・不空(ふくう)705774年)を言うが、玄奘は唯一の漢民族すなわち中国人である。 
俗姓は陳氏と言い河南省すなわち洛陽に近い陳留郡
氏県に生まれ、十三歳で出家する、実兄は長捷(ちょうしょう)法師と言い洛陽の浄土寺に住んでおり、兄の下で経論を学ぶが、隋・唐王朝交代期の乱で長安から更に(しょく)(四川省)に逃れ空慧寺(コンウェイスー)と言う寺で過ごし622年具足戒を受ける。
乱の終息と共に国都である長安に戻り大覚寺で抑舎(くしゃ)(倶舎論)(しょう)大乗論Mahāyāna-sagraha , マハーヤーナ・ サングラハ)を学んだ。
しかし唐では
仏教哲学の最高峰とも言える「十七地論」すなわち、唯識の重要文献である「瑜伽師地論(ゆがしじろん)Yogācārabhūmi-śāstra ヨーガーチャーラ・ブーミ・シャーストラ」を学ぶ事が出来ず、国禁を犯して天竺(インド)への十七年に亘る取経(しゅけい)経典の請来)求法(ぐほう)仏法を学ぶ)の旅を決意する。
629
(貞観3)涼州、瓜州から伊吾に赴き高昌国王の使者と会う、使者の懇請で高昌に行き、国王の歓迎をうけて天竺への旅費の援助を受けた。
クチャより天山山脈を越えて北路に行きアフガニスタンをへてインド北部を経て、マーガディーMāgadhī マガダ語)の佛教教学の中核・ナーランダ寺(那爛陀・Nālandā )に到着した、ナーランダ寺
で五年間に戒賢(かいけん)論師(シーラバドラ、Śīlabhadra529645年)から「瑜伽師地論」を、無著・世親系の瑜伽唯識の教学をマスターする、インド各地に求法と仏跡巡礼の旅を続けて大量の仏典を得て帰路した、因みにナーランダNālandāとは蓮は智慧のシンボルであることから「 蓮のある場所」を意味する、他に玄奘が五か年を費やしてナーランダで修学した法は「順正(じゅんしょう)理論」「顕揚(けんよう)論」「阿眦達磨(あびだつま)」「因明(いんみょう)」「声明」「集量(じゅりょう)」「中論」「百論」「倶舎論」「六足阿毘曇(あびどん)」等々に及ぶ
玄奘の在印中に密教は流普していたが帰国後も取り上げる事は無かった、原因としては外道的解釈すなわち
密教をエソテリック ブッデズム(Esoteric Buddhismと訳せば秘儀・秘教すなわち呪であり、釈尊の教義から明らかに乖離する事になろう、これに付いて薬師寺の元管主で二十世紀最後の怪僧と言われた・橋本凝胤師は空海が唐から将来したのは仏教ではない、「空海は新興宗教の開祖である、彼はずるい人だ」とまでも言う。 
但し米澤嘉康氏(初期密教・春秋社)に依れば玄奘は呪(密教)を完全否定した(わけ)ではない様である、即ち般若心経の内で「心」
(hdaya・フリダヤ)を神呪心と解釈したと言う、玄奘が後に漢訳した「十一面神呪経」「不空羂索神呪心経」に於いて神呪心と漢訳している。
天竺から将来した・仏舎利百五十粒、・仏像八尊、・経典五百二十典六百五十七部で、これらは弘福寺に安置された。
国禁を犯しながらも太宗には歓迎され弘福寺と後に大慈恩寺で訳経に従事する。
二十年間に訳出した経論は、「大般若波羅蜜多経」600巻をはじめ、唯識の根幹を説く「
瑜梼師地論(ゆがしじろん)(梵語名、Yogācārabhūmi-śāstra , ヨーガーチャーラ・ブーミ・シャーストラ」「舎論(コーシャ、koZa」「成唯識論(梵語名、Vijñapti-mātratā-siddhiヴィジュナプティ・マートラター・シッディ」「仏地経(梵語名Ārya buddhabhūmi nāma māhayānasūtra」など75部、1235巻に達した。
訳風は創作とも言える鳩摩羅什と異なり忠実に逐語訳の特徴を持ち新訳と称され羅什の旧訳と区別されている。
門下生に窺基、円測、普光達の俊英が玄奘の訳経論に依拠した法相宗、
舎宗を起こした、唯識すなわち法相宗興福寺薬師寺清水寺などで受け継がれている、法相宗は中国では「安禄山の乱」や「会昌の廃仏」(注1で壊滅的なダメージを受けるが日本に於いては法隆寺を含め上記の寺院が奈良佛教の中核宗派である。弁機が編述した旅行記「大唐西域記」12巻は、玄奘の伝記である「大唐大慈恩寺三蔵法師伝」10巻と共に評価は高い。
墓所は西安南郊の興教寺にある。             
薬師寺では平成31991年)玄奘三蔵院伽藍を建立し平山郁夫画伯の作品等が置かれている。弁機が編述した旅行記「大唐西域記」12巻は、玄奘の伝記である「大唐大慈恩寺三蔵法師伝」10巻と共に評価は高い。
墓所は西安南郊の興教寺にある。             
薬師寺では平成31991年)玄奘三蔵院伽藍を建立し平山郁夫画伯の作品等が置かれている。


 

1、 会昌の廃仏 (三武一宗の法難)、中国に於ける宗教弾圧は四回あり、①五世紀、北魏 太武帝(423~452年)による道教保護廃仏、  ②六世紀、北周 武帝560578年) 道教佛教の廃止、 ③九世紀、北周 武宗840846年) 会昌の廃仏、 ④十世紀、 後周 世宗954959年)、 と続いた、因みに三武一宗とは弾圧した皇帝の名から銘々された様である、また会昌の廃仏は元号から取られた。
中国に於ける仏教弾圧はカトリックとプロテスタントの教義上の対立ではなく、社会に与える影響からとの説がある、即ち仏教(僧侶)は暴力を否定する為に、兵役の拒否や免税の待遇をうけて仏教排撃の原因となった。


注2、
 経典を翻訳する時に漢文に訳さないで、音訳すなわち梵語の音を漢字に写した訳がある、玄奘が嚆矢の様で「五種不翻(ごしゅふほん)」と言い以下の様になる。

*(じゅん)古故(ここ) 阿耨多羅三藐三菩提が順古故に相当する。 

*秘密(ひみつ)()般若心経のクライマックス「羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶」が相当する。

*多含(たごん)() 自在・熾盛・端厳・名称・吉祥・尊貴という六義(6つの義・意味)という複数の意味を含む婆伽婆・薄伽梵 ・魔訶など。

*此方(しほう)無故(むこ) (えん)浮樹(ぶじゅ) 乾闥婆(けんだつば) 迦楼(かる)()など。

*尊重(そんちょう)() 般若 佛陀の様に意訳すると耽美さに欠ける場合に使われる。   

   


2014114更新、11月12日 2015年6月7日三蔵 2017年4月23日 2018年1月18日 6月8日 2021年4月25日 加筆


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 日立世界大百科事典、礪波護参照

 


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