十一世紀前半に活躍した大仏師で日本彫刻史上屈指の名匠とされる。仏師僧
1048年には興福寺造仏の功労で法眼に昇進している、因みに僧綱位とは・法印・法眼・法橋の順位を言う、864年僧侶に与えられた位階で1‐法印大和尚位 2‐法眼和上位 3‐法橋上人位の3階を設けた、俗官の位階と同様に成功による叙位や死後の贈位があり、また仏師・絵師・医師・儒者などにも僧位を与えることがあったが1873年に廃止された。
1053年に平等院鳳凰堂の阿弥陀如来座像を像造したが法成寺・法界寺など多くが失われ鳳凰堂の阿弥陀如来が定朝唯一の確実な現存作品である、但し浄瑠璃寺
仏像の需要が急増した平安時代に流れ作業が可能な寄木造の採用で量産を可能にした。
特徴として膝は広く低く安定感を示し衣文線も流れる様に浅く平行に流すという和様式を完成した、この様式は定朝様と呼ばれて長く日本の彫刻の規範とされていた。
定朝は佛師百人以上を統括した記録もあるようで平等院・鳳凰堂の雲中供養菩薩像は定朝一門の作品であることは確実視されている、製法は多様で寄木造、一木造、割り矧ぎ、や木取の方法、内刳りの有無、等工法にも変化を演出している。
定朝の評価として作が確実な平等院の阿弥陀如来の膝は広く低く安定感を強調し衣文線は流れる様に浅く平行に流すという和様すなわち定朝様式を完成した、「尊容、満月の如し」「天下これを以て本様となす」と藤原資房(春記)や源師時(長秋記)など貴族達に言わしめた、この様式は長く日本の仏像彫刻の規範となり後続の仏師達に多大な影響を与えた。
六波羅蜜寺
注1、康尚 名称の記述文字、生没年齢は定かではないが源信の配下で僧籍にある仏師とされる、藤原道長に重用され1020年の法成寺・無量寿の九尊阿弥陀如来像は息子・定朝を指揮しての参加が伝えられる、仏像彫刻界を席巻した定朝様・寄木造などは定朝の父・康尚が嚆矢とも言われる。
康尚の作品の可能性を思惟される像に
・同聚院 不動明王 平安時代
・遍照寺(右京区嵯峨広沢西) 十一面観音立像
・平等寺
・真正極楽寺(真如堂) 阿弥陀如来 木造 漆箔 108.4cm 藤原時代 京都市左京区極楽寺真如町等がある。