六波羅蜜寺

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  山号を補陀落山、普門院(院号)と言い963(応和3空也の創建になる、創建当初は西光寺と呼ばれた。
通称ろくどうの辻などと呼ばれ死者を送る葬送地であった場所であり、近くに精霊を迎える六道珍皇寺もある、庶民の追善の場所であったが大乗仏教に於ける行の内最も重要な修行方法とされる”六の正しい行動”即ち六波羅蜜(注1との関係は特に見られない。 
この地に於いて醍醐天皇の第二皇子とも仁明天皇の第7皇子である常康親王(つねやすしんのう)の子とも言われ、天台座主・延昌に学びながら、自ら市井聖となった空也上はインドや中国で行われた「行像(ぎょうぞう)(注5を真似たであろうか、自身の刻んだ十一面観音と共に洛中を巡回し死者を弔いまた疫病退散の祈願をした拠点であり六波羅蜜寺(西行寺)の起こりとされる、空也は庶民救済を目指して尾張の国分寺で得度し諸国を遊行しながら浄土思想興隆の礎となった。 
現存する空也上人の祈祷文に拠れば963年「金字大般若経」を写し、多くの著名僧を含む600名の僧と共に大萬燈会を行い落慶供養された記録されている。
その後弟子の中信の時代
977年頃)に六波羅蜜寺と変更し天台宗の別院として栄えたと言う。
当寺の最盛期には境内も広く本堂・地蔵堂・開山堂・不動堂などを所有していたが平清盛が居を構えた土地でもあり室町幕府の六波羅探題も近くにあってしばしば兵火に遭遇、また廃仏毀釈で残る堂宇を失い現存するのは本堂を残すのみであるが貴重な仏像は多く保存出来ている、中でも空也の造像と伝えられる十一面観音は99年4月国宝指定を受けた
(秘仏であり辰年の内数日間のみ開帳)

「ひとたびも南無阿弥陀仏といふ人の(はちす)の上にのぼらぬはなし」と勅撰集に空也の歌がある、六波羅蜜寺の十一面観音は秘仏であ、当寺に於いて最も人気の高い仏像運慶の四男で湛慶の弟、康勝作の空也上人像である、行脚しながら南無阿弥陀仏の六文字を象徴する六尊の小佛を発する像は写実性の高い尊像に幻想性を持たせている、因みに同じスタイルの空也上人像が四国八十八か所、49番札所、西林山・浄土寺と月輪寺に存在する(注3)
六波羅蜜で見逃せないのは地蔵菩薩像の2尊である、坐像は運慶の作であり、下述するが鬘掛地蔵は日本に於ける造仏師最大の巨匠・定朝による造像とも言われている。
鎌倉時代に著わされた仏教通史「元亨釈書(げんこうしゃくしょ)」に記述されている空也像に対面していると平安時代にタイムスリップして、空也上人が困窮する民衆の居る京の町へ金鼓を打ち鳴らし念仏を唱えながら今にも徘徊して行きそうな姿を幻想する(注3)、「一度(ひとたび)も南無阿弥陀仏と いう人の(はちす)の上に のぼらぬはなし拾遺和歌集(しゅういわじゃしゅう) 空也。  (拾遺和歌集とは平安時代中期の勅撰和歌集で編者不詳) 

8月8日―10日に本堂にて行はれる萬燈会が著名であると共に古くからの迎講や地蔵講などで親しまれた、また12月には秘法とされていた空也踊躍念仏が公開される、また「かくれ念仏」すなわち空也の踊躍(ゆうやく)念仏が師走13日から大晦日まで行われる、また正月三ヶ日に行われる「皇服茶(おうぷくちゃ)」があり昆布と梅干入りの茶が参詣者に提供される。
当初は地蔵尊を奉る庵があり、六波羅地蔵堂として信仰された様で平安末期頃から盛んになった地蔵信仰により、鬘掛地蔵を敬う庶民信仰の篤い寺でもある、本堂の解体修理の折に基檀から鎌倉時代初期と見られる庶民の納めた素朴な泥塔(でいとう)7400基余りが発見され重要民俗資料指定を受けた、鬘掛(かずらかけ)地蔵尊は平等院阿弥陀如来を造像した定朝による数少ない作品の可能性が高く必見の尊像である。

六波羅蜜寺は観音霊場西国三十三箇所・十七番目の札所としての賑わいも見せている、その他「洛陽三十三所観音霊場」と言う組織が在り歴史は古いが長期間途絶えていたが復活し、六波羅蜜寺
(十一面観音)15番札所となっている、1番、頂法寺(ちょうほうじ)(六角堂・如意輪観音 2、金戒光明寺(千手観音) 1014番、清水寺(本堂・奥の院・本堂・朝倉堂・泰産寺・千手観音) 17番、蓮華王院千手観音 20番、泉涌寺(楊貴妃観音) 21番、法性寺(千手観音) 23番、東寺十一面観音 27番、因幡堂(平等寺)(十一面観音)等の著名寺院が参画している。     
また真言宗への改宗に時期は寺の説明では中信以降の時代とされているが、中信の時代は天台宗とされており真言宗への改宗は1595
(文禄4)の様である、一説には近くに六派羅探題があり第二代将軍、足利義詮(よしあきら)の命に依る改修を機会に真言宗となったとも言われている。
六波羅は平家の政権の中核の地であり境内に清盛の彫刻や供養塔があるが地元では今でも清盛が近くに居住して居るように親しまれている。 
     
 


注1、 六波羅蜜  波羅蜜とは梵語名
pāramitā(パーラミータ)の音訳で到彼岸すなわち完成された行・彼岸への到達・正しい行いを意味する、pāramitā パーラミータはi語すなわち俗語であり、梵語(saskta)ではprajñā(プラジュニャー)と言う

菩薩道に於ける修行方法の完全なあり方を波羅蜜と言い、大乗仏教に於いて正等覚(しょうとうがく)者(如来)となる為、菩薩の必修条件でもある、六波羅蜜の起りは、初期の大乗経典で現存はしていないが「六波羅蜜経」が諸経典に引用されている様である、六波羅蜜との関連のある供養に「六種供養」があり・水――布施 ・塗香――持戒 ・花――忍辱 ・焼香――精進 ・燈明――智慧の行に相当する、因みにお彼岸に先祖の墓参をする風習は日本独自のものでインドや中国には存在しない。  
・布施波羅蜜 (施し)          余談 布施を施す事をdānaダーナと言うが旦那の語源になる。    
持戒(じかい)波羅蜜 (道徳・法律)  
忍辱(にんにく)波羅蜜 (耐え忍ぶ)   
・精進波羅蜜(努力)  
・禅定波羅蜜 (徳を行う行動) 
・般若波羅蜜 (単に知恵ではなく慧に裏付けられて完成される、悟りに向けた智慧)
さらに十波羅蜜もあり、六波羅蜜に方便・願・力・智が加えられる。
六波羅蜜の完成者を”正等覚者”すなわち如来の境地と呼ばれる、因みに大乗起信論に於いては1^4を 施門、誡門、忍門、進門、とした上に5^6を止観門としている。

華厳経に於いては(7)方便波羅蜜、烏波野upāya ウパーヤ 方便  (8)願波羅蜜、 波羅尼陀那pranidāna プラニダーナ 願  (9)力波羅蜜 、波羅bala  バラ 力 (10)智波羅蜜 、智jñāna ジュニャーナ 智、の十波羅蜜(じっぱらみつ)daśa pāramitā)を説いている。 
因みに六道とはgati、(ガティー)道の意訳で *天道 deva-gati  *人間道 manushya-gati *修羅道 asura-gati  *畜生道 tiryagyoni-gati *餓鬼道 preta-gati *地獄道 naraka-gati を言う、関連経典に「六波羅蜜経」正しくは「大乗理趣六波羅蜜多経」がある。
六に因んで六念六念法六随念と言われ心の安定を得て涅槃へ、向かう為に仏教徒が繰り返して念じる必要条件を挙げると以下の様になる、 *念仏 *念法 *念僧 *念戒 *念施(念捨) *念天がある。
また六根清浄が著名なタームで法華経⒛品・常不軽菩薩品から、衆生の眼、耳、鼻、舌、身、意の六根には垢は堆積しており、「懺悔して清浄」の意味を込めて唱和する事を言う。


注2、 国宝・十一面観音は辰年11月3日から33日間開帳   

3、 空也上人像で”歯吹き”の口元から南無阿弥陀仏を唱えると小佛を発する像は月輪寺119,1cm 玉眼)と、四国霊場四十九番札所の西林山・浄土寺、三蔵院(121.5cm 重文)にも存在する(松山市鷹子町1198)、浄土寺には空也上人が3年間滞在したと言われ、念佛を広めたとされている。
    
三蔵院には「霜月の空也は骨に生きにける」と詠んだ正岡子規の句碑がある。


4 補陀落山(ふだらくせん)とは観音菩薩の住む浄土(仏国土)である、また補陀洛山と記述される事もある。
梵語名の potalaka(ポータラカ)の音訳で観音菩薩の霊場を指す、観音菩薩霊場でもある為にインド以外にも広がり浙江省の補陀落山・チベットのポタラ宮等がある、華厳経に記述があり善財童子が訪れたとされている。

5、行像 インド・チベット・中国で盛んに行われた山車に仏像を乗せて行脚する布教。

6、 六波羅蜜寺から数分の距離に六道珍王寺があり、1922年までは愛宕念仏寺も同距離に存在していた。

真言宗智山派       所在地   京都市東山区松原通大和大路東入る2丁目髑髏町       ℡ 075-561-6980

六波羅蜜寺の文化財  
    表内は国宝    ●印重要文化財  

名     称

適                用

 時  代

 十一面観音立像 

 木造漆箔 258,0cm(秘仏辰歳開帳) 

 藤原時代 

●空也上人立像 木造彩色 玉眼 117,cm 鎌倉時代 康勝作(運慶第4子)念仏を唱える空也の口元から南無阿弥陀仏と唱え六尊の弥陀が描かれる傑作 

地蔵菩薩立像 木造彩色 玉眼 151,8cm 藤原時代 鬘掛地蔵(かつら)として信仰は現在も著名で、左手に頭髪を持つ(定朝の可能性) 

●地蔵菩薩坐像 木造彩色 玉眼 89,7cm 鎌倉時代 運慶作 知性と慈愛が盛り込まれている。

薬師如来坐像 木造漆箔 163,7cm 藤原時代(納入品・地蔵菩薩紙本墨摺343枚6,5:8,cm)  

吉祥天立像 木造 101,8cm 藤原時代 

四天王立像 木造 持国天179,4cm ・増長天175,7cm ・広目天169,7cm ・多門天176,0cm  藤原時代(持国天は鎌倉時代) 

●閻魔王坐像 木造 玉眼 89,2cm 鎌倉時代 

●弘法大師坐像 木造彩色 玉眼 69,7cm 鎌倉時代    長快作(快慶の弟子)

●伝・運慶坐像 77,5cm 

●湛慶坐像79,5cm  木造 玉眼 鎌倉時代 

●伝・平清盛坐像 木造彩色 玉眼 82,7cm 鎌倉時代 

●本堂 桁行7間 梁間5間 向拝3間 単層 寄棟造 本瓦葺 室町時代


     
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最終加筆日20041022  2004年12月24日   2005325日 2010年8月8日元亨釈書 2011年3月皇服茶他 2017年7月17日 10月17日 2020年6月6日 2021年12月7日加筆

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