平等院 

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平等院は山号を朝日山と言いう、代表的な日本仏教文化史とも言える扶桑略記(ふそうりゃくき)に依れば末法初年に入ると言われた1052永承七年(えいしょう7ねん)、藤原道長の別業(べつぎょう)すなわち別荘である宇治院を息子の頼通が浄土往生を希求(ききゅう)して寺院化し平等院と銘々したも処である、また源氏物語のモデルとされた源融(みなもと の とおる)の別荘跡とも言われている、因みに寺名にある「平等」とは本来は仏教用語であり梵語のサマ・サマターsamatā) を言い「真如」とも訳され永久不変の真理を言う、大乗仏教に於いては平等大悲と言われ、普く庶民に慈悲が与えられると言う、因みにその智慧を修得し状態を「平等性智」と言う。
平安京へ遷都から約1世紀が過ぎ、王朝文化が最盛期を迎え請来した仏教文化を消化吸収し日本独自の文化・哲学が芽生えた時期である。 
「この世をばわが世とぞ思ふ望月のかけたることもなしと思へば」、道長が一条天皇に対して娘を立后(りっこう)させた事を祝う公縁の宴席で読まれた時の歌である、因みに道長は娘4人を天皇の后に送り出している、一条天皇に彰子(あきこ)、三条天皇に妍子(きよこ)、後一条天皇に威子(たけこ)、朱雀天皇に嬉子(よしこ)である。 
平安時代
には宇治は禁裏や貴族の別荘地であり皇室の離宮であった所を「我が世の春」を謳歌した藤原道長が譲り受けた所で、法華堂・多宝塔・五大堂・不動堂等々多くの堂宇を擁していた、これは浄土曼荼羅すなわち「観経変」の世界をイメージして構成された、創建当時の境内は旧宇治町の大半を占める程広大な面積であったらしい、因みに創建時に奉られた本尊仏は大日如来であり阿弥陀如来を本尊とする鳳凰堂は翌年に建立されたという。
当寺は藤原摂関家
(注3の氏寺であり、特に一門の全盛時代に創建された阿弥陀堂(鳳凰堂)法華堂・五大堂・不動堂などは絵画・工芸・彫刻など、藤原時代に於ける日本の技術陣の粋を尽くした絢爛たる伽藍群は童歌や扶桑略記の「極楽いぶかしくば、宇治の御堂を礼すべし」(注9と詠まれた、頼通と源信は同世代であり、その影響から浄土観想を植え付けられた一門の貴族たちが夢見た極楽浄土の様相を現世に出現させたと思われる、平安文化の後世に残した最大の傑作を挙げるなら躊躇なく平等院と言える、因みに鳳凰堂と呼称されるのは江戸時代中期で元来は阿弥陀堂と呼ばれていたと平等院・神居文彰師は言われる。    「いぶかしくば」とは、知りたくば 。


中国の天台智顗の師である慧思(えし)515577年)による歴史観すなわち、末法に救いを求めて厭離穢土(おんりえど)(汚濁した娑婆から離れる)して欣求(ごんぐ)浄土(極楽浄土入りを願う)を求める道、要するに汚れた娑婆から浄土への往生方法を説いた源信の「往生要集」に救いを求めた公家や貴族達に依る建立の極楽浄土を観想した堂宇は、平等院鳳凰堂・浄土寺中尊寺金色堂・浄瑠璃寺・富貴寺(大分県)があり、現在見る事は出来ないが法勝寺・平泉毛越寺・富貴寺等があったが当院はまさに圧巻と言える、因みに釈尊入滅後に、500年サイクルで変化する三時思想すなわち「正法」「像法」「末法」の言われは古く「阿含経」に記述される、因みに1052年(永承七年)は末法元年に相当すると解釈された様である。 
平安末期頃には平等院は源氏と関係の深い園城寺
(三井寺)の別院の時代があり、源頼政:平家や足利尊氏:楠正成などの戦により大半の堂宇を失い室町時代には創建当時の建築物は現在も残る鳳凰堂、観音堂のみとなり、寺も衰退に向かった。
衰えた当寺は天台宗寺門派に浄土宗が入りまた真言宗も参加し寺の覇権をめぐり確執が長く続いた、1681年の寺社奉行裁定により現在は天台系の最勝院・浄土系の浄土院の管理となる。

創建時に於ける平等院は、宇治川の対岸から見れば鳳凰鳥を中心にした堂宇が集まる浄土を具現した縮景(注8が見られた事であろう、観無量寿経の世界を具現し極楽浄土を観想の境地に惹きこみ可能な仏像群に付いて言えば、平等院本尊の阿弥陀如来は大仏師定朝の作と確認できる唯一の作品である、定朝の阿弥陀如来の膝は広く低く安定感を強調し衣文線は流れる様に浅く平行に流すという和様すなわち定朝様式を完成した、「尊容、満月の如し」「天下これを以て本様となす」と 藤原資房(春記)や源師時(長秋記)など貴族達に言わしめた、この様式は長く日本の仏像彫刻の規範となり後続の仏師達に多大な影響を与えた。
また雲中供養菩薩も定朝が率いる仏師集団の作と言われる、阿弥陀如来の結ぶ上品上生印を最高の往生を占めすと言い「力端印(りきたんいん)」とも言う、但し定印を結ぶ阿弥陀像は金剛界曼荼羅の無量寿如来の姿形を踏襲した尊像であると和歌山県立博物館長の伊東史朗氏は言う。 
天蓋も見事である、極楽浄土に咲くとされる宝相華を螺鈿の透かし彫りで表現した技能は感嘆に値する、創建時の平等院は法華経の言う「仏国土の荘厳」が再現されたかの様である。
創建当時の尊数は定かではないが、堂内の雲中供養菩薩像も「音声菩薩」や「伎楽菩薩」達が極楽浄土の妙音を奏でており荘厳である、法華堂・五大堂・不動堂等の仏像も同時に彫られた、仏師も定朝の傘下に百人程集められ超短期間に造像されたと言う、国宝指定の菩薩が堂の北側に26尊、南側に26尊が琴・琵琶・鼓・(どら)排簫(はいしょう)(長さの異なる多数の竹管を固めた管楽器)(しょう)(笛)拍板(はくはん)等々の楽器類と幡・舞・合掌など多様な姿で居ながらにして極楽浄土を観想出来る情景を演出している、因みに指定外であった堂外で発見された南26号は2008年に国宝指定を受ける、また南4(金剛菩) 南8(花巌)南20(満月)南21(金剛光)24(愛)等の墨書が有る、また尊像から琴を外すと実際に音を出す程の精緻さを持つ菩薩像が有ると言う、この菩薩像群には
perspectiveが忍ばせてあり正面を向く菩薩以外の菩薩は壁面のサイズを小さくして遠近感を演出している。
他に堂内は本尊の光背の12尊の菩薩や柱に描かれており、鳳凰堂はさながら
迦陵頻伽(かりょうびんが)(注6が妙音を奏でて舞う極楽浄土の姿がイメージされて
荘厳化vyūha , ヴィユーハalakāra , アランカーラ(注11)すなわち華麗な情景を演出している、また鳳凰堂の九品来迎図は法隆寺金堂の壁画が焼失した現在は日本最古となり大変貴重な文化財である。
平等院の屋根は平安時代(1053ねん)中堂だけが瓦葺であり、翼籠等は板葺きであり、1101年の大修理で総て瓦葺に為った様である。(文化財建造物保存修理技術者 鳴海祥博)
また梵鐘は音の三井寺・銘の神護寺と共に姿形・飾文の平等院として天下の三名鐘の一鐘に数えられている。
庭園は阿字池をはさんで極楽浄土を観想する為の縮景である、ここは日本の代表する浄土式庭園として史蹟名勝庭園の指定を受け借景庭園代表の一つでもある、特に観無量寿経の水想観や宝池観をイメージしたと思惟される阿字池
(5の形状を含め四角形やシンメトリーにこだわる浄土変相図、即ち当麻曼荼羅等に描かれるバラモン、ヒンズー教的な感性すなわち幾何学的構成や、対称性から脱却して日本人の美意識に適う景観を演出している、ちなみにヒンズー教寺院前に配置される四角形の蓮池は参詣時に
斎戒沐浴(さいかいもくよく)する場所と言われ、この形状は中国に於いても踏襲されている、また蓮はインドの国花である(大乗仏典・中村元著・東京書籍 参照)
重ねて言えば寺名の平等は元来仏教用語であり梵語のsama
(サマ)・samatā(サマター)と言う、釈迦は僧迦(サンガ)に於いて四色(姓)平等を是としカーストを否定した事もあるが、大乗仏教に於いては平等大悲が言われ、あまねく衆生に慈悲が与えられると言う信仰が阿弥陀信仰とリンクして考えられ平等院と命名されたと考えられる。
近年鳳凰館が開設され雲中供養菩薩・棟飾・梵鐘などが近くで鑑賞出来る。
宇治は巨椋池があり水質に恵まれており茶の町である、日本文化と茶は欠くべからざる関係にある、貴族たちが衰えた江戸時代頃から宇治を支えたのは茶師達であると言われる、現在は茶の耕作面積はさほどではないが茶匠の名跡等も多く残されている、因みに茶師とは茶の扱いを生業とする人を言う。


       


注1、 阿弥陀堂を鳳凰堂と呼ばれるのは江戸時代以降である、平等院に先立つ1019年藤原道長は法成寺を発願、巨大な無量寿院を建立し9尊の丈六・阿弥陀如来像と観音菩薩像・勢至菩薩像、更に四天王と合計16尊を配置したとされる。   


2、 定朝  (不詳~1057年)  11世紀前半に活躍した大仏師で日本彫刻史上屈指の名匠とされる。仏師僧康尚(こうじよう)の子とされ1020年康尚と共に藤原道長発願の無量寿院(法成寺阿弥陀堂)の9体の丈六阿弥陀像を制作、特に藤原一門の造仏に多く関与した。
1022年法成寺造仏の功により仏師としてはじめて僧綱位の法橋を受ける。
1048年には興福寺造仏の功労で法眼に昇進している。
1053年に平等院・鳳凰堂の阿弥陀如来像を造像した、多くの作品を残すたが大半が失われた定朝唯一の確実な現存作品とされる。
仏所を起こし流れ作業が可能な寄木造の採用や膝は広く低く安定感を示し衣文線も流れる様に浅く平行に流すという和様式を完成した、この様式は定朝様と呼ばれて長く日本の彫刻の規範とされていた。
定朝は仏師百人以上を統括した記録もあるようで平等院・鳳凰堂の雲中供養菩薩像は定朝一門の作と言える、製法は多様で寄木造・一木造・割り矧ぎや木取、内刳り等変化をもたせている。
また鳳凰堂や梵鐘の様に目立たないが当寺の十一面観音(重要文化財)は定朝の父康尚の作品の可能性を残している、康尚の作品であれば同聚院不動明王像と二尊と言うことになる。 
泉涌寺塔頭の即成院の二十五菩薩の中には定朝の造仏師群に依る制作の可能性を持った像が多く存在している。      仏師

3, 藤原摂関家 鎌足を祖とし不比等に引き継がれ長く朝廷を支配した一族で歴代天皇の外戚を続け日本史の中でも藤原時代の名称まで残し天皇家に次ぐ名門。
不比等の子供達の系列から凄惨な確執を繰り返した後10世紀(藤原時代)には藤原武智麻呂(むちまろ)の南家に対して藤原房前(ふささき)の北家が覇権を持つ、鎌倉時代に五摂家に別れ近衛・九条・鷹司・二条・一条を名乗り摂政関白を独占する。(藤原不比等―鎌足を父に宮廷歌人額田王とも言われる鏡王を母に持ち大宝律令・貨幣経済・成文法等を導入して藤原一門の千三百年にわたる栄華の礎を築く)また藤原姓は橿原市高殿町付近の地名からともされる。
傍系に・日野・久我・醍醐・今出川・姉小路・山科・花山院・広幡・三条・西園寺・徳大寺・難波・飛鳥井・冷泉・坊城・烏丸・大炊御門・中炊御門・観修寺等があり本来は全て藤原姓である。
五摂家による禁裏支配の構造は後醍醐天皇の御世を除き明治維新まで継続した、1884年に華族令により廃止になり五摂家は華族筆頭として公爵位を授けられた。

4、浄土式庭園  平安時代以降広がりを見せた末法思想の興隆と共に貴族達が寺や邸宅に観無量寿経を論拠として極楽浄土を観想するために造園された、構成は浄土変相図(浄土曼荼羅)が源のようで池を中心に配置している,
代表的な浄土式庭園に当院・浄瑠璃寺円成寺法金剛院・毛越寺などがある。

5、阿字池とは阿弥陀如来の種字すなわち梵字の阿字を顕していたと言う、また観無量寿経の水想観や宝池観を描いたのかもしれない。

注6、迦陵頻伽(かりょうびんが)と、は梵語kalavika妙声鳥・美音鳥・妙音鳥の訳がある、上半身が菩薩形の鳥で極楽浄土に棲み妙音を奏で仏法を説くと言う空想上の鳥、また浄土六鳥の一鳥である、因みに浄土六鳥とは白鵠(びゃくこう)・孔雀・鸚鵡(おうむ)・舎利・迦稜頻伽(かりょうびんが)共命之(ぐみょうの)(とり)を言う、因みに浄土六鳥とは・白鵲(びゃっこう)・孔雀・鸚鵡」(おうむ)・舎利(人語を話す九官鳥系)・迦陵頻伽・共命(ぐみょう)を言う、浄土六鳥は昼夜六時に雅な音で五根を説く、また六時とは読経の時の六回。    

注7、 平等院の呼称は当初は摂家門跡である円満院が平等院と呼ばれていた、円満院(滋賀県大津市園城寺町33)。


8縮景(しゅくけい) 優れた景観の真価を小さな庭園に現した場所を言い、背後の景色を利用した借景と共に日本独自の美意識とも言える。

9、 扶桑略記の原文「極楽(ごくらく)不審久者宇治乃御寺乎礼へ(いぶかしくばうじのみてらをうやまえ)」 扶桑略記とは30巻より成り、比叡山功徳院の僧皇円の編纂とされるが異説もある。  

10、阿弥陀如来に施された金箔の純度は92.296.9%と藤原時代としては極めて高い、厚み0.5ミクロンの箔が48層に貼られている、因みに現在多用されている金箔の厚みは0.1ミクロンであり平等院の箔は20倍に相当していた。(京都造形芸術大学教授・岡田文男教授)

注11、 
荘厳(しょうごん)vyūha , ヴィユーハalakāra , アランカーラ) とは仏教用語で「信仰の対象を尊く装飾する」ことを言う。 


注12七堂伽藍 saāma(梵語サンガーラーマ)とは金堂・塔・講堂・回廊・経蔵・鐘楼・僧房・食堂とされているがは悉くに通ずる。 
       

単立寺院・天台浄土系   世界遺産          所在地    京都府宇治市宇治蓮華町     ℡ 0774-21-2861


平等院の文化財     表内は国宝    印重要文化財

 名    称 

     適                  用 

 時  代 

鳳凰堂(阿弥陀堂)

四棟 中堂・入母屋造 本瓦葺 吹放し 三間:二間  左右翼廊・尾廊を連続させる  

藤原時代 

阿弥陀如来坐像 

木造漆箔 283,cm  完成された寄せ木造・定朝様式として後の造像に与えた影響は多大 

藤原時代 

雲中供養菩薩 

浮彫 漆箔彩色 38,887,0cm 全52尊指定   南262008年指定   

藤原時代 

梵 鐘  

天下三名鐘の一つ H199,1cm 径123,6cm   

藤原時代 

鳳凰堂・壁扉画 

十四面 九品来迎図・ 日想観など 板絵著色   

藤原時代 

鳳凰堂・棟飾  

金銅製 一対  北98,8cm 南95,0cm 総高235228   

藤原時代 

鳳凰堂・天蓋  

螺鈿方蓋・法相華透彫円蓋 木造 503・径300cm   

藤原時代 


十一面観音立像 木造彩色 167,6cm 藤原時代    

 

●観音堂 桁行7間 梁間4間 四注造 本瓦葺 鎌倉時代


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最終加筆日20041031    200633日  72日  116日供養菩薩 27日寺名の由来 2007619日天蓋 十一面観音注2 2009224日注6 2011225日 2012年4月19日道長娘4人立后 2014年4月28日仏国土の荘厳 2017年2月18日 2019年1月30日 2023年㋈1日 加筆 

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